宇宙怪獣は、青空の夢を見ない。
藍の中、愛を知るんだ。人類も、愛しい貴方も、失ってから。
地球の大気は窒素が78.0%、酸素が21.0%、アルゴンが0.9%、その他が0.1%。総量、約5兆トン。この気の遠くなる量の空気が半径6400キロメートル、重さ60垓トンの球体の万有引力に引かれて、纏わりつくその表面に、水素がヘリウムに核融合するエネルギーが発する光が差し込む。すると、光は先ほどの大気組成の粒子の塊にぶつかって、波長の短い青の光を拡散させる。
そうして、ようやく、青が生まれるのだ。
改まった説明を聞いても、私には何も実感できなかった。人類が宇宙へ進出して、早1400年。我々はAIの発達させた技術を、社会構造を、何一つ理解できないまま、その箱舟の中でゆらゆらと、未来へと進んでいる。
地球は、核戦争の汚染、気候変動の激化、資源の枯渇、以上の理由から今や見捨てられている。だれも人類誕生の星など顧みなくなってしまった。そんな事を考えなくなるほどに永い時間が過ぎたのだ。
私は、搭乗員二人の超高速スペーススライダーのスロットルを落とす。助手席には、ただ宇宙航行図だけが遺っている。何時のかも分からない紙媒体が慣性でふわふわと舞う。掴むために手を伸ばした時、不意に愛しいあの人が、助手席に、ちゃんと座ってる気がした。
「地球へ行こうよ。私たちのすべて、ここに残してさ」
彼女が、そう言ったんだ。殴られ蹴られ、ボロボロになった作業着の内ポケットから、地図を取り出す彼女は、笑ってるのに、虚ろだった。1400年も宇宙を泳ぐ巨大な飛行船の端っこ。廃棄物再生プラントの中、原始的なカーストの最下位、スカベンジャーの私たちが押しやられた、人が生きるには汚すぎる部屋のことだった。
AIが作った理想的な社会構造とは、人の悪意の加速器、そして所属する人間はその構造自体に気付かない究極の階級制度。私たちは、踏みつぶされる側だった。極限まで無駄を排除し、資源を循環し、労働力の最適配分。うんざりするほど完璧なシステムの内側で、彼女はは息が詰まっていた。
そして、それは私も同じだったから、一緒に行くことにしたんだ。
私たちの計画は順調に進んだ。この、目的もなく彷徨う鯨の腹を突き破って、自由になる瞬間を想像するのは、準備するのは、楽しかった。しかし、実行段階で、下手をした。セキュリティが強かった。そりゃそうだ。目的のための高速スペーススライダーは富裕層しか、買えない。それだけ高いんだから、警備も厳重だった。
それでも、廃棄物再生プラントに仕掛けた爆弾が爆ぜた時の艦内アラートのおかげか、何とかセキュリティも撃退し脱出できた。この爆破のせいで、この飛行船の資源の循環は完全にストップするだろう。しかし、それを気にして居られるほど、私たちに余裕があるわけじゃなかった。
最高の気分だった。あの怪獣に食いつぶされることが、もうないのだと。私たちに先は無いのは当然知っているが、それでも、この真っ暗闇に飛び出せたことが、私たちの存在証明のようだった。
しかし、脱出の際、彼女はセキュリティに撃たれていた。それも、僕を庇って負った致命傷だった。着弾の瞬間に、なぜか、ホッとした顔をした彼女をよく覚えている。お腹にゴルフボール大の赤黒い点があって、同じ色の血がどくどくと噴き出していた。腎臓を傷つけた電子加速銃のプラスチック弾は、体内でバラバラに砕けていて、摘出も、応急処置も、何も意味が無かった。
最期の言葉なんかなかった。ただ、ぴたりと心臓が止まって、二度と動かなかった。
徐々に失われていく体温と鮮烈な錆鉄の匂い。ドロドロとした血と生命維持装置がプログラムの終了を宣言する無機質な音。その全てが、遠い現実のようだった。
やがて、独りきりのコックピットに静寂が訪れた。
私はハッチを開けて、彼女だったものを、真っ暗闇のなかに放り投げた。燃料の温存のためだ。
その時に、無重力に漂う彼女の四肢が、妙に不気味で、私は身震いした。
そう。ちゃんと置いてきた彼女が、座って、前を指さしている気がしたんだ。
まるで、子供に戻ったように、楽しげに、「あれだよ!あれが地球だよ!!」だなんて叫んで、まったく、君には僕がいないとダメなんだから。地球はまだ先だよ。
それでも、前を向けば、青々とした星が、大陸には緑を湛える星が、白い雲が漂う星が、眼前に大きく広がっている。あぁ、やっぱり、どうして、いつだって僕よりも君の直感の方が正しいんだから。
重力探知機が墜落警報をかき鳴らし、燃料計が水素とキセノンの枯渇を知らせる。それが煩いもんだから、私はキーを引き抜いて全電源を落とした。エンジンの音もエアコンの音も消えて、宇宙の静寂が訪れていた。代わりに私はポータブルミュージックの電源を付けた。ようようとした音楽が流れ始める。彼女が好きな曲だった。
地球の重力が私を捉えた。抗えない力で堕ちていく。ゆっくりと。されど、高速に。
思えば、僕は彼女に振り回されてばっかだな。この音楽も、この旅路も、この星だって、彼女の発案が全てだった。まったく、どうしてこんなんになってばっかりなんだろう。彼女がなにかやらかす度に私も怒られて、殴り合うような喧嘩もして、それなのに、ずっと隣にいたんだ。不利益を被ってばっかりなんだから距離を置けばよかったのに。
高速スペーススライダーが段々と断熱圧縮を始める。カタカタと機体が揺れ始める。それはやがてガタガタ、ドゴドゴと激しくなっていく。ポータブルミュージックはポップチューンを流し始めた。
あれ、僕は、もしかしてだが…
機体の装飾が焼き切れていく。細かい意匠もエンジンブロックもみな等しく砕けていく。フロントガラスはオレンジの炎が覆っていた。
僕は、彼女が、好きだったのか。
あはははは、と急に笑えて来た。こんな単純なことだったんだ。愛だとか、恋だとか、そんな陳腐な間柄なんかじゃないと思ってたけど、僕は彼女が好きだったんだ。愛や恋とかの陳腐で情けない関係だったんだ。
そっか。愛していたんだ。
機体はもう限界だった。砕けて、バラバラになっていく。フロントガラスが融解してコックピットが露出する。そうして、地球表面から見れば、見事な、それは見事な流星になっていく。青白い光が尾を引いて、周囲にはオレンジ色の小さな光が線を引く。それらは、徐々に崩壊し、ただ消えゆく。
青い空の下、その色を知らないままの怪獣は、夜の藍の中、燃え尽きていく。番に見せたかった景色の中、笑いながら、泣きながら、その命を燃やしてゆく。
ただ、愛しい貴方の、幸せがために。




