第38話「孤影悄然のまる10:ひとりで歩む」
瓦礫に向かって落ちてしまったまるの安否は?
佳境に向かう21世紀編です。
(承前)
まるは落下直後、すぐに空中で体勢を安定させた、しかし、下を見ると、折れて先の尖った木材や朽ちた鉄筋コンクリートから突き出した鋼材がこちらを狙っている。あそこに着地したらひとたまりもない。
<ああもう、こんな馬鹿な死に方は嫌っ!>
彼女は落下の刹那に思った。
落下の数秒が彼女には凄く凄く長い時間に感じた。
自由落下、その間は疑似的に無重力と同じになる。まるは無重力は好きだった。彼女の生きる場所を実感させるからである。でも長時間無重力環境に居ると、時々強制運動させられるのが難点だとも思っていた。水を思うように飲めないのも嫌だ。人間みたいに口をすぼめて吸い込めればいいのだが、猫は下で巻き取った水を「食べる」から、無重力下で表面張力で固まりになった水は嚥下しにくいのだ。でも、本当に落ちている最中はまるで暴風の中。空気が重い。四肢を広げるとそれだけで、軽いまるの体の落ちる速度にはブレーキがかかる。だがそれでも、落ちる場所は変わらない。焼け石に水だ。
<ああ、真下に尖った木材が有る、ダメだ、あそこに落ちちゃうのか>
子供のころからの事が頭に浮かぶ。
<やめてよ、走馬燈なんて冗談じゃない。ああ、どうしよう。何かロープでも持っていたら……。持っていたって猫のこの手で何をしようと言いうの?>
だんだん混乱して来た。
<土岐さん有難う。……いや、そうじゃない……副長、みんな、御免>
考えがマイナスになって来たので慌てて振り飛ばす。
<待って、待ってよ、身体の体勢を変えれば或いは助かるかも。……ダメ、そんなに都合よくは避けられない>
抗う事が出来ないことが刻々襲いかかる。
<いやだ。私は抗い続けてきた、この程度の事で諦めるもんか>
ここまでの思考で、彼女は、時間の流れを遅く感じ始めていた。彼女の知性を支える、脊椎内のインプラント・ユニットが、緊急時動作に切り替わったせいでもあったろうか。
<本当に遅くなっているの? 今通信を入れられれば……。前脚が重い、ろくに動かない。もどかしい。なんでこんなことになったのかな。そうだ、阿於芽だ。あの馬鹿が無茶をして変なところを歩くから。
でも、彼が歩いていたところは安全だったのか。見かけで判断してしまっていたのかな。私の馬鹿。阿於芽の馬鹿。こんなことになったのは羽賀さんがこんな時代に私たちを送り出したから。羽賀さんの馬鹿。そして、事の発端を作った織田の馬鹿。でも、織田を怒らせたのは私か。やっぱり私の馬鹿>
まるは自己嫌悪を感じた。
<馬鹿馬鹿馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿>
何度言っても悔しさは消えない。もうどうにもならない。私は落ちてあそこに到達する。でも、でも、言わずにいられない。
「馬鹿―っ!」
まるは落ちながら叫んでいた。
§
台風接近の一報を聞いて、矢田は仕事中に心配していた。
書類を作成しながらボーっとしていたので、おかしな文章を書いている。
「dじいdじょjぴlpぃdじょ」
横から小坂は書類を覗き込んで顔をしかめ、暫く考えてから云った。
「矢田さん」
「え、あ、はい」
「キーボード、指が1文字分右にずれてるよ」
「SHUUSHIHOUKOKUSHO=収支報告書」と打とうとして、「DJIIDJOJPILPLIDJP」と、一文字分右のキーを叩いていたのだ。矢田はしばらく考えてからタイプミスを消して、パタパタとキーをたたいた。
「まるの事が気になるのかな」
「……ええ、スーパー台風っていうのが来てるみたいだけど、幸い日本には近付かないみたい。でも、天候は荒れますし。宇宙船の打ち上げをするって、やっぱり天候に左右されるのかなって」
「まあ、あの子はしっかりしてるし、仲間も一杯居るし。きっと大丈夫だよ」
「そうですね。……でも私、あの子が初めてここに来た日の事を思い出したりするんですよ」
小坂は手を止めて上を見た。
「まるは、独りぼっちで八王子の駅まで来て、駅前をウロウロしていたよなあ。この世界の事もよく知らないのに、よく移動したりできたなと思う。意志の強い猫だよ」
矢田は視線を下に落とし、それから小坂の方を向いて寂しそうに笑う。
「何だか不安なんです。今あの子が、やっぱり一人で何か辛いことに遭って、それでも一人で踏ん張っているような」
小坂は少し困ったような顔で答える。
「まあ、あの人……じゃない、あの猫は強い猫だから。だいたい、僕らより全然年上なんだろ?」
「そうでしたっけ?」
「日誌みたいなのをSNSに書いてたけど、そこに100歳越えているとかなんとか……。多分あれは真実かもって思ったよ」
「うわぁ。じゃあ、『あの子』とか、『まるちゃん』なんて失礼だったのかな」
「本猫が特に苦言を呈していないから、良いのじゃないかな。まるは問題だと思ったらはっきり言うと思う」
矢田は再び下を向いた。
「また、顔を出してくれ……ますよね?」
「戻ってくる、って、彼女が行ったのなら、必ず来るさ」
「ええ。そうですね」
二人は無言になり、それから自分たちの仕事に戻っていった。
§
がくんっ。
まるは強い衝撃を感じた。両前足の付け根、両後足の足先、腰がぎゅっとした。そしてブンッ、っと振り回されるような感覚。
彼女は反射的に目をつぶっていた。
<……>
まるはそのまま体を固くしていた。もう自分の体は瓦礫に突き刺さっている物だと思っていた。それにしては何というか、怪我をしたというより、閉めつけられている感じがする。
<…………?>
「勘弁してくれよ~」
阿於芽の声だ。
まるが目を開けると、すぐ下は瓦礫の山だった。
まるの体は今、瓦礫の上に宙吊りになっていた。彼女を支えているのは肉質のロープの様な素材で、前脚、後脚、腰など身体にぐるぐると巻き付いている。素材を辿って上を見ると、そこには阿於芽の前脚が有った。まるはどう返事をしていいか、ちょっと思案したが、結局、当たり障りのない言葉しか出てこなかった。
「あ、ありがとう」
阿於芽はそのまま指から伸びた触手をずるずると縮めると、まるを引きずり上げた。
「僕が普通の猫だったら死んでるよ?」
「……そうね、少し軽率に過ぎたわ」
言われてみれば、阿於芽は猫であって猫ではなかった。軽率な行動、尊大で子供っぽい言い回し。どれくらいが計算されたもので、どれくらいが彼の素なんだろう。
「なにじっと見てるのさ。さっきの叫び声を聞きつけられて、人が来たりしたら拙いよ。さっさと〈川根焙じ・改〉を回収して帰ろう」
阿於芽の言葉に、ただ頷いてまるは従った。
<私は、どれくらいの事を表面だけ見て判断しているんだろう。何をどれくらい分かっているんだろう……>
その問いには、直ぐには答えは出なかった。
§
〈川根焙じ・改〉に乗り込んだ後は、そのまま〈ブルボン・ピーベリー〉の傍まで行って、サルベージ用のケーブルを設置したら、後は潜水して、一路〈コピ・ルアック〉に戻れば良い筈だった。だが、〈ブルボン・ピーベリー〉に到達した後、まるはちょっと考えて、行動を変える旨を阿於芽にだけ伝えて、再び〈ブルボン・ピーベリー〉に乗って、単独である場所に向かった。
知らせを受けて、〈コピ・ルアック〉船内では動揺が走っていた。
「で、船長がどこに向かったかは?」
「聞いてないよ。むしろそっちが何か知っているんじゃないかと思った位で」
この件に関しては阿於芽も面食らった感じだった。
「船長……一体何処へ」
ラファエルは心配だった。
〈ブルボン・ピーベリー〉の海上での速度はそう早くはない。せいぜい25ノット(時速約46キロ)出せればいい方である。まるは単独で長崎の本土に向かってた。辺りはもう日が暮れ、陸地には明かりが見えていた。地図を見ながら島々を迂回し、長崎港へと向かう。
<羽賀氏はこの時代に私達を隔離したのは、「何かを得て」帰る事になるからだと言った。じゃあ、私は何かを得た?>
まるは自問自答したが、答えは出なかった。人と一緒に居て活動していると見えてくるものもある。が、時として、一人で考えなければ答えが出ないこともある。彼女は今、自分の内面にある壁にぶつかっていた。
波止場について、ひと目につかないように上陸する。
その後、物陰で人型プローブを装着する。小型艇と、中のFERISの一部……「ふぇりす」はまだしっかり活動しているらしく、ちゃんと装着できる。
「という事は、私の行動は阿於芽には把握できるわけか」
暫く考えて、人型プローブを解除した。人の姿になれるのは良いが、今はだれにも把握されたくない。まるは一度〈ブルボン・ピーベリー〉に戻り、阿於芽から預かった通信機と、ヘッドセットも外した。マニピュレーショングローブも、シークレットポーチも外して、何もない猫になって、再び上陸した。
<もう一度、何もない所からやってみよう>
まるは思い立つと、そのまま長崎の街を目指した。
§
途中、路面電車に便乗したり、様々な方法で街に急いだ。
長崎の街には、猫がいっぱいいた。
見慣れぬまるに、彼らは少なからず警戒し、縄張りを冒したと喧嘩を吹っ掛けられる場合もあった。まるは出来る限り争いを避け、避けられない時は逃げた。自分でも、自分が何をしたいのかよく分からなかった。
でも、船の仲間たちや、そのほかの物に助けを借りてはいけない。これは自分だけで見つけ出すことなんだと思って、街を歩き続けた。
<自分は何者なんだろう>
まるはずっと考え続けた。彼女は土岐氏の飼い猫だった。それをあの事故が変えた。でもそれだけ?
まる以外の普通の猫は、なぜ知性化出来ないのか。ピンインと阿於芽は?
まる自身はそれを不思議にも思ったし、実際、あの奇跡の事故から帰還した時には何度も精密検査を受けた。しかし、知性化によってもたらされた恩恵以外には、まるに他の猫との差異は見つからなかった。
ピンインはオセロットだ。イエネコの雄が知性化出来ないのは、体力的に持たないからだとされた。大型の山猫であるピンインはそこをクリアしたのだ。しかし、それだけだろうか。阿於芽は異星人とのシンクロ因子があった。
都合が良すぎないか?
分からない事がいっぱいあった。
むしろ、分かっていることや知っていることなんてほんの一握りでしかない。
<こんな状態で、どうやって事態を収拾するキーを見つけられるのよ……>
まるは歩き続けた。自分(というより、マルティナ)と織田氏との関係、自分とクルーたちの関係、自分と異星人の関係、自分と阿於芽や羽賀氏との関係、関わり合う人達と自分の関係。
多分、柄にもない大人な対応なんて求められているとは思えない。私は特殊だ。なぜ特殊なのかは今は答えが出ないけれど、この特殊な「知性化された猫で、多くの人と絡んでいる」という立場が、事態が変わる糸口になっているのはほぼ間違いない。羽賀氏すら分からないというそれは一体何だろう。
歩き続けていると、路地からか細い鳴き声が聞こえた。仔猫? 母を求めて泣き続けるその声は、まるの心の中に深く眠っていた猫の母性を刺激した。
だが、路地をのぞき込むんでも、暗くてよく分からない。、まるはそろりそろりと路地に入る。暗い路地の地面はじめじめとしていて、ごみが散乱している。それに臭い。こんなところに仔猫が?
路地の奥に進んでいくと、ビルの下の通気口の金網が外れている。鳴き声はそこから聞こえた。
<どこにいるのかしら?>
じっと覗いていると、瞳孔が細くなって暗闇が覗けるようになった。何やら襤褸切れを集めたようなこんもりした塊があり、そこから仔猫の声がする。まるは躊躇した。母性に突き動かされて覗き込みはしたけれど、この奥に入るのはとてもリスキーだ。何かあった場合に、狭くて逃げる術がない。
だが、その時、背後から恐ろしい声がした。
「バウッ、バウッ!」
振り返るとそこには、薄汚れてあばらの見えている犬。目が血走っている。多分野良だ。仔猫の声に、獲物を求めてやってきたか。仔猫は犬の声に反応してびくっと声を潜めた。
<まずいな……通気口くらい、この犬なら楽に通れそう。大体、私がこの場を切り抜ける手段が……>
あたりを見回したが、壁はよじ登れそうにない。犬の脇をすり抜けることも考えたが、リスクが大きすぎる。仔猫は……何匹いるんだろう。声がするのは一匹だけだ。もし一匹なら、咥えて逃げられるか。まるは考えをめぐらした。
<悩んでいる暇はないわね>
まるは通気口からなかに飛び込んだ。犬もその後を追う。襤褸切れの山の中には3匹の仔猫。……違う、息があるのは一匹だけだ。親が去ってから数日が経ったのだろうか。何かの事情で帰ってくることができなかったのか、育児放棄か……。とにかく悩んでいる暇はない。まるは生きている仔猫を咥えて、犬の追撃から逃げた。仔猫からは饐えた臭いがする。そういう物に慣れていないまるは吐き気がした。でも咥えた口は離さなかった。
意地でも守る。
まるは走った。背後からは犬の荒い息と、爪で地面をけるガツガツという音がやってくる。犬が通れそうにない場所は二つ。細い道と高い場所だ。細い道は、中に入っている最中に襲われそうだ。何とかして高い場所を探さなければ。
<私、何やってるんだろ>
ふと醒めた考えがまるの頭をよぎる。駄目だ、今は逃げることに集中しなければ。仔猫も見捨てておけない。通気口から入った床下をめくら滅法に走っているうちに、明かりが見えてきた。床の上に抜けられそうだ。高さは80cmほど。仔猫を咥えて、ぎりぎり飛び上がって上がれそうな距離ではある。
<えい、ままよ!>
まるはジャンプして、明かりの差し込んでいる場所に飛び上った。
§
犬は下でガウガウと吠えている。追ってくる気配はない。やがて犬は諦めて帰って行った。……奴は残されている二匹の仔猫の亡骸を思い出したのだろう。
ふと思い出して、咥えていた仔猫を床にそっと置いた。仔猫は淡い茶虎で、尻尾は短め。顔は目やにと血の混じった鼻水で汚れ捲っている。全身もずいぶん汚いし、ガリガリに痩せている。まるが咥えて走って逃げたときに振り回した所為か、少し首筋に血がにじんでいた。当の仔猫は茫然自失とした表情で固まって動けずにいる。
見ず知らずの赤の他人の仔だ。小汚いと言ってもいい野良の子供だ。
危険を冒してまでこの子を助けた自分の動機を暫く考えた。
<道義的なもの? いや、そんなきれいごとを考えている余裕はなかった。見捨てておけなかっただけ>
さてどうやってこの子を清潔にしようか。まるは悩んだ。普通の猫なら舐めて綺麗にするところか。少し考えて却下した。
<流石に私まで病気になっちゃうわ>
見上げると、上は網状になった蓋があり、さらにその上は資材置き場か何かの様で、ぐるりと見回したが誰もいない様だ。蓋を背中で押してみたが、ミシッという手ごたえが有った。多分ネジか何かで止めてあるのだろう。
<下に戻る危険は冒せないしなぁ>
何がミシミシ言っているのか気になったまるは、諦めずに二、三度押してみた。
「ミシ、ミシ、ベキ」
<あ、なんか反応有った>
見上げると、蓋の端っこのネジが馬鹿になっていて折れたようだ。
<ちゃんとメンテナンスしていないと、野生動物とか入ってきちゃうわよ>
等と思いつつ、更に押していると、何とか通れそうな隙間が出来た。
<まずこの子を上に……>
仔猫を咥えて首を出す。そこでまた離し、今度は自分が何とかそこを通り抜けようと力を込めた。
「バキッ」
蓋のネジが2か所完全に外れて一気に通りやすくなる。まるは何とか外に出た。体を見ると蜘蛛の巣やら埃やらで汚れ捲りだ。
<ふぅ、疲れたわ>
そう思うと横になる。
仔猫は不思議そうな表情で、少し首をかしげてこちらを見ている。もう目が開いているが、ほぼ真っ黒な目は、まだよく見えていないことを示している。母と違う猫だという事は、臭いで分かっていると思うが、余り警戒はしていないようだ。恐らく、母以外の大人の猫を見ること自体が初めてなのかもしれない。
「みぃ?」
仔猫が声を発した。
ずきゅうん。
この鳴き声ひと声で「自分が助けた」という事も手伝ってか、その小汚い仔猫が猛烈に可愛く見えた。
「なぁう」
まるは出来る限りやさしく声を掛ける。仔猫は弱々しく立ち上がろうとしたが、体力が残っていないらしく、ふにゃふにゃと頽れる。
<あああっ>
舐めてやりたくて堪らない。しかし理性が邪魔をしてできない。
<ええと。何か拭く物はないのかな>
周りは段ボール箱が積み上げてある。何が入っているんだろう。まるは少し周囲を調べてみることにした。
まるが動くと仔猫はびくっとしてまた固く縮こまる。
<ごめんね、でも今はやれる事をやらないと>
空いている箱が有ったので覗いてみると中はチラシの様だ。
<どこかの会社の倉庫かな……。使えるものはないかしら>
棚をよじ登り、箱に爪を引っ掛けて中身を見る。古い事務用品やら資料が入って居る。仔猫に使えそうなものは見当たらない。
<駄目ね、移動するしかないか>
そう思って、部屋から出るドアを探すと、あった。
ドアノブに飛びかかり、ぶら下がって回す。カチリという音がしてドアは開く。
用心してそこから外を覗くと、暗い廊下が続いている。
<仕方ないわ、とにかくここから仔猫を連れ出して、〈ブルボン・ピーベリー〉まで戻ろう>
震えている仔猫を加えると、まるは廊下を出てそろりそろりと歩き、通用口の傍まで来た。通用口には警備員の詰め所が有ったが、幸いテレビを見ながら食事をしているようだ。こっそりと走り抜け、街に出る。
<ここから〈ブルボン・ピーベリー〉までだいぶあるわね……何か便乗できるものは……〉
ふと見ると、トラックが止まっている、方向はまるが来た港方面を向いている。まあ、同じ方向に向かうとは限らないのだが、運を天に任せてみた。仔猫を咥えたまま、荷台に飛び乗り、書けてあるホロの下に潜り込み、目だけを外に向けた。しばらく待っているとエンジンが掛かってトラックが走り出す。首を出して外を確認してみる。幸い、道は直線路が多く、思惑通り、港にかなり近いところまでトラックは走ってくれた。
信号待ちになった時に、まるは仔猫を咥えてトラックを飛び降りた。そこからはひたすら歩き、やがて〈ブルボン・ピーベリー〉を置いた波止場に辿り着く。
仔猫を咥えたまま中に入ると、ヘッドセットとマニピュレーション・グローブを装着して、簡易洗浄セットと医療キットを取りだす。仔猫に軽く電子麻酔を掛けて眠らせた後、洗浄スプレーを掛け、自分の口も消毒剤で濯ぐ。仔猫の汚れが流れた所で脱水シートで体を拭いてあげた。次に、目や鼻、首に抗菌剤をスプレーする。
「まあ、これで何とか見栄えするくらいには出来たかな」
そこで、ふと自分も汚れまみれなのを思い出して洗浄スプレーを浴び、脱水シートで拭いた。そこで、自分がここに来た理由を思い出して、結局何も得ていないな、と思いつつ、仔猫をこのままには出来ないと判断して、〈コピ・ルアック〉へと進路を取って〈ブルボン・ピーベリー〉を始動した。
§
〈コピ・ルアック〉に戻ると、真っ先にラファエルが飛んできた。
「船長、言いたいことがいっぱいありますが……とにかく、お帰りなさい」
「心配かけてごめんね。……で、ちょっと待ってて」
まるは寝ている仔猫をくるんだ毛布を、〈ブルボン・ピーベリー〉から引っ張り出してきて差し出す。
「この子、拾ってきちゃった」
「……いったい何をしに行ったんですか?」
「いろいろ考えたかったの。薬研さんを呼んで、この子の検疫をしなきゃ」
「あなたもですよ」
「……わかってる」
薬研医師はしかめっ面をしながら仔猫とまるの診察・汚染チェックと、除染を行った。
「まあ、大した病原は保菌していませんでしたが、念のためです。この子は栄養失調を起こしてますね。仔猫用の補助栄養剤を投与しておきました。直ぐ元気になるでしょうから、アレクシアさんにミルクをお願いしておきます」
「ありがとう」
「……船長」
「何?」
「存在意義探しですか?」
「うん……それもあるけど、羽賀氏から、言外に課題を出されていると思ったのよ」
「それぞれの役割、出来ることの再認識と、自分の殻を破るための試練。ですか」
「多分ね。羽賀さん自体がキーを認識していないみたいだから、出来ることは何度かやってみないといけないと思ったのよ」
「それで一人で」
薬研はまるの顔をじっとのぞきこんだ。まるはその緑の目で薬研を見返すと瞬きをした。
「……船長。あなたは一人ですか?」
暫く間をおいて、返した。
「一人だけど、一人じゃない。私には家族がいる。その仔と出会って痛感したわ。私には信頼すべき仲間たちという、かけがえのない家族がいる。手のかかる加藤君みたいな子供もいる」
「一人だけど、とは?」
「私の同族は、結局私だけという事。阿於芽は半ば異星人だし、ピンインはオセロットで、イエネコじゃない。それに二人とも雄だわ」
「確かに、その子は雌ですな」
「あら、茶虎だから雄だと思ってたわ」
そう、三毛がほぼ雌なのと似て、茶虎は雄が圧倒的に多い。
「ちなみに、イエネコの雌性体は知性化成功率が高いです。この子は生後およそ3週。知性化はだいたい生後1カ月くらいから可能です」
「この子を知性化しろと?」
「お望みなら? あなたの様な聡明な個体になる事は期待しにくいですが」
「……考えさせて」
「まあ、時間はあと1週はあります、じっくりどうぞ」
§
夕刻、〈川根焙じ・改〉から取り外された遮蔽装置を取り付けた秋風と渡辺が突貫で仕上げた揚陸艇〈正山小種〉で、彼らは佐世保の宿に戻った。羽賀が増えたが、もともと新穂が借りていた部屋に余裕が有ったので、そのままで宿泊できた。置いて来れないから、と、例の茶虎の仔猫もつれてきた。猫の持ち込みについては、出口さんに予めお話を付けてもらっていた。一番問題だったもう一人の増えた要員。ピンインは……個人用遮蔽装置で姿を隠して付いて来ることになった。
仔猫がちょうど3週間頃で良かった。と、薬研は言っていた。もう少し大きくなると人見知りをするようになるし、もっと小さいと育てるのが困難だからだそうだ。
すでに数人のクルーが仔猫にメロメロになっている。洗って傷が癒えた仔猫は、とてもかわいい外見になっていて、まるが拾った時の小汚い状態は微塵も感じさせなかった。
「船長、この子の名前は?」
ネコスキー代表の定標が早速聞いてくる。
「んー、まだ決めてないのよね、良い名前ないかしら」
「船長がまるなんだから、さんかくとか」
太田が茶々を入れる。
「女の子よ?」
垂髪が驚く。
「へええ、茶虎で女の子ですか」
「ね、珍しいわよね」
仔猫に萌えながら馬鹿話をしつつ飯を食べた後に、また会議が開かれた。
「羽賀さん、未来予測についての情報は?」
ラファエルが尋ねると、羽賀は目をつぶっていつものように淡々と答えた。
「歴史改変度数探知装置のような都合のいい装置が使えればいいのですが、同一時間線ではないので、あくまで確率予測になります」
「で、その確率予測は?」
「まるさんが帰還してから、予測は確かに変わりました」
「おお」
「予測不能になりました」
「え」
まる(マルティナ装備)も、これには変な顔をした。
「私、まぜっかえしちゃったのかしら」
羽賀は珍しく難しい顔をした。
「分かりません、正しい答えなのかもしれないし、より悪くなったのかもしれません」
阿於芽が素っ頓狂な声を出す。
「えー、なんだよ。まるが勝手に単独行動した挙句、どこともわからないところで野良猫拾ってきただけで、未来が変わるっていうの?」
「正確には未来ではなくて、彼らが戻った本来の時間線が、です」
羽賀は平然と答えた。
「どうでもいいよ。何かいい加減すぎない?」
明らかに面白くなさそうだ。
「おそらく、まるさんの内面に何かが生まれかかっているのでしょうね」
「私の?」
そうなのかな。よく分からない。ただ、仔猫に対して感じた思いは、自分が何者なのかという答えに、少しだけ光を当ててくれた気がする。
「まあ、私の結論というと、私は私で、私の代わりは居ない。っていう事かな。そして私の目的はひとつ、仲間を守るってこと」
薬研がこれを聞いて感心する。
「ほほう。自我の強化という奴でしょうかね」
「ん、元から感じていることの再確認なんだけどね」
「充分じゃないでしょうか。船長は船長ですから」
一同が同意する。まあ、むくれている阿於芽を除いてだが。
「一度、東京に戻って、いろいろ整理してくる必要があるわね」
「そうですね。じゃあ各自、今まで居た場所の退去処分をする、という事で、退去が終わり次第〈コピ・ルアック〉に合流ですね」
これには阿於芽も同意した。
だが、会議には加わらないが、オブザーバーとして聞いていた出口さんが、ここで口をはさんだ。
「あの……よろしいですか?」
「ああ、ごめんなさい。変なことに巻き込んでしまって。もう用はなくなっちゃったけど、作り始めた以上、ゲームも完成させないとね」
まるは慌ててフォローする。
「それは良いんです。……私からお願いがあるのですけど」
「何?」
「……私を、あなたたちの世界に、未来に、連れて行って頂けませんか?」
(続く)
次回、長かった21世紀との別れです。