第九幕 ふたりの王
黒猫の正体について、ある程度は予測していた。
彼はこの国の人間ではない。おそらく、王城の内情を探りにきた敵国の密偵であろうと。
まさか――王そのひとだとは思いもよらなかった。
絶句するわたしを獅子の瞳が捉える。彼はひとつ瞬き、ふっとまなざしをゆるめた。
ああ、彼は黒猫だ。わたしはようやく確信した。
見つめ合うわたしたちに、王の口調に険が滲む。
「……これを知っておいでか」
視線を戻した黒猫は、血濡れた白い面に薄い笑みを乗せた。
「天を衝く塔の高みに囚われし〈鳥籠姫〉。……十六年前の悲劇の原因となった前王妃の娘御かと」
「そのとおり」
王は低く喉を鳴らした。
「これは不義の母を持った憐れな子ども。我が娘か、あるいは忌まわしき罪人の子か見当もつかぬ。なればこそ生まれながらの罪を雪がせんために、〈浄罪の塔〉において天に祈りを捧げさせてきた」
「なるほど。貴国における彼女の立場はよくわかった。されど、我らにとってはまた異なる意味を持つお方」
「……何?」
訝しむ王に、黒猫は不敵に答えた。
「セヴィエラ夫人をご存じであろう。先々代トゥスタ国王の妹君にして、国母と呼ばれた偉大な女性。先の冷戦時には、自ら人質となることを志願された」
「〈トゥスタの牝狐〉……」
忌々しげに吐き捨てられたそれは、久しぶりに聞く、畏怖と侮蔑がこめられた乳母の異名だった。
「さよう。その〈トゥスタの牝狐〉の『忘れ形見』こそ――そこなる姫」
黒猫の目が再びわたしを映した。なぜここで乳母の名が出てくるのか。
「確かに、これを養育したのはかの牝狐。しかし『忘れ形見』とは……死んだのか」
死んだ。わたしは茫然とその言葉を反芻した。
黒猫の顔が、痛みを堪えるように小さく歪んだ。
「……一年前、ご病気のためにこの世を去られた。あの方は最期までレイシアに残された姫をご案じなされ、いつか我が国にお連れするよう申された」
「たかが乳母の分際で入れこんだものだ。まるで己の娘のように」
「あの方にとって、たとえ血はつながらなくとも姫はご自分の娘御だった。だからこそ私に遺言を託されたのだ」
王の嗤笑に、黒猫は鋭い怒りを閃かせた。わたしはわななく唇で大きく息を吸いこんだ。
乳母が死んだ。
もうどこにもいない。母のように、見ることも触れることも声を聞くこともできない。
それでも残された想いの深さに、わたしは顔を両手で覆った。
夢見てもいいのですか。信じても、いいのですか。
あなたの愛を。わたしは――愛されていたと。
ああ、けれど。もう一度あなたに会いたかった。抱き締めて、あなたの言葉で伝えてほしかった。
永遠に覆らぬ喪失が、ただ悲しかった。
「では貴殿は、たかが女ひとりの感傷のためにここへやってきたのか」
どこか苛立った声で王が問う。黒猫は「まさか」と笑った。
「それは理由のひとつに過ぎない。すべては……長き因縁を終わらせるために」
ひび割れた窓の向こうで炎が踊り狂う。戦火に染まったふたりの王は、静かに視線を交わした。
「これ以上の戦は、我らにとっても毒にしかならぬ。私は我が子の代にまで禍根を残すつもりはない。今ここで、すべてを断つ」
「――同感だ」
王は、黒猫と同じように長剣を前に向けてかまえた。少年王を見据える眸が冴え冴えと輝く様が目に浮かんだ。
「余はレイシアの王。たとえのちの世に国を滅ぼした暗君として名を残そうとも、最後まで王であろう」
剣の切っ先を互いに向け合うのは――古の決闘の儀式。
その微笑みを与えた者に勝利をもたらすという戦女神に捧げる祈り。
「願わくは、勝利をこの手に」
親子ほど年の離れた男たちの声が重なる。ふたりは得物をかまえ、ほぼ同時に踏みこんだ。
わたしは息を呑む。
闘いが、はじまった。
刃の噛み合う音が乱れ飛ぶ。炎の揺らめきを銀の閃光が切り裂き、蔓薔薇の咲く壁にふたりの影が大きく踊った。
黒猫の剣筋は猛々しいほど力強く、まだどこか粗削りな印象を残していた。対する王のそれは洗練された正確さで振るわれ、食らいついてくる若者の攻撃をいっそ優雅なまでにいなしている。
だれもが息を殺してふたりの剣舞に見入っていた。そう、それはもはやひとつの舞だった。
美しかった。
鬼気迫る殺し合いであるのに、その光景はおそろしく、だが美しかった。
わたしはぎゅっと両手を組み合わせた。生まれてはじめて、心の底から神に祈った。
神よ。狂える運命の行く末を見届けられるべきお方よ。
どうか、どうか――。
「――っ!」
黒猫が短く息を呑んだ。王の刃が彼の右腕を捉え、赤い血飛沫が上がった。
王が笑う。
わたしは、叫んだ。
「黒猫!」
そのとき、驚愕に染まった王の瞳がわたしを見た。
一瞬の、ほんのわずかな隙。しかし、黒猫はそれ決して見逃さなかった。
躊躇も迷いもない、雷のごとき一閃。白銀の残光が網膜を灼いた。
「……っ、ぁ」
ぼたぼたと重い音とともに鮮血が滴り落ちる。王は崩れるように膝をついた。
王の腹部から戦装束がより深く赤く染まっていく。血を吸った絨毯に長剣が転がった。
「なぜ……」
どうにか腕で傾く体を支えて倒れこむことを免れた王が、血を吐きながら吠えた。
「なぜ、そなたが……この男を知っている!」
わたしは固く唇を引き結んだ。すると王の視線を遮るように、闇色の外套が目の前に広がった。
「彼女こそ、私の勝利の女神だからだ」
わたしを背に庇った黒猫は、肩で息をしながら答えた。
「彼女ほど優秀な軍師はいない。私よりよほど近くにあって、なぜ気づかなかった? 我らに勝利をもたらした戦術は、すべて彼女の考えたものだ」
「な、に……?」
わたしはハッと黒猫を見た。あの夜からずっと続いた戦談義。
戦況が黒猫の国へ傾いた時期と一致する。
肩越しに振り向いた黒猫は、苦い笑みを見せた。
「……悪い、あんたを利用しちまった」
聞き慣れたぞんざいな口調に、わたしは目を伏せた。小さく首を振る。
真相を知っても怒りや失望は覚えず、ただすとんと納得してしまった。ああそうか、という程度の思いしか浮かばない。
これが、黒猫の覚悟なのだ。
生きるための――王であるための覚悟。
彼を信じると決めたのは、わたし自身。ならば謝罪の言葉で充分だ。
「そなた……敵と通じておったのか!」
王の怒号に引き戻される。わたしは力が抜けてしまいそうな足を叱咤して立ち上がった。
隣に並ぶと、黒猫が慌てたように「小鳥っ」と呼びかけてくる。
「大丈夫よ。……陛下」
ひとつ息を吸いこみ、わたしは王を見据えた。
「裏切り者と罵りたくば、好きなだけそうなさればいい。売国奴と呼ばれようと、すべてを受け容れましょう」
血溜まりに這いつくばる王は、まるで狂気の赤に捕らわれているようだった。その目は悲しいほどに凄絶な渇望にぎらついている。
優しい黒猫の掌が背に添えられる。わたしは敢えてそのぬくもりを退けた。
今のわたしは、ひとりで立たねばならぬから。
「わたしは、己の罪から逃げたりしない。それこそが、わたしの選んだ唯一無二の真実なのだから」
母も王も、犯した罪を愛と偽って目を背けた。罪と向き合わなかった彼らが、最初から許されるはずがない。
……許されたいわけではない。
わたしは、ただわたしでありたい。母の身代わりではなく、乳母が娘だと言ってくれた、黒猫が小鳥と呼んでくれた、わたしでありたい。
罪と裏切りの名さえも血肉にして、生きていく。
王の顔がぐっと歪む。彼は喘ぐように唇を動かすと、やがて深く俯いた。
それは静かな――王の敗北だった。