二十三話 譲二の過去
目を細めて、西に傾きつつある太陽を睨んだ。あの太陽が地平線に隠れる頃にはグロウとの死闘が再開してしまう。後、一時間も無いだろう。
リビングのガラス戸を少し開けると、昼間とは違った涼しい風が、森と土の匂いを運んでくる。
グロウは俺を狙っている……。みんながグロウとの戦いに敗れてしまえば、俺もおそらく命はないだろう。
普通なら、恐れおののき、泣き叫び逃げ出してしまうのだろうが、なぜか俺の心はある程度の落ち着きを取り戻していた。
みんながグロウに殺されてしまえば、守られていただけの俺は正気を保っている自信はない。それこそ死んでしまったほうが楽だというくらいに……。
リビングには俺と姉ちゃん、そして綾乃がいる。譲二さんはあのままバルコニーでタバコを燻らせているのだろう。
ソファに座っている姉ちゃんと綾乃は、再び始まるであろうグロウとの戦いを前に何を考えているのだろう。それは戦うことのできない、俺にはわかるはずがない。
俺はガラス戸を閉め、リビングを出ようとした。
「! 浩介? どこに行くんだ?」
「大丈夫だよ。姉ちゃん。ちょっと譲二さんのところへ……」
「……そうか」
心配そうな姉ちゃんを尻目に、俺は二階のバルコニーへの階段を登った。
バルコニーでは先ほどまでと同じく、譲二さんが煙草をふかしている。俺はバルコニーへ出る扉を少しだけ開け、
「譲二さん。少しいいですか?」と尋ねた。
譲二さんは俺を見ると「ハイ。いいですよ」と言いながら、まだ半分以上残っている煙草を灰皿に持って行こうとした。
「あ……。いいですよ」
と言うと、「申し訳ないですね」と言い、再び口に煙草を持っていく。
「どうしました? 落ち着きませんか?」
譲二さんは普段と変わらない口調で答えた。
わからないことがひとつある。なんで譲二さんは命を掛けてまで俺を守ってくれるのだろうか? 家族である姉ちゃんや幼なじみの綾乃であれば、俺を命を掛けて守ってくれるということは理解できる。しかし、譲二さんとは出会ってから二週間そこそこの関係だ。もちろん大切なのは出会ってからの時間ではないとは思うが……。
「譲二さんは、なぜ俺を命を掛けてまで守ってくれるんですか?」
単刀直入に聞いた。この人には遠回しに聞いても仕方ないと思ったからだ。
譲二さんは少し意外そうな顔を俺に向けたが、すぐに表情を戻した。
「おや? 私が浩介くんのために、命を掛けるのはおかしいですか?」
と、口端を上げからかうように言った。
「あ、いや……。そういうことじゃ」
譲二さんは優しい微笑を湛えたまま、バルコニーの柵の方へ歩いて行った。空を見上げ……悲しい顔をした気がした。
「少し、私の話をしてよろしいですか?」
譲二さんは目を細め、悲痛な表情で、夕焼けに染まる空を見ていた。譲二さんのこんな表情を見るのは初めてだった。俺は「はい」と短く返事をした。
「もう二十年ほど前になりますかね。私は某国で軍隊に所属していました。軍隊と言っても、暗殺や、人道的に問題があるような汚れ仕事ばかりを行う特殊部隊でした。正義のために、世界の秩序を守るためにと、幾度と無く辛い任務を続けてきました。正義のために仕方がないと、自分に言い聞かせてきました」
譲二さんは相変わらず、姿勢を正し、空を見上げたまま煙草をふかし続けていた。
「ある時、私はテロ犯が潜伏するというある中東の国へ潜入しました。大部隊を送り込むことなく、そのテロ犯を少人数で暗殺するためにです。そこで私は敵の銃弾を受けてしまい、自分の部隊とはぐれてしまいました。身分を隠していたものの、私が某国の人間だとバレてしまえば殺されてしまいます。私はテロ犯が潜伏するという森林に先に潜入し、部隊の到着を待ちました」
俺は言葉を発せないでいた。安全な日本にいれば決して経験することがない、ありえない出来事。目の前にいる譲二さんは一体どのような、凄惨な経験をしてきたのだろうか。
「私が抜けてしまったことで、部隊も任務の遂行が遅れていたようです。一週間ほどすると、食料も水も尽き、私は窮地に立たされました。……銃槍は大したことはありませんでしたが、さらに一週間が立ち、乾きと飢えで私は身動きがとれなくなってしまいました。私がここで力尽きても、残った部隊の人間が正義を守ると信じていました。ついに意識が遠のきかけた時……ある少女が現れました」
俺は立ち尽くしたまま譲二さんの話を聞いていた。それに気がついた譲二さんは俺に椅子を進めた。俺が椅子に座るのを見ると、自分は立ったまま話を続けた。
「その少女は『ライハーネフ』という名でした。その地域の名で『花』という意味です。その子は私を見て怯えることなく、近づいてきました。そして私の銃槍を見やり、手をかざすと瞬時に直してみせたのです」
「……力」
「ええ……。私はその出来事で力を認識しました。……その少女はそれからも幾度と無く様子を見に来てくれて、食料や水などを運んでくれました。最初は警戒していたのか、口を開きませんでしたが、次第に打ち解け、様々なことを教えてくれました」
譲二さんは目を細め、はるか昔の夢物語を話しているような表情をしていた。
「年は七歳であること、数年前からこの森の近くの村に父親と共に住んでいることを教えてくれました。名乗ると、私の名前が面白かったのか、じょーじ、じょーじと名前の通り、花のような笑顔を作っていました」
譲二さんは昔を思い出すようにゆっくりと話していたが、その横顔は自分を救ってくれた少女の一時の美しい思い出を語る顔ではなかった。時折、口元を震わせている。。おそらくその少女はこの世には居ないのだろう。
「その少女と出会ってから、さらに一週間が経ちました。ついに部隊が森に辿り着き、私は任務に復帰しました。助けてくれた少女に別れを告げられないまま、森の奥に進んでいきました。私の潜伏していたすぐ近くの村に、テロ犯は匿われていました。部隊はその村に潜入し、テロ犯を暗殺することに成功したのです」
譲二さんは、悲痛な表情を更に歪めた。
「……そして、村人をすべて殺したのです」
俺の心臓の鼓動がひときわ大きく鼓動した。……なぜ? という思いが浮かぶ。
「テロ犯をかくまった村人もすべて同罪……。というのが国の判断でした。すべてを焼き払い、逃げ惑う女性や子供もすべて撃ち殺しました。仲間たちは正義のため、国のためと正当化し、必死に自己を保っていました。私もそうです……」
こんな正義があってたまるか……。おそらく、世界中の殆どの人間がそう思うだろう。しかし、平和に暮らしている俺達は、その平和の裏側で起こっていることは何も知らないんだ。
「その時でした。仲間が焼け落ちた家屋の地下から一人の生存者を連れてきました。話を聞くと、どうやら今回のテロ犯の主犯格の娘のようでした。自分の娘だけはと、安全な地下に隠したのでしょう」
「まさか……。その娘って……」
「そうです。ライハーネフでした。……ライハーネフを連れてきた仲間は私に言いました。『お前が殺せ』と」
柵を持つ譲二さんの手が震えている。
「年端もいかない少女といえど、テロ犯の娘を生かしておくわけにはいきません。成長し、父の跡をついで、新たなテロ犯にならないとも言い切れません。……しかし、すぐ目の前にいる少女を殺すことには、仲間も抵抗があったのでしょう。今回の任務でミスを犯した私にその役目が回ってきました。……しかし、私はライハーネフを殺すことなどできなかった」
譲二さんは冷静を装い、俺に話しているが時折見せる表情や、言葉の節々に感情の高まりが見て取れる。
「そんな私に仲間たちは言いました。『その子を殺せ。でなければ、私たちはお前を殺す』……と。……私の部隊はそういう部隊だったんですよ。私は銃の引き金に指を掛け、銃口をライハーネフに向けました。でも……引き金を引くことなんかできるわけがない!」
言葉に怒気がはらむ。
「そんな中、ライハーネフは私の方に近づいてきました。そっと私の手に自分の手を置くと『じょーじ。あなたが私を殺さなくても、後ろにいる怖い人たちが私を殺すよ。だからあなたが私を殺して』と言いました。七歳の少女が、自分に起こった運命を受け入れて、私に自分を殺してと……」
譲二さんは手を顔に当て、肩を震わせている。俺はそんな譲二さんに掛ける言葉を持ちあわせてはいなかった。
「私はライハーネフを殺しました。今でもその時に撃った引き金の感触は、手に残ったままです」
譲二さんは自分の手のひらを見つめている。その時撃った銃の感触を払うように、両手で手のひらを擦り合わせている。
「国に帰った私は、世界の平和を脅かす悪を倒した英雄だと祭り上げられました。私はあの時に死んでしまっても良いと思いました。わたしの命でライハーネフが生きながらえることができるのなら、いくらでもこの命を差し出せると思いました。正義とは一体何なのか……。悪とは一体何なのか……。わたしは今でもその答えはわかりません」
譲二さんは軽くかぶりを振り、神にその答えを求めるように空を見上げた。もしくは自分が手にかけた少女に答えを求めるように。
「……わたしを軽蔑しますか?」
譲二さんは悲しい目で俺を見つめた。
「俺には譲二さんが正義なのか悪なのかはわかりません。俺の知っている譲二さんは、優しくて、強い人です。少し……イヤ、かなり変態だけど、軽蔑なんてできません。それは姉ちゃんや綾乃も同じだと思います」
「浩介くん……」
「でも、過去にしたこともどこかで償っていかないといけないと思います。ライハーネフの死を無駄にしないためにも……、世界中の人を助けるなんて無理だと思いますけど、目の前に人くらいは守ることができると思います」
月並みな答えだ。しかし、譲二さんは完全無欠のヒーローではない。
「……すいません。偉そうなことを言ってしまって」
譲二さんは俺を心底驚いたような顔で見つめている。目を大きく見開き、唇は何かを言おうと細かく動いている。
「浩介くん……。私はね、その答えを出すのにずいぶんと時間がかかったんですよ
譲二さんは目頭を抑えながら、か細い声でそう言った。
「任務を終えた私は、すぐに軍を除隊しました。正義のためと国に尽くしてきましたが、その正義の意味がわからなくなってしまったんです。ライハーネフに出会うまでは正義の意味など深く考えたことなどなかったのに……。しかし、いくら時間が経っても正義の意味などわからなかった。そして、ある時日本に住む親戚から、ある施設を運営してくれないかと打診がありました」
そうか、譲二さんはその時に日本に来たのか。
「幼稚園を運営していたのですが、子供も後継者もおらず、自分たちも年老いてしまい困っていたそうです。私はいい機会だと思い、その話を引き受けました。そして日本に渡ってきたんです」
先日、譲二さんから幼稚園も運営していると聞いたことを思い出した。
「子どもたちの成長を見ていると、荒んだ心も少しずつ晴れていくようでした。ある時、通園している男の子が病気で入院してしまい、お見舞いに行った時のことです。その子を見た瞬間、私の中に何かおぞましいものが入り込んでくる感じがしたんです。それは……グロウが人を喰おうとしている時のあのイヤな感じでした」
「え……、それって」
「そうです。入院していたのは浩介くんなんですよ。椿さんも、綾乃さんも、そして浩介くんも、私の幼稚園の生徒だったんですよ」
知らなかった。こんなところで譲二さんとつながりがあったのか……。
「私自身気がついていませんでしたが、ライハーネフの死をきっかけに力を覚醒していたんですね。ですが、当時、力の使い方を知らなかった私には、どうすることもできませんでした。しかし、そんな時必死に浩介くんを守ろうと戦っている、椿さんと綾乃さんが目に入りました」
譲二さんはいつの間にか、煙草を吸い終え俺を真っ直ぐに見つめていた。
「浩介くんを必死に守ろうとしている椿さんと綾乃さんの姿を、ライハーネフと重ねてしまいました。あの時ライハーネフも自分の命を省みることなく私を助けてくれました。目の前にいる人間を守りたいという気持ちにうそはありません。それこそが純粋な思いだと悟りました。だから私は目の前に困っている人がいれば、必ず助けます」
俺を見つめる譲二さんの眼差しには、一点の曇もなかった。
「その後、私の経営する高校に入ってきた椿さんに、全てを話しました。私の過去、椿さんと同じ力を持っていること、グロウの事……。椿さんもすべてを理解してくれました」
そこまで話すと、譲二さんはふと目線を下げ、
「正直、浩介くんを襲ったグロウが完全に倒せたとは思っていなかったのです。そこまで強い力を持つグロウだと思いました。椿さんと綾乃さんと作ったこの組織も、そのグロウを倒すために作ったのです。……浩介くんを守るために」
俺は絶句した。十年以上俺を守るためにみんなは戦っていたのか……。
「だから、浩介くん。私たちは何を言われようと、あなたを守ります。それが私たちの変わらない思いなのです」
その時、体全体に薄ら寒いなにかが駆けめぐる感触があった。……これはまさか。
譲二さんは俺に向けていた目線を下に向けた。表情には緊張が見て取れる。
それだけで分かった。ついにグロウが結界から出てくるのだ。
「浩介くん。大丈夫ですよ。私たちは絶対に負けません。グロウを倒したら、みんなで打ち上げでもしましょう」
譲二さんはニコリと笑い俺の肩に手をおいた。暖かくどこまでも安心できるぬくもりが感じられた。




