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八話 変態への正義の鉄槌

 その時、リビングからとてつもない叫び声が聞こえてきた。


 今までの人生で聞いたことが無い声。


 恐怖。驚愕。無念。苦しみ。悲しみ。絶望。


 そのすべてに当てはまらない、感情が読み取れない人という動物の咆哮。

 その叫び声で俺は我に返り、リビングの扉を凝視した。


 硬い何かが床にぶつかる音と粉砕される音。そのたびに誰かの叫び声が聞こえる。


「姉ちゃん!」


 磨き上げられた木の床を蹴り、俺はリビングの扉のノブを回し中へ入る。


 そこには凄惨な光景が広がっていた。あんなに立派だったダイニングテーブルは中心から真っ二つに割れ、残骸へとその姿を変貌させていた。


 観葉植物は無残にも土を辺りに巻き散らかし、その身を横たえている。若草色の綺麗なカバーを掛けられていたソファもその生地は破れ、中の綿を四方に飛散させている。


 その惨劇の状況の中心には、姉ちゃんがいた。天高く突き上げているその手には、ぼろ雑巾のようになった物体を掲げていた。譲二さんだった。


「私の弟に何をした! この人の皮をかぶったド変態淫獣が!」


 譲二さんは完全に白目をむき、手をだらりと下げている。


「つーちゃん! もうやめようよ! 今度こそ譲二さん死んじゃうよ!」


 今度こそ? ということは以前にもこういうことがあったのか?


「何度言ったら分かるんだ! この色欲に囚われたアホは! 前にも綾乃にセクハラしていたときにも言ったよな! その時ちゃんと忠告したよな? 今度何かやったら地獄見せるって! なんとか言えええええ!」

「つーちゃん! 首を締めあげていたら、譲二さん喋れないよ!」


 綾乃は、姉ちゃんと譲二さんの周りを右往左往していた。姉ちゃんはそんな綾乃の言葉にはわき目も振らずに譲二さんを問い詰めている。


「とうとう男にまでっ……! くぅ、情けない。よし! 今日がその地獄を見せる時だ! 覚悟しなさい!」


 さらに姉ちゃんの手には力が入って行くように見受けられる。譲二さんは口から泡を吐き出し、眼球をぐりんぐりん動かしている。


 これは本当にやばい状況だ。譲二さんを本当に殺しかねない。


「姉ちゃん! もういいって! もう離してあげなよ!」

「お? そうか?」


 姉ちゃんは俺の言葉を聞くと、譲二さんの首を締めあげていた手をあっさりと離した。


 譲二さんはそのまま床に倒れ込み、全身を痙攣させている。


「しかしだな、このド変態には、そろそろ正義の鉄槌を喰らわせてやらねばならないと思っている。」


 姉ちゃんは、譲二さんの体を足で抑え、右腕を起こし逆関節を決めようとしていた。


「ストーーーップ! なに冷静に腕を決めているのさ! もういいって!」

「なぁに。腕の一本でも折っておけば大人しくなるだろう」

「つ、つーちゃん! もうヤメよ? 浩介もいいって言っているしね?」


 綾乃が素早く止めに入る。


「むぅ。そうか。お前たちがそう言うなら……。でも、また何か変なことされたら、すぐに私に言えよ。今度は容赦しない。口から手を入れてその汚らしい体から、全ての臓物を引きずり出してやる。」


 おお。なんて恐ろしいことを……。姉ちゃんを怒らせるとヤバイな。肝に銘じておこう。


 ふと、譲二さんを見ると、まだ床にあおむけで倒れており、白目をむき全身をけいれんさせている。


「それは放っておけ。今に目を覚ます」


 それって……。姉ちゃんの雇い主なんだろ? こんなことして大丈夫なのかな。


 いまだ目を覚まさない譲二さんを見ながら、俺は深いため息を出した。


「そう言えば、今度は、って言っていたけど、綾乃も何かされたの?」

「え? うん。まあ、割と毎回」


 綾乃は、あっけらかんと言ってのけた。


「綺麗な黒髪ですねぇ。スリスリしていいですか? とか……?」

「っ……!」


 なんで姉ちゃんと綾乃は、こんな変態紳士のいるところで仕事をしているのだろう。時給が高いから? イヤイヤ。お金よりも大切なものが失われかねない。姉ちゃんも綾乃もそこまで馬鹿じゃあないだろう。


「それでね、あんまり度が過ぎると、椿さん怒っちゃって、よくこんな感じになるけど……」


 綾乃は譲二さんの方を向き、手を頬に当てた。


「でも、今日はちょっとすごかったなぁ。つーちゃんの目には、絶対に息の根を止める。っていう決意が見えたもの」


 綾乃はうんうんと頷く。


「でも、ちょっと変態さんだけど、譲二さんはいい人だよ」


 ちょっとどころではないだろう。ド変態だ。


 姉ちゃんは部屋の中央に仁王立ちし、土をぶちまけている観葉植物を見ながら「このパキラ、せっかく育ってきたのになぁ。」などと言っている。


 姉ちゃんがやったんだろう。この部屋の破壊を。


 もう一度深いため息をつく。どうするんだよ、この部屋。せっかく綺麗な部屋だったのに……。


「いやぁ……。本当…………。に! 気持ちよかったですねぇ。」

「うわぉぉぉぉぉ!」


 俺は叫び声をあげ、尻もちをついた。後ろに復活した譲二さんが立っていた。


 多少、髪は乱れてはいたものの、さきほどまでと同じように笑顔を作っている。今まさに殺されかけたとは思えない。


「よかった。譲二さん、やっと気がついた。いつもよりも長く気絶していたから、心配しちゃった」


 綾乃が顔をほころばせそう言った。


「いやはや……。今度こそは私もイッてしまうかと思いましたよ。綾乃さんにちょっかいだしている時よりも強く、長く締め上げてくれましたからね。気持ちいいったらありゃしません」


 譲二さんは目を細め、天を仰いでいる。


 もう駄目だこの人。どうしようもないよ。もうおうち帰りたい。


「譲二さん! あなたは男でも良いんですか? ど変態だとは思っていましたけどね。お願いですから、弟には手を出さないように!」


 姉ちゃんは直立し、譲二さんを指差し、大声で言った。


「いやいや、椿さん。なにか誤解していませんか? 私は女性が大好きですよ。アハハ……。なんだかこんなことを言うのは、少し恥ずかしいですね」


 譲二さんは、照れくさそうに頭を掻きながらそう答えた。


「照れないでください。このド変態」


 容赦ない言葉が姉ちゃんから浴びせられる。


「浩介君の目を見ていたらですね……。本当に椿さんに似ているなぁ。と思いまして……。だからちょっと、興奮してしまいましてね。あんなことをしてしまったんです。だって椿さんにこういうコミニュケーション取ろうとすると、すぐに怒って私を締め上げてしまうじゃあないですか? いやぁね、それはそれで気持ちがいいんですよ? でもあまり椿さんに不快な思いをさせてしまうのも良くないと思いまして」


 姉ちゃんは再度、譲二さんの首を掴み天高く持ち上げた。


「コミュニケーションってなんじゃぁぁぁ! 不快な思いももういっぱいいっぱいしているよ! もう浩介にも綾乃にも金輪際手を出すな! 二人に手を出すくらいなら私に手を出だせ! おっぱいでもおしりでもいつでも狙いに来なさい! さぁこい! 今すぐこい!」


 今度は綾乃と二人で、譲二さんから姉ちゃんを引っぺがす。いつか譲二さん、姉ちゃんに殺されちゃうんじゃないかな?


 床にどさりと倒れ込んだ、譲二さんはすぐに立ち上がり、


「気絶するか、しないかの境界が………………。良い! しかも美しい椿さんにやられるのが私の至福の時ですよ」


 ……良い笑顔だ。本当に。セリフはやばいけど。


「さて……と。私はこの部屋を片付けましょう」


 譲二さんは手際よく、壊れたテーブルやらビリビリに破かれたソファのカバーなどを片づけている。


「私も手伝いますよ。ほうき借りますね」


 綾乃もそう言い、譲二さんを手伝う。


「よーし、やるか」


 バーサーカーと化していた姉ちゃんも、いつの間にか落ち着きを取り戻し、片づけを始めた。


 何なんだ? この光景は。みんなこんなことに慣れているのか? というか仕事は?

 様々な疑問が頭をよぎるが、一向に答えは出てこなかった。

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