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入り口を開けようとして、ドレスグローブに付いた血液に気がつく。本体が黒なので見た目には分からないが、このまま扉を開けるとドアノブに赤がついてしまうだろう。
ためらうローレンの代わりにヴェーラが扉を開けた。
「ありがとう」
血が付いたドレスグローブをはずすとポケットに押し込む。
屋敷内は違和感が漂っていた。いつもは玄関ホールに誰かが入るとヴィオロンかフットマンが来客対応に出てくるのが通常である。かといって、来客を毎時見張っているわけには行かないため(暇な時は見張っている場合もあるが)玄関扉には軽い音のするベルが取り付けてある。
そのベルの音だけが静かな廊下に来客を知らしめるために響いていた。
ハロウィンの指示を受けた使用人達はつい先程まで騒がしく屋敷内をソワソワしていた。だが今は全く違い、屋敷の中は人気が感じられずあまりにも静かなのである。
何故だか蝋燭を灯さずカーテンを締め切っているため、目視出来る空間は暗く嫌な気配が漂っていた。
「おかしいわよね」
ヴェーラは異変に気がつき口に出す。
「これも、殿下の指示なのだろ」
命懸けの雰囲気づくりだ。お陰さまで自分の生命の危機に迅速に対応は出来ない。
ローレンは庭の主人を思い出し表情を歪めた。
見当たらない使用人を探す時間があるのかどうか残された時間が分からない以上、自ずと行動が決まってくる。ヴラディーミルに必要なのは執事でなく、怪我の処置が出来る医師だ。だが、ローレンはこの屋敷に着てから、医師に会った事は無い。昔の自分のように専属の医師がいるのか、誰かが代役をしているのか、近隣の町から来てもらうのか、屋敷に医者をどうやって呼びつけるのかも不明だ。その点に関しては、他人だよりにして情けないと考えるが、自責の念だけでは現状は解決しない。
「この屋敷は医者はどうしている?」
行き詰った疑問をヴェーラに問いかけるが、侍女がそんな事を知っているはずがないと首を振った。
「そういえば、お医者様って知らないわね。簡単な怪我や病気ならミハイールが対応しちゃうんだもの」
「ミハイールが?」
「うん。彼が出してくれるお薬をね。飲むと魔法みたいに直っちゃうの」
そのヴェーラの言葉で優先順位が入れ替わり、まずはミハイールを探す事に。本来は優先させるべきなのは医師の調達である事をローレンは承知している。ヴィオロンを探しだして他所から医師を呼びつけている時間はどれだけあるのだろう。だから、多少の知識あるミハイールに見せるべきだと判断した。もし、ヴラディーミルのあの様子が本来の医師にしか対応ができなくとも、軽度の医療知識があればその時間までなんとか出来るかもしれない。
勤務態度が非常に良好なミハイールは特別な理由がなければ西館にいるはずである。玄関から西館は食堂を抜けて行けば、遠回りする必要がない。
西館も玄関同様、火が消え人気が無い。
今日は客人が居なかったかと思い出そうとするが、昨日、目を通した記録は記憶の中を探しても思い出せなかった。
客もフットマン達も、管理者さえもこの場に居ない。
「集団ボイコットなのだろうか」ため息と供に言葉が漏れる。
他所の国では雇用主に抗議をするため、ストライキと呼ばれる行為がある。当然雇用主への要求があり、意見を提げて誰かの目に着く位置に座り込んでいるものだ。ただ、そんな姿は全く見当たらない。
突然言い出したハロウィンの話。ヴラディーミルはいつも唐突で誰かの助言など素直に聞かない。そんな自己中心的行為に使用人達は我慢できなくなり、口論の末大怪我を負わせた‥‥そんな映像がローレンの頭の中に浮かんだ。それが妄想でなく本当の話であれば、屋敷内には誰も居ない。特定の誰かを捜索する時間が無意味である。
だが、傷害行為に走るほど憎まれるだろうか?
強者が弱者を食い物にするこの国で、彼は人を咎めない。だからどんなワガママも『迷惑な人』で終わってしまう。使用人に憎まれる想像自体がありえない。
使用人の控室から順番に客室確認し、人の不在を目視する。
廊下はカーテンが閉められていたが整えられた部屋はいつもと変わらない。部屋の中にいる分は、何事も無かった様な気分になる。
「居た?」
他の部屋を確認していたヴェーラがローレンの姿に気がつくと声をかける。彼女もローレンも収穫はない。
これ以上の捜索は無駄に時間を喰うだけだと判断したローレンは玄関へ向かおうとした。
「ローレン様だけが戻って、どうするの?」ヴラディーミルの元へと行くのだと気がついたヴェーラが声をかける。
「確かに僕が戻っても手当てすら出来ない。それにもう‥‥手遅れかも知れない」
冷たいヴラディーミルを思い出して、ドレスグローブが入っているポケットに触れる。
「手当てはダヴィードがしているかも知れないし、こういう時、何から出来るか話は聞ける」
何をどう聞いたら求めている答えになるのかは不明だが経験値はダヴィードの方が高い。それに、ヴィオロンはダヴィードを信頼していた。何かあるとヴィオロンがダヴィードを呼びつけている事からそれは分かる。頼れる誰かが居ない以上、彼を充てにするのはローレンにとって仕方ない選択肢であった。
「彼が知っている保証は無いし。外は危ないでしょ」
「危ない?」
口に出して彼女が危惧している理由を思い出した。外には、さっきのよく解らないものが居るのだと瞳が語る。
意識せず見下ろした窓の外に人影が見えた様な気がした。
「まさかな‥‥」
ジルの「沢山の死者が」という言葉が思い出される。庭で対峙した相手はダヴィードによるとアンデッド、死者である。
「どうしたの?」
「いや。別に‥‥」
ヴェーラの質問に答える際、窓から目を不自然に反らす。布達に囲まれた時は姿が見えていなかったということもあるが、まだ相手が人間だと思っていた。死者だと認識するとなぜか恐怖が心の奥底からにじみ出てくるのである。ジルの言うとおりであれば、相手はこちらの命を奪おうとしているのだから、恐怖もますことだろう。
「窓って、まさかこっちに来たの?」
彼女より弱くともヴェーラの前では怖がっている自分を見せたくない。骸骨達は窓の外にいて、屋敷の中はまだ安全だと思う心とプライドが自分の正気を保たせた。
「あれ、仮装には見えないよね」
ローレンが返事をしない事が肯定だと察した彼女は、閉められたカーテンに隠れ、少しの隙間から外を冷静に見つめ呟く。
そんな問いかけをしてくると言うことは、彼女は屍に仮装した物と見ているのだと、ローレンはほっとする。
「仮装だろ。本物が動いていると考えるのはおかしい」
非現実を認めたくなくて、強くおかしいと言った。
「だって死者が帰ってくる日なんでしょ。おかしくないわよ」
「‥‥」
意識が同調してないことが分かりローレンは黙らざるを得ない。
「ゾンビってのは見たことあるけど、同じ仕組みとは思えないし。あれってば完全に骨ね。どうやって動いているのかしら」
「君の解釈だと、死者が乗り移っているんだろ」
「魂の在り方は知らないけど、ゾンビはね、肉がないと意味が無いのよ。筋肉とかを動かしている電気信号を上手く利用して、神経に信号を与えて体を動かすの」
「はぁ?」
人の体を動かすメカニズムは、脳から発信される電気信号で体各所にある筋肉や筋を使い、骨を稼働させる。そんな説明をローレンが理解できるハズもなく彼女の説明に疑問符を着けた返事を返した。
「ゾンビの仕組み知らないの?
そっか、暖かい国の文化だもの、ポーランでは意味不明ね」
文化と聞いてぞっとする気持ちがローレンの口から溢れ出た。
「コウクナでは、あんな感じにゾンビが徘徊しているのか」
「コウクナよりもっと南の話。それに‥‥お祭りの夜にサモナーが、ちょっと動かすだけよ」
気を悪くしたのか尖った口調でヴェーラが返す。
それは突然聞こえた。
男性の悲鳴が廊下に響く。
「今の声‥‥」
「ダヴィードか?」
二人は声の方へ走り出した。
「やめろ!近寄んな骨!」拒絶するダヴィードの悲鳴が聞こえる。
骨と言うと、先程のあれだろうか。
屋敷の外をぞろぞろとあるく骨をヴェーラとローレンは上から見下ろしていた。ダヴィードの声は屋敷の中から響き渡っている。庭に居るはずの彼は何故骸骨達と屋敷内に居るのかとローレンは不安を心に押さえ込むのに必死だった。
ヴラディーミルはどうなったのかという事よりも、骸骨達が屋敷内に居るのかそうでないかが重要だ。