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昨日、ダヴィード達が破損したものは何かと思い台帳を提示するようローレンは依頼した。ローレンの屋敷にはヴィオロンの付けた調度品台帳があって、最終的に財産を処分する時に大変重要な物だったのを覚えていた。おそらくこの屋敷にも似た様な物が存在するはずで、無ければヴィオロンならば作成しているだろうとローレンは予測しており台帳が無い想定はしていない。
「まだしっかりと整理ができていないので、あまりお見せしたくないのですが」
ヴィオロンはそういいながら、百科事典ほどの分厚いファイルを数冊、棚から取り出し、積み上げる。
「破損報告書と新規購入報告書はこちらです」
カゴの中に無造作に積み上げられた書類の山が、目を通してないことを表していた。整理ができている云々よりも、元々ローレンの目的は破損物を探そうと思っていたためカゴの中を探せば目的物は早く見つかりそうである。
「どうせなら、この書類も処理してしまうぞ」
台帳に目を通すついでに消し込みをしてしまえば時間が短縮されると提案する。
「よろしければ」
そういい残してヴィオロンは下がると、残ったローレンは報告書と台帳を照らし合わせるためカゴの中から書類を出す。先ほどのヴィオロンのあの様子なら台帳の正確さも怪しい。書類の整理が終わったら屋敷内を確認する必要があるとローレンは次の作業を決めて、仕事を始めた。
台帳整理は時間のかかる作業だが特に難しいというわけではない。単純な作業だが成果が目に見えて確認できるため仕事をした証拠ができる。物が残る故により正しいものを作成すべきだとローレンは意気込むのだった。
書類の一番上は破損した陶器の皿で場所は厨房。東館の物ではない。
報告者は『ジル』と署名がしてあった。
昨日、西館で聞いた名前だと手を止めるが、今必要な事柄ではない。調度品名を台帳上に確認すると赤いインクで『破損』と書き記す。
そんな作業が二、三時間余り、探しているダヴィードや東館の名称は一向に確認出来ず、彼の仕事ぶりが少し伺えた。確かにバカ正直に報告すれば、咎められるだろう。
調度品台帳の東館部分を握りしめ、東館にローレンは向かうのだった。
窓はあるものの位置取りが悪いのか日射しは入らない北側の廊下には日中は誰もいない事が多い。
会ったからといって何かあるわけではないが、人に会いたくないローレンは自然とこの様な場所を選択して歩いている。この屋敷内でなくても同じような道の選択をするのは、もしかしたら人気の無い場所や薄暗いのが好きなのかもしれない。
残念な事に、誰も居ないと想定していた廊下の先に女性が立っていることを発見した。制服でないことから、女主人のエリンかその侍女のヴェーラか、それともローレンの知らないお客様か、どちらにせよ気がつかれては面倒だと歩く速度を落とした。急いでいた訳ではないので、女性の歩くスピードに自分が追い付かないように調節したのである。
向こうに見える相手に近づかないように後ろを歩くのは、付け回しているみたいに見えるだろうなぁと窓の外を見る。運がよかったのか、当たり前なのか日の当たらない北側の庭には誰も居なかった。
「いやぁっ」
突然、廊下に響き渡る女性の拒絶の声。窓の外から視線を戻すと、目の前の女性が男に押し倒されていた。後ろから視角になる位置で隠れていたのだろうか、庭に目線を落とすまで、自分と彼女しか居なかったように思う。
とりあえず救出しなければと走るが、現場までが遠い。
数分前の自分の態度を後悔した。
「なんだ、この服どうなってるんだ?」
焦る男の声がする。躊躇する言葉と同じく、馬乗りになった男は動きを止めていた。女はなぜだか抵抗していない。
もしかして‥‥強姦に襲われているという考えは勘違いなのだろうかと走る足を止めた。
野外ならば可能性は多少あるが、屋敷の中で婦女子に手を出す人間がいるだろうか?
もし強姦ではなくて、只の恋人同士の戯れた遊びなら、自分はどんな出歯亀だと後で散々後悔することになるだろう。
人に出会うというリスクはこのようにしてローレンを苦しめる。
ローレンの苦悩とは的外れで、彼女と男は恋人同士ではなかった。
ましてや、知り合いでもない。
彼女は、抵抗すると押さえ込まれる体力が勿体ないとあきらめた様に静かにしていただけだ。相手の抵抗がなくなると、男は事を始めようとするが服の脱がしかたが解らず戸惑ったまま、のしかかっている。
「ホント、犯るんだったら服の脱がし方ぐらい覚えとけよ」
低い声が響くと男は驚き、更に動かなくなる。そんな隙だらけの腹部に彼女は曲げたひざを差し込む、上に馬乗りになっているため男の腹部と言うよりも脇腹に近い。そのまま上に突き上げた蹴りが腹部に突き刺さるように入ると、その衝撃で男は中に浮き、彼女は自由になった。
その行動わずか数秒。
鮮やかである。
彼女は両肢を上から下へ振り下ろす反動を使い、上半身を起こすとローレンと目が合った。
女性は侍女のヴェーラだったがローレンには女主人と区別がつかない。
「あ、あらローレン様‥‥見ていらしたの?」
どこから、とは聞かれなかったが彼女の指している内容はなんとなく想像がついたのでうなづいた。
「ちっ‥‥だったら助けろよ」と小さくつぶやくと立ち上がる。その冷たい声に耳がおかしくなったのかと疑った。
いや、案外女性などは本性はこんなものかもしれない。
「今のここでの事。姉様にバラしたら、殺しますわよ」
蹴り上げた男が這いながらも逃げ出そうとしている姿を見て、男の襟元をつかみ床に叩きつける。鈍い音と男のうめき声が少し‥‥姉様という表現でどちらであるかの判断がやっとついた。
「こんな大人しい女の子を狙うなんて、ろくでもない使用人です。顔はよくても性格はおかしいんじゃないのかしら」
『その言葉そっくりそのままお前だよ』と思ったが黙っておこうと思う。それより、叩きつけられた男は動かない。
「死ん‥‥」
「こんなくらいでありえない」
そう言ってもう一度襟元を掴んでローレンに顔が見えるように起き上がらせる。下半身は床にうつ伏せに寝ている状態のまま上半身のみを持ち上げられているので、無理やりな海老反り体制である。そんな姿が苦しいのか、それとも後ろ襟を掴まれ首が絞まって苦しいのか男は苦痛の表情で何か言葉を吐き出そうとするが声にならない。『ぐ』とか『あ』などの単語が空気と一緒に鼻から漏れる。
「ほら、息してる」
彼女にすれば、何を言おうとしているかは重要ではない、呼吸をしているから声が出るのだとローレンに知らしめたら問題ないのだ。地面に叩きつけられた顔は、元の形の判断がつかなくなっていて、この男が誰なのか分からない。
制服はフットマン達が着ているものに似ているが、それだって所属の手がかりになるものでもない。
「こいつみたいなのが他にいたら問題じゃない。調べてよ」
怒りの表情で使用人をつまみ上げるヴェーラにローレンは先程悩んだ内容を確かめておきたくて、無礼を承知で訊ねてみた。
「あなたが誘われたので」
言葉を言い終わらない内に石の壁にヴェーラの拳がめり込んだ、ローレンの髪が少し切れ目の前を散る。
彼女の暴力的な行動に驚き恐れるよりも先ほどの状況を読み誤っていた事が残念だった、躊躇せず助ければよかったのだ。
「ああぁぁぁ。ヴェーラ!!」
悲鳴に近い絶叫が廊下に響く。声の主は彼女の姉で主人のエリンである。
「暴力は振るわないって約束しましたからこちらに連れて来ましたのに、何をしているのです。ローレン様お怪我はありませんでしたか」
なんだ‥‥暴力なのは知っているのか、と先程口止めされた事を思い出す。これでは何を口止めされたかが分からずどこまでを話してよいのやらと一瞬悩む。
「私は何も。ヴェーラ様が、このフットマンに襲われたのを撃退されただけですよ。ご自身の身を守るためです、お約束を破られたのは仕方なかったのかと」
変に隠すよりもと理解した現状を正直にはなすとエリンは表情を歪めた。屋敷内で婦女暴行未遂があれば、女性なら怖がることだろう。
「屋敷内でこんなことが起こったのは残念ですが、しばらくはお一人でこの廊下を通るのは止めたほうが良いかと」
「遠回りになりますが危ないですからね。姉様」
ヴェーラはエリンの両肩に手を添えて歩きだす。
離れていく道中でたまに頷いているが何を話しているのかまでは、残されたローレンには分からなかった。
彼の新しい仕事は、目の前に転がっている。暴れられても困るので、気を失っている男の上着を脱がすと、後ろ手と絡め、軽く拘束した。
「問題はどうやって運ぶか‥‥」
人間一人を人間一人が移動させるのは簡単なことではない。自分は世間一般的な男子より力はない事は自覚している。自走させるのが一番楽な方法なのだが気が付く様子はない。侍女は軽く危害を加えていたが、衝撃は全く軽くないようだ。
起こしている脳震盪で記憶が曖昧になっていないことを祈りつつ、男の腹に台帳を置き両足を持って引きずっていった。
「ローレン様どうなさいましたか」
上手い具合にヴィオロンに出くわすと、先程あった内容を簡単に説明する。説明内容は、ヴェーラの暴力は省略したが壁の破損も含まれている。
ヴィオロンが数名のフットマンを呼びつけると、男はしっかりと拘束された。食い込んだ縄が、見ていて痛いぐらい強く縛ってある。
「見たこと無い制服ですね、屋敷の物では無いのかもしれません」
「そうなのか‥‥てっきりその制服は屋敷のフットマンかと思ったのだが」
簡易に拘束していた上着を調べていたヴィオロンがそう言うとローレンは自分の意見を述べた。
「背は高いし、体格もしっかりしています。顔は元の原型がわかりませんから判断基準には入りませんが、勘違いされるのも仕方ないですね。ですが、制服が全く違うのですよ」
ローレンは男の上着を預かり、そこにいるフットマンの制服と比べるが何が全く違うのか、分からず首を傾げる。
「ここですよ」フットマンは上着のボタンを外し裏地を見せた。
裏地はついているものこそごく一般的なものだが、生地の合わせ方が普通ではなかった。内ポケットの入り口を避けるように縫い付けられ、何故か派手な糸でステッチが施されている。
確かにこれを知っていれば、男の上着を比較すると全く別のものと判断するだろうとローレンは納得した。
「こいつは完全な不審者なわけだな」
「ですね。物取りはたまに確保しますが、ご婦人が狙われたのは初めてです」
ヴィオロンが表情も変えず屋敷の現状を語るとローレンは驚いた。安全だと思い込んでいた場所が危ないのが普通だと言われれば驚かない者はいない。
「よくいるのか、こんなのが」
平和ぼけした言葉に当然だとばかり、ヴィオロンは答えた。
「街中に群れてある屋敷ではなく、こんな田舎にぽつんとある屋敷ですから、珍しい事は無いでしょう。しかも、王族の屋敷です狙わない方がおかしいですよ」
「警備は何をしている」
「敷地の入り口に数名配置しているだけですし、制服を偽造してまで入ってくるなら対応は無理かと」
実質的に行うとすれば、入るフットマンの上着を脱がし裏地チェックをすれば良い。ただ本当に行うのはナンセンスであり、裏地に何か在りますよと公言しているのと変わりない。
「対処は不可能なのか?」
至極当然な疑問と希望的な質問をヴィオロンになげかける。
「無理ですね。時間をくださればよき案を考えてはみますが‥‥」
一度は不可能だと結論付けるが、主人の『なんとかしろ』という意思を感じ取ってヴィオロンは意見を変える。
「そうしてくれ」
「ところでローレン様。東館の台帳を持って何処にお出かけでしたか」
男の上に乗せられていた台帳をローレンに渡す際にそれが自分が先ほど預けた簿冊の一部であることに気が付きヴィオロンは尋ねる。
「ああ。ダヴィードが昨日調度品を破壊したハズなのだが報告書がなくてな」
「東館なら破損報告はありえませんよ」
即答である。ローレンが迷いのない言葉に疑問を抱くのは当然だ。
「特別に出す必要は無いとかか?」
「いえいえ。物が壊れることがないのですよ。ダヴィードにご確認ください」
『物が壊れることがない』とヴィオロンは言うがそんな訳はない、現に昨日割れた音を聞いている。人の怪我ではないのだから、割れた物は元には戻らない。
ダヴィードが虚偽の報告を行いヴィオロンを騙しているのかと疑うが、彼が騙されるとは思えないためその考えを否定した。
ここで昨日の話をしても音だけでは気のせいと捉えかねられない、物証を提示したほうが早いと思う。
だが、目の前の男を放置して東館に向かうつもりもなかった。
「彼の処理は終わってないが」
「これ以上は屋敷の主人の仕事です。私もこれに関してはヴラディーミル様のお帰りをお待ちするだけですよ」
ここからはローレンの仕事はもうないのだと言葉で表わされると迷う物がなくなり東館へ向かった。
そう、ローレンはこの屋敷の使用人でしかない。