魔人化
岩の陰で、何かが動く音がする。
クウスも、ナコフもエミリーも、すぐに立ち上がり剣や杖を手にした。
「何だ?」
クウスが呟くと、音の主が現れた。
「ギチッギッ」
甲殻這獣。
一見してサソリのような形をした魔物だ。
ただし、体長は凡そ二メートル。体高は一.五メートル。
硬い殻に覆われた体、二つの大きな鋏、そして先端が尖った尻尾を持つ。
一人前の冒険者なら倒せる程度の強さ。
ただし、一匹ならの話。
岩陰から出てきた甲殻這獣の数は、四匹。
しかも岩の向こう側からは、さらに這い回る音が幾つも聞こえる。
どうやら、群れで移動してきたようだ。
「甲殻這獣の群れか。不味いな」
ナコフが苦虫を噛み潰したような表情になる。
エミリーも顔が青くなっている。
「おい、おっさん達は逃げろ。オレが足止めしてやる」
「なっ!何を言っている!? 一人で群れを足止めなど、死んでしまうぞ!」
クウスの提案は、ナコフ達にとっては有り難いものだが、さすがに無謀である。
魔物の群れは、おそらく十匹前後いると思われる。
それを一人で足止めなど、何分、いや何秒持つというのか。
「いいから行けって! お前ら守りながらじゃキツい。なに、適当に時間稼いだらオレも逃げるさ。おっさん、山の方角に街道があるんだよな?」
「あ、ああ、そうだ。……私達は反対方向に行く。すまない、恩に着る」
「ク、クウスさん。どうかご無事で。わ、わたし――」
「さっさと行け!奴らに囲まれるぞ!」
エミリーの言葉を遮ってクウスが急かす。
「わかった! さあ、エミリー行こう」
「は、はい! クウスさん、死なないで下さいね!」
ナコフに手を引かれ、エミリーも走り出す。
せっかくの獲物が逃げ出すのを見て、甲殻這獣の一匹が追いかける。
だが。
「お前は行かせねーよ!」
クウスの剣鉈がザーモントを横から切り裂く。
甲殻這獣の殻はかなり硬い。
一般人が剣で切りつけても、殻を切り裂いてその奥の肉まで剣先を届かすのは難しい。
だが、クウスが本気で振った剣鉈は、殻の奥まで切り裂き、出血させた。
「ギヂィッ! ギチチチチッッ!!」
とは言え、致命傷には程遠く、斬られた甲殻這獣も怒り狂っているだけで、まだまだ元気だ。
一旦、後ろに跳んで群れから距離をとるクウス。
「ちっ、面倒な相手だな。おっさんはザーモントとか言ってたか?」
クウスは甲殻這獣に遭遇するのは初めてだった。
この魔物の生息地は荒野や岩山など。
クウスの住んでいた辺りは、森に囲まれていて、山は近くにあるが甲殻這獣の好む環境では無かった。
甲殻這獣の群れが岩陰から現れた時、その見た目から剣が通じにくそうだと、クウスは予測した。
そして、それなら魔法を、しかも全力で使うことになるかも知れない。
そう考えたからこそ、クウスは足止めを買って出た。
ナコフとエミリーが居ては、本気で戦えないのだ。
そして、二人はもう逃げた。
現在ここには、クウスただ一人。
「それじゃあ、覚悟はいいか? サソリ共」
左の掌を胸に当てたクウスは、獰猛な笑みを浮かべた。
そして、解き放った。
肩で息をしながら走るエミリーは振り返り、遠く離れた岩場を不安そうに見つめる。
「ハァッ、ハァッ。ナコフ様! クウスさんは大丈夫でしょうか!?」
「うむ。彼は、腕に自信がありそうだった。時間を稼いで、何とか逃げることはできるだろう」
前を走るナコフは、エミリーを振り返らずに答えた。
(二、三匹ならともかく、数が多すぎる。岩の向こうから聞こえた限りでは十匹以上だ。……死ぬ可能性の方が高いだろう。だが、この子には言えんな)
ナコフは内心が表情に出てしまうのを恐れ、エミリーの方へ振り向かなかった。
「彼が体を張って逃がしてくれたのだ。私たちは一刻も早くこの場を離れ、後は彼の無事を祈るだけだ」
「そ、そうですよね! クウスさんならきっと、大丈夫ですよね!?」
エミリーの声に少しだけ力が戻る。
エミリーは最後にもう一度、見えなくなった岩場の方角を振り向く。
視界にはもう夜の闇しか映らず、再び不安な気持ちが沸いてくる。
それを振り払うように、すぐに前へと向き直り、ナコフの後を追うのだった。
「――我クウス 一時の解放を差し許す 《解封》《真抗門》!」
詠唱した直後、クウスに変化が訪れた。
最も分かりやすい変化は、髪と瞳の色。
僅かに残っていた銀色の部分が増えていき、黒と銀が半々となった。
髪はマダラ模様なのに不思議と調和が取れていて、混ざり合った黒銀の瞳は敵を捉え爛々としている。
身体を闘気が覆い、全身が強化されている。
そして、あまりに増加した魔力がクウスの中から満ち溢れ、周囲の甲殻這獣達を威圧していく。
真抗門。
クウスに掛けられた十の複合封印、《十門封印》。その第一の門である。
三年前に集落を凶悪な魔物が襲った際、死にかけたクウスは初めて封印の門を解放した。
魔力と闘気が大幅に増加し、ある魔法を使えるようになったことで、クウスは九死に一生を得た。
「さて、さっさと終わらせるか」
踏み込んだ瞬間、クウスの姿が掻き消えた。
一瞬で正面にいた甲殻這獣に肉薄し、剣を振るう。
「ギッ?」
その斬撃は甲殻這獣の胴体を、いとも簡単に両断した。
先の斬撃と違い、増えた闘気によって肉体と武器が強化された結果だ。
さらに、横から迫る一匹に、剣鉈を投擲する。
「ギュベッ!」
剣鉈は突き刺さるだけでなく、突き抜けた。
またも、一撃で仕留めた。
剣を失ったクウスだが、そのまま次の一匹に飛びかかる。
今度は闘気を右拳に集中させる。
甲殻這獣は素手で殴りかかるクウスを大きな鋏で迎え撃つ。
巨大な鋏とクウスの拳が激突する。
硬質な何かが割れる音が響く。
「???」
甲殻這獣は何が起きたのか分からなかったのだろう。
鋏の腕は折れ曲がり、鋏自体もひび割れている。
人間の細い腕に、自らの最大の武器である鋏が負けたのだ。
そして、クウスの追撃。
左足による、全力の蹴り上げ。
鋏を破壊され呆然としていた甲殻這獣は、全く反応できない。
頭部が吹き飛んだ。
あっという間に、三匹が屠られた。
「おら、どうしたー? 掛かってこいよ」
甲殻這獣を左手で手招きをする。
すると、クウスの挑発に乗ったのか、三匹が三方向から、突進して来た。
「があああっ!!」
クウスが雄叫びを上げながら手を振ると、突如として周囲に炎が吹き荒れる。
根源魔法によって火を発生させたのだ。
封印を解除しているクウスは、膨大な魔力を使える。
本来、大した現象を起こせない根源魔法でも、魔力を注ぎ込むことで、無理やり広範囲に炎を生み出したのだ。
クウスに突撃した三匹は、火を正面から浴びた。
硬い甲殻も火には役立たず。
三匹とも焼かれ、もがき苦しんでいる。
さらに、クウスの攻撃は続く。
「魔に依り・集え・大気――」
クウスが左手に魔力を集中させる。
「――狭間の風よ 研ぎ上がれ」
開いた指と指の狭間に、風の刃が象られていく。
「――吹き抜け裂けろ」
五指の間にできた風刃の数は四本。
「――《風爪》!」
発動句とともにクウスの手から解き放たれる。
その左手から生えた四本の風爪は、一瞬の風の音と共に飛んでいく。
仲間の死骸の陰から現れた二匹の甲殻這獣を、あっさりと切り裂いた。
残る甲殻這獣は四匹。
クウスの蹂躙は続く。
数分後、ザーモントの群れは一匹残らず、物言わぬ骸となっていた。
返り血と汗を布切れで拭いながら、晴れ渡った表情のクウスが呟く。
「ハァ〜ッ……魔人化はやっぱ解放感あるけど、疲れも半端じゃねえな!」
魔人化。
封印を一時的に解除した時の状態を、クウスは魔人化と呼ぶ。その姿を見た集落の連中が「魔人」と言っていたのでそう呼び始めた。
本来、先ほどの詠唱はほとんど不要だ。封印の魔術紋が刻まれた胸に手を当て、《真抗門》と唱えるだけで、封印を一時的に解放できるのだ。
しかしモリー婆から、必ず『解封の詠唱』を唱えるように言われていた。
根源魔法の無詠唱と同じで、とにかく誤魔化しておく方が良いらしい。『解封』と唱えることで、どう誤魔化せるのかをモリーは教えているはずだが、クウスはほとんど覚えていない。
唱えればいいんだろ、と詠唱を暗記しただけだ。
「ああ疲れた。もう寝たい……けど、死骸に囲まれてちゃ寝れねえ。はあ、移動するかぁ」
甲殻這獣の死体がそこかしこにある。その内、血の匂いを嗅ぎつけて、他の魔物が集まってくるかもしれない。
クウスは疲労した体を引きずって、夜の荒野を歩き出すのだった。
この翌日、死骸となったザーモントの群れを通りがかりの旅人が見つけ、腰を抜かしたとか。
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