天使の墜ちる夜に
死ぬのは多分、突然。
空から天使が墜ちてきた。
夕暮れだった。公園を散歩していた僕は、行きなれたそこを突っ切ってアパートが並ぶ団地へと吸い込まれていく。人が滅多に通らない裏路地にぬるく迷い込み、少しひやりとする空気を吸い込んだ時だった。
なんの脈絡もなく、ふっと見上げた真上の空に小さな影のようなものが見えた。真っ直ぐに、一直線に僕の頭上に落下してきているらしいそいつは、アパートの上階のベランダから落ちてきた植木鉢に見える……が、それにしちゃあまだ、僕の頭をかち割らない。
いつまでも落ちてこないなぁ、と。
つまるところそいつは、めちゃくちゃ高いところからの自由落下を続けているのであり、それ故に小さな影に見えていたのだと気付いた僕は、びっくりして固まったのである。
そいつはみるみる大きくなる。
僕に向かって墜ちてくる。
車の前にうっかり飛び出してしまってパニックに陥った時、人は動けなくなってしまう。それと同じだ。僕は動けなかった。植木鉢のように見えるその影は僕の視界を満たすのだ。
避けよう、動けない。
迷って焦って、その果てに僕は咄嗟に手を広げて受け止めようとしてしまった。
来い!
とは言わないけれど、ぐっと歯を食いしばって構える。普通に考えれば、遥か空の上から墜ちてくるものを受け止めたら命が危ないのだが、僕はつくづく馬鹿である。
その瞬間、僕の脳は目が回るほどの回転を見せた。
◆◆◆◆◆ ◆◆◆◆◆
ごう、と風を切って隕石みたいに、地面に突き刺さらんばかりに落下してきたそいつは、なんと大人の人間くらいの大きさで、しかも僕は見事にそいつを抱きとめると、盛大に尻餅をついたのだった。
尻餅を、ついたのだった。それで済んだ。羽のようにとはよく言ったものだけど、まさに羽のようにそいつは軽かった。
目一杯両手を広げても足りないくらいの大きくて立派な白い翼を背中から生やしたそいつは、うー、とかあー、とか変なことを言いながら頭を上げた。同じく頭を上げた僕と目が合う。
僕と同じくらいの年の青年だった。真っ白い翼を生やした青年だ。
「ぎゃああああ!」
と、僕はそいつを見事に放り投げる。どうせ投げるなら受け止めなくても良かったんじゃないかとは、後から思い至った冷静な思考である。
「うわぁ、何すんだ! ひとをぶん投げるなんてどうかしてるだろ」
「て、て、てん」
「天使、天使」
「そう、それだ、て、天使だ」
「それそれ」
それそれ、ではなく。
「天使だ!」
「天使だってさっきから言っているだろ。受け止めたりぶん投げたり叫んだり、つくづく忙しい奴だなあ」
でっかい翼をばさばさ動かしたそいつは、不機嫌そうな目を僕に向けた。黒いジャージのズボンに黒いパーカーと、ずいぶんファッションセンスのない天使もいたもんだと、わずかに残った僕の脳みその冷静な部分が分析している。
「な、なんで、」
「なんで天使様が現れたのかって?」
「ち、違う。なんで天使なのに男なんだ……」
「……」
ぽん、と口をついて出た最初の疑問がそれだった。確かに気になる事は山ほどあったのだけれど、人間、必ずしも大事な質問から口に出来るとは限らない。混乱していたら尚更だ。
「男の天使もいるよ、悪いか、おうおう」
「い、いや、空から墜ちてくるなら女の子って感じ、す、するから」
押し黙ってしまった天使は、目つきをますます悪くして叫んだ。
「そりゃ俺だって、どうせ尻餅つかせるんなら可愛い女子高生が良かったよ!外を歩いてた冴えねぇクソニートに受け止められる趣味はないね!」
失礼な人間だ!と天使は叫んだ。目鼻立ちの整った、服装さえ見なけりゃ美しい天使だった。そいつは翼を大きく広げると立ち上がり、尻餅をついたままの無様な僕を見下ろす。
神話にしちゃあ人間くさい、人間らしいやつだった。
「そういやお前、俺が見えているんだな」
変なやつだな、と言う。僕にしてみたら、羽をはやして空から落っこちてくる男の方が変だ。
「まあいいや。俺は天使だ。お前の名前はユイイチ。俺は遊びに来たわけじゃないぞ、仕事に来たんだ」
「な、なんで僕の名前を知ってんだよ」
「仕事と言ったろうが。調査対象の名前くらい当然、知ってて降りるぞ」
天使は尻ポケットから小さなクリップボードとペンを取り出すと、あらかじめ挟んであった紙に何やら文字を書きつける。
「俺の仕事は、お前がどんな人間なのかを調べて報告することだ。そう遠くない未来、お前は死ぬ。綺麗に死んでいい人間かどうか見てやろうってわけだ」
死ぬ、と言っただろうか。
それはあんまりにも唐突で、脈略がなくて、ついでに信憑性もない死の宣告であった。
「あ、別に気にしないでいいから。普通に、普通に生活して。勝手に報告書まとめて、そのうち帰るんで」
ポリポリと頭を掻きながら放たれた天使の一言に唖然として、やがてやっと、僕は言葉を絞り出した。
「そりゃ……無理だ」
「マジかよー」
マジかよって、言いたいのはこっちなんだけど。
「正直腐るほどたくさんの仕事をこなしてきたけど、天使が見えるやつは滅多にいない」
「ふ、普通じゃないのか」
「馬鹿か、普通だったらみんな俺らのことを知ってるだろうが。少なくとも俺は会ったことないね」
今日もいい天気だった。すっと晴れた青空に雲がいくつか浮いている。いつも通りの空だ、あそこから天使が来たなんてにわかに信じ難い。
「気をつけろよ、俺は他の人間に見えないんだから、下手したらひとりで喋り続ける気違いに見えるぞ」
「あのぅ……」
「なんだよ、ひとが折角、親切に忠告してやってるのに」
「僕、死ぬんですかね」
ああそれね、と天使はペン回しをしながらつまらなそうに頷く。
「まあ近いうちに。言っとくけど俺の担当はお前って人間の報告までだから。死期が近付いたら担当者変わるんで」
「担当者……」
「そ。直接的死に関わるのは仕事の管轄外なわけ。そんなこと俺に聞かれても、困るわけ」
お分かり?と嘲るように目を細めて、天使は言う。
「まあ信じなくても仕事に支障ないんで」
僕は諦めて、新しい質問を投げる。
「さっき言ってた、綺麗に死ねるか……みたいな話、あれは何なんだよ。死に方はお前が決めるのか」
「いーや、死因はランダムだ」
翼を折り畳んだそいつは、悠々と近くのベンチに腰を下ろす。全く勧められてなんかいないけど、僕も立ち上がってその隣に座った。不機嫌そうな視線が僕を穿つ。
「綺麗に死ぬっていうのは死に方の話じゃない。死んだ後の話だ。綺麗に死ねなかったらお前も、俺みたいに働かされるぞ。死んでも働きたいってのか、ええ?生きてる今はニートなのに?」
「な、なんでそんなあたりが強いんだよ、分かったよ」
何ひとつ分かってなんかいないのに、僕は頷いた。ふざけたやつだ、と隣の天使が毒を吐く。僕だって何も考えずに質問しているわけじゃないのだが。
死ぬ、とかそんなの。
まったく訳が分からない。
僕はわざとへらへらと締まらない顔を作って、どうでもいいことを言う。
「あのさ、担当を可愛い女の子にしてもらいたいんだけど」
「はぁー? そういう要望は総務部に直接言って下さいぃ」
震える声で馬鹿なことを言う。何も、何も思ってないはずがなかった。訳が分からないまま震えるのが格好悪くて、ついつい、間抜けた発言を繰り返す。
天使はちら、と僕を睨んで、仏頂面のまま正面を向いた。誰も、僕を見ちゃいなかった。
外でずっと話をしているのも悪くなかったけれど、人目に付くのは僕にとってプラスにならないことに気付いて、天使を部屋に招くことに決めた。もてなしてくれるんだろうなと、そいつは偉そうな態度を変えない。
「まあ、ユイイチの生活がどんなもんかを見るのも悪くない」
そう言われると途端に焦ってくる。そんな僕を面白がって、天使はケラケラと笑った。まるで悪魔みたいだと思った。
母親はいない。父親は夜遅くまで仕事ばかりだ。家族はあと、祖母がひとり。いつもリビングの椅子に座って、ゆらゆらと揺れながらテレビを眺めている。
僕が会話をする相手はいない。
ただいまも言わずに家に入ると、天使を連れて2階へと階段を上る。つまらん家だなとそいつが呟くのを無視して、一直線に自室へ向かった。
「ここがお前の部屋だな」
「入って入って」
「言われなくとも。茶菓子はあるんだろうな」
天使を部屋に押し込んで、大急ぎで祖母のいるリビングへ下りる。適当な菓子を大皿に乗っけて戻ると、やつは僕のベッドに横になっていた。
「遅いぞユイイチ、はやく座れ」
「ここは僕の部屋だぞ……」
「俺はお前の調査員だ。はやくしろ、菓子をよこせ」
皿ごと渡して、僕はそいつと向かい合う形で腰を下ろす。
ひとしきり僕のベッドの上で菓子を貪り食ったあと、天使はやっとわずかに頬を緩ませてこちらを見た。
「悪くない。部屋も片付いている。家族は父親と祖母だけか」
「ああ、よく知ってるな」
「なんてったって俺は調査員だから」
大きな翼を折り畳んで笑うそいつは明らかに天使なのだけれど、ファンタジックな響きと似合わない事務的な肩書きは、やっぱり違和感しか残さない。そのことを伝えると、そもそも天使って名称の方がおかしいんじゃないかなと言う。
「俺達は空から来るから、天の使いってのは間違ってないんだけどな、如何せん天使っていう名称の、神聖さとか不明瞭な感じが先行しすぎている。俺達は神に生み出された存在ではない」
「じゃあなんなんだよ」
「人間だよ、死んだ人間」
死んだ人間とは、なんとも生々しい響きだった。
「もっと言えば、綺麗に死ねなかった人間だ。綺麗に死ねないと天使になるぞ」
「なんか悪い存在みたいだなぁ……」
「その通りだよ。天使になんてなるもんじゃない。すっぱり綺麗に死んで、魂は消える。それが一番だ」
しかしその、綺麗に死ぬってことが想像出来ない。死ぬに綺麗も汚いも無いような気がするのだけれど。
「知りたいか。教えなーい」
「なんでだよ!」
またビニールを破って、菓子を口に放り込む天使。
「まあ、後で教えてやるよ。物事には順番ってもんがある」
本当は単に言い難いだけなんじゃないかなと思ったけれど、そんなことを口にすれば変にへそ曲がりになりそうだと思い直して、僕は従順に頷いた。
友達は何人いるかとか、人生で一番記憶に残っているいいこと、悪いことを僕は話した。今までの人生をゆっくりと振り返っていく。天使は相変わらず一言も二言も多く、しかもつまらなそうに僕の話を聞き続けていたけれど、時々クリップボードとペンを手にした。一体何を書いているのかは怖くて聞けなかった。
しばらくすると、一階から大きな音が聞こえてきた。
「おい、今のはなんだ」
「なんだろう……見てくる」
「俺もついて行ってやろう」
美しい翼を優雅に広げて、天使は偉そうに言った。
慌てて一階へ降りると、物音がまた響く。玄関からだった。
視界の端に映ったリビングは空っぽで、椅子がひっくり返っていた。誰もいないのに、テレビがバラエティを流して騒がしいのを哀しく思う。僕は乱暴に足を動かして、薄らと開いた玄関の扉から飛び出した。
家の前の道路を横断しようとする祖母を見つけて、慌てて駆け寄って肩をつかんだ。僕も祖母も靴を履いていない。
祖母は僕なんていないように歩き続ける。
「……あれ」
なんだか身体に力が入らなくて、僕は祖母を力づくで引き止めることが出来なかった。
「おい、ばあちゃん、ばあちゃん危ないよ、家に戻ろう」
代わりに叫んだけど、反応は全くない。
「聞こえていないようだな」
と、背後から天使。
「酷くボケているらしい、こんだけ病状が進んでるんだ、家に置いとくのはどちら道無理なんじゃないか?お前の声なんて聞こえないくらい、駄目になっちまってる」
「……父さんが、家でいいって言うんだ」
「ふぅん。ユイイチも大変だな」
あんまり心配していなさそうに、天使は言った。
ゆっくり、ゆっくり、一歩進むたびにバランスを崩しながら祖母は歩き去る。もう誰の声も届かないのだ。その先には何も無いのに、ゴールが存在しているかのような目で前を見つめて。
「ほら、見えないかユイイチ、あそこだ」
天使が指差した先に、曲がり角に消えようとしている祖母の背中があった。他に何も変わったことは無い。
「あれ、見えないのか。あいつが死ぬのを見届ける方の担当者だ」
「なんだよその不穏なやつは……何もいないぞ」
「見えないかあ、つまらんやつだ」
天使が退屈がるのは問題ないけれど、祖母が心配だった。
「やめろよ、死神みたいなのがつきまとってるっていうのか」
「死神じゃないけど」
「だって、そうじゃんか、追い払えないのか?」
ばたばたと翼を動かして、天使は無理無理と酷く顔をしかめた。
「俺も仕事中、あいつも仕事中だ。邪魔なんて出来ない」
「そんな……くそ、死神だなんて」
「死神じゃないけどな。あと、お前も近いうちに死ぬけどな」
「ぼ、僕のことはいいんだよ」
そんなめちゃくちゃな話をしないでくれ、と心の中で嘆く。第一僕は信じちゃいないんだ、病気も怪我もない、健康そのものの自分が死ぬなんて。
「もういいだろ、部屋に戻ろうぜ。まだ菓子が残ってる」
「でも、僕は」
「担当がついてる、諦めろ」
白い翼がわずかに肩を撫でる。天使はさっさと家の中に戻っていく。まるでもう自分の家だな、と僕は笑うしかなかった。そいつの言うことに納得するしかない。何も出来はしないのだから。何をすればいいのかも、分からないのだから。
「生きていると悪いことばかりだ。上手くいったって、これは上手くいくだろうって思うことがある。でもダメだった、大体それはひっくり返される。もしこの人生が小説だったなら、面白がって読めたのかもしれない。僕は不幸な話が好きだから」
「趣味悪いな、俺は最初から最後まで成功する話の方がいいと思うぜ」
「僕の趣味は小説を書くことなんだ。面白い話が書きたい。成功ばかりじゃ面白くないだろ」
「そんなことは無いぞ、成功ばかりの本だって、上手く作られてりゃあ面白い。いい娯楽だ」
そんなことは分かっていた。
「小さい頃は、困難を知能で軽く乗り越えて成功を重ねていく、冒険者の話が好きだった。何度も繰り返し読んだよ。確かに主人公の人生は事件ばかりだったけど、失敗という失敗はなかった」
天使は何も言わず、暗く澱んだ瞳で僕を見ている。ベッドの上に胡坐を書いて、皿から取った菓子を食わずに手で弄ぶ。
「でもいつしか、全然面白くなくなった。共感出来なかったからだ。僕の人生は成功で構成されてるわけじゃないと知ったんだよ。僕は納得と共感出来る話を読みたかったから、自分で物書きを始めた」
「不幸な話ばかり、か?」
「凡そ、そんなもんだね。でも満たされなかったよ。僕の書いた物語に共感したのは、僕だけだった。それは冷たくて、寂しいことだ」
結局は誰かに共感されたかった。
自分を見て欲しかった。
僕は誰かに注目されるような人間じゃない。引きこもってばかりの、目立たなくてつまらない人間だからだ。天使が何度もつまらないやつだと言うのも、やっぱり頷ける。
僕は天使を見ている。
天使も僕を見ている。彼は美しかった。
いつしか部屋の中はすっかり暗くなっていた。更けゆく夜を窓から眺めて、ゆらり、と天使は立ち上がる。大きな翼が僅かな光を帯びている。
「綺麗に死ぬってのは、案外難しい。簡単なように思えるだろうがな」
歩き出した天使のあとを追って、僕も夜を進む。靴を履いて家の外に出て、いつも散歩するコースを辿った。
街には誰もいない。誰も僕を見ない。
「どうやったら綺麗に死ねる?」
「人を殺さなければいい。それだけだ」
街灯が瞬きをする。アスファルトはぬるく、どこまでも続く。世界の道をアスファルトが制する。どこへ行くにも、僕にはこのざらついた硬い地面を踏みしめなくてはならない義務が付き纏う。
「天使、お前は何人殺したんだ?」
「覚えてねえだろうなあ。数え切れないくらいだよ、知ってるだろう?おかげで羽が生えちまった」
「たくさん殺すと大きな羽が生えるのか」
「ははは、そんな簡単なもんじゃないぜ」
虫の声ひとつしない公園は、植物の吐く空気でじっとりと湿っている。真っ黒な幾つもの影が足元を埋め尽くす。
「人殺しっていうのは、魂に爪痕を残すんだ。殺したことを後悔しているとかしていないとか、そんな薄っぺらな感情じゃない。例え死ぬまで殺しを正しいと思っていたって、事故かなんかで記憶を失ったって、心の奥底に人を殺したという事実は記録されて消えない。嵐が去ればやがて痕跡は消えるが、これは消えない傷痕だ。痛むかどうかは人それぞれだが、無くすことは絶対に出来ない」
翼を広げる。
「人殺しが死ぬと天使になる。みんな、一様に大きな翼を持って目を覚ます。そして課せられた仕事をひたすらこなすんだ。死んでいく人がどんな人間なのかを調べる仕事だ。そのうち一枚、また一枚と羽が抜けて、翼は小さくなっていく。不思議なことに、傷が消えていくからだ。俺達は罪を失い、傷を癒したぶんだけ小さな翼で空を飛ぶのだ」
公園は小さい。古い団地へ続くきつい傾斜の坂を、天使は踊るように登った。
「じゃあ、死神はなんなんだ。あいつらは担当が違うだけで、天使なんじゃないのか」
「天使だよ、死神だなんて誰が言った? 馬鹿野郎め。ただな、連中は羽の色が違う」
白じゃないなら黒だろうな、と僕は直感的に察した。
「羽が抜けて翼が小さくなると、やがてこの立派で真っ白なこいつも消えちまう。そうするとな、今度はぶわっと、大きな黒い翼が生えるんだ。俺達は四六時中飛び回って仕事をするから、生え変わりの時は高確率で飛行中だ。どうしても翼が一瞬だけ無くなるから墜ちてしまうだろ?だから黒い翼の連中は墜天使と呼ばれる」
「ツイテンシ?堕天使ではなく?」
「字は似てるけどな。ツイテンシのツイは墜落の墜。そうなりゃ担当が変わって、今度は人が死ぬところを見届ける仕事になる。罪はどんどん失われて、黒い羽は抜け落ちていく。やがて翼は完全に消えるのさ。その時が来たらやっと、」
やっと天使は死ぬんだよ。
彼は笑った。屈託ない笑い声が何度もアパートの壁に反響する。これだけたくさんの窓があって、部屋があるのに、灯りはひとつもついていない。辺りは酷く暗かった。
天使は立ち並ぶアパートのうちのひとつを選ぶと、中に入って階段を昇り始めた。僕も後ろに続く。足元なんてまったく見えないはずだが、仄かに光る翼のおかげでなんとかつまずかずに済んでいた。
「罪を償う、なんて言うとありきたりだがな、そんなものだ。俺はもう長くこの仕事をしている。翼は一向に小さくならない。俺の心にはたくさんの傷がありすぎるのかも知れない」
「うんざりするのか」
「しないわけねえだろう。出会った時に言ったが、俺の姿は生きてる人間には見えない。天使同士じゃ話もしない。だァれも俺も見やしない。平気なつもりだったが案外つらいもんがある」
誰も自分を見ないという感覚には慣れと親しみがあった。僕という個人は、注目されない。いてもいなくても同じだ。空気のようなものだ。
そして、僕が書いた物語。不幸で、救いようがなくて、人がたくさん死ぬような物語も同じ。
不思議なことに、天使が屋上のドアノブを握ると鍵が外れる音がした。彼はゆっくりと扉を開ける。風が飛び込んできて、広くて暗い屋上が僕を迎えた。天使の翼に導かれて足を踏み出す。
「お前は俺が見えるな。初めて俺は、俺を見てくれる人間と出会ったよ。こんなに虚しいことは無い、お前みたいなつまんねえニートなんかじゃなくて、キラッキラな女子高生が良かったよ。でも、やっぱり俺を見れるのはこの世界でお前だけだったんだ。それくらいはいくら性格がひねくれてても分かる」
「ひねくれてる自覚はあったんだな」
「死んどけ、クソ生意気な作家風情が」
言われなくてももうすぐ死ぬよ、と心の中で返事をする。
遠くにたくさんの光が見えた。星のように瞬くのは街の灯り。あの下に数え切れないくらいの人間が生きていて、数え切れないくらいの天使がひしめくのだろう。その殆どに知られぬまま、僕は暗闇で死んでいくのだ。たった一人の天使を傍らに連れて。
「人生はどうだった?つまんなかったか」
「つまんなかったよ。でもなあ天使、お前と話していて思ったんだ。もし生まれ変わるならもう一度、物書きがやりたい」
「勘弁してくれよ」
また俺は、こんな思いをしなきゃならねえのか。
彼はそう笑う。
「天使、お前はどうだった?」
「俺か?つまんねえに決まってるだろ。当たり前だ」
天使はもう行くよと笑った。嘲るような笑顔だった。空は酷く曇っていて、月どころか星ひとつ見えない。
風が強く吹いた。じゃあな、と天使は一言残して走り出す。どこへ行くのか、と僕は追いかける。
迷いなく彼はアパートの屋上から飛び降りた。真っ白い翼をピンと伸ばして、実に自然な動作で僕の視界から消える。人が飛び降りる様というのはやっぱり心臓に悪いもんで、大慌てで彼を追った。フェンスに身体を押し付けて下を覗くと、ここが、天使が空から落ちてきたところの真上だと知った。
当然だった。物語が始まれば、終わる時に戻ってこなくちゃいけない。遊んだ子供が日暮れとともに帰るように。
墜ちた天使は風を受け、力強く羽撃くと、心配して身を乗り出す僕の鼻先を掠めるようにして真っ直ぐに上昇していった。光のようだった。
しかし彼が翼を動かす度、次々と羽が散っていく。その量は次第に増し、僕が空の先へと去ろうとする天使を見上げる頃には、その翼はすっかり小さくなっていた。
彼の体は何百という羽に包まれる。
「ああっ」
僕は思わず悲鳴みたいな声を上げた。天使はとうとう翼を失い、頭から墜落を始めたのだった。
受け止めなければ。やっと出会った、互いを認識した時のように。
僕は無我夢中で更に身を乗り出して手を伸ばす。腹がフェンスにくい込んでいる。墜ちてくる天使の背中から今度は絶え間なく黒い羽が吹き出しているが、翼を形成せずに散っていく。
美しい光景だった。天使はその右手を伸ばして墜ちて来る。手を取ろうと僕はますます身を乗り出す。
そして。
彼の手が僕の手を掴んだ。凄まじい力で引っ張られ、為す術もなく頭から墜ちる。僕は天使と手を繋いだまま、恐ろしい速度で。
すべてが鮮明だった。ごうごうと耳を覆う風の音、迫る地面と、視界の端を占拠する夜闇。
「つまらんことを考えるんだな、お前は」
そんな天使の声が聞こえた気がした。
◆◆◆◆◆ ◆◆◆◆◆
滅多に人の通らないアパートの裏だが、そう時間を置かずに僕は死体として発見されるだろう。
しかし、例え誰の目に映らなくとも、僕は、僕の美しい天使と手を取り合って死んでいる。傍らには理想として創り上げた存在が、やっと眠りにつくように息絶えているのだ。
僕の脳にはまだ、死に間際に作った物語の残滓が残っている。
その頭の傍には、ぱっくり割れた植木鉢。
終わる前にひとつ、物語を書きたい。




