冷たい瞳
・ブブブゥゥーウゥー・・・ブゥンンン・・・
古い冷蔵庫のたてる音が煩い。
もう六月も終わりだというのにここは真冬のように冷えている。閉め切ったままで点けている冷房のせいだけではないことは確かだ。カーテン越しの薄暗い光が部屋の輪郭を曖昧にさせている。
キッチンの蛍光灯の青白い光が時折オレを照らす。彼女は一人、キッチンにこもって何を作っているのか…今はもう好きにしろとしか言えない相手に、オレは無力さを思い知る。
・・ブウゥゥー・・・・・ンン・・・
何故こんなことになってしまったんだろう。あいつがこの部屋に初めて来た日のことはうっすら覚えている。その時のオレは前の妻と別れて、一人には広すぎる家で孤独な生活をしていた。
「あの…近くに引っ越してきました、霧崎…霧崎雫と申します」
去年の今頃のことだった。梅雨入り前の薄寒い日の夕方、その日の天気をそのまま表したような名前の女が訪ねてきた。手土産に持ってきたのは、洗剤でもタオルでもなく、近所のスーパーで買ったような安物の菓子詰めと、なぜか歯ブラシとコップの洗面セットだった。
「ああ、…わざわざどうも…」
女は閉めようとした扉に手を掛けると、中を覗き込むようにして
「あの…失礼ですがお一人住まいですか?」
「はあ、そうですが」
「えっと…私も一人で…あの、ご飯とかお裾分けに来ていいですか?いえあの…私お料理好きでいつも作りすぎちゃって…でも腐らすの嫌いで…でもいきなり変なお願いでしたよねすいません」
知らない女の手料理など御免だった。早く話を切り上げたかったが、いきなり断るのも気が引けた。
「ええ、じゃあ、その時は…」
曖昧に答えると最後の挨拶も聞こえないフリをして扉を閉めた。
・・ブウゥゥー・・・・・ンン・・・
一週間ほどして彼女が本当に料理を持ってやって来た。少し戸惑ったが追い返すわけにもいかず、しかたなく部屋に上げた。散らかったテーブルを片付けていると、せっかくなので一緒に食べませんかと言う。断る口実がうまく言えなくて、成り行きで食事をすることになった。
他愛もない会話をするうちに、孤独な者同士の共感からか気持ちが和んだ。
「あの、失礼ですが…表札のお名前…音無瞳って、あなたですか?」
え?ああそうか、まだこちらの名前は言っていなかった。
「そうです。僕が音無瞳」
「すいません最初に見た時、女の方の名前かと思って…それであの、お一人かとお聞きしたんです」
「そうですか、いや、よく間違えられるんですよ。お気になさらず」
彼女の作ったメシは予想以上に美味かった。久しぶりに誰かと食べる楽しさを思い出し、そのうち彼女が魅力的にすら見えてきた。
「ごちそうさま。すいません、ほとんど一人で食べちゃって…」
「いえ、お口に合ったようで嬉しいです。もし残ったらどうしようって心配してたんです」
「いや、これは残す人いないでしょう。イヤ、お世辞じゃなく」
彼女は少し真顔になって
「私、残されるのが嫌いで。…料理も、人も…」
料理も、の後は声が小さくて聞き取れなかった。
食事を終え、素直に
「久しぶりに美味しいご飯を食べました…ありがとう」
と言うと、あいつは本当に嬉しそうに、
「ホントですか?こんな物でよかったら、いつでも持って来ますよ」
と言ってくれた。
「ぜひまた持って来てください」
「じゃあ、また…」
その後あいつはすぐ帰っていったが、オレは連絡先くらい聞いておくべきだったかなと考えていた。まあでもあの様子ならまたすぐやって来るだろう。
・・ブウゥゥー・・・・・ンン・・・
クソ、冷蔵庫が煩い…
オレの予想に反してあいつはひと月経っても来なかった。オレの最後の言い方が図々しかったかと少し後悔したが、まさか探す訳にもいかない。一時の気まぐれだったんだろうと思い直して、忘れるともなく忘れていたある日、思いがけず近くのスーパーで見かけた。
「こんにちは」
「あら、音無さん、こんにちは。ご無沙汰してます」
「ホントですよ。あれからせっかくお待ちしてたのに…」
オレは偶然の再会がなぜか無性に嬉しくて、普段より軽口になっていた。
「えーっすいません、実は急用ができて実家の方に昨日まで帰ってたんですー」
なんだ、そんな理由だったのか。嫌われたわけではなさそうなので、オレはほっとしていた。
「でも、待っていただけてたなんて、嬉しいです」
「あ、いや、ごめんなさい。厚かましかったですね」
「いえ全然…今日は夕飯のお買い物ですか?」
「ええ、いつも同じようなもんですが」
オレはそう言ってカップ麺と割引の惣菜が入ったカゴを見せた。
「あの…もしよければ、一緒に食べませんか?私が作りますから」
「いやそんな、お疲れでしょうから…」
「いいんです。どうせ今日は一週間分の作り置きをする日で、いっぱい作るつもりでしたから」
そういって笑うあいつがあらためて魅力的に見えた。
「じゃ、すいません、お願いします」
オレの部屋に久しぶりの会話が響く…キッチンに立って料理する彼女を、このままずっと見ていたいと思った…二人で同じ皿から取る食事…酔って笑い合うオレ達…そしてその後の…
ところであの日のメニューは何だった?そこは何故か思い出せない…
・・ブウゥゥー・・・・・ンン・・・
雫は三日に一度程、泊まりにくるようになった。
「ね、あのセット、もう使った?」
「ぁー……何のセット…?」
「あの、引っ越しの挨拶で持って来たコップと…」
「あぁあれ…ぇと、確かキッチンの上の棚に…」
「あ、あった。これ使っていい?」
「どぅぞー」
あの時は少し気味悪かった洗面セットだが、その時のオレはまだ使ってなくて良かったとホッとしていた。その時のオレは生活の細々したものの買い置きが苦手だったのだ。
「朝はパンかご飯か、どっちがいい?」
「んー、じゃあパン」
「じゃあこれ作ったら仕事行ってくるね。夕飯は七時頃だけどいい?」
あいつは少しはしゃいでるように見えた。
「うん、いいよ。ありがとう」
「あ、悪いけどゴミだけ出しといて。この前出すの忘れちゃってて」
「分かった」
「じゃ、行ってきまーす」
外では蝉の声が大きくなりはじめていた。
・ブブブゥゥーウゥー・・・ブゥンンン・・・
…それにしても暗い部屋だ…閉め切ったカーテンに蝿がとまっている……
女は相変わらずキッチンの中で何か作っている。グツグツと大きな鍋の音がしている。あれからもう一週間は経った。いつまでここにいるつもりなんだ…オレはイラついて怒鳴りつけたかったが、我慢するしかなかった。
あの時開けなければ良かったんだ。
しばらく包丁の音がしていたが、少し間があって
ガチャリ
「このキッチン暑いわね。ねぇ、あなたもビール飲む?」
オレが飲めないことを知っていて、嫌味な奴だ。キッチンには冷蔵庫の音が響いている。
「煩い冷蔵庫ね。文句言ってるみたい」
……………
「静かにしないと、捨てちゃうわよ」
バタン
なんて奴だ。オレにはまだ必要なんだ。煩いぐらいで文句を言うな。
雫が段々変わって行ったのはいつからだったか…最初の頃は幸せだった。あれからすぐ半同棲のようになった。仕事は雫の方が早く終わるので、家に帰るといつも温かい夕飯が待っていた。
たまに俺が手伝おうとしてキッチンに入ると、
「ありがとう、でも段取りがあるから、私のペースでやらせて?すぐできるから、そっちで待っててね」
と、笑顔の裏にどことなく迷惑そうな気配を感じた。
たまには外に食べに行くか、と軽く聞いた時も、
「何で?」
と一瞬真顔でキレたように見えた。その後で
「ほら、外食って、材料とか何使ってるかわからないじゃない。手作りの方が体にいいから」
言い訳のようにそう言って雫は外食を嫌がった。
雫は料理をすることに執念のようなものを持っていて、料理を残したり、捨てることに異常に神経質だった。
二ヶ月ほど経った頃、雫が遠くの勤務地になり、あまり会えなくなってしまった。最初はそれ程でもなかったが、そのうち連絡に一回でも返信しないと通知が異常な数になった。さすがに煩わしくなってほとんどを無視するようになっていった。
ある日、オレが帰って来ると雫が中で待っていた。突然のことに驚いていると、思いがけないことを言い始めた。
「冷蔵庫のあれは何」
「何って、何のことだよ」
「冷蔵庫にあった残り物のご飯、あれ私が前送ってあげたものよね。」
「…だから何だよ」
「私がせっかく作ってあげたのに、なんで残すの?」
「別に捨てたわけじゃないだろ。冷蔵庫に入れてあんだから!」
「冷蔵庫は腐らすためにあるんじゃないのよ!」
…驚いて言葉が出なかった。それからも、返信しなかった日などは、留守の間に料理の容器が冷蔵庫に詰め込まれていたりした。
そんなことが何度か続いた後、うんざりしたオレは別れ話を切り出した。意外にもあいつはそれほど引き止めず、別れに同意した。その後は半年ほど会うことも見かけることも無かった。
・・ブウゥゥー・・・・・ンン・・・
…オレは穏やかな生活に戻っていた。マキという新しい彼女もできた。
マキは料理は下手だったが、下手なりに二人で作ったメシはマズくて、美味かった。
いつの間にか役割分担ができて、オレは材料を切ったり味付けをする係、マキは煮たり焼いたり、あとは専ら味見係だった。雫は料理で少しでもうまくいかないと急に不機嫌になったりしたが、マキは焦がしても「苦さも味のうちだよ」と言って笑い転げていた。
いろんな情報を仕入れてきては、二人で食べ歩きにも行った。マキは何を食べても「ねえ、これ美味しいよ」とご機嫌だった。
天然で細かいことを気にしないところがオレに合っていて、そのうち一緒になる約束もしていた。
マキに雫の話をしたことがある。昔の彼女の話なんか嫌がるかとも思ったが、
「あなたと、ずっと一緒にいたかったんだよ」と、意外に彼女に共感して少し泣いていた。
今度三人でご飯作りたいね、なんて言っていた程だ。オレはゾッとしないが…
一週間ほど前、マキと歩いていると、雫の姿を一瞬見た気がした。驚いてすぐに見返したが、その姿はもう無かった。気のせいだろうと思いすぐに忘れてしまった。
その二、三日後、仕事に行くマキを見送って部屋にいると、インターホンが鳴った。忘れ物でもしたのかと画面を見ると、そこには雫が立っていた。
オレは驚いて、一瞬無視しようとしたが、また来られても困ると思い直して返事をした。
「…はい?」
「朝からごめんなさい。合鍵返しに来ました」
そういえば雫に預けたままにしていたのを忘れていた。
「…郵便受けにでも入れといてくれれば良かったのに」
「ちょっとだけお話がしたくて…お願いします」
あの時開けなければ良かったんだ。
「おはようございます、久しぶりですね」
オレがどうしようか一瞬固まっている間に、雫はサッサと部屋に上がり込んで、キッチンを覗き込んでいる。
「オイ…!勝手にあがるなよ!」
「いいじゃないですか、私とあなたの仲なんですから」
嫌味な丁寧な言葉遣いが、イラつく。
「あのね…!…何の用…ナニカゴヨウジデスカ?」
怒りが湧いて来るのを抑えつつ、様子を伺う。
「別に。やっぱり女がいたんだって確認しただけ」
「あなたに関係ない」
「あるわよ。私のモノなんだから」
「あのね…、あなたとは半年前に別れたでしょうが」
「別れたら、新しい女と付き合ってもいいって言った?」
「訳のワカランこと言うなよ!鍵置いて早く帰れ!」
「大きな声を出さないで!」
オレはもう少しで殴りつけそうになった。その様子を察したのか、
「…分かった。帰ります。最後のお願いだけきいてくれたら」
「何だよ」
「一度だけ、最後に抱きしめて」
まだ腹の虫は収まらなかったが、早く帰ってほしい一心で願いをきくことにした。
「それで本当に最後なら…」
「これで本当に最後よ」
雫はオレの胸に手を当てて、そっと寄り添ってきた。オレは急に申し訳ないような気持ちになり、両手を背中に回しそっと雫に触れた。
「ごめんなさい」
オレは強く胸の痛みを感じた。
「あなたを私だけのモノにしたかったの」
…視界が滲んだ…
・ブブブゥゥーウゥー・・・ブゥンンン・・ブブゥーウウー・・
それから後のことははっきり思い出せない。身体の重さが感じられない。振動と、水音…
…オレは夢を見ているのかもしれない。
ぼんやりした意識の中でマキがオレの名前を呼ぶ声が聞こえたが、その声は途中で途切れた。重い物がぶつかる様な音と、何かが流れる音が聞こえたが、すぐに静かになった…冷蔵庫の振動だけが、やけに耳に響いていた…
部屋の中はますます暗くなってきた。部屋の隅には大きな黒いゴミ袋が何袋も置きっぱなしになっている。まったく…もうすぐ夏だってのに。ほら、また蝿がきてるじゃないか…こういう意外とルーズなところが雫の苛つくとこなんだ。オレはすっかり腐っていた。
マキは帰ってきた時、雫やオレを見ただろうか。怖がらせていなければいいが…天然なあいつのことだから、これで三人揃ったね、なんてトボけていてほしい。マキはまだ部屋の隅にいる。
雫がキッチンから呼びかけている。
「あなたたち、これで一緒になれちゃったね、オメデトウ」
あれは嫌味か本音かどっちだろう。クソ、やっぱりあいつは無視しとくに限る。
ガチャリ
庫内灯の黄色い光がオレを照らす。
「…冷たい目ね。また無視するの?」
何言ってやがる。
逆光でほの暗く見える雫の顔を、瞬きのないオレの瞳が真正面から睨みつけた。
バタン
・・ブウゥゥー・・・ンン・・・・・・・プスン・・・
冷たいよ、雫。
読んだ後のイメージに怖い感じが残ればいいのですが…




