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窓から差し込む光で朝になったことに気がつく。目が覚めてすぐのまどろみの中、自分がベッドの横で椅子に座りながら倒れ込んでいる現状を何故だと疑問に思うがベッドの占有者を見て理解する。
自分のベッドには昨日拾った幼子が自分の手を握りしめて眠っていた。椅子に座ったまま寝たのは久しぶりで慣れない行為に体が痛い。
今朝寝ついた所なのに、ちゃんと目が覚めたのもこんな体制で睡眠をとったおかげである。
握られた手を慎重にはずし、几帳面にたたまれた上着を手に持つと部屋を出た。全く記憶がないが、着たまま寝たり投げつけたりすればシワになる、無意識の几帳面さに苦笑した。
「おはようございます。睡眠はまだ十分ではないでしょう」
部屋を出てすぐある応接室にはヴィオロンが居り、ローレンの姿を見かけると立ち上がって挨拶をする。
「お前もそうだろうに」
眠いと言われれば眠気が体を覆っているのを自覚する、少し気だるい。
「二時間も寝れば大丈夫ですよ」
いつもと変わらないヴィオロンはそんな気配さえしない。
そんなヴィオロンは座っていた場所にローレンを座らせると作業を始めた。屋敷の主がまだ帰宅していないため、昨日の様にモーニング・ティーの用意は必要ない。
とり急ぐ作業が無い主を眠気が襲う目の前に紅茶を差し出す。添えるジャムは昨日と同じ黒いジャムだ。
「良い匂い?」
与えられた紅茶と驚くほど好みだったジャムを愛でながら眠気を覚ましていると、足元から声がする。
「まだ寝ていればいいのに。僕らが起こしてしまった?」
声の主はベッドを占領していた幼子で、ローレンの言葉に首をふった。
逃げ出さないようにローレンを捕まえたつもりなのか、上着の裾を小さな手でにぎりしめている。可愛い彼女を自分の隣に座らせると新しいカップに紅茶を注ぎ、ミルクで濃さを調節する。彼女に合ったカップがあればよいが、あいにくこの場には普通のソーサーとカップしかない。
幼い子供に自分と同じ濃さの紅茶を与えるのも気が引けて、これがサモワールなら湯を足して薄められるのにとティーポットを睨み付けた。
彼女はカップにミルクが描く渦巻きが楽しい様子で、上から見ていてもわかるぐらい目を輝かせていた。味にしろ、ミルク独特の甘い香りにしろ、この光景にしろ、紅茶にミルクも良いのかも知れないと屋敷の主の好みに感謝した。
ヴラディーミルに許可をもらえたと仮定して、これから彼女の面倒を見るのであれば専用のカップがいるなと夢の狭間でほのぼのと考えてみた。
目が覚めると、ベッドの上だった。
先ほどまで応接室で紅茶を飲んでいた気がしたが‥‥あれは夢だったのだろうか。
上着は几帳面に折り畳み、机の上に置いてあった。今朝見た光景と同じである。違うのは彼女がベッドに居ない事。
もしかして、幼子を拾った事も夢だったのかと、上着を持って部屋から出る。夢の中で紅茶を飲んだ場所には、飲み残したミルク入りのカップだけが置いてあった。
幼子と一緒にモーニング・ティーを飲んだのは現実だと残されたカップが告げている。
ポットとローレンが使ったカップがないのは誰かが片付けたのだろう。その誰かが自分を寝室に連れていったと思われる。
では、幼子は一体どこへ行ったのだろうか。
背中を嫌な汗が伝う。
今朝幼子が握りしめていた上着の裾を同じ様に握りしめ部屋を飛び出した。屋敷の中はあまり詳しくないが、思い当たる場所を探すしかない。
ローレンはまず夫人の部屋に向かった。昨日彼女を飾り立てたのはその部屋の侍女である。
もし、昨日の道筋を覚えているなら、たどり着けたなら、だれかに探してもらうのを新しいドレスを纏って待っているかも知れない。
「報告!」
ヴェーラの第一声はそれだった。
夜中に子供を拾っただの、着替えをさせろだので迷惑をかけられたのだから、彼女の今後がどうなったのか教えてもらいたいと思うのは至極当たり前の権利である。
ローレンとて良い報告なら喜んでしたいものだが結論があいまいでしかも今はそれ所ではない。話題の娘が居ないのだ。
「すまない。そんなことよりも、あの子はここに来てないか?」
「そんなことよりもって、 て?いなくなっちゃったの?」
自分の質問が軽んじられた事を抗議しようとして、開けた口が驚きの言葉を吐き出す。
彼女の驚いた言葉でここに居ないことだけが分かった。
「朝、目が覚めた時は居たんだが気がついたら姿が無くて」今にも泣き出しそうな表情でローレンは訴える。どれだけ悲壮なのだと馬鹿にする前に、その彼の仕草にヴェーラは心臓を握り締めたような痛みを覚える。心臓など握り締めたら直ぐに命が尽きてしまうだろうけど、今の痛みはそれぐらい一瞬で、それぐらい痛かった。
「昨日お話していた子ね。ヴェーラお探しするのを手伝ってらっしゃい。ローレン様ご心配でしょうに」
ローレンとヴェーラの話を後ろで聞いていたエリンは同情する。
「でも、お姉様のそばを離れるのは‥‥ねぇ」
昨日あのようなことがあったところだ。姉を一人にさせる予定は全くなかった。
ただ、目の前のローレンもこんな表情のまま放置しておきたくなくて、早く彼女の姿を確認させてあげたいと思っている。
「大丈夫。ディーマ様の剣が側にありますから」
当てになるのかならないのか分かりにくい物でエリンは安全を訴えた。顔は自信に満ち溢れているため、当てにするつもりなのだろうが‥‥。
ヴェーラは『一緒に探してあげたい』という気持ちが勝っていたため、否定的な意見は出さず、素直に姉の配慮に感謝した。
ただ、少々心配は残る。自分か屋敷の主が戻るまで部屋から出ないように言いつけると部屋の鍵をかけた。
「あら、閉じ込められるのね」とエリンは何故か嬉しそうだったが。
「私も実はこの屋敷、あんまり知らないのよね」
ローレンと幼子を早く会わせてあげたいとは思っても、ヴェーラとてどこから探せば見つかるのか全く見当がつかない。
「となると‥‥ダヴィードに聞いてみるか」
彼女のことを知っているのは、ヴィオロンとダヴィードだけ。何処に居るかわからないヴィオロンを探してだすよりは東館にいると思われるダヴィードの方が手間が省けると思い、次の選択肢とした。
だが、東館にはダヴィードの姿は見当たらない。
この二日間で見知ったフットマン達が遠くで頭を下げるが、質問をするまえに逃げ出すように作業に戻ってしまう。
「ローレン様どうされました?」
作業を中断させる必要があるかと悩んでいると、背の高いメイドがローレンに声をかける。彼女の手には傷を隠すためのドレスグローブがしっかりと装着されていた。
「あ、申し訳ございませんエリン様とご一緒でしたか」
ヴェーラを夫人と勘違いし慌てて、後ろに下がる。
フットマン達も恐らくこれに気を使ったようだ。
「気にしなくて良い。彼女はエリン様じゃないから。それより。ダヴィードは居ないか?」
メイドは疑問を表情に浮かべるが「ダヴィード様は、朝いらっしゃってから、そう言えば、それからお姿を見ていませんね」質問された内容を違える事なく回答する。
「そうか、なら君で構わない。朝から今までの間にこれぐらいの金色の長い髪の女の子は見なかったか?」
幼子の背の高さを手の位置で表し、慌てた口調で簡単な特徴を伝える。
「本日のお客様では、幼い御子様を連れた方はおりませんでしたので、記憶にございませんね」
「申し訳ないが、見かけたら僕に教えてくれ」
二日前に初めて会った時の様に、意識に余裕は感じられないローレンを心配そうにメイドは顔をのぞきこむ。
「大切な子なんだ」
ローレンはエリンの部屋で見せた悲壮な表情でそう言うと、メイドは静かに笑い「かしこまりました」と頭を下げた。
頬がほんのり紅いのに気がついてヴェーラは少し苛立つ。
「ここは彼女に任せて他を探しましょう」
「ああ」
袖を引いてローレンの方向をかえる。
「エリン様。ローレン様。おはようございます」
ミハイールにしては珍しくぼんやりとしていた、生気の抜けた様な表情で気味が悪い。
「ミハイール。ここで小さな女の子を‥‥あっ、と長い金色の髪でこれ位の大きさで」
挨拶よりも先に用件を伝えるが、今の内容で特定は出来ないだろうと別の容姿を伝えようとするが、特徴をうまく言葉に出来ない。
「ローレン様も見たのですか!」
興奮気味の声を張り上げる。
「見たのか!」
つられるようにローレンも聞き返す。
「ええ。私はここで天使を見たのですよ!」
「は?」
喜ぶ予定が狂ってしまう。嬉々とした、ミハイールが言う想定外の言葉にローレンとヴェーラは口を開けて声を漏らした。
「ほらこの絵!」
ミハイールが指差した絵画には湖の畔で貴婦人が子供たちに絵本を読み聞かせている絵だ。
「彼女はじっとこの絵を見ていました」
「この天使の女の子。確かにあの子に似ているわね」
ヴェーラが指差した女の子はよく見れば背中に小さな羽を持っている。金色の長い髪と、白いドレスが彼女と特徴が似ている。
「顔が全然違う‥‥」
ローレンが不服なのは、自分の事をパパと呼ぶ幼子は可愛く、絵の中の天使はふっくらしていて一般的には可愛いと形容される姿ではない。
「まぁ絵の中に見つけてもしょうがないんだから、で、その天使様は何処に行ったの?」
「あちらに向かって走って行ったのですが、見失ってしまって‥‥」
まるで絵の中から出てきた様な容姿に呆けて見ていたのは数秒。慌てて彼女を追うが、見失ってしまった。絵から出てきたのなら、絵の中に戻ったのかと元の場所に戻りぼんやり絵を見つめていた時にローレン達が視界に入った。
「この絵から逃げだしたのなら、戻っては来ませんね」あれは白昼夢などではなく、ローレンは彼女を探している。自分ももう一度会いたいとミハイールはフットマン達に少女を探すよう指示をした。
指示の内容は異様で、フットマン達が表情を歪めると横からヴェーラが口出しをする。
「メイド達にも声をかけておきます。エリン様」
フットマンの中でも、一人目立った男がヴェーラに向けて挨拶をする。
依頼者のローレンに言わないのは仕方ないとして、直接の指示者のミハイールではなく、姉と勘違いし自分にアピールしてくる様は、自分は有能だよと女主人に媚びている態度に見えヴェーラの機嫌を損ねた。
「ミハイール様が必要だとお考えならばお願いしますね」と満面の笑顔で返す。
顔は笑顔だが『勝手なことするな』と釘をさしたつもりだ。勘の良い人間なら自分の提案を却下された事には気づく。
相手は、勘の良い人間だったらしく、悔しそうにミハイールに指示を求めに行った。
「一体何処に行ったんだ‥‥」
自分だったら何処にいくだろうか?まだ何も知らない幼子の気持ちになって屋敷を歩いてみた。
ヴェーラとミハイールはついてくるが、二人も情報がないため見つけるに至る場所へ案内できない。
屋敷の中をぐるりと回っても幼子の姿はおろか、見かけた者も居なかった。
ミハイールが嘘をついていなければ、彼だけが目撃者だ。
ローレンはため息をつきながら庭の方を見る。庭には犬らしき獣が走っていた。その後を大柄の男がついていく。
あんな怖い状況で庭にいるはずが無い。ならば屋敷の何処に居るのだろうと表情を暗くする。
本当の親子でもないのに、目の届く場所に居ないだけでこんなに不安になるのかとヴェーラは思ったが、悲壮なローレンの表情に放置はしておけない。姉をほおりだして付き合ったのだ、見つけるまでは側に居ようと思う。
「もしかしたら部屋に帰って来ているかも。一度戻りましょう」
部屋とは無論執事の彼らが寝る部屋だ。
探されている彼女は、ローレンの部屋を出たあと、応接セットに座っているローレンを見つけ、一緒に甘い匂いの飲み物を飲んだ。
お話をしようとして、顔を上げるとローレンは眠っていて少し退屈だ。ただ、頭の上にのせられた手は暖かくて退屈だけどこのままでいいと思っていた。眠っているパパもしばらくすれば起きるだろう。
「ローレン様‥‥寝ておられるのですか」そう言って現れたのは、昨日自分を睨んでいた男だ。
男は、机の上のカップとポットを片付けるとローレンを抱え上げ、奥の部屋に連れていってしまった。
ここには、自分とローレンが入れてくれたミルクティーの入ったカップだけが残される。
本当に退屈になってしまった。
だから、探険しようと思う。
男に見つかったら、パパの様にさらわれてしまう。もっと退屈な場所へ連れていかれるかもしれない。幼子は首を振ってソファーから降りた。
廊下に出ると綺麗な物が沢山飾ってあって、見ているだけで退屈は解消されていく。本当は触りたいけど背が届かなくて諦めた。
そう言えば、綺麗な男の人にも出会った。一つの絵を眺めていると、びっくりしたようにこちらを見て固まっている。
自分がここにいるから驚いている。だから、パパを連れていった男に言いつけられるかと思い、逃げ出した。
階段を降り後ろを振り返ると彼はついてくる、見つからないように角を曲がった所で開いていた窓から飛び出した。
窓枠から飛び降りた時に尻を打ち付けた。白いドレスも少し汚してしまったが破れなかっただけ良かったと胸を撫で下ろした。
ワンワンと遠くから音が聞こえる。音はだんだん近づいて行き、空気が震える位大きな音になると、目の前に黒いモジャモジャが現れた。モジャモジャの目付きは鋭く、あの男にそっくりだった。
だから怖いと感じた。
遠くに走って逃げるのは間違いなく無理だと判断し、後ろの植え込みに入り込む。ここは沢山の木が壁のように生えていて、逃げるのには適していた。背が小さいから回り込んで惑わすよりも、くぐり抜けて直進すれば大きい相手を巻く事ができる。
黒いモジャモジャは思った通り抜ける事が出来ないようで、声はどんどん遠くなっていく。
後は追い付かれても大丈夫な様に相手の届かない所に逃げるだけ。
木の上で幼子は困り果てた。
いくらため息をついても、いい案なんか出てこない。
思惑どおりモジャモジャは届かない相手に飽きて何処かに行ってしまったが、自分が降りられなくなってしまったからである。
屋敷は良く見えるのに、あそこに戻る方法がない。
パパはどうしているだろうか。朝いれてもらった飲み物も残していたし、出かける旨も伝えていない。
昨日出会ったばかりの自分が勝手なことをして、怒っているだろか。
パパがあの男の様に睨み付ける。自分はこの場所にはいられなくて、とても退屈な場所へと帰らなければならないのが悲しくて、声は出ないけれど瞳から、涙を流した。
「どうかしましたか?」
下から声が聞こえる。
誰かが自分が困っている事に気がついてくれたのだろう。
誰かに捕まりたくなくて逃げ出したのに他の誰かに助けを求めて捕まるのはどうだろうと悩んで隠れてみた。
「降りられなくなった‥‥のかな。元気な方ですね」
一度見つかってから隠れても手遅れだということに、幼子は気づかず、続けられる優しい言葉にびっくりして顔を覗かせた。
木の下では、屋敷の主がにこにこしながら上を見上げていた。
幼子を降ろそうとヴラディーミルはするすると木に登り、あっという間に同じ幹まで登ってくる。主は紳士が淑女に差し出すように手を出すと、乗せられた幼子の腕を掴み体を引き上げた。優しく抱えられると地上に下ろされる。
「大変失礼ですが、貴女は何処のお嬢様でしたか?」
聞かれた言葉に屋敷の方を指差すと、ヴラディーミルは困った様に笑う。
「まぁ。ミハイールに聞けばわかるだろう」
手を引いて屋敷方へ歩み始めると、前方にダヴィードが現れた。
「ダヴィード良いところに。お前はいつもいいタイミングで現れるな」
笑顔を張り付けたヴラディーミルは、機嫌の良い声を上げた。
「なんだよ、帰ってるなら帰宅した事伝えてからウロウロしろよ。ヴラディーミルサマ‥‥あ」
眠い頭にヴラディーミルの声は辛い。機嫌の悪そうな声は、連れている幼子を見て止まる。
「お前、知っているのか。お部屋まで送って差し上げろ」
ホントにいいタイミングだなぁと一言漏らすと「それでは私は用がありますので」と彼女にあいさつをする。
「はぁ」知っては居るが、彼女の部屋など無い。ヴラディーミルは客の連れと間違えているのだろう。ダヴィードは彼女をヴラディーミルから預かると屋敷に向かう。
「ぼっちゃんはまだ話できてないみたいだなぁ。それにしても、あいつ。お客の顔と構成ぐらい知っとけよな」
黙ってついてくる幼子の歩幅に合わせて、歩くスピードを押さえる。
「ねぇ。さっきのヒト、お腹痛いの?」
幼子は思い出していた。先ほど木から降ろしてもらう時に、ヴラディーミルの一瞬手が止まり一息つくように漏らした息を。彼の表情は笑顔だったが、うっすらと額に汗がにじむ。パーシャを無事に降ろした際に左の脇腹を押さえていた。
痛かったのではなく、癖かも知れない。額の脂汗は気のせいでないと思う。
助けてくれた王子様を心配し、側にいる彼に聞いてみた。
「なんだ。苦しんでたか?」
ダヴィードの問いかけに首をふる。
「だろうな‥‥あの人は他人に弱みなんて見せない。特にお前みたいなちびっこに」
「ちびっこじゃないの」
「‥‥間違った表現はしてねぇ」
幼子の身長はダヴィードの膝ぐらいである。ちびっこで間違いないのだが、彼女はそう言われたくないらしい。
「まぁ、ちびっこにバレるんなら危ないのカモな」
危ないとの言葉に、口を開けて驚く。何か言いたい幼子の頭をポンポンと叩いて「だから、後で様子見に行ってやるよ。まずは、ちびっこをぼっちゃんに届けてからだ」とダヴィードは納得させるように言った。