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ある天気のとてもいい日。
秋風が強くなってくるはずの季節にもかかわらず、最近は春の初めのようなやわらかい日差しが続き庭で散歩するのも軽装ですむ居心地の良い日が続く。だが、ヴラディーミルのスーツの埃が気になって、気になって、しょうがないローレンは主人が居ない部屋でスーツにブラシをかける。外の気候など関係ない。
そんなものはフットマンにお任せ下さいとヴィオロンは言うけれど、任せていて満足できない仕上がりなのだから自分がするしかない。
ヴラディーミルは最近よく出かける。
昨日も、その前も留守にしていた。
当然本人は仕事だと言っていたが、あんな王子がなんの仕事をしているのだろうと疑問に思う。
王ならば、たとえお飾りでさえ、王座に座っている時間は屋敷を留守にするだろう。王座では国の行く末を色々悩むだろうし、面会者と会話もしなければならない。
現王は戦争屋なため、机上戦略でも練っているかもしれない。だが、王子なんていうのは、市民の血税で暇な時間をどうやって潰すか悩んで、自宅に閉じ込められるハズだ。とローレンは偏見を持っているため、ヴラディーミルが忙しくしているのが不思議でならなかった。
ブラシをかけだして気になったことと言えば‥‥。
二日以上留守にしたあとはスーツには必ず傷や埃まみれになっている。上着が裂けていることもしばしば。
中身は普段通り横柄な態度は何も変わらず、パーシャに向けては、へらへらしている姿は怪我している様には使用人達には見えないし、手当てをしたと言うものも居ない。ヴラディーミルが乱暴なのだろうと結論づけ、クロークにある傷んだスーツを新しい物と取り替える。傷んでいたり埃まみれになっていたりしてもハンガーにかけクロークにいれている辺りから全く気にしていない事は良く分かる。ただし、これは屋敷の主人がしたことか、フットマンが手を抜いたのか判断はつかないが。
傷んだスーツは軽症ならばエリンが補正してくれるため、真新しい物を何着も購入する必要はない。屋敷の財産の管理をさせられている身としては費用が浮いて大助かりだ。ただ、悩ましいのはいくら裁縫が得意であっても、女主人にそんな作業をさせても良いものかと思うが‥‥。
「あら、今日は一着だけですのね」
ローレンが持ってきた上着を残念そうに広げて見せる。
「そんなに何枚も破られては困ります。それに‥‥エリン様に」
「また言われるのですか、旦那様のお洋服は妻が縫うものですわ。それくらいしかディーマ様に出来ませんのに、それさえもお邪魔されますの?」
毎回補正の依頼をするたびに繰り返されるやり取りに、うんざりしたエリンは上着をたたんでタンスの中にしまいこむ。旦那のために尽くしたいと言う気持ちは分からなくも無いのだが、「おかしい」と一言言いたいのだ。
「ローレン様はお考えがヴィオロン様とそっくりですのね」
エリンが言うように、最近のローレンは昔のヴィオロンとそっくりになってきたように自分でも思う。
ヴィオロンに教えられた常識が常識なのだから、仕方がない。
「使用人に‥‥」女主人の言葉が引っ掛かったので、注意しようと口を開くと「様をつける必要はありません」と先に相手が、眉をひそめて言った。
自分の真似をしている姿に同じように眉をひそめる。
「お分かりになられているのなら、お気をつけ下さい」
「分かってはいますのよ。でも、お二方ともディーマ様のご友人ですもの。失礼ですから」
「私は友人などではありませんのでお気になさらず」
以前ヴェーラにも同じことを言われて否定したが、何処をどう見れば友人に見えるのだろうと悩む。
「そういえばローレン様。ご相談がありますのよ」
話を無理やり終わらすようにエリンが話題を変えた。本当はもう少し言わなければならないことがあるのだが、今の彼女は何を聞いても通り抜けるだけなので、無駄な労力を惜しむ事にした。
「何でしょう?」
「お食事にワインを飲まなくて問題ないマナーは無いでしょうか」
質問された内容の意図が解らず首を傾げる。
「ワインですか?別に飲みたくなければお出ししませんが、飲まない事はマナー違反でもないですよ」
ローレンはアルコールが不得意だ。何が上手いのかは分かりかねる味に、気分が悪くなる匂い。無理をして摂ると身体中を悪寒が走り立っていられなくなる。初めて飲んだ時に比べたら、強くはなったが好んで飲む物ではない。
「私だけではなくて、ディーマ様もご一緒にしなければならないような‥‥ね」
「殿下は食事時にアルコールが無いと暴れますよ」
雪がよく降り、世界が凍結しているポーランの人間が酒を摂るのは、体を暖めるという習性に近い。王族は浴びる様に飲んでいるのをローレンは昔見かけた事がある。自分とは違い耐性がとんでもなくあるのだろう。
ヴラディーミルも王子だけあって酒は強い、と、言うよりも酒を置いてないと回答しただけで暴れるぐらい好物だ。
エリンが聞きたがっている『飲んではいけないのがマナー』であれば、マナー違反だろうが酒を要求するに違いない。
「でしたら、私も飲まなければなりません」
「はぁ‥‥」
妻が夫に追従する必要はないと思うのだが、彼女は健気にも主人と同じように過ごしたいらしい。「あるいはエリン様が飲まないでと言われれば、気を使われるのでは?」
「滅相もないです。暴れるほどお好きな物をお止めするなんて」
飲みたくないが、相手に気を使わせたくなくて飲むという選択肢しかない。だから、飲んではいけないというルールは無いものか?とは、どれだけ都合のいいマナーなのだろう。
ただ、アルコールが好ましくないのに、飲まなければならない辛さは良く分かる。苦手な酒を相手に気を使わせないように美味しく飲む方法があれば解決だ。
ローレンは、何とか出来ないかと頭を悩ませた。
「ヴィオロン‥‥相談があるのだが」
夕食用の食前酒を用意するため、ワイン庫で澱引き作業真っ最中のヴィオロンの動作を眺めながら声をかける。
「何でしょう?」
邪険にもせずに作業の手を止めてローレンに返事を返す。
「実は、エリン様はワインが苦手なのだ。かといって殿下の手前飲まないわけには行かない‥‥」
あんな王子ほおっておいて好きなようにすれば良いのだと誰もが思うが、主人が相談をしてきたからには簡単に結論は出せない。
「女性に多いですね、そういう方。アイスワインならいけませんでしたか」
代替案を提供すると、ローレンは表情に疑問を浮かべる。
「アイスワイン?冷たい‥‥ワインのことか?」
そう言って小樽からデカンタにワインを静かに移す。
むせかえる様なアルコールの香りがローレンを襲い、息を軽く止めて小樽に栓をした。
「ワインは冷やして飲むものじゃありません、渋みがさらに増してしまいます。このポーランでは、醸造の前に果実が凍ってしまいます。その凍った果実で作られたワインをアイスワインと私たちは呼びます。凍ったままの果実で作ると普通よりも甘くなるのですよ。それでも苦手なのでしたら、澱引き前のワインがよろしいかも知れませんね」
「澱引き前というと‥‥」
デカンタを見てローレンは言う。先ほど樽から入れたばかりのそれは、よく見ると沈殿物が下に溜まり二層の液体が出来上がっていた。
この上澄みの液体のみを主人達に提供するのだ。
「これよりももっと濁っていますよ。適頃なものにはすでに卵白が入っていますから、保存樽のものはすべて終了しています。澱引きなしで飲むのは想定していませんでした‥‥申し訳ありません」
ヴィオロンが正しく業務をこなした結果、望んだものが無くなってしまった事を謝罪する。
「いや‥‥想定外の事なのだから仕方ないだろう」
悪いのはそつ無く仕事をしているヴィオロンではない。謝罪されて困る。
「飲む意外に他は何か案はないか」
『飲まなくていい』提案は無いのかと聞いてみるが、ヴィオロンの頭の中には『飲まない』案は無いらしく「後は、口当たりを変えてみるのもいいかもしれません」と笑顔で答えた。
「口当たり‥‥」
口当たりを変えると言っても、アルコール特有の酸っぱさと苦さは変更できないだろうと表情にだす。そんなローレンが小樽からうつしたデカンタのワインと似た色の瓶を持ってくる。
「匂いの少ないワインに果汁を添加すると、香りと甘さが追加されます」
瓶の中身は果汁である。果肉と皮を取り除いて飲みやすく作ったものだ。
幼いお客様用に揃えてあるそれは、最近はパーシャのために開ける事もあった。
「ワインやアルコールが苦手だという方はアルコールの後味が苦手な方が多い様です。成分は変わらなくとも後味さえ調整すれば飲める方は増えますね」
成分を合わせるのが前提なので、すべてのワインに対応できる訳ではないとヴィオロンは言う。
ワインセラーには沢山の樽が積んであり、どの樽に何の酒が在るのかローレンは理解していない。そもそも、いくつあるのだろうとそんな問題だ。
「ですが、果たしてお食事と合うとは限りませんが」
そう言ってヴィオロンはため息をつく。この作業は彼にとって不本意なのだろう。
「それはおいおい考えよう」
飲み物はひとつ前の食している味、舌触り、感覚を洗い流し新しいメニュー独自の味を楽しめる。
不得意な飲み物が美味しくなれば、食事の時間は苦痛ではない。ただ、飲み物にも味があり。流した後味はどうしても口内に残る。よい使用人は食事の内容を壊さないように飲み物を選ぶのだが、今回の様な混ぜ物は選択肢にない。
選んだものが恥じとならぬよう、祈りデカンタにワインレーベルをかけた。
広い食堂に大きな食卓。上座の席に屋敷の主と妻が向かい合わせに座る。毒味された食事と管理された薬味をヴィオロンから渡されるとローレンが配膳を行う。
主人の前にはいつものワイン、エリンの前には混ぜ物のワインを注ぐと、エリンにだけ聞こえるように「お口に合うとよろしいのですが」と呟いた。ヴラディーミルに気づかれないように視線はグラスと注ぐデカンタから外さない。
いつもの様にグラスに淡い黄色を染めると、注ぎ口をナプキンでふき取り栓をする。注ぐ前に外したレーベルをかけるとヴラディーミルの後方へ回る。
呟かれた言葉を疑問に思いながらワインを口に含むとエリンは両目を見開いてローレンを見た。驚いて口が開いたのをヴラディーミルに気づかれないように口元に右手を添えて隠す。
ローレンは主人に気づかれないように一礼するとエリンだけに注いだデカンタを下げた。
「今日は機嫌が良いのですね」
普段と様子の違う妻にヴラディーミルは疑問に思い、いつもと違う言葉をかけた。
「いつもと同じですわ。あ、違うとすれば、お料理がとても美味しいのです」
夫の言葉に食事をする手を止めてエリンは笑顔で答えた。
「そう‥‥ですか?」
いつもと変わらないようなとヴラディーミルは首をかしげ、料理の味を確かめるようにゆっくり咀嚼した。
「あれはワインでしたの?嫌な味がしませんでしたわ」
ヴラディーミルが退席し、一人になったエリンがローレンにたずねる。
「ワインで間違いないですよ。まぁ正式にはワインというより、果実酒の方が正しいのでしょうが、意味はどちらも同じです」
ヴィオロンの思惑どおり、口当たりを変えた事で彼女は満足したらしい。
「お食事に合わないかも知れませんが、今後ご用意しましょうか」
ローレンの提案にエリンは笑顔で頷いた。
★
エリンのために、果実を添加されたワインの残りを執事室でグラスに入れる。
混ぜてしまうと品質が落ちてしまい、味が悪くなってしまうため、処分しているのだ。処分と言っても捨てるのは勿体無いため飲みきってしまうだけだが‥‥混ざり物のワインは誰も見向きもしないため、ローレン自ら飲んでいるのである。
嫌々飲み始めたワインだが、匂いを裏切らない甘い味とほんのり舌に残る酸味がローレンを虜にしはじめた。
苦味が全くなく、果実飲料その物だ。ただほんのりとしたアルコールが喉をチリチリ焼き、体温を上げる。
「確かに‥‥これだったら問題ないな」
幸せそうにワインを飲むと足元にパーシャが現れた。
「パパがティ以外飲んでるのはじめて見るの、何?」
「ワインだよ」
「わいんやだぁって言ってなかった?」
「よく知っているな」
以前会話の中でワインが苦手だと誰かに言ったことがある。勿論、彼女の言うような拒絶のしかたをした訳ではないが、意味をちゃんと理解して人の言葉を聞いている事に感心する。
「今日の頭はふわふわしているな」
頭を撫でようとすると、いつもとヘアースタイルが違うことに気がつき訪ねてみると「嫌い?ヴェーラにしてもらったの」と問い返されてしまった。
その言葉にローレンは首をふり、いつもと同じように頭を撫でると、満足そうににっこりした。
「ヴェーラは魔法使いだな」
パーシャがかわいらしいのは良いことだ。
「簡単なのよ」
こうやってと髪を小さくとり、三股に分けると編み込み始める。
どうやら、昨夜に小さなみつあみをたくさんして、髪にウェーブをかけたらしい。頭に置いた手を離すと、抑えられた髪の毛がスプリングのようにはね、緩くかかったウェーブがふわふわ広がる。
「パパは褒めてくれるの。ありがとう」
「誰も褒めてくれなかったの?」
「一人褒めてもらえなかったの。でもいいの」
そういえば今日はダヴィードにパーシャを預けていた。東館では誰かがパーシャのご機嫌を損ねたらしい。
「僕は、パパが喜んでくれたら嬉しいの」
パーシャは自分のことを『僕』と言う癖が抜けない。ヴェーラいわくローレンの真似をして覚えたらしいのだが、女の子なのだから他の人に見られたら驚かれることだろう。
「パーシャ。女の子なんだから自分のことは僕じゃなくて、私って言わなきゃ」
いつものように注意する。
言葉尻はとても優しく、甘やかすように。
「はーい」
優しいパパの注意を受けて、パーシャは素直に返事だけはするのだ。だが、未だに直っていないのは素直なのは返事だけである。
ヴィオロンに注意される前に何とかしようとほろ酔い気分の中考えるローレンだった。