招待状1
「せ、先生!塩酸が、松木に!」
「とりあえず、手洗っとけ!」
「……ああ。わりぃ」
化学室に小さな波紋を投じてしまう。先生も駆けよってくる。
指先がぬるっとする。親指と人差し指で、こすってみる。うん、ぬるぬるだ。
これがじぶんの体、なのか。あたまがふわふわして、映画をみせられているかのように、時間が流れる。サッカーをしても足の感覚がない。世界史の授業は、とうぜん頭に入らない。かといって、寝る気にもなれない。実験でも指示が入ってこない。
気分は廃人。白衣を脱いで、手を洗う。蛇口を閉めるのも億劫だ。
「筋トレ、してえ」
「は?」と、前田が怪訝そうにする。
松木リサーチによると、筋トレをすれば、沈んだ気分が吹きとぶらしい。ネガティブな人間も、ポジティブになれるらしい。からだに自信があれば、堂々と胸を張って生きていける。
そうだ。おれがこんなにネガティブなのは、筋トレをしていないからだ。ひとの目をまっすぐみられないのも、妹からバカにされるのも、温泉に入りたくないのも、きっと筋トレが救ってくれる。このさき、我が家がどうなるかも、うじうじ悩まないですむ。
「筋トレ、してーぜ……」
「おまえ、だいじょぶか?」
つんつん、と背中をつつかれる。ふりむくと、梅宮がたっていた。柑橘系の香りがくすぐる。
「だいじょうぶ?」
「ああ。だいじょうぶ、だけど」
そう、とだけいって、彼女はおれのポケットに、さっと紙切れをねじこんだ。
「それ、あとであけてね」と耳打ちすると、黒板まえの実験机にもどっていった。
チャイムがなって、それぞれ教室へともどる。
胸が高鳴る。なにを期待してるんだ、おれは。のろのろと階段をおりながら、ポケットをまさぐった。
だれもいないのを確認して、紙をあける。そこに書かれた、端正な文字。走り書きでも気品があるのは、梅宮の人となりを、そのまま伝えているかのようだ。しかし、その印象に、およそ似つかわしくない単語がひとつ。
「筋トレに、興味があるなら」
筋トレに興味があるなら、放課後に第二放送室へ。
肩すかし