二十一話 引けない戦い
外に出ると、湿気を多く孕んだ空気の壁にぶち当たった。俺は自転車にまたがり走った。とにかく走った。向かう先はあのコテージ。
姉ちゃんは誰のためでもない。俺の為に命を掛けるといった。
グロウは特定の誰かを襲うということは無い……というのを譲二さんから聞いたことがある。つまり、考えたくはないことだが、今日の夕方の戦いに敗れたあと、俺が襲われることも考えられるのだ。姉ちゃんはそのことを言ったのだろう。
……いや。むしろその確率は高いかもしれない。廃工場でのグロウとの戦いの際、グロウは俺を喰らおうとしている節があった。戦っている三人を無視しての俺への特攻……。その特攻は結界によって阻まれたが、その後の、俺を見るグロウの目には喰らおうとする狂気が見て取れた。
しかし、そんな不確かなことを今言っていてもしょうがない。俺に今できることは……。
気持ちばかりが先行してしまい、足が思うように動かない。
そんな時、目の前の信号が赤になったのに気が付かなかった。右側から走ってくる車のけたたましいクラクション。地面を焦がすほどの急ブレーキ。自転車のブレーキが間に合わず俺は車道に踊り出てしまった。
――運転手が何かを怒鳴っているが、俺に耳には届かなかった。俺はそのまま、車道を突っ切り歩道の手前にある、縁石にぶつかってしまった。衝突は凄まじく俺の体は自転車ごと空を一回転し、背中から太陽に熱せられたアスファルトに衝突してしまった。
呼吸をなんとか整え、立ち上がる。右手を地面につくと、神経に釘を打ち付けられたような激痛が肩から手に走った。あまりの痛みに手を放してしまい再び地面に肩を打ち付けてしまう。
「……うあぁ……。ぐ……」
肩から全身に痛みが伝わっていくようだ。じっとりとした汗が、額に浮き出てくるのがわかる。それが目に入り突き刺すような痛みとともに視界が奪われる。
立ち上がることさえできず、地面に突っ伏した。通行人が心配そうな目を向けるが、声を掛ける人は居ない。俺は目に入った汗を拭い、気力を振り絞り立ち上がった。
自転車は、ホイールがひしゃげ、とてもではないが走ることはできなさそうだ。
自転車を端に寄せ、痛みの収まらない肩を抑え歩き出した。
結局、コテージに辿り着いたのは家を出て一時間ほど経ってからだった。太陽が真上から、少しだけ西の方に傾いている。おそらく、決戦まで数時間を切っているだろう。
自転車で転倒した時には気がつかなかったが、足も挫いていたようで、足首もズキズキと痛みだしていた。そんな足で途中の森の中を歩いたので、切り傷や擦り傷がいくつもできていた。
森が終わりコテージの敷地内に入ったところで、いつもの厚い空気の層を通り抜けた感触がした。結界を通り抜けたのだ。
空気が急に軽くなり、刺すような日差しも柔らかいものに変わっていた。涼しい風が体を包み込み、吹き出した汗も引いていくのがわかる。
激しい動悸と呼吸を整えコテージの方を見る。薄いグリーンの上品な色合いの屋根に、木造の建物がよく似合う。
いつもと変わらない建物の、二階のバルコニーに譲二さんの姿が見えた。木で出来た柵に寄りかかり、空を仰いでいる。口元は何かを咥えているのが見えるが、ここからではよくわからない。
……ここまで来てしまった。おそらく、譲二さんは俺がここに来ることを、良くは思わないだろう。俺は部外者なのだ。足手まといが戦場に来てしまったら迷惑極まりない。
……しかし、今回は引く訳にはいかない。絶対に……。
これは俺の戦いだ。
「譲二さん!」
俺はバルコニーにいる譲二さんに声を掛けた。譲二さんは自分の名前を呼ばれたのに驚き、周りを見回していたが、視線を下に降ろすと、俺に気がついた。
「浩介くん? 一体どうしたんですか?」
譲二さんは両手を柵に付いて、身を乗り出していた。俺の雰囲気にただならぬ物を感じ取ったようだ。
「譲二さん! 話があります!」
「とにかく上がってきてください」
俺は、コテージに入り、二階の階段を重い足取りで登っていった。
二階は壁のほとんどがガラス張りになっており、開放的な空間になっている。隅の方にバルコニーへと出る扉があり、そこで譲二さんが心配そうな顔をこちらへ向けている。
俺は、扉を開けバルコニーに出た。譲二さんの表情はあくまで俺を心配したものであり、それ以外の感情は読み取れない。
「……! 浩介くん! 怪我をしているじゃないですか! そこに座って待っていてください。いま傷薬を持ってきますから」
譲二さんはそう言いながら、慌てて一階へ降りていった。
バルコニーには、銀色のアルミのテーブルが置いてあり、隣にはアイボリーの日傘が立ててあった。周りには四脚の椅子が置いてある。そのとなりには、腰くらいの高さの灰皿がおいてあった。灰皿には火の着いた煙草が煙をくゆらせている。
譲二さんが煙草を吸うとは知らなかった。
……そうだ。俺は譲二さんのことは何も知らないんだ。ちょっと変態なところもあるけど、いつも優しく、頼れる大人だ。しかし、私財を投じてグロウと戦っている理由を俺は知らない。
すぐに譲二さんは戻ってきた。包帯や消毒薬、バンドエイドなどを持ち、「これを使ってください」と、差し出してきた。
「一体どうしたんですか? 正直……ここにはもう戻ってこないと思っていました」
と、言いながら灰皿に残った煙草に手を伸ばし、口につけた。チリチリと煙草の先が灰になり、譲二さんは、顔を上に向け煙を吐き出した。
「煙草……。吸われるんですね」
俺は譲二さんから受け取った、消毒液を腕の傷に塗りながら答えた。
「ああ。これは失礼しました」
と言いながら、煙草を灰皿に押し付けた。
「……普段は吸いませんけどね。こういう時だけです」
こういう時……。と言うのはグロウとの戦いのことだろう。
しかし、今はそんな詮索は無用だ。とにかく今俺ができることは。みんなの命を救う手段は……。
俺は塗っていた傷薬を机に置き、椅子から降りた。地面に膝と両手を突き、頭を垂れる。譲二さんは俺の予想外の行動に、最初はあっけにとられた顔をしていたが、次第に驚き、困惑したような表情を作った。
「浩介くん! 何をしているんですか? 頭を上げてください」
譲二さんは、俺の腕を掴み体を起こそうとするが、それに抵抗し頭を下げたままで思いの丈をぶちまける。
「……お願いします。もうあのグロウとは戦わないでください。お願いします」
譲二さんは、すべてを察しているようだった。俺から手を離し、片膝を付いて同じ目線で話し始めた。
「それは叶いません。あのグロウは強大な力を持っています。あのまま放置しておけば、必ず誰かを喰い、その生命までも消し去ってしまうでしょう」
「…………そんなの別にいいじゃないですか」
「え……」
声が震えた。俺は今、みんなの存在意義を否定することを言ったのだ。しかし、感情の暴発を抑えることはできない。
「だって! 死ぬのは俺達とは全く関係ない人でしょ! 会ったこともない、顔も知らない人が一人死んだところで、俺達は痛くも痒くもないですよ! ……でも、このまま戦ったらみんな死んでしまう……。そんなの俺は耐え切れない!」
言ってしまった……。姉ちゃんや綾乃、譲二さんはそれを知りながら命を掛けて戦おうとしているのだ。罵倒されても仕方ない。けなされても仕方ない。たとえ今の関係がなくなってしまっても俺はみんなの命を救いたい。
しばしの沈黙。おそらく譲二さんは俺に対して失望していることだろう。
目に熱いものが溜まっていくのがわかる。嗚咽が止まらない。
……そんな俺に、譲二さんは優しく肩に手をおいた。大きく温かい手。自責の念に囚われていた俺の心の鎖をほどいていくようだった。
「辛かったでしょう……。そんなに自分を責めないでください」
俺を罵倒するわけでもなく、非難の目を向けるわけでもない。その目はいつもと同じ優しい眼差しで俺を見ていた。
「浩介くんは、私たちが正義の味方に見えますか?」
「……みんなそのために戦っているんじゃ……?」
譲二さんはゆっくりと左右に首を振った。
「私たちもね……。命を掛ける戦いなんて避けたいんですよ。当たり前のことです。誰だって死にたくはないですからね」
俺は何も言えなかった。
「本当に人助けをしたいのなら、世界にはもっと助けを待っている人が大勢居ます。貧困や戦争。今日の食事もままならない人もたくさん居ます。本当の正義の味方であれば、自分のことは二の次で困っている人のところへ向かえばいいのです。……でもそれを出来る人は殆ど居ません。……なぜなら人は皆、自分自身が可愛いのですからね」
譲二さんは自虐するように言った。
「もちろん私自身もそうです。命を掛けるということを躊躇ってしまうのです」
じゃあ、なぜ……? という言葉が口から出そうになった。
「でもね。浩介くん……。命を掛けても守りたいと思えることもあるんですよ」
その時、階下で物音がした。階段を勢い良く駆け上がってくる気配がした。
「浩介!」
姉ちゃんがテラスの扉を勢い良く開け、バルコニーに入ってきた。息も絶え絶えになりながら俺を見るなり、逃がさないと言わんばかりに抱きつかれた。
「……っ! 浩介。やっと見つけた……! いきなり出て行っちゃったから……。本当に無事でよかった」
姉ちゃんは言葉に詰まりながら、か細い声でそう言った。姉ちゃんの後ろには綾乃もいる。手で口を抑え、目には大粒の涙をこしらえている。
「姉ちゃん……」
姉ちゃんはしばしの間、俺を力強く俺を抱きしめていたが、次第に力を緩め手を握った。先ほどとはうって変わって、柔らかく握ってはいたがその手からは、離さないという雰囲気が現れていた。
「浩介。お前に話したいことがある……。聞いてくれるか?」
俺は小さく頷いた。姉ちゃんの俺を見る顔が少しだけ陰った。




