七話 変態紳士
一瞬、自分がなぜここにいるのかを忘れてしまう。
姉ちゃんと綾乃の仕事場を見学するという名目でここにお邪魔したのだが、とても仕事をする環境とは思えない。
あまりの心地よさにウトウトしていると、城金さんがアイスティーを入れたコップを四つ持ってリビングに戻ってきた。
「おや? 椿さんと綾乃さんはどちらに?」
慌てて、姿勢を正す。
「姉と綾乃はトイレに行っています」
「そうでしたか。それではお先に頂きましょう」
城金さんは、そう言いながらアイスティーの入ったコップを俺の前に置いた。
「ありがとうございます」
「ミルクとシロップの他にレモンもお持ちしました。お好みでどうぞ。」
恐縮しながらアイスティーに口を付ける。フローラルな香りが鼻孔をくすぐる。優しい甘みが口内に広がり、至福の時間を演出する。
うむ。いつも飲んでいる紅茶とはやっぱり違うな。
「ダージリン紅茶のセカンドフラッシュです。上質なものが手に入りましたのでお出ししました。お口に合えばよろしいのですが」
ダージリンという紅茶の種類は聞いたことはあるけど……。セカンドフラッシュ? 何か技の名前だろうか?
「いや。本当においしいです。やっぱりコンビニの紅茶とは違いますね!」
勢い余って変なことを言ってしまった。あたりまえだろうが。
城金さんは俺の顔を直視し、
「突然ですが、浩介君とお呼びしても?」
「え? ああ。はい。構いませんよ?」
そう言うと城金さんは、俺の顔を見てニコニコしている。
「椿さんも綾乃さんも私の事は下の名前で呼んでくれます。浩介君も遠慮しないでくださいね」
俺も精一杯の笑顔を作り、頷く。
綾乃の笑顔は、見るものを楽しい気分にさせてくれる笑顔だとすると、譲二さんの笑顔は安心を与えてくれる。
譲二さんは俺の対面に座り、アイスティーに口を付ける。
「今日は美味しく淹れることができました」
そう言い、笑顔を絶やさない。
上品な振る舞いに、清潔感のある雰囲気。出会ってまだ三十分程度しかたっていないが、とても好感が持てる人ということはわかる。
姉ちゃんと綾乃がどんな人と一緒に仕事をしているのか、少々気にはなっていたのだが譲二さんなら安心だ。
灼熱の外界から遮断され、快適な環境でまどろむさわやかなティータイム。高校二年生にはとても似合わないシチュエーションだったが、なかなかこういうのもいいかもしれない。急に成長した気分だ。
アイスティーを半分ほど飲み終え一息つくと、譲二さんが俺の顔をまじまじと見つめてきていた。
「いやあ、やっぱり姉弟ですねぇ。椿さんにとても似てらっしゃる」
姉ちゃんにそっくり? あまりそんなことは言われたことは無いな。
「特に目元がそっくりですねぇ」
そうなのかな? いまいち自分では気がつかないが……。
あの美人な姉ちゃんに似ているということは、自分では気がつかなかったが俺はイケメンなのでは?
しかし、今までの人生を振り返ってみても女の子にモテた記憶は無い。
いつでもボーっとした顔をしているのがいけないのかな? もう少し凛々しい顔をしていればいいのか? 駄目だな姉ちゃんに馬鹿にされそうだ。
ふと、見ると譲二さんが鼻先五センチくらいまで迫っていた。身を乗り出して……。というかテーブルに乗っかっている。近い、近い、鼻息があたる。
「いやはや、こうしてみるととても目が綺麗で、まるで宝石のようですねぇ。こうして見ると本当に椿さんにそっくりです。いい子いい子してもいいですか?」
……なんだって?
相変わらず譲二さんの表情は優しい笑みを浮かべている。でもなんだか鼻息が荒い。
譲二さんは、俺の頬を優しく両手で包みこむ。なんかヤバイ。
頭がパニックになってはいたが、とにかくこの場から離れなければいけない。
「お、俺もトイレ!」
勢いよく立ちあがり椅子を倒してしまった。
「あ……。トイレでしたら、ドアを出て左に曲がって、突き当りを……」
俺はその言葉を最後まで聞かずに、リビングの扉を勢いよく開け、脱兎のごとく飛び出す。
綺麗に磨き上げられた床に、足を取られ転びそうになってしまうが、足にしっかりと力を入れ踏みとどまる。
しかし、何だったんだ? あの人変なこと言っていたぞ? いい子いい子したい? 背筋に強烈な悪寒が走る。もしかしてあっちの趣味の人なのか?
貞操の危機を乗り越え、大きくため息をついていると、向こうから花を摘み終えた姉ちゃんと綾乃が歩いてきた。
「ん? どうした浩介。お前もトイレか?」
「お、俺はトイレ行こうとしたんだけど……。譲二さんもおかしくて……。その……」
説明がおかしい。今まで起こったことが頭の中でグルグル回っていて、うまく説明することができない。
すると姉ちゃんが、うつむき体を小刻みに震わせていた。
それを見た綾乃が、姉ちゃんの前に立ちふさがり、両手を肩の上に置き制止するようなそぶりを見せる。
「つーちゃん……。落ち着こう? とりあえず話を聞こうよ。ね、ねえ、浩介、なんだかものすごく動揺しているけど、何かあったの?」
「いや……。男なのにセクハラされるとは思わなかったよ。譲二さん、目をギラギラさせてさ。いったい何なの? あの人。姉ちゃんとか、綾乃も変なことされてないか?」
俺は幾分か落ち着きを取り戻していた。
よく考えてみれば、この二人はここで何年も仕事をしている。今まで変ないたずらをされているのではないか? 高い時給を貰っているので、逆らえずに屈服しているのではないか?
「なあ、姉ちゃん。ここ大丈夫なの? 譲二さんって結構危ない人なんじゃあ……」
ふと、姉ちゃんを見ると俺は息をのんだ。うつむいていた姉ちゃんは、いつの間にかリビングへと目を向けていた。
その目は、激しい憎悪に満ちており口角の端を上げ「フフフフフフフフ」と小さく笑みをこぼしている。
体からは蒸気を発している。頭をがくがくと左右上下に振り、地獄から聞こえてくるような笑い声を発している。
どうなっているんだ? 俺の姉ちゃんは。人間なのか? 悪魔なのか?
綾乃も制止しようと、姉ちゃんの肩に置いていた手を離し、手をガッチリと握っている。
「綾乃、どいてくれ」
姉ちゃんは、その悪魔的な笑みをピタリと止め、今度は今まで聞いたことが無いようなくぐもった声でそう言い放った。
俺は姉ちゃんが怒ったところをあまり見たことが無いので驚いた。
いつもキリっとして表情を崩さないので、初対面のひとからは怒っているんじゃないかと誤解を受けてしまうのだが……。
それは綾乃も同様だったようで、不安そうな顔をしながら目を泳がせている。
「つーちゃん。落ち着いて? お、お願いだから……」
「これが」
小刻みに震わせていた体を制止し叫んだ。
「これが落ち着いてなどいられるかああああ! あのド変態があああ!」
悪魔の咆哮。それが相応しい叫び声だった。
俺と綾乃の脇をすり抜け、その体を走らせる。すさまじい勢いで扉を開け、リビングに突入していった。
「つーちゃん!」
綾乃が叫び、すぐに姉ちゃんの後を追う。
俺はというと、あまりの事に身動きが取れないでいた。一体何が起こっているんだ? ただならぬ出来事に俺は何も考えることができず、その場に留まっていた。