とおせんぼ
とおせんぼ
僕らが暮らす街には、それはそれはたくさんの坂がある。それって坂って言えるの?というぐらい緩やかで全く上った感じさえしないものもあれば、下から見上げれば崖のようで、とても人間が足で登れるとは思えないものまでさまざまだ。もちろん中ぐらいのもの、世の中一般で「坂」と言えば思い浮かべられるようなものもたくさんある。
その何の変哲もない坂の一つに、いろいろ噂の立つものがあった。
「日陰もない、明るいはずの坂なのに、昼間に数時間、暗くなる時があるらしい」
「いつも暗くなるのかと言えばそうではなくて、”暗くなる日”はまちまち」
「その”暗くなる日”のその坂には、何やら怪しい影がゆらめいている」
…...という話を、休み時間に香奈が突然嬉しそうにして、放課後もその話を一生懸命していたのだ。
「ねえ悠、聞いてる?」
「え?ああ、聞いてる。ヘンな坂の話だろ?」
「......だいたい合ってるのは合ってる」
僕、北見悠は、高校2年生。今隣にいる彼女、二宮香奈は中学からの同級生で、少し前から彼女とお付き合いさせてもらっている。
そう、少し前なだけなのに、僕は早くも見抜かれていた。ちょっと考え事をしていると、すぐ人の話を聞き逃す。親にもよく注意されている。聞き逃してもそれなりに相槌を打つことでこれまで何とかやってきたのだが、香奈と話していた時に今のと同じことを聞かれて、どうやら見当違いなことを言ってしまった(言った瞬間、ちらっとこちらをにらんだ後しらーっ、とした目をして、ついに何も言うことがなかったので、真相は謎のままなのだ)ようで、それ以来目が遠いときは何も聞いてない、と思われるようになってしまった。それだけに、今回だいたい話を聞いていたように発言したことが、香奈にとって意外だったのかもしれない。
「で?他になんて言ってた?」
「......え」
「やっぱり聞いてなかったでしょ」
「......ごめん」
「もう......」
もう、と困った顔をしつつもう一度説明してくれるあたり、優しさを感じる。
「......なるほど、で、その不思議な坂に行ってみたい、と」
「そう!」
「でも遠くない?そんな変な坂この辺りにあるなんて聞いたことないし......」
「私の家の近くだよ」
「......近い!」
香奈の家の最寄り駅は高校の最寄り駅から2駅だ。自転車で行くのには少し遠く感じるが、電車で行くとどうもわざわざ電車を使う必要もなかったんじゃないか、と思うような距離。
何度も言うようだが、まだ一緒に帰るようになって少ししか経っていないので、もちろん香奈の家に行ったことはないし、その周辺に近寄ったこともない。
「......そんなに風景、好き?」
「まあ。普段絶対感じないスピードで過ぎ去ってく景色を見るのが、なんだろな、何となく好き」
「ふうん」
僕が電車に乗ってから、ずっと窓の外を見つめているので、不思議そうに尋ねた香奈も、窓の外を見た。......香奈がぼんやり見つめ始めたころには、もう駅に着きそうだったのだが。
電車を降りると、まっすぐ目の前に伸びる道をずんずん突き進み始めた。家の近くにあるというから、香奈の家の方面もこっちなのだろうか。
「僕らの街」―――とさっき言ったが、別に僕たちの高校周辺だけが坂が多いというわけではなく、今歩いているこの場所も例外ではなかった。緩やかだが確実に上っている感じのする坂をいくつか上っていっている。
「これ、毎日歩いて上り下りしてるの?」
「ううん、いつもはバスだよ。いくつかバス停もあったでしょ?でも今日行く坂はバスで行くとちょっと不便なところにあるから、それなら初めから歩こうかな、って」
少し疲れたな、と思い始めていた僕をよそに、香奈は全く疲れている様子など見せないどころか、笑顔さえ浮かべていた。やっぱり何度かは自力で上ったことがあるのかもしれない。
ずっと坂だとそのうち慣れてきて疲れを感じなくなるのかもしれないが、坂が終われば平坦な道、ああ平らだ、と思い始めたか思っていないかという段階で次の坂、上り終わればまた少し平坦、というのを繰り返されれば、疲れも感じざるを得ないというものだ。
途中右へ左へとくねくね曲がり、住宅街や児童公園を横目にし、前を歩いていた香奈がふと足を止めた。
「ここだよ」
何の変哲もない、しかも明るい坂道だ。
「ちなみに、」
後ろ向いて。
そう言われたので向き直ると、そんなに上っていないはずなのに、見渡す限りいっぱいの家々と、その向こうにはきれいな海があった。
「うわー......」
とまあこう言うとあまり感動していないようになるが、実際は決してそんなことはない。僕はこんなに高台には住んでいないからというのもあるが、車窓からでも見ることのできない景色だった。
たぶん香奈の家にお邪魔させてもらうとか、そういうことがなければここに来ることはないと思ったから、しばらく見とれていた。
「......もしもし?」
我を忘れすぎていたみたいだ。
「......こっちの坂の話に、戻していい?」
「ああ、ごめん。どうぞ」
「ここの坂が暗くなる時を、私、しばらく観察してみたの」
「ふんふん」
「そしたら暗くなるのは、毎月3日、13日、23日の午後6時だったわけ」
「.........え?」
「暗くなるのは、毎月.........」
「いやいやいや、どっかのスーパーのポイントデーのタイムセールじゃないんだから」
「でも何ヶ月かにわたって調べたから、信憑性は高いと思う」
「本当に?」
今日は13日、今は午後5時50分。その嘘みたいな検証結果を信じるなら、あと10分でその怪奇?現象が起こることになる。
香奈の言う通り、普通なら絶対に暗くはならないような坂だった。横に構える家の影はあるが、とても道全体を覆うほど大きくない。
「実は私も、こんなに近くで見たことはなくて。何だかいざ何かあると思うと怖くて、少し遠くから観察してたの。でもそこからでもその時間に、真っ暗になるのが見えるの。真っ、暗に」
実はそんなに僕は信じているわけではなかった。香奈は普段から冗談もまあまあ言う方だが、嘘をつくのが苦手なのか、冗談を言っている時はどう考えても冗談しか言っていないような言い方になる。でも今回はそんな感じはしなかった。結局そこに香奈が言っている、ということは関係なくて、ただいざ何かあった時、に遭遇するのが嫌なのかもしれない。
「ねえ、悠」
「ん?」
「クリームパン半分食べる?」
「なぜ今ですか!?」
「なぜって、今日のお昼に買ったもの。ちょっと時間が余ってヒマかな、って思ったから」
「つまり初めから、今日行くつもりだったと」
「うん。10日後だったらもうテスト中になってるから」
テストとかぶるから、というのは学生だけが使える特別な言い訳だ。
「確か今日の日没時刻は6時30分。だからその30分前なら、突然真っ暗になるならおかしいはず」
5分前になっても、一向に暗くなる気配はない。そりゃそうだ。日没までそんなにあって、かつ全く日陰じゃないなら、何も起きないのが当たり前なのだ。
「......ちょっと、そばにいていい?」
「うん......どうかした?」
「怖い」
「......単刀直入な」
「悠は怖くないの?」
「いや、怖い」
「え」
「そんなに真剣に言われると、何か怖くなってきた」
「私たち、今日の午後6時を境に何か変わるとか、ないよね?私たち2人以外、突如世界からいなくなりました、とか」
「や、やめろ、それホントに怖いやつ......」
ピピピピピッッ!!
その場に似合わぬ電子音がした。
「あ、ごめん、アラームだ......」
香奈の腕時計からだった。
「ゆ、ゆ、ゆう、悠、......」
香奈が震える指で目の前を指した。腕時計から目線を移す。
さっきまで明るかったその道は、またたく間に暗くなっていた。電気を消したようにバッ、と暗くなるのではなくて、ぼうっと徐々に消えていく感じ。そこまでは特に気にするほどでもない。いや、感覚がマヒして「不思議」のハードルが上がっているだけかもしれない。
「あ、あれ......」
よく香奈の指している方を見ると、その暗くなる場所にただ一つある電柱の近くだけ、ぼうっ、と青白く光っていた。
言っておくが僕は幽霊なんて信じていないし、怖いとも思わない。小学校の頃にみんな読んでいた怪談の児童本を読んで、みんな怖いとか、オレこんなことホントにあったとかわいわい話している輪の中に入って、「そんなのあり得ない」と断言して去っていくような(空気の読めない)子だった。昔からそうなのだから、今も大して変わっていない。はずなのだ。
「青白......あれって......」
今の僕は本気で怖がっていた。実際経験してみないと分からないこともある、というのはこのことか。
だんだんその青白い影が人の形らしくなってくる。体格とかから判断するに、女性だ。
「女の人の、幽霊......」
香奈がそうつぶやく。そうだ。あれは10人見れば、10人、百歩譲っても9.8人が幽霊と言う。
その影はだんだんこちらに近づいてくる。
「何か......聞こえない?」
「聞こえない、聞こえない」
いや、嘘だ、聞こえる。確実に日本語をしゃべっている。「やっと会えた......」とか言っている。
「もう無理......!」
すうっと、目の前が暗くなっていった。
「あの......大丈夫?」
その声が聞こえた気がした。目をゆっくり開ける。
見慣れた姿があった。香奈と青白いのだ。
青・白・い・の、だ。
「あわわわわわわ......」
「ちょっと待って!もっかい気絶する前にちょっと待って!」
「............?」
「この人悪い人じゃないから!むしろうちまでご足労をかけたから!」
「なっ......何自分の家に招いてんだ!っていうかここ香奈の家かよ!」
そんな情けない理由で初めて香奈の家にお邪魔するとは思ってもみなかった。
「悠が勝手に泡吹いて気絶するから」
「泡吹いて......」
そんなになるとは。
「あの、すみません......」
たぶん20代の女性だが、すごく丁寧な物腰だ。
「そうだ、何かお願いがあるって......」
どうやらひっくり返っていた僕をよそに、お願いがあって、それを聞いて欲しい、ここじゃなんだからせっかく近いし家まで来て、ということで話が進んでいたらしい。
「友達か!!」
「まあまあ、悪い人じゃないから」
「なんで分かるんだよ」
「え?だってほら、見たら分かるじゃない」
「分からないよそんなのじゃ」
「大丈夫だよね、ね?」
「えっと......ここで私が、危害を加える、と言ったら、お二人はどうされるおつもりなのですか?」
「え......逃げる、って言いたいところだけど、...ね?大丈夫でしょ?」
「やっぱり信じられない」
「分かった分かった。とりあえず騙されたと思って、話聞いてみよ」
この辺りの坂は、急なものが多いです。
だから上りこそ体力を使いますが、下り坂を勢いよく走り抜ける爽快感はひとしお。
それは私自身、よく分かっています。
でもそれで事故でも起こせば大変だからと、気をつけて走るようにしていました。
その時は違いました。
たまには走り抜けてみたい、そう思いました。
それが運の尽きでした。
自転車同士でぶつかり、打ちどころが悪く。
それがその女性の話したことだった。
「そんな、あっけない......」
「ええ、......そうです。自分が悪かった、っていうのは分かっているんです。分かっているんですけど、何か心残りが、あったのかもしれません......」
「その心残りがあって、幽霊になった、ってところまでは分かる......分からないけど、分かることにしておく。けど、この決まった日、決まった時間に出て、しかも出る時はいつも明るい道が真っ暗になる、その意味が分からない」
「私の命日は13日です」
「じゃあ13日っていうのは分かるけど、やっぱり、......」
「それに、私にとってはこれからどうなるかも分かりません」
「どういうことですか?」
「私が死んでからこうやって、誰かにその存在を認められたのが初めてなんです」
「そういえば、3のつく日に現れるのは見つけたんだけど、いつまた見えなくなるとか、それは考えたことなかった......」
「考えろよ!!」
「私としては、いつもあのあたりをさまよっているという自覚はあるんですが、他の人にどう見えているのかまでは......」
「やっぱり幽霊だとそうですよね......ずっとさまよってますよね......」
「幽霊だったら、何かしらこの世に未練があるってことですよね?」
「確かに。悠の言う通りだね」
「未練......そんなたいそうなものが、私にあるかどうか......」
「何かがしたい、見たい、とか?」
「したい、見たい......」
「そう言えば、なんでわざわざあの坂なの?別に夕焼けとかきれいな場所なんて、この辺りだったらいくらでもありそうなのに」
「それよ!!」
「え?」
「そう!私の住んでいた場所はあの近くではないのです。だけどあそこから見る夕焼けも夜景もすごくきれいで......生きていた時は、よくあそこまでやってきて、見とれていたのです」
「でもあそこにずっといて、さまよっていたのなら、夜景も夕焼けも何度も、見ているはずじゃ?」
「確かに......」
「あの近くじゃない、って、じゃああなたの家はどこにあるんですか」
「それは覚えているわ。......今日はもう遅いから、明日にしましょう」
僕らに見つけられたその女の人は、もう自由にあの坂からは離れられて、消えもしない様子だった。食べ物は必要ないということで、香奈の家に1日いてもらうことになった。
「食べ物『は』必要ないって、......飲み物は?」
「それは少し要るみたいなのです。喉の渇きは覚えるもので」
「何か不思議な話......」
「それに香奈さんのお母様の前に出てみたのですが、お気づきになられなかったようで......全く反応を示されませんでした」
「ってことは、あなたは私たちにしか見えてないんだね。それなら良かった」
その日はいったん家に帰ることになった。
次の日はごく普通だった。
休み時間や昼休みに香奈とは話したが、昨日のことについては香奈は一切口に出さなかった。もちろん香奈の住んでいる地区からこの学校に通っている人は多いから、例の噂はそこそこ知られている。だけど実際に調べてみたら幽霊が出てきました、なんてことまで信じる人はごく少ないだろう。 寄ってくるとしたら各学校に一人はいそうなオカルト好きだ。
だから再び昨日のことを香奈が話題にしたのは、昨日と同じ放課後だった。昨日と違うのは、僕が最初から香奈の家に寄ろうと思っていたこと。
「今日、うちに来るよね?」
「ん?ああ、うん、そのつもり。......そう言えば僕、昨日は気を失ってたから、香奈の家までの行き方、知らないんだ」
「昨日は大変だったんだよ!たまたまお兄ちゃんがいて、あの人に悠の様子見てもらいながら呼んできて、運んでもらったから何とかなったけど」
「ごめん......っていうか、あの人に見守られてたの?他の人には見えないなら、完全に道端で一人ひっくり返ってるだけじゃん」
「......そうだね、確かに。私の力じゃ道の端っこまで引っ張るので精一杯だったから。その証拠に車にひかれたりせずに、今も生きてるでしょ?」
「あそこって、車通るの?」
「通るよ。あの一帯は住宅地だよ?車一台も通らないのは逆に不自然でしょ?......まあ確かに、観察してる限りじゃ、私の家の前の道路よりは車通りがなかったけど」
僕も香奈も、学校に残ってやらなきゃいけない課題があって、例の坂に着く頃には6時を回っていた。
「あ、......暗くない」
「でしょ?」
「昨日はどう頑張ってもおかしかったんだ」
その坂には、もう一人、夕焼けを見つめていた人がいた。
「あの......もしもし?」
「あ、香奈さん、悠さん」
「どうしたんですか、抜け出してきて」
「何だか......ふと、夕焼けが見たくなって」
「毎日見てるのに?」
「毎日見てるからこそ、かもしれませんね。人間って、慣れないことをするのは苦手な生き物ですよね」
「夕焼けを見ないこと、が慣れないことか......」
「あ、そういえば、私の家まで案内をするという約束でしたね。行きましょう」
よく見るとその女の人の足下は薄れていて、やはり生きた人ではないことを思わせるのだが、本人は特にそれを気にした様子もなくすーっ、と行ってしまった。
すーっ、とその人が5分ほど進むと、急にスピードを落とした。僕も香奈も彼女に並ぶようなスピードで歩いていたので、追いつくのを待っていた、というわけではなさそうだった。
「この辺り、なんですが......」
「......私の家の隣にある道だね」
「そうなの?」
「意外と近所なんですね............あ」
香奈が立ち止まったので、その目線の先を追うと、家族で暮らしそうな家から一人、男の人が出てきて、一度裏手に回ったかと思うとまた戻ってきて、家の周りの植物たちに水をやり始めた。
「あそこ、です」
つぶやく声が聞こえた。
「あの人......」
また急にスピードを上げて進み始めた。しかも確固たる自信を持ったように、さっきより速く。
僕と香奈も置いていかれまいと、走って追いつく。
だが彼女はその先で、涙目で立ち尽くしていた。
「気づいて、......くれない」
「「............。」」
よく考えれば、それは当たり前なのだ。そもそも幽霊が幽霊だと名乗り、こんなにはっきりと僕らに見えること自体、こんなに不思議なことはないのだ。しかも香奈のお母さんにさえ見えなかったことも、僕ら二人にしか見えていないということを、はっきり物語っている。当然その男の人にだって、見えているはずはない。
「あ、あの!」
一番に声を出したのは香奈だった。その男の人に、話しかけていた。
「ん?......あ、香奈ちゃんか。どうも、こんばんは」
「......え?ご存知なんですか?」
「そりゃもう。ぼくは少なくとも、この辺りでもなかなか正直で育ちのいい子だって聞いているよ」
「そ、そうですか......」
はっきりほめられているのに香奈は苦笑いだった。
「......そ、それより、あの!」
「ん?」
「あの、会ってほしい、人がいて!」
「会ってほしい人?」
香奈がそう言った瞬間に、女の人がすっ、と、肩を叩こうとした。
…..そこには何もなかったかのように、その手は無情にもすり抜けた。幽霊なのだから、当たり前だ。少なくとも本とかでよく見る幽霊の特徴から考えれば、当然起きるだろうことだった。
「......?」
ふとその男の人が、すり抜けた右肩の方を振り向いた。
「えっと、......今、何かが当たらなかった?」
「............え?」
「なんだか、この辺りをね。風が通った気がして」
香奈は僕の方を振り向いた。
「......分かるの?」
「いや、でも、だって、......」
僕の目の端で、何かがこぼれ落ちたのが見えた。
. 女の人の涙だった。
僕には少しでも、存在を感じてくれたのを喜ぶあまりなのか、それとももっと感じて、はっきり認識してほしいと願っているのかは分からなかった。でもその涙は、......これまた不思議なことに、彼女を救った。
「.........!!」
それは僕らにもはっきり分かった。
その涙が彼女の服や、地面を濡らすのに連れて、彼女の影がはっきりしていった。僕らには見えていると言っても、それは確かに見えるがどことなく、ぼんやりもしていた。その「ぼんやり」がなくなって、もしかして誰にでも見えているのでは、と思えるほどに輪郭がはっきりしていた。うっすらとだが、彼女の影も、あと少しで沈もうとしている太陽に照らされてできていた。
「......桜.........?」
見えていた。
名前を呼んだのだ。
「いや......でも、違う......何でだよ......見えるはずが、...おかしいんだ。もうとっくに、死んだっていうのに......」
「......ただいま」
彼女がそっと、首を振る、見えた光景を否定しようとする彼に、優しく声をかけた。
その声は僕らにも聞こえたし、絶対に彼にも届いていた。彼ははっとした顔をして、彼女の方を見た。目はうるんでいた。
「......あなたが作ってくれるケーキ。......それを食べさせてくれると、うれしいな」
その言葉が決定打だった。
彼は手を伸ばし、その手でしっかりと彼女の肩をつかみ、存在を確認した。
「桜............!!」
彼の手は静かに彼女の肩を滑り落ち、その手をしっかり握りしめた。
ひざまずいて、抑え込むような、でもそれでも漏れ出すような嗚咽の声が、そこに響いた。
彼はその女の人の婚約者だった。もう結婚することも決まっていて、それを機に見晴らしのいいここに、家を買って暮らし始めたのだという。その幸せのさなかに、彼女は死んだ。
「確かに、それじゃあ、あの場所に出てくるのも、仕方ないのかもしれないね......」
「3日と23日は、それぞれあの二人の誕生日なんだって。だから出てくるのが3日、13日、23日ってなってたんだと思う」
彼はあの時やはり、目の前に亡くなった恋人が現れたことで、相当動揺していたらしい。落ち着いて、立ち上がれるまでにけっこうな時間を要した。その時にはもう時間が遅かったので、近くの香奈の家で僕も晩ごはんをごちそうになり、僕は家に帰った。彼は彼女を連れ、2人が暮らしていた家に入っていったと、香奈が言った。
「でもその後は、知らない。今日の朝家出る時に見たけど、いつものようにあそこの人、庭の手入れをしてて、こっちに気付いたらにこっ、ってしてただけだから」
それでいいのかもしれない。
きっとあの後、彼女が生きていた時には話しきれなかったこと、たくさんのことを、話していたのだろう。成仏、というものが彼女にもあるのかどうかは分からないが、今思えば彼女が無事誰かに見つけられて、彼に再会できて、また少しでも楽しかった時を経験して、思い出したいというのが、彼女の願いだったのかもしれない。とにかく彼の顔に、暗い影はもうさしていなかったという。
「なんか、最初にあの人に会ってからまだ2日しか経ってないのに、すごく日にちが経ったような気分」
「......そうだね」
「こんな不思議なことも、あるんだね」
でも僕らの身の回りで起きる「不思議なこと」は、これだけでは終わらなかった。