十六話 拭えぬ恐怖
「数日前から、妙な動きを見せるグロウに気が付きましてね」
そう言いながら、譲二さんは車のハンドルを左に切った。
「通常であれば、あのコテージの方に引き寄せられていくはずなんですが、来る気配がありません。どうにも今回のグロウは動きが読めませんね。何かを探しているようにも見受けられます。そこまでの知能はないはずなんですが……」
俺達は自転車を学校においたままで、譲二さんの車に乗り込んでいた。車内に飾り気はなく、黒系の色で統一されている。俺が座った助手席のシートはフカフカで座り心地が良い。後部座席に目を向けると、綾乃が少し心配そうな顔をしながら外を見ている。
「本当は、私一人でなんとかしようと思ったんですけどね。ちょっと気になるところもありましてね。今日はお休みだったのに、申し訳ありません」
「いえ……。そんな。それでそのグロウは今どこに?」
「ここから五分位の所に今は使われていない、廃工場があります。今はそこにいます。椿さんにも先ほど電話をして、来ていただくことになりました」
「そうですか……」
声がかすれる。自分でも不思議に思う。このグロウに対する恐怖心は何なんだろう?
「このグロウは生まれてから五年以上立っている恐れがあります。通常二年ほどで成体になり、人を襲うはずなんですが……」
「五年……」
綾乃がつぶやいた。
「そんなことがあるんですか?」
以前聞いていた話とは違う。
「我々はグロウが人を襲う際に発生させる『匂い』を感知することができます。通常、成体になったグロウはすぐさま人を襲いますが、まれに成体になっても人を襲わず、そのまま成長を続ける個体も確認しています」
「強いんですか?」
「ええ、通常のグロウよりは能力が上になりますが、五年程度であれば私たち三人で戦えば恐れることはありませんよ」
譲二さんは落ち着いた口調でそう言った。
譲二さんの運転する車は、脇の小道に入っていった。道の手入れはあまりされていないらしく、ところどころアスファルトが剥がれていたり、突起した箇所があったりと、長年人が出入りしていないことが伺える。
徐行しながら数十メートル進み、右に曲がると、ぽっかりと大きめの広場が見えてきた。雑木林を背にしたその広場には、すでに腐ってしまった木材や、ナンバープレートがもぎ取られたワンボックスカーがうち捨てられていた。
広場の隅の方には、壁や屋根がトタンで作られた建物が佇んでいた。
しかし、長年使われている様子はなく、所々錆びている箇所が目立っている。壁も剥がれ落ちているところがあり、屋根に至っては半分ほど剥がれ落ち、その用途を果たしてはいない。
太陽はまだ沈んではいないが、その一帯だけはやけに暗く感じる。
人に捨てられてしまったであろうトタンの建物の隅に、きれいな薄いブルーの車が目に入った。姉ちゃんの車だ。
俺達の到着に気がついた姉ちゃんは、すぐに降りて来た。俺達もすぐに車から降り、姉ちゃんの所に近づいていった。
姉ちゃんは、七分丈のジーンズに白いTシャツだけというラフな格好だった。
「おお、綾乃。デートはどうだった?」
開口一番、ニヤニヤしながらそんなことを言ってきた。
綾乃も負けんばかりの笑顔で、買ってきたばかりのワンピースを袋から取り出し、自分の体の前に出した。
「ジャーン。買っちゃった」
「前欲しいと言ってた服だな。ふむふむ、綾乃によく似合いそうだ」
「えへへ、ありがとう」
「それで、浩介には、何を食べさせてもらったんだ?」
「それがね、浩介ったらね……」
「そうなのか、全くあいつは……」
「うんうん……、それでね……」
姉ちゃんと綾乃は、ヒソヒソ話を始めている。何か俺のことを言われているような気がするけど……。でも、いつもと変わらない表情の姉ちゃんと綾乃を見ていたら、少し気が楽になった。
「よし、では早速グロウをやっつけてしまいましょう。なんだか天気も悪くなってきましたからね」
ふと、空を見上げると、薄いグレーの雲が青空を塗りつぶしていた。湿った風も吹いてきており、いつ雨が降ってもおかしくない。
「今回のグロウは、生後、推定五年は経っています。気を抜かなければ大した相手ではありません。気を引き締めて行きましょう」
姉ちゃんと綾乃が「ハイ!」とよく通る声で返事をした。なんだかんだ言っても譲二さんを上司として信頼しているのだろう。
「あの建物の中にグロウがいますね」
と譲二さんが言い、朽ち果てつつあるトタンの建物の中に入っていった。それに続き、姉ちゃんと綾乃も建物の中に入っていく。
「浩介くんはそこまでです」
譲二さんが振り向き言った。
「今回のグロウはいつもとは違います。結界の外で見守っていてください」
俺は一体、何で呼ばれたのだろうか? という疑問が生まれる。グロウとの戦いの時は何もできない。力が無いからしょうがないのかもしれないけど、疎外感は拭えない。
入り口の手前で立ち止まり、中を見る。入り口の部分はかなり壊れており、中の様子がよく見える。
譲二さんが建物の中央付近で立ち止まり、両手を上げた。青白い光が手に集中する。そのまま光を湛えた手を下に振り下ろした。光が弾け、広がる。それは俺の目の前まで広がり結界を生成した。以前見た綾乃の結界の貼り方よりもスマートで、経験の差が伺える。
――その時。ピキィィィィィ、と言う笛が壊れたような音が聞こえてきた。いつもグロウが現れる直前のあの不快な音だ。
しかし、今回はいつもとは違った。
いつまでも、頭のなかで鳴り響き、耳を塞いでもその音は大きくなるばかりだ。頭をかき回されるような感触に耐え、前を見るとすでにグロウが上空に姿を表していた。
筋肉の盛り上がったヘドロのような色の体。妙にバランスの悪い手足。ハゲタカのような顔に付いている、二つの瞳。いつもと大きく違いはないグロウの姿がそこにあった。ただ、その双眸から発せられる、不気味な目の輝きだけはいつもと違う気がした。
その姿を見た途端、俺の体は強烈な寒さに襲われた。脊髄に直接、氷の棒を突っ込まれたような感じがした。
その感触に耐えることができず、俺は、そのまま地面に膝を落とした。その異様な光景に姉ちゃんが気付き声を上げた。
「譲二さん! 浩介の様子が!」
譲二さんがこちらを向き、目を大きく開いた。綾乃も「浩介!」と声をあげる。
何なんだ……。この感じ。怖い。怖い。寒い……。体の内部から何者かに蝕まれていくこの感触は……。




