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彼が彼女と出会い、保護者となる話を続けるためには、まず彼がこの国の第三王子の住む屋敷の執事になった辺りから話をはじめなければならない。
その日は比較的なにもない普通の日であった。いつもと違うのは、前日より風が強く、作業に手間がかかっていた事だろうか。一日の業務が思った以上に手間取ると、必然的にその後の行程も遅れることとなる。遅い夕餉を取ろうと家のものが食卓を囲む。時間のずれは生じていたが、いつもの行程、食事、就寝を行えば明日またリセットされ、いつもと同じ時間、同じ作業行程の中、生活業務を行う。小作人の選択肢といえば、畑に出かけるか、羊を山へ連れていくかの違いだけだ。
今日一日が無事に終わったことを神に感謝するため、主人が長い感謝の言葉を語り終えたそのときに、家の扉が強く叩かれた。
居候であっても、衣食住は与えられ家族と同様に食事を許されるが、このような場合応対に出るのは、夫人ではなく一番下の息子でもなく、居候であるローレンだった。
食欲は当然あったが、表情には出さず暗黙のルールとなっている応対作業に向かう。ゆっくり扉を開けるとそこにはこの国の第三王子の姿があった。
目が合った瞬間、扉を力の限り閉ざす。大きな扉の音に、家人が驚いたまなざしをこちらに向けるが、そんな事は気にしていられない。
「御挨拶だな、ローレン。久々に会ったというのに、なんだその態度は!!」
目が合ったと感じたのは、ローレンだけではなく相手もそうだったらしい、視界を閉ざした相手がローレンだと認識して相手は怒鳴る。
「私は貴方様など知りません。どなたかとお間違いではないでしょうか」
絶対家に入れてはいけないと体全体が抵抗していた。
外から聞こえる声は知らない人間に対して発せられるセリフではないことは、誰の目から見ても分かる。加えて入り口をドンドン叩く音に、家人は尋ねずにはいられなかった。
「ローレン。誰なのだ」
「どなたなのか、存じ上げません」
「ローレン!!」
扉を叩く音は、今にも壊しそうな勢いで、相手の声は恥ずかしいぐらいに大きくなっていた。
「お早めにご退去を」
知らない知らないと言いながらも言葉遣いは隠せなくて、おそらく知り合いでローレンが気を使う相手だという事は予測されたが、このまま放置しておくわけにも行かなくて、近所迷惑な客人に家人が声をかける。
「失礼ですが、ローレンは知らないと申しております。どなたかは知りませんが、お帰り願えませんか」
「私を知らないと言い張るのだな、分かった。教えてやろう、私の名は、ソロヴィヨーフ・ヴラディーミル・カールルエヴィチ。それでも知らぬと言うのだな」
ヴラディーミルの名乗りに家人が青ざめたのは言うまでもない。
「なぜここに?」
おびえる家人のまなざしを背中に感じローレンは家を出た。
王子の名前など知らなくても生きていける田舎で、王家の鷹の名前まで名乗るのは嫌がらせなのか、その名前の意味を知らない天然なのか、何の問題も意識していない表情で王子はローレンに続く。
この家人たちの場合、ローレンの父セーヴァが軍の兵器開発主任なんぞに抜擢されている時点で、この国のお偉いさんの名前は耳にこびりついていることだろう。
セーヴァが死んだ今となっては、過去の悪夢として‥‥。
「いや〜私としてはお前が恋しくてな」
どこまで本気なのだろうと、ローレンは顔を歪めた。空腹のせいか、久しぶりの王子の嫌がらせに体が本気で拒絶しているのか、第三者の立場から見ても表情は王子に向けられるものではない。
「僕はもうシャムでも何でもない‥‥」
「だからだよ」
「は?」
「両親もいない、地位も後ろだてもいない‥‥そんなお前が心配でな」
ローレンの父は、この国を戦争大国とさせてしまった技術を提供した科学者である。(正しくは、ローレンの父だけの知識ではなかったが)
王は褒美としてこの国の貴族より高い身分を科学者に与えた。アレキサンドリナという街に大きい屋敷を与え、街から外に出ないように縛り付けた。一人息子も同時に住居を与えたのは、科学者への人質。少年から青年になる初期の息子には拒絶できる意志もない。
貴族以上の身分があったのは過去のこと、現在は父が病死し、地位は返上しているため、ローレンはただの平民へと成り下がっている。母方の親戚の山村で居候として日々暮らしていた。
望まぬとも併合された国、巻き込まれた国民、足りなくなった兵力を補充するために連行された農民、自国民であったとしても戦争というモノには憎しみを持つ人間が多い。ローレンがセーヴァの息子というだけで、他者の見る目は『人道に反する罪を犯したもの』として軽蔑していた者が多く、父方の親戚は勿論、過去に住んでいた村の人でさえローレンを拒絶した。彼の素性をよく知らない母方の親戚の親切に身を隠すように入り込んだのも事実である。
「本来の‥‥用件は?」
心配だから、会いに来た‥‥そんな人ではないとローレンは知っている。腐っても王子様なのだから、自分でここまで来る必要はないだろう。わざわざ、住居を探し出してまで訪ねてくるのは、他者には言えない何か他の用事があるのだと、感じたのだが‥‥。
「とりあえず、私の執事になれ」
「いやです」
内容はたいしたことがなく、考える間もなく拒絶する。
「なぜ即答なのだ!!」選ぶ権利もないだろうとばかりにヴラディーミルは詰め寄る。
「別に、殿下に心配してもらわなくても、今の生活には困っていませんが‥‥」
嘘だった。
昔から住んでいた村では、父が科学者になって貴族階級に召し上げられたということは、皆が知っている。ポーランの兵器開発にかかわっていたというのは、よく知っていることであろう。母方の親戚も父方の親戚も、よく思わない人間が多い。親戚に疎まれながらでも、生きていくには独立は不可能であった。
飼っていた羊も鶏も居ない上、住む家も無い、自給自足の方法は分かっていても、明日飢えをしのぐ方法がない。アレキサンドリナから追い出された時に、こうなることは予測できたが、元に戻る選択肢をワザと選んだ。
父が残した財は多少あったが、ローレンはそれをすべて退職金がわりに屋敷の使用人に分け与えた。それは父が残した功績による報酬で生きていくのはローレン自身が反吐のでる行為である拒絶と、今まで世話をしてくれた使用人に対しての礼と是から無職になる謝礼でもあった。
「では、それとも何か、私のことをディーマと呼んでくれるのか?」
ディーマと愛称で呼ぶか、執事になるかを天秤にかけさせる。ローレンは立場上、愛称で呼ぶのだけは嫌だったので、たいていの要求には首を縦に振っていた。
それは過去の話である。
「嫌ですよ。ディーマ様」
とてもきれいな笑顔で一言。
自分の要求が思ってもみない方向に通ってしまったので、ヴラディーミルは拍子抜けしてしまう。「なぜそちらを選ぶ‥‥」と固まってしまった。嬉しさのあまり顔が赤いのはローレンの気のせいではない。
「満足されましたか、ではお引き取りください」
固まったままの王子に一礼をし、そのまま背を向ける。
静かに家の中へ帰っていく友人にヴラディーミルは声をかけられず、ただ見ているだけしか出来なかった。
「王子は、何の用だったのだ」
なんでもなかったかのように、ゆっくり帰ってきたローレンを捕まえて、家人がローレンに質問する。その勢いは質問と言うより、尋問に近かった。
青ざめた表情は変わっていない。
「‥‥僕を召抱えると」
「は?」
ローレンの拒絶の態度と、直々に王族がこんな家にやって来た事で、とても悪い結果を想像していた家人は驚きのあまり、声を漏らした。
家人が思考を整理するのを少し待ってからローレンは結論を伝える。
「勿論お断りしておきましたが」
「な、なんだって」
「何か問題でも」
「大有りだろ。今からでも遅くない、お受けして来い」
そして、ローレンは今夜の晩餐にはありつけず、実質、家を追い出されることになった。
当たり前の反応だな‥‥とは、いまさらながらに思う。
王子の顔が知られていない偏狭の地であったとしても、戦争好きの王の噂は皆知っている。最近でこそ、直接的には戦争を仕掛けることはなくなったが、いつなんどき気が変わるか分からない。その、息子が所望しているものを断ったとならば何をされるか怯えて暮らさねばならない。
実際は、ヴラディーミルは父王とはかなり仲が悪いので、そのような結果にはならないことをローレンは知っているが、王族の内部事情など知らない農民には、王の機嫌を損ねないための当たり前の行動だといえる。しかも、ただの親戚、ただの居候。自分の家族の平和と、厄介ごとの面倒まで見る必要があるのかを天秤にかければ、必然的にローレンを王族に差し出すことになる。
「殿下」
つい先ほど固まった場所で、同じように固まったままの王子に声をかける。
王位継承権は三番目とはいえ、この国の王子様である。このような場所で放置されたまま、誰も回収に来ないのは計算外だった。
せめて、ここに居なければ「お帰りになられていました」とでも言えたのだか、ローレンにとって、真に残念な結果である。
「先ほどの話。仕方がありませんので、お受けいたします」
ため息を吐き出して言う言葉に、固まった王子の時間が動き出した。
「そうか」
満面の笑みで手を握り締め、上下に振り回す。
ローレンは嫌々ながらも、久しぶりの王子の子供のような行動に、変わっていないなと安心感を感じていた。依頼を受け入れた事を、心の底から喜んでいるのが見て取れるからである。
彼が最後にヴラディーミル王子を見たのは、王子とその妃の結婚式のパレードの日で、文字通り見た日である。
いつもどおりゆっくり降る雪の中。いつもと違うのは街中がその珍しい出来ごとで、皆興奮していた。普段静かな街が珍しく沸いていて、多少見物場所は違うものの貴族も商人も関係無しで、街路に並んで華やかな催しを見届けようとしていた。市民達の熱気で驚いていたが、自分もふらふらと街頭に歩みを進めたのは、二人を祝福しようと思ってではなくて、その催しに興味を引かれていたためだ。
王位継承権は勿論ない王子が、他国から妃を迎えるのはそんなに珍しいことではない、ただ王族の結婚お披露目目的パレードを行うのは始めてで、外国かぶれの王子がどこかの国の王族を真似て大々的な結婚式を市民の前で行いたいと望んだのだろう。
王都ではなく、別荘地として作られたアレキサンドリナで行ったのはなぜかという話題が、新聞のしばらくのネタであった。
街道に並ぶたくさんの人たちの中に混じることはせず、一歩後ろで時計店の壁に寄りかかっていると、遠くから王子たちが乗っていると思われる馬車が近づいてくるのが目に入る。盛装された姿は華やかで、このポーランで現実のものではないような雰囲気がしていた。
冷やかし半分で見に来ていたローレンも、馬車の上で手を振る二人に釘着けにされていた。
ローレンが現実的ではないと感じたのは、王子の隣に座る女性のせいであったのかもしれない。嫁いできた隣国のコウクナの姫は亡くなった姉姫に瓜二つで、姉妹なのだから当たり前なのだが、まるで彼女が王子の妃になったのかと思う。王子は、亡くなった王女に恋心を抱いていた。その恋心を知っていたローレンは、亡くなった彼女のかわりに妹を選んだのかと少し疑う。
そんな事をぼんやり考えていると、王子がローレンに気がつき、こちらの方だけを向いて大振りに手を振り始めた。今までの華やかで高貴なイメージが一瞬で台無しである。周りの貴婦人からも小さく笑い声が聞こえる。こんな、子供みたいな人にそんな深い想いがあるはずないと一瞬の思想を振り払った。
王子は通り過ぎても振り返ってこちらに向かって手を振っていた。
花びらや、紙ふぶきではなく、いつものように降る雪が、二人を祝福していた。
その日は、ローレンがアレキサンドリナを最後にした日でもある。