六話 コテージへ
外の気温にも慣れてきたのか、時折吹く風が心地よく感じるようになってきた。
風が吹く度、木の枝が優しく揺れ、その隙間を通り抜ける風の音が耳に届く。枝間から差し込む日光が、少し先を歩いている姉ちゃんと綾乃を照らす。不快だったまとわりつくような湿気も多少和らいだように感じ、土と森の匂いも心地よく感じられるようになっていた。
夏休みに入ってからというもの、クーラーの効いた部屋で一日を過ごすことが多くなった。
たまには外に出て自然を楽しまないといけないな……。とは思うのだがいかんせん文明の利器の力は偉大だ。あの快適空間を一度味わってしまったら、よっぽどの精神力の持ち主でない限り部屋から出ることをためらってしまうだろう。
「おい! 浩介。もう少しだからな。早く着いてこいよ」
森林の散歩を楽しんでいると、姉ちゃんと綾乃からはだいぶ離されていた。
やっぱりあの二人は、いつもこの道を通勤しているのだろうか。歩く速度が俺とは違う。少し待ってくれてもいいじゃないか……。俺は初めてなんだし……。
そうぼやき、早足で二人に追いつこうとする……。
――その時、厚い霧のようなものが体を通り過ぎるのを感じた。濃い空気の層。そう言った方がいいかもしれない。
立ち止まり、顔を触る。後ろを振り向くが特に変わった様子は無い。なんだか違う世界に迷い込んだような……。そんな印象を受けた。
世界の境目をまたいだような不思議な感覚。
気のせいとはとても思えないが、先ほどのふくらはぎの傷の件もある。久しぶりに外を歩いて少し疲れているのかな?
自分の貧弱っぷりに少し落胆しながら、姉ちゃんと綾乃を小走りで追いかける。
不意にサッカー場くらいはあろうかという広い空間が現れた。
その広場の中央には、立派な二階建てのコテージが存在感を放っていた。薄いグリーンの屋根に上品な木造建築の佇まい。
そばにある湖畔の水は神秘的な何かを感じさせるほどの透明度を誇っていた。
こんな森の中に、どこかの避暑地のような場所があることに驚きを隠せないでいた。
「すごく綺麗なところでしょ? 私も初めて来た時ビックリしたもん」
俺を待っていた綾乃が顔を覗き込むように語りかけてきた。
「本当にすごいな……。何? あのコテージ。この湖。こんな綺麗なところで夏を過ごせたらいいだろうな」
「ね~。すごいでしょ? 内装もおしゃれなんだよ」
綾乃がまるで、自分の持ち物であるかのように自慢する。
コテージに近づくと、改めてその佇まいに圧倒された。建物だけで百坪はあるだろう。
純白の大きな門に、レンガ造りの外壁。敷地内には色とりどりの花が植えられている。
姉ちゃんが門に手を掛けると、キィィという音とともにゆっくりと開いていった。
敷地内に入ると、無数に植えられた花から甘い匂いが漂ってきた。
赤、白、黄色、どの花みても綺麗だな……
幼稚園の頃に歌った、童謡が頭をよぎった。植えられていた花はチューリップではなかったが、規則正しく植えられた花は美しく、癒しを与えてくれる。
バラのアーチをくぐり、玄関までたどり着き、姉ちゃんが呼び鈴を鳴らす。
十秒ほどすると、中から足音が響き玄関がゆっくりと開けられた。
そこには自分の親と同じくらいの年の男性が立っていた。
つやのある黒いベストに、紺のネクタイ。真っ白なYシャツにスラリとした黒いズボンを身につけている。
髪の毛は短く整えられており、清潔感がある。まるで英国紳士のようだ。その表情はとても慈愛に満ちており、見るものすべてを優しい気持ちにさせてくれる。
その紳士は俺の方に目をやり優しい表情を向ける。すぐに視線を姉ちゃんに戻し、その紳士は低く渋い声でゆっくりと話しかけてきた。
「こんにちは。椿さん、綾乃さん。今日は暑かったでしょう?」
「ええ。本当に……」
姉ちゃんが少し申し訳なさそうに言う。
そして姉ちゃんが俺の背に手を当て、
「弟の浩介です。ちょっと事情があって連れてきちゃいまして……」
姉ちゃんがペコリと頭を下げる。それに続いて俺も頭を下げる。
「長里浩介と言います。いつも姉がお世話になっています」
紳士は優しい笑顔で語りかける。
「私はここの責任者の城金譲二と申します。お姉さんと綾乃さんとは……。仕事仲間というところでしょうか? 以後、宜しくお願いいたします」
深々とお時儀をされる。その物腰は、柔らかく上品な人柄がにじみ出ている。
責任者ということは姉ちゃんと綾乃の雇い主だろうか?
こちらも深々とお時儀をする。
横を見ると、姉ちゃんがクスクスと笑っている。
「何だよ? 姉ちゃん」
小声で抗議をする。
「いやな。お前がちゃんと挨拶ができるのか不安だったんだ。しっかりとできたようだな。よしよし。」
姉ちゃんが俺の頭をなでる。少しムッとして姉ちゃんの手を振り払う。
「綾乃さんの言っていた通り、仲の良い姉弟のようですね」
城金さんはニコニコと微笑ましいものを見る笑顔で答えた。
「さあ、さあ。外は暑かったでしょう? 中へどうぞ」
城金さんは、柔らかい物腰で俺達三人をリビングへと案内してくれた。
リビングに入ると俺は驚きを隠せなかった。
六人掛けのダイニングテーブルに、若草色の爽やかなのカバーの大きなソファ。ロフトまである。開放感溢れる室内には、観葉植物などが置いてありさわやかな香りが辺りに立ちこめる。
大きな窓からは先ほど見た湖畔が一望できる。その景色に目を奪われていると、城金さんが低く渋い声で話しかけてきた。
「どうですか? 気に入っていただけましたか?」
「山奥を歩かされた時はどうなることかと思いましたけど……。こんないいところがあるなんて驚きです」
俺が素直な感想を言うと、城金さんはニコリと笑った
「気に入っていただいて何よりです。お疲れでしょう? アイスティーをお入れしますので、好きなところに座って待っていてくださいね」
そう言うと、城金さんはリビングを出て行った。
「浩介、ほら。ここに座れ」
姉ちゃんが、近くにあるイスの背をポンポンと叩き促す。
進められたイスに座り、姉ちゃんに質問する。
「休憩したら仕事? 一体こんなところでどんな仕事をするの?」
「まあまあ、そう急ぐんじゃない。私は少し花を摘みに行ってくる」
なんだって? 花? いきなり何を言っているんだ?
「花って何? 玄関の花を摘んでくるの? あんなに綺麗に咲いているのに? あのままにしておいた方がいいんじゃないの?」
「いや……。違う。その……。トイレだ。少しボケただけなんだけど」
姉ちゃんは髪を掻きあげ、少し頬を赤らめながらそう言った。
「あ。私も行こうかな? 花摘みに」
綾乃はニコニコしながら、そそくさとリビングを出ていく姉ちゃんを追いかけていく。
なんだ、なんだ? ボケていたのか? 変な姉ちゃんだな。
アンティーク調のイスに深く座り、伸びをする。そのままの体勢で天井を見ると、白い大きな天井扇がクルクルと回っている。
二階まで吹き抜けの開放感があるリビング。木材のさわやかな匂いが気分を落ち着かせる。エアコンが見当たらないのに適度な気温が保たれた室内。窓から見える外の景色はまるで有名な画家が描いた一枚の絵のようだ。いつのまにかセミの鳴き声も聞こえてこなくなっていた。




