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予定外な事が起こっていた。
いや、単純にローレンの計算違いだと言われれば終わってしまう話なのだが。
アルコールが苦手な女主人が問題なく食事時にワインを飲むための果汁が底をついている。
対処方として今日はワインではなくて水で食事をとってもらおうと相談しにきた先に、留守のハズの主人が座っていたのだ。
「殿下。今日はお帰りにならないのでは」
驚いてそう言うと、ヴラディーミルは機嫌を悪くした様で仏頂面をこちらに向けると「あいにく、予定が変更になってな」と返事を返した。
主人の機嫌を損ねたのは全く問題ないが、主人が帰宅していれば、夫人に水を進めても首を縦に振らないだろう。そうなると、今夜の分は確実に確保してこなければならない。
「明日は食事はこちらで?」
夕餉の時間には出かけないのかと希望をこめて確認してみる。
「私が居ると不都合なのか」
「いえ‥‥」
不都合ですと言いたい気持ちを抑え、主人の質問を否定する。原因はヴラディーミルであっても直接的には何も関係ない。
必要以上に尋ねる態度が野生の勘に感づかれた様だ。歩くローレンの後ろを付きまとうようについてくる。
「業務の邪魔なので、お部屋におもどりください」
当然のように部屋に入ろうとする姿を制し追い返そうとするが、全く効果がない。
「ちゃんとお前が仕事をしているのか監視してるのだ」挙句の果てにこの台詞である。
ローレンに続き、執務室に入り込むと、日の当たる窓際に椅子を移動させ座る。
その場所はローレンの背後に当たり、監視をするには丁度良い場所ではある。ヴラディーミルが大人しくそこに座っているとは思えないため、どうやって追い出そうかと要らないことに頭を使うことになる。
「ローレン様よろしいでしょうか」
そんな中、来客の声が室内にかかる。
「どうぞ」
返事を返すと、メイドが入ってきた。
「君は?」声を聞いたことのない彼女は姿を見ても思い出さない、初めて会う相手にローレンは質問する。
「メイドのジルと申します。本日参りましたのは、お願いがございまして」
彼女はそんなローレンの質問に答えると、自分の用件を続けた。本当は彼女の願いなど聞いている余裕は無いのだが、ワザワザ訪ねて来たのを追い返す礼儀は知らない。それに他所で耳にしたり、目にした『ジル』という名が気を止めた。
「どうされました」
「実はセラーに保管してある果汁を分けていただけないかと」
頭をさげたまま、彼女はローレンにとってとんでもないことを言う。
「無理ですね」
無論依頼は成就することはできない。
「どうしてでしょうか。私ごときには分ける物は無いと?」
「いや、そうでは無くて。余裕があれば分けることはできる。あいにく在庫がない」
頭ごなしに無理と言われ口調の尖った相手に現状を説明すると、ジルはびっくりした目をした。
「はぁ? あなた、消費量も予測してないのですか。執事でしたらそれぐらいこなして当たり前かと思っていましたけど、他部署ならともかく、自己管理しているセラーで欠品を出すなんて、失格ですのね」
「調達は検討中だ。君こそ、普段必要の無い果汁を求めるのには僕と似通った理由があるんじゃないのか」
ローレンは気が短い。彼女の言葉に少し腹を立て、言い返す。
彼女は顔を真っ赤にして「あなたと一緒にしないでください」と怒鳴る。ムキになるのは肯定と思われた。
そして、聞き取れない声でぶつぶつと呟くと、頭を下げて出ていった。
扉は乱暴に閉められる。
「ふーん。果汁が足りないのか」
ジルとローレンのやり取りを空気の様に見守っていたヴラディーミルはニヤリと嫌な笑みを浮かべる。
「先程も言いました様に調達は思案中です。ご心配なさらずに」
来客の事しか頭になかった一瞬で、窓際の主人を忘れていたローレンは隠していた失敗を自ら暴露してしまった事に青ざめる。
「しかし‥‥果汁なんて何に使うのだ?」
ヴラディーミルは気づかなくていい事に疑問を抱く。
「パーシャが飲むのですよ」
夫に気を使うエリンのために必要だとは、その夫に言うわけにもいかず、別の理由を言い訳にした。因みにパーシャはあれば飲む時もあるが、甘い果汁が邪魔をして食事の味を上手く伝えられない事をヴェーラから聞いて食事時には基本は水である。このように保護者を困らせたりしない。
「いや、ジルだよ」
「それは存じません」
先程の態度を思いだし、愛想の無い口調で返す。
自分でも失敗したと自覚しており、対処する前に失格と責め立てられた事が無駄に彼の自尊心をえぐったため、彼女の印象はかなり悪い。
「彼女が困っているのだ。ローレンなんとかしてやれ」
素敵な屋敷の主はメイドにさえジェントルマンらしい。何故、彼女の為に調達してやらなければならないのかとやる気の無い思いが「はぁ」とローレンの口から漏れる。
「屋敷内で手に入れるとすれば果実から絞るしかないだろうな。本来ならばジルに頼むのだが、その彼女が求めているとなると‥‥」
「果実なら彼女に頼まずとも厨房にあるでしょう」
葡萄やオレンジを厨房に納品した伝票を見たのを思い出す。あれはいつの日付であったかまでは記憶に残っていないが、入れたと言う事は少なくとも果実が有る可能性はある。
「厨房に‥‥ないだろ」
ヴラディーミルは少し考えて、無いと判断する。
「交渉はしてみます」
ローレンの思考には、ヴラディーミルの結論を参考にすることはない。
「まあ、手に入らないだろうが後で報告に来い」
先程の様に付きまとってついてくると考えていたローレンは拍子抜けである。
何を持って無いと決めつけているのかは分からないが、邪魔なヴラディーミルがついてこないだけでよしとした。
厨房の場所はわかっていたが、来訪するのは初めてである。用事があれば一度ジャムを作った料理人と話をしてみたいと思っていたからだ。厨房以外にも場所は分かっているのにローレンが足を踏み入れていない場所は多くあるが、パーシャの様に探検しようとは全く思わない。むしろ、縁が無ければ近寄りたくも無かった。
踏み入れたことのない領域を歩くと、会ったことの無い使用人達が警戒して見ている事は見に染みてわかる。
他人の視線は何故だか痛い。
それは、昔も今もあまり変わらない。
厨房は昼だと言うのに真っ暗で人の気配が感じられなかった。中に踏み入れると人の気配処ではなく、料理を作っていた形跡がない。色んな物が埃を被り、床には自分が着けたと思われる足跡が入り口から延びている。こういう清掃がきっちりされていない場所では菌の繁殖が恐ろしい所だが、カビの匂いがしないし目に見えて生えているものが見当たらない事から、食材も放置されているわけではなさそうだ。
ここは使用されていないのだ。
目の前の状況からそう判断はするものの、昨日もちゃんと食事が運ばれてきたのは確認し自分もそれを食べた。目の前の環境はそれさえも記憶違いだったかと思うほどに荒れていた。
ヴラディーミルが『無い』と断言するのも分からないこともない。
「無いと言うよりは、存在しない‥‥だな」
ふうと一息吐き出すと、知らぬ間に袖口に積もった埃が白い煙となって吹き飛ばされた。
眉をひそめるローレンの後ろに、一回り小さな人影が潜んでいる。埃に気とられて気づかぬローレンに近寄ると、人影は後頭部を殴り付けた。
「残念だったね、泥棒さん」
一撃が彼の意識を奪うと、相手は低い声でそう言った。
ローレンが意識を喪失していたのはほんの少しの時間。その時間であっても相手には十分であった。
打撃された後頭部はしっかり痛んでいて、頭を動かすと突き刺さるように痛みが走る。無意識に痛い部分を押さえようとすると拘束されている両手が確認できた。
「泥棒じゃなくて、この方は屋敷の方ですよ」
「つまみ食い、食材横領、器材転売、屋敷の内部の人間だって泥棒には違いないさ。しかも性質が悪い」
「ですが‥‥」
頭の上で男女の声が聞こえる。どうやら自分の事を泥棒だと話し込んでいるらしい。
「そんな品の悪い方には見えませんが」
上半身は起こす事ができたため、なけなしの腹筋を酷似し上肢を起こす。
メイドと白衣の二人が話し合っていた。
「使用人だったら腐っても貴族の坊っちゃまなんだろ、品はたーぷりあるさ。あ、目が覚めたか」
「状況を説明してもらえないか?」話し合っている二人に声をかけた。
「ひゃあっ」
メイドが、ローレンが声を出したことで怯えるように白衣の人間の後ろに隠れる。
「手は縛りつけてあるんだから、暴れやしないよ」
隠れたメイドに声をかけ、ローレンの方へ向き直ると、低い声を更に低くして「状況をって余裕だね」と笑う。
「怯えるようなやましいことは無いからな。キッチンと図面上指定してある位置に行ったら廃墟だったのは覚えているが」
周りを見回すと先程の廃墟ではない。
燃える暖炉に煤けた鍋がかけられ、水槽に置かれた水桶に清潔な水が張られ野菜が浸けられている。厨房と想定できる風景だ。
先程の廃墟が幻で、現実はこうだったのかと痛む頭を悩ませた。
「見た所、屋敷の使用人だろうけど、キッチンに用事のある男性使用人は居ないんだよ」
白衣の相手は長い棒をローレンに突きつけると上から怒鳴り付けた。
「で、泥棒と認定された訳か」淡々と状況を確認する。
「そうだね」怖がったり、焦った表情を見ることができない相手はつまらなそうに返事をする。
「僕はちゃんとした理由があってキッチンに来た」
「なにさ」
「それは言えない」
失態を知る人間はごく少数で構わない。得体の知れない二人に教える必要は無かった。
「馬鹿にされてるのか俺等は」
「君達は僕が泥棒と考えている。それは僕を何者なのか分かっていないからだと思う。ただ、僕も君らが何者なのかは全く知らない。知らないからどこまで説明していいのかも把握できない。よって説明はしない」
武器(?)を持っている相手を煽って無事に済むとは思えなかったが、先日のような衣装を用意した外部の者も居る可能性は無くない。間者は男性より女性の方が多いと聞くしメイド服を着ていたとしても内部の人間とは確証できない。ただ、ここが厨房であるのは間違いなく、この場所で部外者の自分を泥棒と警戒していることから外部の人間ではないと想定はしていたが、あくまでもローレンの想定内であるため言葉の確証が欲しいと思っていた。
「私は、キッチンメイドのルーダと申します。ここはファーストコックのキラ様の管理キッチンです」
隠れていたメイドが二人の間の割って入り、自分の身分と場所の説明をローレンにする。
「ルーダ。何丁寧に説明してんのさ」
白衣がメイドに怒鳴ると「確かにおっしゃる通りなのですもの」と身をすくめた。
「ありがとうルーダ。僕はローレン」
「あのローレン様ですの」
彼女の言葉に視線をそらす。
「君も名前だけは知っているんだね」
兵器を作った男の息子として軽蔑されるのだろうとそらした視線はそのまま床へ。
「だれなんだローレン様って、聞いたことない」
「ヴラディーミル様の大切な方だって噂の執事様ですよ」
「あー。王子の恋人か」
想像していた言葉と全く違う言葉を二人は認識しあった。
「は?」
驚きのあまり声が漏れる。
「違うのか」
「違う。断じてそんな事は無い。殿下はちゃんと奥方も居られるし僕に男色の趣味はない」
とんでもない勘違いだと痛む頭など気にせず首を振り、全力で否定した。
「なんだ面白くない」
「真実であったとしても面白くなどない。お二人に失礼だろ」
エリンは間違いなくあの王子に好意を持っている、メイド達の勘違いが耳に入る事はあまり好ましいとは思えない。誤解され、夫人に嫌われて解職される事は困らないが、解職されず勤務をこなす方が色々と気まずい。
「こいつが失礼なのは認めるが、あんたも失礼なままで居るのかい? 俺らは自分の所在を明らかにしたよ」
自分たちの想像が叶わなかったのが残念なのか、見るからに肩を落としているルーダの横で白衣の人物はローレンに再度の問いかけをする。
「あ、そうだな。その、コックは居ないのか?」
「この服が見えないのか、俺がキラだよ」
確かに白衣はコックの証だ。ただあの繊細な料理を目の前の人物が作っているとは全く結び付かない。
「あの綺麗な料理を作っているのはあんたなのか」
「つくづく失礼な奴だね」
「キラ様、きっとローレン様は褒めているのですよ。素直に受け取りましょうよ」
「いや、信じられなくて」
メイドが気を利かせた言葉もローレンは台無しにしコックを怒らせた。
「ほら、馬鹿にしてるだろ。ルーダ。チーズをだせ。貝に使うからほんの少し、外皮はいらない」
メイドに指示を出すと自分は奥から貝を持ってくる。指示を受けたメイドは太めのナイフでチーズを切ると外皮部分を削り、慣れた手つきでスライスし始めた。
キラはその間に貝から大きな貝柱を取り出し、クロスで包む。
フライパンの上にスライスしたチーズを敷き、溶け出すとクロスで包んだ貝柱を乗せ両面を軽く焼いた。
ルーダが持ってきた白い楕円形の皿にそれらを載せると空いたフライパンに取り除いた貝殻を並べオリーブオイルをかける。軽く火を通し、貝殻を取り除くと、残ったものに粉状の何かを混ぜる。出来上がったソースをまるで絵を描くようにかけると空いたスペースに貝殻を置き赤と緑の小さな葉を置いた。
ローレンがぼんやりしている間に簡単な料理が出来上がった。
食す部分は少ないけれど、白の貝に軽く焦げたチーズの淡い色を囲むように、緑色のオイルと置かれた赤と青緑の葉が鮮やかでとても綺麗な作品が差し出された。それはいつも配膳している食事を目の前の人物が作っているという証拠である。
「大変失礼しました。確かにあなた方が料理を作られている」
短時間でこんなに綺麗なものを作り上げた腕に敬服し、失礼な態度をわびた。
「大人気ないですけどね」
満足したコックの前でいたずらっ子のように笑い、こっそりローレンに耳打ちする。
「緑色のソースにはオリーブオイルに何を入れたんだ?」
工程を見ていた中で、ソースの原料だけが理解できなかったため製作者に質問をする。
「アーモンドと岩塩をこのルーダが粉末にしたものだよ」
「アーモンドでこんなに鮮やかな緑にならないと思うが」
粉上の何かは、塩と木の実の粉末だという。双方からこの色が生み出されるとは到底思えないため疑問の声を上げた。
「それは、ハーブとレモンの皮を混ぜ込んでいるからです」それは自分の仕事だといわんばかりに手を上げてルーダがローレンの疑問を解いた。
「なるほど‥‥酸味のある匂いはレモンの皮か」
想像していなかった果実の名前にここで果汁が手に入ると内心ほっとする。だがレモンの果汁ではワインと合わせる事は出来ない。
「ローレン様。ではキラ様に何故こちらにいらっしゃったのかお伝え願えますか、納得していただけないと拘束を解除差し上げることはできませんから」
仲良く話しはしているが、ローレンはまだ泥棒の嫌疑をかけられていて、腕は拘束されたまま。
「実はワインに風味が足りないときに果汁を混ぜているのだが」
伝えなければ物は手に入らない。手にいれるためには正直に話すしかない。
だが、失敗談を話すのには躊躇した。今、目の前でしれっと素晴らしい料理を作ったコックにならなおさらだ。
「で?」
とまってしまった言葉の続きを促すようにキラが言う。
「最近は使用量が増え、必要な果汁を切らしてしまい。果実を分けていただこうかと」
視線をそらしたまま恥ずかしそうに答えるローレンの言葉にキラは目を丸くして一瞬固まり、直ぐに噴出すように笑う。
「あは‥‥だっさぁ。執事失格だね」
管理がちゃんとできていないのだから、失格と言われても仕方がないのだがキラはそこをバカにしているのではなかった。
「執事様みずから果実から果汁を取り出す作業をするんだ」吹き出す様に笑いだし、そして止まらない。
隣に居るルーダが、オロオロしだす。ローレンは何とも思ってはいないが、上位使用人の前で大笑いするコックの態度は失礼だと怯えているのだ。
「あー笑った。笑った。残念だけど、ここにはワインに使える果実は無いね」
「葡萄を納品した事はあるはずなのだが」
「過去に魚のソースに使ったかも知れないけど、基本は木の実やハーブで足りるからね。デザートやジャムを作ってるメイドなら在庫あるかも知れないけれど、厨房には今は無い」
「ジャムはコックが作っているのじゃないのか」
当たり前の疑問を相手にぶつけると、コックは馬鹿にしたように笑った。
「なんにも知らないおぼっちゃまなんだね。コックは料理しか作らないの、甘味はメイドたちが作ってる。まあ俺もメイドの誰かまでは興味ないから知らないけどね」
ジャムが甘味に入るのかは分からないが、彼女は製造に関与していないらしい。
「そうか‥‥」少々残念そうに、ローレンが呟く。
果実が手に入らない事だけではなく、あの素晴らしいジャムを作っている人間が誰か分からない事も含め残念な結果となってしまった。