十七話 死闘
譲二さんは、すぐグロウの方に視線を戻し、綾乃のアシストを受けた体を空中のグロウに向けて飛翔させた。
譲二さんは、一瞬で上空のグロウにまで達し、その拳を脳天にたたきつけた。グロウは凄まじいスピードで地面に叩きつけられた。グロウの手足は妙な角度でねじ曲がり、とても生きてはいないように感じられた。
――その時、俺はグロウと目があった。爬虫類のような、双眸の奥。怪しく目が光ったと思った瞬間。すさまじい空気の破裂音がした。
グロウは折れ曲がった関節を気にも止めず、地面と水平に俺の方に飛んできた。一瞬見えたその醜い顔にある口元は、大きく緩んでいた。
結界がグロウの疾走を阻んだ。グロウは結界の壁に張り付くような形で動きを止めた。
「……!」
俺は声にならない悲鳴を上げた。
グロウは訳がわからないと言った様子で、目の前にある結界を撫でるように触っていた。次第にかんしゃくを起こし、キバをむき出し狂ったように、鋭い爪をを結界に叩きつけている。
グロウは怒り狂って、結界を破ろうとしている時も、俺を射抜くように目を向けていた。口を裂けるほどに大きく開け、するどいキバを結界に食い込ませている。口内からは紫色の舌が俺を求めるように伸びている。濃い緑色の唾液があたりに飛び散る。
俺は頭のなかが真っ白になり、グロウを見据えていた。
恐ろしい。今までに経験がない恐怖を体験しながらも、俺はその怪物から視線を逸らすことができないでいた。
時が止まったかのように思われた。時間を動かしたのはいつの間にかグロウの後ろにいた譲二さんだった。
「こらこら、相手を間違えてはいませんか?」
発せられた言葉は穏やかながらも、グロウの肩を掴んだ手にはすさまじい力が込められているようだった。譲二さんの指の一本一本がグロウの肩に食い込んでいる。
――それは一瞬の出来事だった。
グロウは体をこちらに固定しつつ、だらりと垂れた腕を、本来曲がるはずのない方向へ――振り上げた。空気を切る音が聞こえた。
譲二さんの目が大きく見開き、表情が強張る。
譲二さんはグロウから手を離したようだった。グロウの肩には譲二さんの手は触れていない。
俺の視線の先には、何か棒状のものが放物線を描き、姉ちゃんの側に鈍い音を立てて落ちた。
姉ちゃんは、足の力が抜けたように、その場にペタンと尻もちを付いている。
それは、譲二さんの腕だった。
譲二さんに視線を戻すと……肩から先が――無かった。
譲二さんは、残った腕で反対側の脇を締め、倒れることなくグロウから視線をそらさないでいた。
なくなった腕の代わりに、おびただしいほどの血液が流れ、地面を朱に染め上げている。譲二さんの顔は脂汗が、いくつも小さな玉を作っており、浅い呼吸を繰り返していた。
これは悪い夢なんだと思った。
いつもの譲二さんだったら、綾乃の力のアシストで、一瞬で数体のグロウを屠ることができる。その際、多少のキズをおうことはあっても、姉ちゃんが瞬時に癒してくれている。
こんなことはありえない。ありえないはずなんだ。
そんな、甘い妄想を打ち砕くようにグロウが、口を大きく開け鳴いた。
「ピギエエエエエエエエエ!」
頭の芯が震えるような咆哮。全身に鳥肌が立ち震えも止まらない。絶対に人間では太刀打ち出来ない相手だと瞬時に理解した。
グロウはひとしきり鳴いたあと、譲二さんの方へ向き直し、バランスの悪い、短い足で譲二さんの胸を蹴った。
譲二さんの体は、まるで水切りの石のように、地面を何回も跳ね十メートルほど吹き飛ばされた。
その時だった。吹き飛ばされた譲二さんの前に綾乃が立ちふさがった。ようやく、俺の情けない頭は雀の涙ほどの冷静さを取り戻した。「綾乃!」と叫ぶが、綾乃の耳には届いていないようだった。
綾乃の体から淡い光がほとばしっている。周囲には風が起こり、綾乃の衣服や美しい髪の毛をはためかせている。綾乃が両腕をグロウの方に向け、周囲に巻き起こった風と光を集め……。
「綾乃さん! ダメです! 一度にそんな力を放出してしまっては!」
譲二さんが絞りだすように声を出した。
「でも……! こうしないと……。みんな死んじゃう!」
綾乃の叫びとともに、体全体から激しい光が放出された。クリアブルーの光は大きな壁となり、グロウに向かっていった。
金属同士が、猛スピードでぶつかり合ったような激しい衝突音。グロウは短く「ギっ!」と鳴いた。衝突した光の壁はそのまま、グロウを包み込み動きを封じた。グロウは暫くもがいていたが、急に観念したかのように動きを止めた。光の壁はバレーボールほどの球体となり、完全にグロウを封じ込めたようだった。そのまま、重力に引き寄せられ、地面に落ちた。
……静寂。
数秒の事だったと思う。綾乃は少しばかりの笑顔を俺に向け、糸の切れた操り人形のようにその場に倒れた。
――と、同時に俺の目の前にある、結界が消えた。
「綾乃!」
俺は叫び、綾乃の所に向かおうとした。しかし、足は震え、うまく走ることができない。情けない足に、思い切り平手を打った。
力の入らない足を、無理やり動かし、倒れた綾乃の方に近づく。譲二さんがかすれた声で「綾乃さんを……」とだけ言った。
「綾乃!」
綾乃を抱きかかえ、体を揺らす。体が火のように熱い。……が、その小さな口からは、ゆっくりながらも呼吸を繰り返していた。よかった。本当に……。
譲二さんは、俺の表情を見て察したのか、小さく安堵のため息を漏らした。
譲二さんはゆっくりと立ち上がり、自分の切り取られた腕を拾った。
「椿さん……」
とだけ言い、姉ちゃんの方に目を向ける。
姉ちゃんは、非ぬ方に視線を向け、放心していた。譲二さんがゆっくりと近づき、もう一度姉ちゃんに声をかけた。
「やだ。やだ。やだ。イヤダ。いやだよぉ……」
と消え入りそうな声で、繰り返しつぶやいていた。
「姉ちゃん! 譲二さんのキズを直してくれ! 譲二さん死んじゃうよ!」
譲二さんの顔は赤みが消え、死人のようだった。腕からは今もおびただしい血が流れあたりに血だまりを作っている。
「姉ちゃん!」
譲二さんは、姉ちゃんの視線の方に回りこみ、優しく肩に手を置いた。
「大丈夫ですか? 椿さん。怖かったですね。でも、もう心配しなくてもいいですよ」
譲二さんはいつもと同じように振る舞った。すさまじい精神力だ。
「私の目をしっかり見てください。椿さんの力が必要です。私のキズを癒してはくれませんか?」
姉ちゃんは定まっていなかった視線を、譲二さんに合わせた。みるみるうちに姉ちゃんの目には涙が溜まっていった。
「譲二さん……。私……私、こんなキズ直せない……」
「おやおや? いつもの椿さんならそんなことは言いませんよ?」
姉ちゃんの目から、大粒の涙がいくつもこぼれた。
「大丈夫。自分に自信を持ってください。椿さんなら必ずできますよ」
「……うん。やってみる」
譲二さんがニコリと微笑んだ。まるで父親が娘に諭すような表情だった。
姉ちゃんは、震える手で譲二さんの切り離された腕を持った。そのまま傷口に持っていく。譲二さんが頭を上げ、痛みに耐えている。その姿を見て、ゴトリと腕を地面に落としてしまった。
「ご……ごめんなさい!」
いつもの姉ちゃんはなりを潜め、怯えた子供のようだった。もう一度、腕を持ち上げ再度、傷口にあてがい、手で切断面を覆った。
「大丈夫。焦らずにもう一度やってみましょう」
姉ちゃんが目を閉じ、口を真一文字に結んだ。次第に姉ちゃんの体は乳白色の光に包まれた。その淡い光は姉ちゃんの腕を通り手に集まった。
次第に、譲二さんの腕からの流血は止まった。姉ちゃんが恐る恐る手を離した。皮膚は完全にくっつき、切断されていたとは思えないほどだった。
譲二さんは切断された腕をみつめ、伸ばし何度も拳を握ったり、開いたりを繰り返した。
「ありがとうございます。椿さんは本当に素晴らしいヒーラーです」
譲二さんは目を細め、満面の笑みで答えた。
「……っ、ひぐっ……。うええええええん!」
姉ちゃんは子供のように、譲二さんの胸に顔をうずめ、脇目も振らずに泣いた。
「……あっはは……。私の血で服を汚してしまいますよ」
そう言いながらも、譲二さんは直した方の手で、姉ちゃんの頭をなでた。
「本当に、こんな状況でなかったら夢のようなんですけどねぇ……」
譲二さんはグロウを閉じ込めている球体の方に目を向けた。
いつの間にか、日は沈み、あたりは暗闇になろうとしていた。一日晴れだと思っていたが、しとしとと雨も降り始めていた。




