第31話「孤影悄然のまる03:悪魔船長まる」
過去の地球で過ごすまるは、やがて自ら状況を打開するために、様々な手を打ち始めますが…。タイムトラベル編「孤影悄然のまる」第3話です。
(承前)
まるは、殆どの時間をアプリの制作にあてて過ごした。データを作るのは一番苦手としたので、フリー素材を探しまくった。矢田の作ってくれたキータイピング用の手袋は、長時間の作業にも耐えてくれたし、まるが体を支えるために作ってくれたクッションは固すぎず、柔らかすぎず、しっかりと彼女をホールドしてくれた。
矢田がある日帰ってくると、まるはコーディングの途中で寝落ちていて、コードを書いていた画面はaaaaaaaaaaaaaで塗りつぶされていた。
「あんまり根を詰めちゃだめよ」
「にゃっ」
慌てて起きたまるは、余計な入力を消すと、作業を中断した。
まあ、起き続けるための投薬もないし、連日の作業で疲弊していたため、寝落ちは不可避ではあった。
<少し休んだほうが良いかな。でも、もし私以外に過去に飛ばされている仲間がいるなら、できるだけ早く合流したほうが、未来への改変要素を増やさなくて済むのよね>
資金を集めるのも目的の一つだが、人間の仲間たちが飛ばされてきているなら、何らかの形で社会に溶け込んで生活をしているはずだ。それならば、当然この時代で最新の通信手段のスマートフォンに手を出していると思っていいだろう。日本で流通している主要なスマートフォンはA社とG社の2種類の系列があったので、その双方にアプリケーションを提供できれば、そして私が作ったものだという、彼らにしかわからないシグナルさえあれば、連絡の糸口になるのではないか。まるにはそういう意図もあった。
まるの最終目的はシンプルだった。もし仲間が巻き込まれているなら回収して、元の世界に戻る。この時代には、極力影響を与えないようにする。ただし、時間線が帰還を許す範囲内であれば、やれることを出来るだけやる。
アプリの制作を進めていくうち、フリー素材だけではどうにもならないものが複数出来てしまったので、まるは小坂に相談してみた。
まる:知人に3Dデータを作れる人は居ない?
メッセージソフトで投げて、暫く待つ。
小坂:今制作中のソフトで使う奴?
まる:そう。宇宙船と岩石の塊が欲しい
小坂:居るかなぁ。一応、SNSで知り合いに聞いてみるよ
まる:ありがとう
小坂:まるも、SNSに登録すれば、案外そこから知人探しとかに役立つのじゃないか?呟ったーとか
まる:SNS……ソーシャルネットか。それはそうかもしれない、でも、歴史に痕跡はあまり残したくない
小坂:なら『なりきりキャラ』とかはどうかな?
まる:何それ?
小坂:アニメとかドラマとか、そういった物の登場人物の真似をするアカウントの事だよ
まる:なるほど。でもそれは権利侵害とかにはならない?
小坂:おっと、割とまるは細かいんだね。使用を公に認められたものもあるけど、多くのキャラクタは黙認状態だね。気になるなら、「明らかに何かを意図してるんだけど、少し変えてあるパチモン」を演じてみるのも良いかも知れない
まる:ふむ、ちょっと考えてみる
まるは、21世紀のネット社会について、ざっと調べ直してみることにした。
§
小坂は知人を当たってくれ、数人の候補を見つけてくれた。アルバイトという事で金額の交渉の話が出たのだが、正直、まるは無一文である。小坂や矢田がポケットマネーで何とかしようか、という申し出をしてくれたのだが、それでは悪いとまるが断り、結局データを作成してもらう話は流れてしまった。
その間、まるはいろんな情報を漁り、自分のアカウントを作成した。
小坂:へえ、どんなアカウントにしたの?
まる:……悪魔船長……
小坂:……強そうだね。それって、あの有名宇宙シリーズの?
まる:うん、いろいろ調べた。そのままだと良くないと思ったので、少しもじったり
小坂:どういう事を書くつもり?
まる:架空の船長の日常を書くつもり
小坂:fm、面白いかも知れない
まる:でも、あまり有名にならない様にしないと・・・
小坂:そっか、面倒臭いね
まる:うん、面倒
実のところ、まるの時代のネットワーク文化は若干衰退気味だったので、SNSとかにはそれほど期待はしていなかった。ところが、21世紀では、「ネット」はコミュニケーションの主流に上る勢いで、これを利用しない手はないと思えた。
そして、実際に始めてみるとこれが結構ハマった。ネットワークのスラングはすぐに覚えたし、更新のチェックは逐一行った。まるの書く船長の日常は面白おかしかったので、フォロワーはあっという間に相互で1000人を超えた。
船長日記の元ネタは、自分のそれをベースに、イライジャや神楽から聞きかじった話とか、アレクシアから聞いた昔話などを織り交ぜていた。
悪魔船長:異星人テクノロジーを取引材料に、昔面倒を見てやった奴に無理難題を押し付けたなう。
悪魔船長:部下の気が利かない。知らないうちにお膳立てをしていて腹が立ったけど、最後の詰めが甘くて更に腹が立ったわ。
悪魔船長:船内に害虫が出たので、面倒だからその区画から一旦乗員と客を退避させて、エアロックを解放して減圧処理したら、密航者が居て窒息しかけたので慌てて救助。その後警察に引き渡したけどね。
悪魔船長:船内コンピュータの有機セルコンジットの内部で細菌が繁殖して、誤動作するので、抗菌剤を投与した。風邪ひくコンピュータとか勘弁してほしい。
……等々。
この「風邪ひくコンピュータ」には、
@akuma_sencho 風邪はウィルスだから「細菌と抗菌剤」は「風邪を引いた」とは状況が違うと思います。強いて言えば水虫とかに近そう。
などという突っ込みをフォロワーから頂いたりして、フォロワーとの技術や医療、SFへの言及などの会話に花が咲いたりもした。だが時折、頓珍漢なツッコミをしてくる輩が居たり、「有名SFシリーズのパクリやって楽しいか?」などという悪意ある悪口を言う輩が来たり、穏やかな感じばかりとは言い難かった。
<相手が見えないから、その分想像力も働いて楽しいこともある半面、心の闇を吐き出す人もいるのね。バランスが難しそう>
まるはこの時、猫生来の性質を有り難いと思った。船長職ではあまり出さないようにしているが、本来は飽きっぽく、気まぐれなのが猫の性質だ。ただし、目的の為には猛烈な粘着質である。楽しげにやっている遊びを突然ふいっと止めたかと思えば、何時間も茂みに隠れて獲物をじっと見張ったりもする。人間は霊長類由来なのか、どうしてもなれ合いを好む傾向があると思っていた。まるはもちろん仲間は信頼するが、どうでもいい付き合いでの馴れ合いはあまり好まなかった。ネットでの付き合いの大半は、その「どうでもいい付き合いのなれあい」であったりする場合が多く、深くのめり込むと裏切られて傷ついたりする場合がある。まるはそこまでのめり込む前に一歩引いた立場から眺められるようになった。
もっとも、もう少し紳士的な付き合いを推奨するSNSも2010年あたりには普及の兆しが有ったが、実名主義を標榜して、身元の不確かな人物を排除していたり、認証が複雑だったりと、居候のまるには手を出すハードルが高かったので取り敢えずは止めておいた。
居候と云えば、いつまでも人のお世話になることを良しとせず、自分の住居が持ちたいなと思うまるだったのだが、この時代ではどんなに背伸びをしても、猫のまるが住居を借りることができる可能性は皆無だった。
<せめて人型プローブと「ふぇりす」でも、この時代に私と一緒に流れ着いていればねえ……>
誰だかわからないが、この時代にまるを置き去りにした相手は、まるに対しては、そういう甘えを許さない態度で対処してきている。もし人間の乗組員が同じ時代に居るならば、彼らはもっと動きやすい立場を利用して、うまく立ち回っていることを信じたい。
§
まるがカタカタと作業をしていると、矢田が帰ってきた。
「ただいまー、まるちゃん」
「にゃあ」
まるはととととと、っと彼女の傍に行く。もちろん彼女を出迎えて何かできる訳ではないが、矢田曰く「帰ってきて誰かが居る感覚」が凄くうれしいと言ってくれていた。普通の猫と違って、確実にいろいろと理解してくれる相手がいるのもすごく楽しいらしい。
まる:ごめんね、せめて料理とか、何かお手伝いとかできるなら、居候の恩返しも出来るんだけど
メッセージソフトでそう書いて送ると、矢田は笑いながら口頭で返してきた。
「ううん、まるちゃんにはそういう事は全然期待はしてない。むしろ偉いなぁと思うのよね」
まる:偉い?
「うん、見知らぬところに一人ぼっちなのに、心が折れるでもなく、自分のできることを全力でやろうって。今の時代の人間のどれくらいが、そんな真似が出来るかなぁって」
まる:ふうん。でも、私の部下はきっと今の時代で、私と同じようにやってくれていると思うよ。
「部下? 他に猫ちゃんが来てるの?」
まる:ううん。違う。私の部下は人間。私は400人の命運を握っている責任者なの。
「えっ、まるちゃん、社長さんなの?」
<人間ならここで大笑いするところね>
まるは心の中で苦笑していた。猫の表情で苦笑というのは難しい。そもそもの猫の感情に、苦笑に近い事はあまりない。シニカルな視線でモノを見ることはあるが、苦笑というのはまた違うものだ。
まる:(^^;
結局、表情には出来なかったので、敢えて絵文字で伝えた。
まる:社長、というのは当たらずしも遠からず、かなぁ。細かい事は教えられないんだけどね。
「そっか、未来に影響するんだったっけ」
まる:うん、ごめんね。
「いいよ。……いつか、帰る方法が分かったら、未来に帰っちゃうんだよね」
まる:そう。多分、そのお別れのあとは、2度と会えない。
しばしの沈黙。遠距離タイムトラベルの宿命ではある。土生谷がやっていたような時空干渉が可能なら、
多分再会の可能性も無くはないが、まだそういうとんでもないテクノロジーは地球人類には明かされていない。今ここにまるが流されてきたタイムトラベルが、どんな仕組みで行われたかはいまだに不明だが、ほぼ間違いなく異星人のテクノロジーを利用したものだ。人類が行う危なっかしい時空間移動とはわけが違う。いや、厳密に言えば、人類の科学力では、28世紀に至るまで、生体を過去に送り込むことには成功していない。やれたことと言えば、ワームホールの片側を亜光速で加速することで、ある時点から未来との間のホットラインを作ることくらいだろうか。それは相互で生体の行き来は出来るが、時空構造を著しく混乱させるという問題が発覚して使用禁止となったし、そもそも、時間移動が発明された時点より前に戻ることは出来なかった。
「ご飯食べよっか」
矢田は立ち上がってそういうと、台所に姿を消した。まるは彼女に負担を掛けられないから、ずっとカリカリだけで良いと申し出たのだが、
「もっとちゃんとしたものを食べたいでしょう?」
と、逆に彼女に説得されて、朝夕はご飯を作ってもらっていた。基本は調味料を使わずに調理した肉、魚で、それに穀物、ご飯や麺類、粉物などが添えられていた。今日はマグロのブツが安かったそうで、それがメイン。ご飯の上にたっぷりと乗せられて出された。普段から猫保護のボランティアをしていた彼女の出してくれるご飯は、いつも的確で頭が下がる思いだった。
<こういうご飯でも、タダではないでしょうに……>
でも、彼女としては、一緒にご飯を食べてくれる相手がいるのがすごくうれしいのだという。その気持ちは多少わからなくはない、それでも、面倒を見てもらうという感覚がすごく心に刺さってしまうまるだった。
§
SNSで、3Dモデリングを趣味でやっているという知り合いが出来た。何でも、都心の方に在住で、都合が付けば協力できると申し出てくれた。その際は一度会って詳細を詰めたいそうだ。
まる:会うなんて無理、どうしよう。
小坂:さあてねえ。
矢田:私がまるちゃんの代役をしましょうか?女性、って云う事になっているんでしょ。
小坂:そうなんだが、まるの技術力の確かさを信頼しての話だから、当然そういった話も出るんだよ。
矢田:ああ……。
まる:矢田さんの端末、A社のだよね。
矢田:そうそう、まるちゃんが矢田さんから借りてるのと同じ。
まる:fm……何とかできるかもしれない。
まるは、ネットで音声合成のフリーライブラリを探し始めた。直ぐにオープンソースの音声合成ライブラリを発見して、実験用の仕組みを利用してアプリを作り始めた。
「で、結局どうするの?」
帰ってきた矢田は、まるに聞いた。
まる:矢田さんのスマートフォンのIDが知りたい。それが有れば、ストアに公開しなくてもアプリを入れられる。
「へー、そんな事できるんだ」
矢田はまるにスマートフォンを預けた。まるはマニピュレータなしの足で苦労して機材を使うために、矢田が新たに作ってくれたフック付の手袋を使い、器用にコードを接続すると、アプリのインストールを始めた。
自分の借りているスマートフォンには、既に対になるアプリのインストールが済んでいるようで、矢田にスマートフォンを返すと、ととっと自分の端末まで行って、何やら操作した。
「これで通じるかな」
矢田は、自分のスマートフォンから流れてきた声にぎょっとした。
「え、これまるちゃんがやってるの?」
「うん、猫の手でもできるジェスチャー型の音声送信ツールを作ってみた」
「凄すぎ……仕組みはどうなってるの?」
「ちょっと説明しにくい、この時代に無いテクノロジーとか使ってるし」
「そうよね、キーボード触ってるよりずっと流暢にしゃべってるもんね」
「うん、こっちの方が楽」
まるの作ったアプリは、音質はまだまだいまいちだし、明らかに合成音声と分かるそれだったが、抑揚もちゃんとついた言葉で喋っていた。
「これを売った方が良いんじゃない?」
「ダメ。このアプリにはかなり未来のテクノロジーが使ってあるから」
「ああ……、タイムパラドックス、だっけ」
「そういうこと。でもこれで、ずいぶん会話が楽になるね」
「そうね。これなら普通に会話しているのに近いわ」
「小坂さんが機材を貸してくれて、矢田さんがいろいろ工夫して道具を作ってくれたおかげ。ありがとう」
「まるちゃんが凄いからここまでできているんでしょ。胸を張っていていいわよ」
まるはこの程度で褒められていいのかなぁと思いつつ、少し照れて、顔を前脚で洗った。
「このソフトは、立ち上げていると音声モニターの働きもするから、相手の周辺の音も聞こえるの」
「へええ、じゃあ、これを持って行って、私がイヤホンとかでまるちゃんの声を聞きながら会話する、っていうこと?」
「お願いできる?」
「うん、何とかなると思う。それより、ご飯食べましょう」
「あ、うん」
「今日はねえ、お肉買って来たの、ステーキ食べられる?」
「小さく切ってあれば大丈夫っ」
会話が進む女子2人だった。
§
まるの作ったアプリには、難点もあった。
まず、ごくたまに誤動作することが有る点。これはまあ、現在の電磁誘導タッチ画面を使って、26世紀頃に開発された認識技術をソフトウェアで模倣再現している無理から来るものだったから、致し方ない。どうしようもないのは、タッチ画面にペタペタと触る必要があるので、スマートフォンを何処かに置いて操作する必要があることだった。これについては、矢田がその打ち首掛けストラップでスマートフォンを持ち歩きながら操作できる装備を作ってくれると話していた。矢田の作る品々に、むしろ頭が下がるまるではあった。
明日、土曜日の昼、小坂と、まるの事情を伝えてあるその奥さん、それに矢田の3人が、モデリングデータを手伝ってくれるという、ハンドル名「にゃんた」という人物と、飯田橋で落ち合ってミーティングを開くことになっていた。まるも出来れば近くまで行きたい、と話したら、「じゃあ、ペットも一緒に入れる喫茶店を探しましょう」という事で、お店を探してくれたらしい。場所は神楽坂と聞いて、まるは何となく懐かしく思った。
「神楽・ヒルなんだ」
まるがアプリで呟くと、矢田は珍しそうな顔でまるを見た。
「神楽坂、知ってるの?」
「うん、まあ。私の時代にもよく似た名前の土地が有るから。場所は同じじゃないけど……」
「へー」
「テラス席だと、ペットも一緒にご飯食べられるんだって。まるはペットじゃないけど、世間一般だとそういう扱いになっちゃうから」
まるは顔をプルプルと振って否定を表した。
「うん、分かってる。私の時代でもそう。私はちょっと変なのよ」
「ちょっとどころじゃなく変だと思うわ。でも素敵に変なんだけどね」
そういいつつ、矢田はまるの頭をなでる。こういう扱いも偶には悪くはないな。そう思うまるだった。
「相手は『にゃんた』って云う人なのね。猫っぽいのかな?」
「猫が好きなんだって。ちょっと事情でペットを同伴したい、って言ったら快諾してくれたそうよ」
「ふうん」
「とにかく、明日が楽しみね」
「そうね」
このミーティングが、ちょっとした厄介事の発端になろうとは、思いもしない2人だった。
§
八王子から飯田橋までは、電車で一直線だが、途中まで快速電車に乗るそうで、一度だけ乗り換えが有るらしい。猫は規定以下のサイズの箱に入れ、改札で許可を貰って有料手回り品剣として持ち込むことができるそうだ。まるはこの時代の電車の仕組みを調べて、ちょっと唸った。
「ごちゃごちゃしてるわね」
「東京の鉄道? 昔からあるのを継ぎ接ぎ継ぎ接ぎして作って来たから、合理的じゃないんでしょうね」
「なるほどね……」
「さて、改札なので、それ仕舞ってね」
まるは、シークレットポーチの代わりに作ってもらった肩下げ袋にスマートフォンを収納した。収納したまま、手のひらタッチできる優れものだ。彼女の器用さに、まるはとても助けられていた。
そのまま引っ込むと、矢田はジッパーを締めた、一応、猫専用カートで、ジッパーを締められていても外を確認することは出来る。流石は猫保護を仕事にしていただけの事はあって、こういうアイテムは何かと揃いが良い。こういう仕事の人に出会えたことも、まるの運の良さと言えるだろうか。
カートは簡単に持ち込み許可されて、まるは電車に乗った。今回は無賃乗車ではなく、ちゃんとした利用客だ。前回は余裕が無かったので見まわせなかったが、利用客を見ていると見飽きなかった。
「面白い?」
すでに矢田はイヤホンを付けていたので声が外に漏れる心配はない。まるはささっとスマートフォンを操作して応える。
「うん、この時代の風俗を色々じっくり見る機会はなかったから」
「ネットとか、テレビも少しは見てたんだよね」
「そうなんだけど、メディアから流れる情報だけではイマイチぴんと来なくって。猫の目が、所謂赤緑色盲と似たような見え方するのも分かってほしいわ」
そう、まるはヘッドセットをつけているとその補正効果で様々な色、形を判別できたが、裸眼は通常の猫と変わらない。猫の目は霊長類と違って、赤に弱く、静止画の細い線を見分ける能力に劣る。その代りと言っては何だが、眼球内のタペタム層というものの働きで暗闇でも見えるし、動体視力は数倍で蛍光灯の点滅が分かり、紫外線も認識できるという。あと割と近眼である。と言いつつ近すぎても見えづらいのだが、まるは何とか耐えて、コンピュータを使いこなしていた。
「そうね、猫の見ている世界について、まるちゃんにはいろいろ教えてほしいわ」
「分かった。帰ったら少し表現法考えてみる」
駅の改札を抜けると、小坂とその奥さんと思しき人物が待っていた。
「あ、小坂さん」
矢田は小坂とその連れの女性に挨拶をした。
改札を抜けた後なのでちょっぴりジッパーを開けてもらい、まるも顔を出した。
「あー、この猫がまるちゃん?普通の可愛い三毛猫に見えるわね」
まるは矢田の方を見た。はっと気が付いたようにイヤホンを外す。
「初めまして。まるです」
その声にびっくりして辺りを見回す件の女性。
「え、え?」
「一応昨日説明はしていたと思うんだけど、アプリを使って喋れるんだよ」
「たける君が凄いって言っていた意味が、今よーく分かったわ」
たける君というのは、おそらく小坂の事だろう。
「じゃ、そろそろ電車に行きましょう、まるちゃん、ごめんね」
「良いわよ。閉めて」
まるの入っているカートのジッパーを締めて、一行は改札に向かった。
土曜日の八王子からの朝の電車は結構混んでいて、始発電車を選ばなければ座れないような感じだった。まあ、それも25分程度らしいのだが、どうやら身重らしい小坂嫁には有り難そうだった。
四ツ谷駅まで来ると、快速から乗り換える必要がある、とのことで、一旦電車を降りた。そして、普通電車に乗り換えて飯田橋へ。たったこれだけでも、この時代を実際にいろいろ見る機会が無かったまるには新鮮な体験だった。
「面白い?」
小坂嫁が矢田と同じような質問をしてきた。流石に電車内でオープンで会話は出来ないので、矢田はイヤホンを小坂嫁に渡した。
「うん、新鮮。こんな遅い乗り物久しぶりに乗ったから」
「遅いの?」
「地上でも、個人が使うものでなければ、時速1500キロくらいの乗り物が当たり前のところだったし」
これを聞いた小坂は眉をひそめる。
「時速1500キロ……それじゃ音速を超えてるね、衝撃波とか大丈夫?」
「騒音が1か所に集まるから音波衝撃が起きるのよね、とても静音だから大丈夫よ」
「なるほど、そういう考えもあるのか」
同じアプリでイヤホンで会話を聞いている小坂も答えた。
「だいたい、この時代の地球みたいに、人類はぎゅうぎゅうに詰め込まれた環境で生活したりしていないわ、もっとたくさんの土地を手に入れてる。30倍以上の土地を手に入れているけど、人口はせいぜい5倍くらい」
「良いなぁ、みんな広い家に住んで、庭とかもいっぱいあるのね」
小坂嫁が心底羨ましそうな声を立てた。小坂がちょんちょんと肩をつつくと、彼女ははっとして周りを見回した。幸い、彼女の奇行を気にするような人は居ない。
「そうね。多分いい時代なんだと思う」
会話に参加していない矢田を除いて、二人と一匹が妙にしんみりとした顔をしたので、矢田はちょっと困った顔をした。
「ああ、ごめんごめん。ほら、直子、スマホを返してあげて」
「あああああ、ごめんなさい」
「このアプリ、3人までは受信者に出来るから、登録しておくべきだったかしら?」
不安そうに聞くまるに、小坂は笑って答えた。
「気にしなくていいよ、直子はそんなにまると会う機会も多くないだろうし」
話している背後から直子……小坂嫁が近づいてきた。
「私だけ仲間外れにしようってお話?」
「ああ、いやそういう訳じゃないんだ。アプリをあちこちに入れるのも問題だと思ったしね」
「私だってまるちゃんと話したいわよ」
まるは小坂の方を見てから、さっと操作して伝えた。
「小坂さん、奥さんのスマートフォンのID分かれば、ソフト入れて置きましょうか」
「ああ、いや、それが彼女のって、A社の端末じゃないんだ」
「あら……」
流石にこの時代、2つ以上のプラットホームに共通で、通信ありのアプリを作るのは、サーバーでも用意しない限りちょっと難しかった。あと数年たてば、色々と手も打てるようになるのだが……。それはまた別の話。
「いいだばしー、いいだばしー、ホームと電車の間が空いておりますのでご注意ください」
駅のアナウンスが流れた。
「お、着いた着いた」
3人と一匹は駅に降り立った。
「神楽坂には、このスロープを上った先の西口が近いのよね」
そういいながら小坂嫁、直子さんが先陣を切って歩き出した。
「奥さん、妊娠何か月なんですか」
小坂は頭をボリボリと掻きながら答える。
「8ヶ月」
まるは目を見開いた。
「もうすぐ生まれるんじゃないの、あんなに勢いよく出歩いて大丈夫?」
「まあ、本人が来たい、って言って聞かないんだし、フレンチ食べたいとか言っていたし」
まるは神妙な顔で、カートの中から直子嬢を見た。
「さ、僕たちも行かなきゃ」
バタバタとスロープを抜けて、飯田橋から、神楽坂に向けて坂を下りて行った。カグラ・ヒルとは違って、道は舗装されていても若干ゴトゴトと揺れるので、乗っているまるはちょっと気持ち悪くなった。
「振動で酔いそう」
「あ、じゃあゆっくり行かなきゃね。直子さーん、ちょっとゆっくり行きましょう」
矢田の呼びかけに、直子はえーっという顔をする。
「ちょっとラムラ(飯田橋の駅ビル)で休憩しよう、まだ待ち合わせの時間まで結構あるから」
「ペット同伴かのお店ってあるの?」
まるが心配そうに聞く。
「区界に、テラス付きのファストフードのお店がある筈。まるもお水くらいはほしいでしょう」
「うん……ちょっとお手洗いしたい」
「あー、じゃちょっと待ってね」
そういうと、矢田はポケットを探って何やら袋を取りだした。
「これ衛生袋、中に吸収体と消臭剤が入ってるの、取り敢えずこれでお願い」
「うん、仕方ないわね」
まるのトイレタイム。
「有難う」
臭い止めのシールをぺたんと張って、衛生袋を矢田に渡すと、矢田は近くのごみに捨てに行った。
「普通の犬猫だったら楽なところが、賢いと逆に面倒になるんだねえ。って人間だってそうか。ごめんよ」
「ちょっと緊張しているのもあるかも」
まるは、この後のミーティングに対して、かなり不安感を抑えられずにいた。
(続く)
次回、まる「初めてのオフ会」!