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清浄と汚濁

作者: 仁

幼い頃、曾祖母は汚いと思っていた。食事が終わった後、歯糞か何かを皿の端に寄せて集めて、山型に綺麗に固めておく。これがとても汚いと思い、嫌だった。老呆けしているからこういう汚い喰い方をするのだ、と思った。

母が「お願い、小っちゃい婆ちゃんの食べ終わった皿運んであげて」と頼む。「小っちゃい婆ちゃん」とは曾祖母の事を指す幼児語だった。年嵩でも、腰が曲がって小さく見えるから、小っちゃい婆ちゃん。甘え混じりの反抗もあったのだろう、その母の頼みに、「ちょっとやだな。あれ汚い感じがする」とごねた時があった。すると家族の内でも一番優しい母は「どうしてそんな風に言うの」と、涙ぐみながら声を絞り出す様に切実に批難した。私はその時、幼さというだけで逃げ切る事の出来ない残酷さというものが、この世には存在するのだと初めて知った。そして、自分の内部にもそれが埋まっているのだという、恐ろしい現実も。その現実には寒気を覚える様な恐ろしさがあったが、子供の内は母が精神的な毛布になる事で庇護してくれた。立派な教育であったと、後になってから気付いた。子供の内側から避けようもなく湧いてくる残酷さ、冷酷さから、目を逸らさずに、真正面からショックを受け、悲しむ。これは、正しく叱る事以上に、大人として重要な事なのだと、自分では思っている。


曾祖母の老呆けは紛れもない事実だった。それで汚い事になるというのも、ある部分で事実だった。

廊下の絨毯に糞を漏らした日があった。既に部屋におまるを置いている状態だった筈だが、彼女は部屋で用を足すというのが嫌だったのだ。誰に見られていなくても、自分の記憶が見ている。認知症だ、と医師や世間に言われても、その衰えた認知能力が、未だに自分自身を見ている。それが羞恥を生む。

そして、老いて呆けた曾祖母は失敗したのだった。かつては自分が何人もの、何世代もの子供の糞を拭き続けてきたのに。その自負はまだ心の隅に残っているのに。それなのに便所に辿り着けず、途中で失敗してしまった。

その現場を私は見ていない筈なのに、

「どうしておらこだな風になってしまったんだべ」

という、認知症がまだ比較的軽かった頃の口癖と共に、その場面がありありと思い出される気がする。自分の漏らした糞を何とかしようと、自分の着ている服や、素手で絨毯に擦り付け続けている様が。消そうとするのに、広げてしまう結果になる。認識の病は、自分がなぜここにおかれているのか、分からなくしてしまう。そしてここから抜け出せないのかを。私はまだ曾祖母の年には程遠いけれど、時々、そんな気持ちが痛い程分かる様な気がしてくる。どうしてここから抜け出せないのか、と。


私の心が成長する前にその曾祖母は老衰で死んだ。母が度々思い出して語るには、「名前を呼ぶと、数値が戻って来るの。お医者さんが『あまり呼び戻しても苦しみが長引くだけです。そろそろ静かに行かせてあげましょう』と言ったの。悲しくて、今でも思い出す」という最期だった。

その後になってからだ、曾祖母の皿の隅の食べ滓の集まりより汚いものが無数にあるという事を悟ったのは。老呆けの認知能力の袋小路で、拭こうとした自分の糞の広がりより、遥かに臭ってくる諸々の事柄が、人の心を介して産み出されるのだという事を悟ったのは。歳月と共に老いていくのは曾祖母だけではないのだと知る。また、曾祖母が見せた皿の隅に寄せた歯糞や、拭こうとして塗り拡がってしまった絨毯の糞は、或いはまだ不潔さではマシな方だったのではないか、という事にも気付かされてくる。或いは、却って人間の数少ない綺麗な側面に属する事柄だったのではないかとさえ。


同じ様な事は世代が移る度に幾度か繰り返され、自分さえもそれなりに歳をとってしまった。今度は自分の汚い所が他者に見咎められる番だ。あの日の私と同じ年ごろの私の娘が言う。お父さん汚い。毛が落ちてる。風呂の水が汚れてる。小便が跳ねてる。むせって口の中の咀嚼物が飛び出した。だからそんな汚い人とは一緒に居れない。到底暮らせない。お母さんも同じ意見よ…そして幼い頃私をたしなめてくれた、曾祖母の尻拭いをさせられたのに、曾祖母を汚いと言う自分を叱ったあの母は、もうここには居ない。既に不浄なものとして、老人として、そしてその後死人として遠ざけられてしまっている。「衛生的な暮らし」に、彼らは入れてもらえない。家族ではなく、恐怖し、避けるべきものとして締め出される。

私は生きている。でも私も生きていない側へいつでも追いやれるのだという、清潔な世界の倫理に圧されて縮こまっている。情操を育てるより先に分別を身に付けた娘の目玉が、私を見る。それはあの日の私の目だ。私は、私の目を通して、私の蔑みを受ける。私は認知症になる前から、私の糞に塗れている。「あなたは汚れている。あなたは自分の汚れに社会的責任がある」という眼差しが、私の心を糞より酷いものに塗れさせる。果たして娘が娘自身を守る衛生的世界から締め出されるまでの期間は、私がこれまで享受した時間よりも長く在り得るだろうか?などと他人事の様に考えながら。母の優しさはこの胆力も情も無い私の中で死に、娘はそれを知らない暮らしの中を生きていく。


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