第29話「孤影蕭然のまる01:まるは航宙船の船長です……か?」
今回から、全く新しい展開です。
孤影悄然とは、一人きりで、さみしげにしている様子を表す言葉です。沢山の仲間に囲まれて、400人の乗員を乗せた強力な武装貨物船の船長「まる」に、いったい何が起きたのでしょうか。
まるは航宙船の船長、ではない。強力な武装航宙船〈コピ・ルアック〉もいなかった。
まるは薄汚れた三毛猫だった。その体には出自を示すものは何もないように見える。ヘッドセットも、マニピュレーショングローブも装着していないし、いつも身に着けていたシークレットポーチも無い。
今の彼女は少し頭がよく、とんでもなく高齢なだけの、ただの猫だった。
彼女が今いる場所は、薄汚れた、ごみの散乱している裏路地だった。28世紀の世界にはおよそ見えない。20世紀末辺りの東京の歌舞伎町の路地か、ニューヨークの繁華街の裏かといった風情だ。
<頭が……痛い……此処は、どこ……?>
少なくとも彼女が知っているどの街とも違う。彼女の生まれ故郷の〈星京〉には、ここまで汚れた路地はない。此処よりひどいといえばスラム街があるにはあるが、そこにはむしろ猫の入り込む余地はない。
空を見上げるとどんよりと曇った空から、ぽつん、ぽつん、と大粒の雨が降り始めていた。まるにはここに来る以前の数日の記憶が殆どなかった。
<船の業務が終わって……、自室に戻ってシャワーを浴びて、乾かして……ベッドに寝てから……>
そう、いつものルーティーンな就寝の後からすっぽりと記憶が無く、気が付いたらここだった。彼女の体はあちこち痛かったが、幸い骨が折れた様子や、大きな怪我などはなかった。
<そうそう「料理天国」の打ち上げだからって、マルティナ=人型プローブ装備をして、ふざけて飲み明かしたのはもう4日も前なのよね>
28世紀の宇宙狭しと飛び交う感覚や、ヘッドセットや人型プローブを駆使して人と渡り合う感覚は、幻覚などではなかった。彼女の認識では、彼女は100歳を超える猫で、400人の乗員を乗せた強力な武装航宙船の船長で、自他ともに認める能力のある船長だ。いや、そうだったと彼女は記憶している。
しかし、今の彼女に、その片鱗は一切ない。
<そうだ、首のインプラントは……見て分かる訳無いか……>
表層から見て見える位置には記憶拡張インプラントはない。脊髄に隣接した場所に深く埋め込まれている。若いころは、代謝をしないから老朽化の可能性があるのではと思っていたが、そういう類のものではないそうだ。具体的には、彼女の推定寿命である800年より軽く数倍はもつらしい。
色々考えていると、だんだんと雨の冷たさが毛皮に染み込んできた。やがてびっしょり濡れた彼女の体は、身体の毛がぴったりと張り付いてほっそりとしたシルエットになった。ふっくらと見える猫の体の2割は身体の毛皮に含まれる空気なのだ。彼女は空を見上げた。やはり〈星京〉のスラムなら空に見える筈の上層地殻はない。惑星〈白浜〉にはこういう都会はないし、惑星〈雪花〉の都市はこんなに温暖ではない。惑星〈種子島〉や惑星〈聖護院〉にはスラムが無いし、衛星〈メディア〉なら、上空には巨大な惑星〈タロス〉か、他の衛星が見えるはずだ。〈大和通商圏〉のおよそ想像する限りの惑星に、ここに似た星はない。
<……ここは他の通商圏……? どこなのよ……>
いくつかの情報は思いつくが、他の通商圏の事まではまるは詳しくはない。自分がいる場所は、動いて調べるしかない。それに、いつまでもこんなところで濡れていたら体力を奪われる。とにかく雨をしのげる場所に行かなければ。
「……にゃあー……」
まるはか細く泣いた。心細かったから、というのもあったが、内から湧き上がる不安と、見知ったものが周りに何もない空虚さがそうさせたのかもしれなかった。
まるは薄汚れた、落書きだらけのシャッターが閉まった雨の夕暮れの裏路地を、とぼとぼと歩き始めた。
§
繁華街の表を覗くと、猥雑、という言葉がぴったり似合うような風情で、傘を差した男女を呼び込みが大声で店に引き込もうとしていた。店もどぎつい装飾の店が多い。何というか、歴史書にある大昔の未開で雑多な都市の繁華街の様だ。
分かったことはもう一つある。看板の文字から、ここが日本の影響を色濃く残す街だという事だ。はっと気が付いて後ろを見ると、そこにはギラリと光る目が睨んでいた。どうやら地元の猫の様だ。
<参ったわね、言葉が通じる相手でもないし……>
猫は意思疎通をするという。確かにある程度は正しい。しかし、論理的思考をやり取りできるわけではない。せいぜい一桁の数を数えたり、お腹が空いたことを伝えたり、日常の簡単な事をできる程度だ。都会の人間がどの程度未開人と会話ができる? つまりはそういう事だ。
相手の猫は頭がでかい、向う傷をいっぱい抱えた雄猫だった。恐らくはこの界隈のボス猫だろう。見知らぬ雌が現れたので、ボスが自ら出迎えに来たという事か。
<野良猫とか趣味じゃないわ、お呼びじゃないの。しっしっ>
威嚇をしてみたものの、ボス猫には一笑に付されてしまったようだ。
<面倒臭いなぁもう>
ここがどこだかわからない上に、ろくでもないボス猫なんかに絡まれて外は雨。良い状況は一つもない。流石に敏腕船長のまるも、この状況はいかんともしがたい。
<みんなは、〈コピ・ルアック〉の乗員はどうしちゃったんだろう、ラファエル、アレクシア、ドーラ、太田君、秋風君、加藤君……こういう時、なぜ日本人は名前の方を思い出さないんだろう?>
変な事を気にするまるだったが、状況がいい方向に変わるわけでもないので、頭を振って考えを振り払った。とにかく、雄は雌に無理強いは出来ない。それが猫の世界の生物としての掟ではある。まあ、掟破りは常にいるものだが、ボス猫でそれをやると周りの雌から一斉に反感を喰らいかねないから、こういう雄は無視するに限る。何とかして工具を使える環境にたどり着く方法を考えたほうが得策だ。
さっさと移動して街を見て回っていると、地下街に降りる階段を見つけた。酷く臭い。地下街に行く道の途中には思いガラス戸があって、まるの力では到底開けられなかった。
<人間を待ってテールゲートするかなぁ>
そう考えていると、すぐに人が傘をさして階段を下ってきた。ドアを開ける隙をついて中に素早く滑り込む。
<侵入成功♪>
と思ったのもつかの間、直ぐに警備員が飛んでくる。
「こらこの野良猫、お前の入ってくる場所じゃないっ」
しかしそんなことに関わっている暇はない。脇をすり抜けて一目散に駆け抜ける。どうやら地下街らしい。ファッション関係のお店が並んでいるが、何ともいえない雰囲気の服を着たトルソーがいる。案内板らしいものが天井に着いていたが、立体表示をするでもなく、印刷された文字が並んでいるだけだ。とにかく体の水が鬱陶しかったので、広場に出たときに思いっきり体をぶるるっっと振るった。水は撥水加工でもしているように大部分が飛び落ちた。いや、たしか撥水処理はしたのだ。秋風君が面白がって作ったシャワー後の撥水処理コーティングを試しに使って、シャワーを浴びた後に体をふるうだけで、ほぼ水を振り飛ばすことができる、というお遊びに付き合っていたのだ。まさかここで役に立つとは思ってもみなかった。
<それにしても、何だか本当に原始的な街だなぁ……床にもインフォメーション表示の一つもないし>
そのままこっそり歩いて行くと飲食店街が有った。まるは猛烈にお腹が空いていたが、今自分がお金を持ち合わせていないことも承知していたし、だいたい猫のままでは言葉も通じない。ぐっと我慢して歩き続けると、突き当りには、なんと紙の本を売っている店が2店ほどあった。まるは興味津々で、大きめの本屋に滑り込む。
店頭には様々な文具と思しきものが置いてあったが、何に使うかよく分からないものが多かった。店を進むと本が有ったが、題名を見て幻滅した。「すぐ作りたくなるおかず」とか「政治の腐敗構造」とか、およそ今の状態の手掛かりになりそうもない本ばかり。
だが、こっそりのぞきながら歩いているうちに、目的の本のありそうな場所を見つけた。地図コーナーだ。そういう処には、大抵ご当地の地図のコーナーがあるものだ。そしてそれはあった。しかし、それはまるの想像とはずいぶん違うものだった。
「東京タウンガイド」「新宿エリアマップ」
<……はぁ?>
§
日本の解体は23世紀初めころだった。日本人は地球連邦時代、いち早くその大多数が新天地を求めて星の世界に進出することになった。国として弱体化し、国家の体をなさなくなった日本は、あっという間に周辺国に接収され、他国に蹂躙されることを良しとしない日本人たちは、自らを〈大和民族〉と名乗り、国を捨て、星の世界の流浪の民となった。彼らが安住の地を手に入れるのは百年後、〈大和通商圏〉の成立後であった。
日本が実質上存在しなくなって真っ先に潰された都市は首都、東京だった。様々な国がそのメガロシティの覇権をめぐり対立し、平和な町は10年も経たないうちに戦場となった。
だがどういう事だろう。ここは平和そのものに見える。単純推論してしまえば、まるは過去の東京に来ていると考えるのが一番手っ取り早い。
<今の日付を確認する必要があるわね>
店員に発見される前に、と、まるは店を抜け出すと、地下街に戻った。書店の逆側に長くつながるレンガ状のもので出来た道が有ったので、そちらに歩いて行くと、またしてもガラス戸に遮られた。ただ、中は明らかに食品街であり、猫がうろついているのを発見されたら、あまり楽しくない状態になるのは目に見えていた。
まるは諦めて引き返すと、先程の道をたどった。
ちょっと歩いて行くと、やがて、階段が見つかり、そこから建物へと入ることができた。建物は電光掲示板で時刻表示と行き先が表示されている。
<何かの駅みたいね>
駅の料金ゲートらしきところをこっそりと通過する。猫などの小動物に対してはまるで無関心な作りの様で、簡単に中に入ることができた。ゲートの中の階段を上ると、連結した四角いフォルムの列車の姿が有った。
<この街もろくに調べていないうちに動いてもいいものかしら……。でも、ここは人が多すぎるわ。列車に乗って外れの駅まで行けば、かなりさびれて人も少なくなるんじゃないかしら>
と、暫く考えて掲示されている路線図などを見ていたが、諦めた。
<だめだわ。地名が分からないと意味がない。それより日付けを調べなきゃ>
電光掲示板を見ていたが、時刻は表示されても日付けは出ていない。ぐるぐると見回していると、ふとポスターが目に入る。それは、何かの宣伝の様だったが、何よりも探しているものはあった。
「2010年 11月放送開始」
<……えっ……21世紀……>
まるは数字を見て、床にへたり込んだ。ポスターは真新しいし、周辺に無数に貼り出してある。ずっと剥がし忘れているとは思えない。人間の言葉が喋れるなら、力なく笑い出しているところだろう。
〈ある程度は予測はしていたけど、これはひどいわ……>
まるはフラフラと歩きだすと、再び地下街に戻って行った。
§
まるは分かっていることをまとめた。
<まず、私は一切の装備を失ってる。仲間も近くに居る気配がない>
そして深くため息をついて、続けた。
<恐らくはここは21世紀の日本、場所は首都東京の……多分、新宿>
いったい何がどうしてこうなったのか、まるには見当もつかなかった。何か事件が起きて、強いショックか何かで記憶をなくしているのか。その可能性はないとは言い切れなかったが、確証はないし、何しろ、引っかかる記憶の欠片なども無い。状況が状況だから、変な仮説は考えずに、今現状、自分がいる環境と、自分の記憶だけを頼りに行動するしかない。
体の汚れは、幸いに雨が降ってかなり落としてくれた。しかし、機器の不在はいかんともしがたい。自分がタダの猫で、航宙船の船長というのが妄想。というのは考えにくかった。ただの猫が航宙船なんて想像をするはずもない。自分が知性化される前の状況を考えてもそれは明らかだった。
それにしても、なぜ自分は7世紀半も前の世界に居るんだろうか。たとえて言うならば、平成時代に生きる人間が、いきなり鎌倉時代に来たようなものだ。いや、それなら相手は人間だからまだマシかも知れない。知性化された猫なんて、それ自体が28世紀半ばでも稀有な存在なのだ。21世紀初頭に、彼女の事が理解できる人間、ましてや猫なんてろくに居る筈もない。
<見方を見つける努力は後回しにして、とにかく自分の頭が正気であることを証明できるものを用意できるようにすることが大事ね。後々の協力者を見つける意味でも、自分自身の正気を保つためにも>
色々と考え事をしながら歩いているうちに、ドアの無い階段に行き当たった。
<とりあえずここから別の場所に移動しましょう。猫が姿を隠せる場所なんてろくにないわ>
まるはシークレットポーチさえあれば、そこに入れている小型カメラで地図の写真を取ってくればよかったと思っていた。厳密に言ってしまえばデジタル万引きではあるが、入手方法のないまるにはそれ位しか地図を見つける方法はない。……地図?
<もし、28世紀と考え方が変わっていないなら、あそこに行けば少しは何か分かるかもしれない>
まるは地下街の案内板を注視しながら歩き始めた。
見るもの見るもの、知らない物ばかりだった。女子物の服は自分が切るようになったこともあっていろいろと調べていたが、750年でこんなに変わるものかと思った。「ボタンって何」から始まって「金属製のジッパー??」とか、いろいろ不思議なものが多すぎた。長時間眺めていると、店員がやって来て追い払われるので、人型プローブが欲しいと痛切に思った。
何より、そろそろお腹が空いてきていた。しかし、食料を得る方法が無い。残飯を漁る?勘弁して。と言って、食料品を買う事なんてできないし、盗みなんて論外だし。虫や小動物を獲って食べる、という選択肢もあったが、それこそ洒落にもならない。猫が自由に食べても文句を言われないもの。
<道の草をかじるとか……胃腸薬の代わり位しかならないわ。人にご飯をねだる……物乞いじゃない>
猫を欲しがる人の居そうな郊外まで何らかの手段で移動して、飼われるというのが一番猫としては妥当な気がした。それだって居候ではあるが、この時代の猫としては正当な手段ではあった。
<とにかく、あそこに行って地理を確認しよう>
まずはそれらしいものを探すところから始まった。
エスカレータについて言えば、すぐに使い方を理解した。乗っていれば勝手に進行方向に連れて行ってくれる。自動歩道の原始的なやつだ。それで上層の地下道に行くと、案の定、いくつかの駅に繋がっている。さて、どれが一番大きな駅だろう。オーソドックスに、人通りが一番多い方向に向かって歩いた。
なるべく目立たない様に、物陰から物陰に、こそこそっと小走りで抜けた。飲食店の前で立ち止まると、食べ物を狙っていると思われそうなので、足早に駆け抜けた。
偶に、「ニャー」とか言ってくる人間がいた。まるは面白いので、「ニャー」と返してみた。すると、荷物をごそごそしている。ん?何か好意を持ってくれているのかな。そう思い近付くと、出してきたのは塩辛いスナック菓子。
<まあ、この際背に腹は代えられないかな>
相手の手から貰って食べると、相手は大層喜んだ。見ると個体は若そうな少女だった。何やら鞄を持っている。
<加藤君よりちょっと若い位かな。学生?>
頭を撫でて来たので身を任せた。
「ねーねー、ここにネコちゃん居るー」
肉声の意味は、ゴーグルなしでもだいたい理解できた。声を掛けている方向を見ると、同じ格好をした女子が2人。
「お菓子手から取って食べたよ」
「人間の食べるものって、塩辛かったり、毒だったりするからあんまりあげちゃダメなんだよ」
口々にそういいながら、頭を撫でてくる。確かに、少量ですでに胸焼けがしていた。水が欲しい。ひとしきり頭を撫でられた後、まるは踵を返して人の集まる駅の方向に向かった。
§
どうやら、目的の駅にたどり着いた。壁には「駅周辺地図」と書かれた掲示が掛かっている。もちろん電子表示ではないから、縮小して全体像を見たりは出来ない。古代の日本の都市について勉強していればよかったな。と思ったが、後悔先に立たずである。
さてこれからは試行錯誤と、多少の犯罪行為だ。もっとも、猫に無賃乗車を咎める人などいない。
改札は無人で、まるはさっさと下を潜り抜けてコンコースに移動できた。
<適当な遠くか…>
見ていると、いくつか候補が見つかった。路線名からの類推だ。
<〈中央本線〉か。「本線」という所がそそるわね。あとは良く分からないし、とりあえずここに行ってみよう>
そう決めたまるは、新宿駅の9,10番ホームに向かう。まるは知らないが、中央本線は高雄を抜けて甲府を経由し、最終的に名古屋に至る路線である。もちろん、そんなに長距離の乗車をしているとまるがへたばってしまうし、まる自身、名古屋なんて言われても、惑星〈星京〉の大名古屋シティしか想像できない。今はただ漠然と、西に向かう路線という事が把握できた位だった。
<駅員に見つかると追い出されちゃうかもしれない。そっとね>
暫く物陰で待っていると、長い電車がやって来た。アナウンスで9両編成と言っていた。
<特急あずさ21号……か>
その名前自体は今の彼女には何の意味もなかったが、移動経路を覚えておくために記憶した。こっそり乗車した彼女は、座席の下のスペースに潜り込む。やっと落ち着けたことでうとうとし始めてしまった。何しろ、投薬で船長業務をこなしていたのだ。無ければ一日の活動時間は10時間そこそこである。彼女は睡魔に負けて、微睡の中に落ちて行った。
§
眠りはすぐに妨害された。
寝入ってしまったまるを、乗客の子供が見つけたのだ。
「ねこさんー」
子供の甲高い声でまるはびくっと起きた。アナウンスが「この駅を出ますと、次は甲府まで止まりません」と伝えている。「こうふ」が何を意味するか分からないが、ちょっと遠くまで行きすぎてしまう予感がした。それに、乗客にばれた。
まるは慌てて飛び出して、電車から駆け下りた。すると、田舎の駅まで来たつもりが、意に反して小奇麗で結構大きそうな駅だ。
<失敗しちゃったかな?>
そう思いつつも、周囲を確認する。階段を上るのはちょっと辛そうだ。箱状のリフトはまる一人では乗れないし、テールゲートするには、中が狭すぎて騒がれてしまいそうだ。見ると階段状の移動床を見つけたので、またそのお世話になった。
くるくると見回すと、2方向に何やらお店がある。片方は…酷いケミカル臭がすると思ったら、どうやら革製品の修理屋があるようだ。ちょっと近寄りたくない。逆側は飲食店がちらほらと見えるが、その奥になんとなく電化製品に見える展示が見えた。まるは空腹をこらえつつ、電化製品の方に足を向けた。
フロアを見ていると、小型スレート端末が所狭しと並んでいる。しかし、空間アレイ・ディスプレイではなく、スレート自身が表示窓になっているようだ。
<骨董品の山だわ>
そう思ったが、ここが7世紀以上昔の世界だと思いだした。ちなみに、某有名端末の4世代目が発表されたばかりで、対する陣営は使い物にならない、と言われた前世代から、実用化への劇的変化が起こる前夜である。今の時代から見てもすでに骨董品の山だが、まるの目から見たら何をか況やである。彼女が欲するような電子パーツなど影も形も無い時代であった。
<せめて音声合成でも自在に出来ればなぁ>
この時代に詳しい人なら、既に有名な音声合成ソフトが出現して席巻していたことをまるに教えたかっただろう。残念ながらその期待は裏切られた。まるは探索を断念してこの場を去り、出口と思しき場所から外に出た。
北口であれば、少し歩けば河川に面していて、まるが考えていた環境にも近かったが、南口は繁華街であり、そこは出てきた新宿と大差ない感じをまるに与えた。
<結構離れたと思ったんだけど、徒労かなぁ>
いや、実際は駅からちょっと離れたら、結構住宅地などが有る場所であり、彼女の思惑のような真似も出来たかも知れない。だが、そこまでの事を考える余裕は彼女にはなく、途方に暮れているところを、いきなり後ろからバサッと何かを被せられた。
<やばいっ>
捕まえられた瞬間に、一瞬パニックになったものの、既にまるには大体の合点が行った。「野良猫と間違われた」。いや、今のまるは野良猫そのものともいえたから、間違いではないかもしれなかった。しかし、その先にある事実は知っていた。大昔、多すぎる猫は保護の名目で捕獲されたのち、一定期間引き取り主が現れなかったら、殺処分されていたのだ。
§
「行方不明猫に該当の猫は居ないようですね」
「しかし、少し汚れているとはいえ、この綺麗な毛並み、どう見ても地域猫とかじゃなくて、飼い猫なんだよ」
「飼い主が引っ越して、置いて行かれた口でしょうか」
ケージに入れられたまるは、係と思われる男女二人の会話をじっと聞いていた。
「しかし普通は最初は、怯えるか、泣き続けたりするものですけど、この猫妙に堂々としていますね」
「ああ、凄く賢そうな顔をしている」
男の方が近づいてきて、まるの目を覗き込む。
「安心していいぞ、ここは猫売りでも、保健所でもない。迷子猫を通報で一時預かりしているだけだ」
<あら?>
「普通の猫ちゃんは、保護直後はなかなかご飯を食べないけど、この子はどうかしら」
そういいながら、女性の方が皿に盛ったドライフードと水を持って来た。
<食事!>
「ほら猫ちゃん、ご飯、食べる?」
「うにゃん」
「ほほう、言葉が分かってるみたいだな」
「ほら、誰も取らないからゆっくりね」
正直、ケージは多少臭かったし、部屋のあちこちから悲壮感に溢れた泣き声が聞こえたりしていたので観念していたが、思わぬところで食事にありつけた。
「見たところ、去勢の跡も無いのよね」
「もし、飼い主に置き去りにされた類なら、処置してやる必要があるかもしれないな」
まるはぎょっとして彼らを凝視する。
「なんだ? 去勢の話が分かったみたいな反応をしているな」
「自分の事でよからぬことを離されていると、たぶん雰囲気を察するんじゃないですか?」
女性はそう言って近づいてきた。
「ごめんなさいね、もしもの場合の話だから。飼い主さんが7日以内に見つかれば、そのままお返しするのよ」
<つまり、7日以内に、ここを脱出しなきゃいけないって事ね>
大人しく食事を再開したまるは、どうにかしてここを出る方法と、人間と意思疎通をする方法を天秤にかけていた。
§
まるはいくつかの可能性を吟味していた。猫が言葉を理解することが分かった場合の人間の反応は
「1:恐慌・恐怖」
「2:好奇心」
「3:くだらない事」
1の可能性は正直言って疑問だった。そういう反応が大半を占めるのは、迷信が信じられている時代だろう。ここは21世紀。いろいろ齧った情報を思い出し、尚且つ、街の文化度などを見てきた感想を加える限り、合理的な考えをする人が少なからずいると考えていいと思った。問題は、あの二人、もしくはここの他の職員がそういう考え方を出来るかどうかだった。2は良い兆候だが、半面、拙い事態も生みかねない。例えば、ここが本当に過去ならば、ニュースに取り上げられるような愚行は避けなければいけない。それは歴史改変を産んで、元の時代に戻れないことを意味する。3は失望だ。気のせいとして処理されてしまうなどという事である。まあ、努力次第で1、ないし2に持って行くことは出来るだろう。
それに対し、ここを出ていく可能性を考えたが、物事を振り出しに持って行くだけだという結論が出た。今の状況が有るのだから、それを利用しない手はない。
<よし、決めたわ>
問題は手段だ。音声は使えないし、相手の喋っている内容についての完全な聞き取りも難しい。マニピュレーショングローブも無いから、指を器用に動かすことも出来ない。自分の武器は本来の猫に出来る事と、この頭脳だけなのだ。
手持ちの駒はドライフードと水だけ。
<とりあえず、こうしてみようか?>
まるはドライフードを並べて文字を書いてみた。端的に一番伝わりそうな内容だ。僅か5文字。
再現してみよう。(色違いの部分が並べたカリカリである)
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職員が来た時に、これを見せて一声。
「にゃっ」
と鳴いて見せたのだ。女の人の方が水を取り替えにやって来て、これを見つけた。
「なに、こんなにカリカリを散らかして」
そういってケージのドアを開けて拾おうとしてきたので、その手を前脚で押しのけた。
「にゃっ」
そうやって繰り返し鳴いてみた。
「んー?……あれ? もしかして」
そういうと、振り返って男性職員を呼ぶ。
「小坂さーん、面白い事になってますよー」
男性職員がいぶかしげな顔をしてやって来た。
「何だ、猫が踊ってるのか?」
「いえいえ、それよりずっとおもしろいかも、ここのカリカリ、この子がやったんですよ」
「えー、散らかしてるな……」
暫く男は無言になった。
「お嬢ちゃん、臭くて悪かったね」
「にゃっ」
よし、まずは第一歩。
なんと、現代(正確にはほんの少し昔)に現れていたまる。
でも、彼女の本質は変わっていません。
これからこの事態にどう立ち向かっていくのか。
次回以降の展開をお楽しみに。




