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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

愛されている

作者: 石橋崇
掲載日:2026/02/28

温かい目で読んでください


 愛とは一体なんだろう。

 なにかに強く惹かれる気持ちのことか。可愛がり愛しく思うことか。ちょうど今目の前を通って行ったカップルのように、意中の人と思いあうことか。おそらくどれも正解だろう。

 田城直希(たしろなおき)は、交番の前で立番(りつばん)しながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。二月十八日火曜日の空は、少し雲が多いが、陽の光はきちんと地上に届いていた。

 一体なぜ、愛についてなど考えているのか。それは多分、昨日たまたまテレビで見た恋愛ドラマのせいだ。ああいう甘酸っぱい恋愛ドラマを見ていると、学生時代に味わった淡い恋心を思い出して胸が高鳴ってくるような気がするのだ。

「田城くん、立番交代するから、休憩取っていいよ」

 過去の思い出に耽っていると、上司の嶺岡毅(みねおかつよし)警部補がそう言って戸口から出てきた。柴犬のような穏やかそうな顔を歪めて、寒そうに腕を組んでいる。二月も半ばになったとは言え、肌寒さはとどまることをしらない。

「すみません、お願いします」

 田城は嶺岡と交代して交番の中に入った。カウンターの横を通ると、その奥は机や棚が並んだ詰所になっている。

「おつかれ~。もうだいぶ慣れた?」

 椅子を回してそう声をかけてきたのは、先輩の塩見悠二(しおみゆうじ)巡査部長だ。机の上に開きっぱなしにされたパソコンには、交番速報の下書きが映っている。本来は交番長の嶺岡の仕事だが、どうもパソコンを始め機械類が苦手らしいので、代わりに塩見がやっているそうだ。

 その向かい側の机にいるのは篠山亜乃葉(しのやまあのは)巡査長だ。田城には目もくれず、先日の空き巣の実況見分を書き続けている。

「はい!このあたりの地理もだいたい覚えてこれましたし、先輩方のおかげで段々と職務にも慣れてこれました」

 塩見は感心したように微笑んだ。篠山は当然黙っている。

 田城が警察官になったのは約一年前のことだ。地元の県立高校を卒業したあと、高卒で警察官採用試験を受験し見事合格。それから十ヶ月間、警察学校で訓練を積み重ね、ようやくこの二月にこの勝本(かつもと)警察署八咫(やた)交番に配属された。それからこれまでの約二週間、この交番で実務経験を積んでいる。まだまだ未熟者だが、着々と板についてこれていると田城は思っている。

「田城さん、休憩終わったら巡連(巡回連絡)行こっか」

 田城が自分の席についたタイミングで、篠山が言った。現在は篠山が田城の指導担当だ。

「あ、はい。よろしくお願いします」

 交番に配属されてはいるが、まだ田城は見習いという立場だ。ここからあと二ヶ月ほど交番に勤務したあと、一度警察学校に戻り、交番での学びをさらに深め、ようやく晴れて一人前の警察官として本格に勤務が始まる。

 篠山からはパトロールや巡回連絡、地理案内や拾得物受理など基本的な仕事はもちろん、交通事故の処理や実況見分、職務質問などなど、交番勤務、警察官として基礎的な職務の指導をしてもらっている。もちろん、先ほどまでしていた立番も重要な職務の一つだ。街角に警察官が立っているだけで犯罪の抑止力になる。

 通常、巡回連絡は一人一人が受け持った地区へ行うものだが、田城はまだ決まった地区を与えられていないので、篠山にくっついて彼女と同じ地区へ行っている。

 自分の机まで行き、椅子を引いてドカッと座る。

 あぁ、それにしても、休憩に入ってやっと一息、というときに限って、事件が舞い込んでくるのはなぜだろう。

『勝本から八咫』

 胸につけた無線機が音を発した。

 塩見が無線機へ手を伸ばす。

「はい、八咫2です、どうぞ」

『八咫一丁目〇〇の※※、カラオケ店内の個室にて、女性一名が倒れているのとの通報』

 緩みかけた交番内の空気が一気に凍りついた。篠山も手を止めている。表に立っている嶺岡も無線機を耳に近づけている。

『マル害(被害者)は推定十代後半、容体は不明なるも、意識不明とのこと。当該カラオケ店店員から入電しました。八咫PB(交番)にあっては、現場(げんじょう)にPM(警察官)の派遣願います。なお、消防へは既に要請済み。整理番号四五八番、十五時三十二分入電。以上、勝本』

 無線がたらたらと流れている間に、塩見と篠山が素早く立ち上がり、棚に置いてある無線機を手に取った。田城も慌てて席を立つ。

「了解、PM三名で向かいます」

 塩見が無線へ言った。

「この住所ならすぐ近くだ。走って行くぞ」

 塩見と篠山は既に出る準備が整っている。頼りになる先輩たちばかりだ。

「所長、ここ頼みます」

 塩見が表に立った嶺岡に言った。

「了解。行っておいで」

 嶺岡はまるで我が子を送り出す母のような目で言った。嶺岡を除く三人で交番を出る。八咫交番は八咫駅の前に建っている比較的大きい交番で、駅前のロータリーに面している。ロータリーの歩道を駆けて駅前の二車線道路へ出て、左に折れてそこから百メートルほど走るとすぐに現場のカラオケ店だ。

「八咫交番の者です。通報者はあなたですか?」

 建物の前にはカラオケ店のロゴが入ったエプロンを身に着けた若い男が立っていた。エプロンの下は普通の私服だ。一番足が早い塩見が彼に向かう。 

「は、はい。私です」

 男は青ざめた顔で言った。

「今こちらに救急車が向かっていますので、倒れている人がいるところまで案内してもらってもいいですか?」

 男は小刻みに頷いた。   

 男と篠山が先に店内に入り、

「田城はここで野次馬整理と、救急車来たら誘導しといて」

 塩見もそう言い残し、二人に続いて中へ入って行った。 

 田城は一人になった。途端に焦燥にも似た緊張感が湧いてきた。今までは勤務中はずっと篠山か塩見に付きっきりだったから、現場で完全な一人になったことはほとんどない。まるで自分だけ急にこの世から切り離されてしまったように、とてつもない孤独感が湧いてきた。

 警察官が三人も走ってきたからか、いつの間にか数メートル離れたところに二、三人ほどの野次馬が現れて、ヒソヒソ話しながらこちらを見ている。道路を挟んだ反対側にもいた。ここは駅も近いので、しばらくすれば野次馬はさらに増えるだろう。

 一人できちんと職務をこなせるだろうか――そんな不安が頭をよぎる。しかし、そんなものは考えても仕方がない。自分はもう警察学校生ではない。制服を着て現場に立つ、最前線で働くれっきとした警察官だ。こんなところでいまさら萎縮してどうするのだ。そう自分を奮い立たせるしかなかった。

 とりあえず、誘導棒を右手に持って腕を横に広げ、通せんぼのポーズでカラオケの入口の前に立った。これで野次馬が中に入ることはないはずだ。後々、救急車が来たときに邪魔になったら困る。

 五分ほど経つと、どこからともなく救急車のサイレンが聞こえ始めた。先ほど自分たちが来た道の先から、白い車両が赤色灯を光らせながら現れた。

 耐刃防護衣の胸ポケットから警笛を出し、吹きながら誘導棒を大きく振って誘導し、救急車をカラオケの前へ停車させる。

 助手席のドアが開いて、水色の服を着た救急隊員が降り立った。

 田城は口を開こうとしたが、横のドアから塩見が出てきて、

「こちらです!」

 と言ったので、言うのをやめた。なんだかセリフを横取りされた気分だった。

 助手席から降りた救急隊員は塩見と共に中へ入る。その後遅れて、残りの二人の隊員もストレッチャーを押しながら入って行った。

 また田城は一人になった。ドアから中を覗いてみたが、見えたのは何の変哲もないカラオケ店の受付と廊下だった。おそらく、現場の部屋は廊下を折れた先とか、違う階とかにあるんだろう。今から中に入るのもあれだと思ったので、田城はおとなしく残って誘導を続けることにした。

 救急車は二車線道路の片側一車線を防ぐように路駐している。後続車は避けるために反対車線を通るだろう。そのときに、対向車と正面衝突でもしたら洒落にならない。

 誘導棒を振って車を捌くこと十分ほど。救急隊員に押されて、カラオケの入口からストレッチャーが出てきた。そばには篠山も一緒だ。

 ストレッチャーの上に、ぐったりとした少女が乗っている。学校帰りなのか、制服を着ている。この近くにある八咫中学校の制服だった。

 ストレッチャーが救急車に乗せられ、バタンとドアが閉まる。篠山も横のスライドドアから一緒に救急車へ乗った。救急車の窓はカーテンが掛けられているため、中の様子は分からない。カラオケの入口の近くで、塩見が救急隊員となにか話しているのが見える。

 その後、数分くらいして、救急車は被害者の少女と篠山を乗せて、来たときと同様にサイレンを鳴らしながら走り去って行った。

 入口近くに立っていた塩見に近づく。

「被害者の子は?」

 塩見は田城へ向き直る。

「所持品から身元が分かった。今、生安課(生活安全課)も呼んでる」

 塩見が見せたのは中学校の学生証だった。氏名は川相由美(かわいゆみ)。書かれている入学年度から逆算すると、三年生だろうか。二月という時期を考えれば受験生真っ只中だろう。

「容体は?大丈夫なんですか?」

 塩見は無言のまま、右手に持った物を差し出した。当然、右手には白手袋を嵌めている。

 持っていたのは、錠剤のPTPケースのゴミだった。風邪薬などが入っている、指で押し出すプラスチックのやつだ。見たところ十錠くらい入れるところがあるが、全て空だ。

「部屋んなかに、これが三個はあった」

 つまり約三十錠。どんな持病だろうが、ありえない量の薬を服用したことは明らかだ。

「…ODですかね」

 となれば、疑うべきは薬物の過剰摂取、いわゆるオーバードーズだろう。

 塩見は頷いた。

「だろうな。幸い、飲んだ薬はバツとかエルじゃなくて、全部薬局で売ってる市販の風邪薬だった。種類にもよるだろうが、病院で治療を受ければ助かるかもしれない」

 バツはMDMA、エルはLSDの隠語である。どちらも合成麻薬で、法律で禁じられた違法薬物である。違法薬物を過剰摂取すればそれこそアウトだ。当然ながら市販薬より粗悪で悪質なので、過剰摂取すれば嘔吐、痙攣、幻覚、脳や心臓へのダメージ、その他諸々で最悪死に至る。

 塩見は空のケースをチャックのついたポリ袋に入れ、ため息のように息を吐いた。

 田城はもう一度、被害者の学生証を見た。氏名と学校名、生徒番号、その他諸々だけが記された、簡素な学生証。顔写真やその他個人を象徴するような情報は一切載っていない。

 ――死のうとしたのかな。

 近年、未成年のオーバードーズや自殺が問題になっている。何年か前には、東京歌舞伎町のトー横キッズがオーバードーズして、錯乱してビルから飛び降りた事件もあった。それだけでなく、未成年の自殺者数は年々増えている。中高生だけではなく、小学生までもが首を吊る時代になってしまった。

 どうして自殺なんてするのか――という問いは、ろくに苦しみを味わったこともない人間が言うことだ。死のうとする理由なんて、自殺をした本人か、しようとしたが死にきれなかった経験者にしか分からないだろう。

 だとしても、生まれてたった数年、長くても二十年未満の人間が、自ら命を絶とうとするほど、この世の中は絶望的だろうか。綺麗事のようだが、生きていれば良いことの一つや二つくらい、必ず見つかる。将来への希望が持てなくても、日常のささやかな幸せによって、なんとなく生きる気力が湧いてくる。明日もこの幸せを、どんなに小さくてもいいから味わいたい――少なくとも田城はそうやって生きてきた。

 かくいう田城も、まだ酒も飲めないような歳だ。生まれるのがもう少し早かったらまだ成人してなかっただろう。たった十九年しか生きていないが、人並みに嫌なことも苦しいことも経験した。それでも、生きてきてよかったと思えてるし、死ぬのは怖いし嫌だ。

「中学三年生か…。まだまだ若いのに、どうしてODなんかしちゃうんでしょうか」

「若いからこそ、色々悩みもあるんじゃないか?受験生なんだからなおさらだ」

 塩見は言った。「中学生はまだ子供だ。俺たち大人は合理的に物事を考えることができる。問題に直面したとき、正しい判断を下すことができる。だけど、それは俺たちの人生経験が豊富で、精神が成熟してるからだ。俺たちは子供より長く生きてるんだから、その分だけ賢くなれる。それに比べて、まだ十何年しか生きてないような子供は人生経験が浅いし、精神もまだまだ未熟だ。だから、問題や悩み事に直面したとき、間違った選択をしちまうんだろう」

 塩見の顔はどこか悲しげだった。

 彼には五歳の息子と三歳の娘がいるそうだ。自分の子供が、将来あのように間違った選択をしてしまったら――そんなことを考えていたのかもしれない。


 現場から交番に戻ると、ちょうど机の上の電話が鳴った。一人残っていた嶺岡が受話器を取り上げる。

「はい、もしもし…はい、はい…あっそうですか。分かりました、ありがとうございます」

 それだけ言って、受話器をガチャっと戻した。

「被害者の子、命に別状はないって」

 よかった――

 田城は安堵の息を吐いた。心なしか塩見もホッとしたような顔をしている。

 嶺岡は言った。

「で、篠山くんが付き添いで病院に行ったままだから、迎えに来てほしいんだと。続けてで悪いけど、二人行ってくれる?」 

 二人は顔を見合わせた。きっと塩見も同じことを考えているはずだ。

 ――お前が行けよ…。

 

 交番用のミニパトで病院へ向かった。被害者が搬送されたのは、現場から二キロほどのところにある勝本市立総合病院だ。一応救急指定病院だが、大病院というほどでもないそこそこの規模の病院である。駐車場にミニパトを止めて、受付に向かう。被害者は処置が終わり、今は病室で安静にしているとのことだ。

 エレベーターで二階に上がり、受付で言われた番号の病室に入る。病室は個室で、白い無機質な部屋だ。窓際にベッドが置いてあり、その手前で、篠山が丸椅子を引いて座っていた。そして、白いベッドの上に、少女が寝ていた。川相由美である。

 服は搬送されたときと同じものを着ている。右腕から線が生えて、横のモニターに繋がっている。血圧だとか心拍数だとかを測っているんだろう。

「どんな感じだ?」

 塩見が篠山に聞いた。篠山の横まで行って、ベッドを見下ろす形で立っている。

「飲んだ薬が割と安全なやつだったので、胃洗浄も必要なく、大事には至っていません。今は意識が戻るまで、様子を見ているところです」

「保護者は?」

「さっき連絡がついて、今こちらに向かっているそうです」

 真横で話していても、由美は起きる気配を見せない。よく眠っているのか、ただ気を失っているだけなのか。とにかく、無事なのは確かだった。布団に覆われた腹が、一定のリズムで上下している。

 ――生きてる。

 なぜかは分からない。呼吸という、生き物としてごく当たり前の働きをしている由美の姿を見ると、すごく安心したような気がした。ほとんど見ず知らずと言っていい赤の他人なのに、死なないで、生き延びてくれたことを、心の底から感謝したい気持ちだった。

 布団から出た彼女の体へ手を延ばし、右手に触れる。生き物らしい、温もりを感じる。かすかに動脈の振動も伝わってくる。心臓が動いて、血が巡っている。生きている。

 んっ、と声がした。由美の目が少し開いて、こちらを見ている。

 起こしちゃったか。そう思い、そっと手を離した。

「気分はどう?身体に変なところとか、ある?」

 篠山がそう聞くと、由美はゆっくりとかぶりを振った。

「…病院の人呼んでくる」

 塩見が出ていった。立ったままなのも、上から見下しているみたいなので、篠山と同じように椅子を引いて腰を下ろした。

「…私、どうなります?親、呼ばれますか?」

 天井を仰いだまま、由美が言った。幼く、か細い声だった。

「今、お母さんに来てもらってるから」

 篠山がそう言うと、由美は目を閉じ、ため息ともとれる吐息を漏らした。 

 ――親とうまく行ってないのかな。

 十代の頃は、両親と付き合い方が難しい時期だ。思春期とか反抗期とかそういうのなんだろうが、大人になってから思い返すと不思議である。

 反抗期で親との関係がこじれて、それでオーバードーズを――そんな想像をした。

「…どうしてODなんてしちゃったのかな?」

 思わず、田城は訊いた。「なんか、嫌なことでもあった?」

「…分かんないです」

「…死のうとしたの?」

 言ってから、ストレートすぎたと思った。篠山が睨見つけてくるのが分かった。

 だが、由美はそんなことは意にも介していないようだった。

「…分かんないです。薬飲んで、ぼーっとしてたら、嫌なこととか考えなくて済むし、もし死んだとしても、どうせ悲しむ人なんていないんで。運よく死ねたらなーって感じです」

 ぞっとするような一言だった。

 悲しむ人なんていない――そんなわけあるか。家族だろうが友人だろうが、身近な人が死んだらみんな悲しむはずだ。自分の子を亡くして嘆かない親がいるものか。

「どうしてそんなこと言うの。いないわけないじゃん。あなたが死んだら、みんな悲しい」

 田城はそう言った。しかし、そんな言葉は、まったく響いていないように見えた。なんなら、聞いていたのかどうかも怪しい。

 窓の外の虚構を見つめたまま、由美は言った。

「…そんな綺麗事で片付けられるくらいだったら、ODなんかしませんよ」

 突然、喉元を突き刺されるような衝撃を覚えた。

 まだ中学生ともあろう人間が、そんな悲観を極めたような言葉を口に出すなんて――。

「…私の父、大学の研究者をしてるんですよ。だから、昔から勉強しろ勉強しろってうるさくて。私、二個下の弟がいるんです。小学校の頃から、姉の私なんかとは比べ物にならないくらい頭良くて、そんなんだから中学受験して、今は静岡市の中高一貫校に通ってます。父はそんな弟を褒めて褒めて、自慢の息子だーって持て囃して…でも、それに比べたら私は、中学受験に落ちて、公立中に行っても成績は普通くらい。ただでさえ出来損ないなのに、もしこれで高校受験でも失敗したら…それが怖くて不安でたまらないんです…」

 いつの間にか、田城は由美の言葉に聞き入っていた。篠山もなにも言わず、彼女の言葉に耳を傾けている。

「…そもそも、私は生まれた時点でダメだったんですよ。本当は、両親とも男の子が欲しかったんです。うちの家、ほんとに令和かって思うくらい古くっさい家柄で、家を継ぐのは男だけ、みたいな考え方がまだあるんですよ。まあ、父が九州の人っていうのもあるんでしょうけど。だから、正直私より男の弟の方が両親から厚遇されてるっていうのは否定できないんですよね。昔からそう感じることが多かったですから。私より、弟の方がよっぽど愛されてる…。だから、そんな生まれた時点で出来損ないの私が死んだところで…」

 やめて。それ以上は言わないで。その先を言ったら、あなたは――。

「…誰からも愛されてない私が死んだところで、悲しむ人なんているわけないじゃないですか…」

 ポタポタと、白い布団に雫がいくつも振り注いでは染みる。

 ダムが決壊したように、由美の目から涙が溢れ出した。

「由美さん…」

 悔しかった。腹が立った。目の前の少女をこれほどまでに追い詰めた彼女の両親にも。自分が生まれたことを否定し、すべてを悲観するような物言いの由美にも。それを目の前にして、声をかけてやれない自分にも。

 死んだらみんなが悲しむよ――そんな甘ったれた綺麗事を述べた数分前の自分が恥ずかしかった。そんなことが言えるのは、ろくな苦しみを味わったこともない人間だ。生みの親である両親から否定され、必要とされなかった由美の苦しみが、自分に分かるはずもないのに――。

「俺は悲しい」

 誰かの声が聞こえた。低く、強く、ぶっきらぼうな言い方なのに、それでいてどこか温かい声だった。

 声の主を見る。ドアから塩見が顔を覗かせていた。

「確かに、由美さんはお父さんお母さんからは愛されてなかったかもしれない。でも、愛してくれる人はそれだけじゃないでしょ?」

 ドアを開けて、塩見が入ってくる。その後ろに看護師がいるのも見えたが、会話を聞いていたのか入りづらそうにしている。由美は近づいてくる塩見のその姿を、訝しるように見ていた。

「今日、由美さんがODしちゃったとき、誰が俺たちに知らせてくれたと思う?」

 由美は少し間を置いて、首を振った。分からないという意味だろう。意識を失っていたから当然ではあるが。

「カラオケの店員さんが、由美さんの異変に気付いて通報してくれたんだ。なんでだと思う?」

 また由美は首を振った。

「それは、店員さんが倒れてる由美さんを見て、助けてあげたい、なんとかしてあげたいって思ったからじゃないかな。

 店員さんだけじゃない。ここまで運んでくれた救急隊員も、治療してくれた医者も看護師も、俺たち警察官もみんなそう。立場も仕事も全然違うけど、思いは一緒だと思う。みんな、あなたに死なないでほしい、生きててほしいって思ったから助けたんだよ。それを、『愛されている』と言わずしてなんて言う?」

 塩見はまた一歩由美に近づいた。看護師も後ろでそろ〜っと入室した。由美の訝しるような目は、もう無くなっていた。

「今、ここで生きていることこそが、愛されている証しだよ。身近な人に愛されてなくても大丈夫。あなたは社会のみんなから愛されてるし、大切にされてる。だから、生きていてほしい。ほんとに自分勝手なお願いなのは分かってるけど、もうちょっとだけでも良いからさ。もし、あなたが死んじゃったら…俺は悲しいよ」

 そのとき、やっと分かった。病室に入って、無事だった由美の姿を見て、安心できた理由を。

 助けたい、自分がそう思った人が助かって、ホッとしたんだと思う。

 ドアが開く音がした。

 二人の人間が立っていた。スーツの男と、中年女性が一人ずつ。男の方は見知った顔だった。勝本署生活安全課少年係の後藤巡査部長だ。塩見が本署から呼び寄せたのだろう。もう一人の中年女性は知らない。

「後藤部長…」

 後藤は後ろの中年女性を指し、

「こちら、由美さんのお母さん」

 と言った。

 この人が由美の母親…なんとなく身構えた。由美の話を聞いたからだろう。果たして、オーバードーズして病院へ運ばれた娘を見た第一声はなんだろうか。

「由美…」

 それは、はっきりと分かるくらいの涙声だった。

 由美母は後藤を突き飛ばして、一目散にベッドに向かった。

 そして、由美に抱きついて、あろうことか、人目も(はばか)らず号泣し出した。

「由美ぃ…よかったぁ生きてて…」

 塩見も篠山も看護師も後藤もそして田城も、ぽかんとした目でそれを見ていた。いつの間にか、由美も再び泣き出している。

 ――なんやねん。

 肩すかしを食らった気分だった。見ているこっちまで泣きそうになるほど、ちゃんと愛されてるじゃないか。結局、どこまで行ったとしても、親子というのはそういうものなんだろう。

 またちょっと安心できた。


 それから二週間ほど経った水曜日の朝。

 三月に入って気温もだいぶ下がった。かわりに花粉が押し寄せてきたが、このところ雨続きなのでそんなには感じない。今日の空もかなり曇っている。午後からは雨も降るそうだ。

「ハコ長〜、立番交代しますよ」

 仮眠から起きた田城は、表に立っている嶺岡にそう言った。

「ああ悪いね〜」

 嶺岡と入れ替わって交番の前に立つ。駅前の朝は人通りが多い。仕事に向かう人や登校する学生の姿も見える。

「そういえば、今日は公立高校の入試らしよ」

 去り際、嶺岡が言った。なるほど。どうりでいつもより学生の姿が多いわけだ。みんなこれから志望校へ行って、受験を受けるのだろう。中学時代が懐かしい。

 ――あ。

 その雑踏の中に、見覚えある顔がいた。

 川相由美。二週間前、オーバードーズして病院に運ばれた少女。あの子も受験生だったか。あの子には、ぜひとも良い高校へ行って、両親を見返してほしいものだ。

 そのとき、由美と目が合った。

 ペコリと、由美が会釈したので、田城も同じようにして返した。

 生きてることこそが、愛されてる証しだよ――ふと、塩見が由美に語っていたことを思い出した。 

 愛にはいろんな種類がある。恋人から受ける愛。友人から受ける愛。両親から受ける愛…いろいろ種類があるが、別に愛はそれだけじゃない。

「すみません。これ、落としませんでしたか?」

 駅の方で声がした。由美がサラリーマン風の男に話しかけている。

 男はそれを受け取って、何度も何度も頭を下げている。なるほど。落とし物を拾ってあげたのか。受験当日だというのに。根はいい子のようで安心した。

 困ったときに、社会の誰かが助けてくること。それも、ある意味愛の一種なんだろう。

 愛…そういえば、あの恋愛ドラマ録画したのに見てないな。帰ったら見よう。

 前より、愛について少しだけ詳しくなれた気がした。


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