アルバ
古びたアパートがあった。それは、それは、とても古びていて、アパートの裏側に広がる、手入れの行き届いた家々とは対照的だった。
そのアパートを経営するのは、ケチくさい“マシュー”という男だ。大きな岩のようにゴツゴツした体の持ち主で、好物はフランスパンとアボカド。
アパートの住人はみんな口を揃えて「管理人マシューは家賃にうるさい」と言った。
空に白いもやの様な雲が残る日、“アルバ”という男がこのアパートにやってきた。
鼻が高く、糸のほつれた薄茶色のコートを着て、いつも眠そうな目をしているアルバ。
マシューは、初めての家賃の支払い日が近づくにつれ、疑惑の目で彼を見る様になった。本当に支払ってくれるのか。
支払い日がきた。マシューはゆっくりコーヒーを飲みながら彼が来るのを待った。しかし、アルバは陽が沈んでもやってこなかった。
家賃が支払われないまま、床についた。しかし、家賃が気になって、まだ暗いうちに目が覚めた。
やっと昇りきった朝日がアパートの屋根を照らしていた。
かんかんに腹を立てたマシューは、アルバの部屋に突撃しようと企てた。
アルバの部屋は二階だった。マシューは、アルミの階段を鈍い金属音をたてて登った。はらわたが煮えくりかえりながら。
アルバの部屋の前に来たマシューは、鍵が空いているのに気づく。「入るぞ!」と言いながら部屋の入り口を開いた。そして「さあ、家賃を支払ってくれないかな」とマシューが口に出した時だった。
アルバはパンツ一丁で突っ立っていた。足元には洋服が散らばっていた。着替えの途中だったのだ。
アルバは眉間にシワを寄せてマシューを見つめた。「何故勝手に部屋に入ってきたのか」と問い詰めるような表情だった。
マシューは赤面し、そそくさと自分の部屋に戻った。
「なぜノックして確認してから入らなかったのか」
マシューは自分のデリカシーのなさを嘆き、その日は家賃の事をすっかり忘れてしまった。
家賃滞納2日目。
陽の光が少し雲に隠れて弱っていた。
マシューはイライラしていた。そもそも昨日アルバの部屋を訪れたのは、彼が家賃を滞納していたからではないか。
昨日よりもカンカンになってアルバの部屋を訪れた。今日こそは支払ってもらう。そう意気込んでいた。
昨日のように着替えの時間帯に訪れるのはやめておこうと思い、今日は昼に彼の部屋の前に来た。またドアには鍵がかかっていなかった。
こんどこそ、とノックして「マシューだ。家賃を支払なさい」と言いながらドアを開けたその時。
部屋の中からよだれを垂らした巨大な犬が飛び乗ってきた。
仰天したマシューは悲鳴をあげながら必死に犬を振りほどき、逃げ回る。アパートの敷地内を、陽が暮れるまで走り回った。
どうやらアルバは部屋に鍵をかけず、代わりに番犬を置いていたようだった。赤く、太い首輪をしていた。
暗くなるまで追いかけっこを続け、なんとか逃げきったマシューはヘトヘトだった。家賃のことも忘れて2日目の夜と共に眠りについた。
家賃滞納3日目。
星がよく見える、澄み切った空の夜だった。
マシューはまだ疲れがとれずにいた。足をカクカクさせながら、他の住人を起こさないように用心深く二階までの階段を登りきった。
マシューはアルバの部屋をノックした。着替えをしているはずもないし、犬も寝ているはず。彼は覚悟を決めて部屋に乗り込んだ。
「家賃を支払え!」
キッパリと、彼の顔を見ながらマシューは言い渡した。
しかし、よく見るとアルバは女性の前に片膝をついて座っていた。指輪を差し出しながらプロポーズの最中だったのだ。
アルバも、女性も、そしてマシューも、みんなポカーンと立ち尽くした。
部屋はほんのりと赤い、ろうそくで照らされていた。
どうやら自分はお邪魔したらしい、と察したマシューは、またしもピューッと自分の部屋にUターンした。その日も、アルバから家賃を取り立てることはできなかった。
家賃滞納4日目。
朝から空は曇っていた。
マシューは申し訳ない気持ちでアルバの部屋をノックした。家賃を取り立てるついでに「すまなかった」と謝ろうと彼は思っていた。彼の中では謝罪と家賃を支払わせることは全くの別問題だった。
珍しく、ノックしてすぐに部屋から「どうぞ」と声がした。マシューはドアを開け、アルバは食事をとっている最中だった。
だが 、マシューはお構いなしに「家賃を支払ってくれないか」と言った。ムッとしながら。
アルバは「まあまあ、あがりなよ。一緒に朝ごはんでも食べましょう。今準備するから」と言って食器を並べ始めた。
マシューは渋々と、しかし食器の上に並べられたアボカドパンに魅了され、木の椅子に座ってアルバと一緒に食事をとった。
家賃を支払わせるためにきたはずだった。しかし、この日は食事が楽しくてなかなか家賃を、とは言い出せなかった。
アルバはとても口がうまかった。口下手なマシューもぺらぺらと話せた。
ただ気がかりだったのは、「この前部屋にいた女性は誰なんだ?うまくいったのか?」と聞いた時、なんのことやらというようなとぼけた顔をアルバがしていた事だった。
家賃滞納5日目。
とても寒い日だった。
マシューは全身を布という布で覆いながら、のそのそと階段を登っていった。
マシューは後悔していた。昨日の談笑の中でさらっと家賃を請求していれば、アルバも家賃をポンと出してくれていたのかもしれない、と。そして、今回こそ家賃を取れるという確信を持っていた。
マシューは、ニタニタしながら「入るぞ」とドアに向かって言った。
中からは、「どうぞ」という声が返ってきたが、昨日よりも寂しげだった。
マシューがドアを開くと、アルバはドアとは反対方向にある窓に向かってイーゼルを立てて、キャンバスの上で画筆を動かしていた。
マシューはアルバの方へと歩き出し、ジロジロとアルバの背後からその絵を眺めた。
その絵は、真っ白な画用紙の上に真っ白な絵の具で白を重なり合わせているだけのものだった。マシューはその白い絵にとても惹かれた。
だが、恥ずかしがり屋のマシューは褒めることに慣れていなかった。マシューは「こんな絵に意味などあるのかい」とアルバに問いかけた。
アルバは、白の絵の具がべたりと付いた筆を動かしながら言った。
「雪がすきなんですよ。」
マシューは、ふーんと鼻を上にたて、また問いかけた。
「白に白を重ねるだけの絵なんか描いていても、楽しくないだろう?」
アルバは筆を右に動かし、左に動かしながら答えた。
「僕は、ひたすら好きなものを描くんです。心が落ち着くんです。まるで好きなものがすぐそこにあるように見えるから。」
マシューは、「確かに雪は降らない予報だ」とトンチンカンな返事をした。
マシューは小一時間ほどアルバの絵を描いている姿を眺めて過ごした。彼の描く絵に惹かれたこともあり、邪魔になってはいけないと思い、明日にしようと部屋に戻った。
家賃滞納6日目のことだった。
よく晴れた日。
アルバは不在だった。
ドアは相変わらず開いたままで、ノックしても返事も聞こえてこないので、息を切らしてマシューは部屋にそのまま入った。アルバの姿どころか犬も彼女もいない、昨日の絵も無かった。
マシューは、どこかザワザワし1日を過ごした。
家賃滞納7日目。
雪が降る日だった。
早朝、マシューの部屋に電話がかかってきた。
もしもし、と電話に応えると彼の耳にとんでもない知らせが入った。
アルバが病気で死んだ。
家賃滞納10日目。
アルバの葬式が行なわれた。
マシューは、特に親しい仲とも思っていなかったが、アルバの家族に頼み込み、葬式に参列した。
静かな葬式だった。
6名も親族が欠席したらしく、辺りはざわついていた。
葬式後の食事会で、アルバの死因や過去について聞いた。
アルバは気づかぬうちに病気の種を溜め込み、急に発病して、ポックリ死んでしまったらしい。
アルバは親族から、ナポロという名前で呼ばれていた。
葬式が終わり、マシューはアルバが借りていた部屋で、べそをかいた。
もう一度あの絵が見たい、としきりに独り言を言った。そんな思い入れがあったわけでもないのに、もう一度彼が描く絵をマシューは見たくなっていた。
独り言を呟き、12時を越した頃、マシューの背後から「弟がどうもお世話になりました」という声が聞こえてきた。
振り向くと、そこには、アルバと瓜二つの容姿の人間が6人も並んでいた。
マシューは驚愕した。錯覚かと、目を疑った。
頭が追いつかない中、アルバの容姿をした人間の1人が事情を説明してきた。
「僕達は兄弟です。みんなそっくりな容姿なので、アルバという偽名で一つの部屋を借り、一週間で七人が順番に部屋を使っていました。今回死んだのは、1番下のナポロです。」
マシューにはなかなか飲み込めなかったが、一周回って理解した。つまり、アルバという人間は存在せず、7人兄弟それぞれが“アルバ”を名乗り、日替わりであの部屋を使っていたのだ。
マシューはガタガタ震え始めた。しかし、彼にとってそんな震えも収まるほどカチンとくることを、兄弟の1人は言った。
「これからは6人で暮らしていくので、どうかよろしくお願いします。」
6人で暮らすと聞いた瞬間、固まっていたマシューお得意の計算脳が働いた。さすが、家賃のことしか頭にない男。うまくいけば一部屋で6人分の家賃が取れるのではないか、と考えたのだ。
「これまでの7人分の滞納した家賃と、これからの6人分の家賃を支払うなら」とマシュー。
今度は兄弟が驚愕した。地獄まで追いかけてきそうなマシューのメラメラ燃えるような目に、彼らは恐怖した。今払わなければ食われるかの様な感覚に襲われた。
「待ってください」と、彼らは部屋を出て一旦話し合った。
結論が出ると、もう一度部屋に入り、目を逸らしながらマシューに向かって言った。
「働いて返します。」
「お前らにはなにができるんだ?」とマシュー。
「頑張れば、建物を建てれます」と、兄弟は必死に言った。
「具体的に」とマシュー。
兄弟は息を飲んだ。
「僕は建築を」と、長男のミル。
「俺は家具を作れる」と、二番目のハーマー。
「私は絵を描けます」と、三番目のトム。
「裁縫なら自信があります」と、四番目のランチョウ。
「僕にできることといえば、おしゃべりぐらい」と、五番目のオラ。
「友人なら沢山」と、六番目のサック。
彼らの言葉を聞き、マシューはニヤリと笑って部屋を貸す事に決めた。ただし、スタッフルームとして。
マシューは未払いの家賃代わりに、アルバの兄弟を働かせたのだった。6人の力、知恵、人脈を活用させ、建物を何軒も建てさせた。
数年後、マシューはホテルチェーンを経営する大富豪になっていた。
キノブックスさんのショートショート大賞に応募したのですが、落ちてしまいました。これからもショートショートや長編小説を書いていきたいと思っているので、もしよろしければよろしくお願いします。