第九話「野性と美貌」
フレイアは思わず悲鳴を上げ、顔をまっ赤にしてうしろを振り返った。
目の前にいる秀麗な若者の正体がリルであることは理性では何とか理解した。しかし、その一糸まとわぬ逞しい裸身を見せられると、やはり混乱せずにはいられなかった。
このひと月のあいだずっと親しくいっしょにいた銀色の狼と、目の前の野性的な若者が一致しない。そして、何よりかれが裸であることに当惑させられた。
いままでまったく恋愛経験がない彼女は、物心ついてから、男性の裸身を見たことがなかった。まして、月下、その若者の裸身は神々が彫琢したかのように美しく、眩く、目を逸らさずにはいられなかったのだった。
そして、また、彼女はひとつのことを思い出して悶えた。自分は、この若者とずっといっしょに寝起きして、風呂までいっしょに入ってしまったのだと。つまり、かれに裸を見られてしまった。
そう考えると、堪えがたい羞恥が湧き上がってきて身体が熱くなった。リルは、わたしの頬をぺろりと舐めたりもしたのに!
「大丈夫か?」
その、ワイルドな美貌の若者はうしろから心配するように話しかけてきた。もちろん、まったく大丈夫ではなかった。素裸の異性と一室にふたりきり。彼女の受け入れられる範囲を大きく超えるシチュエーションである。しかも、その男はあのリルなのだ!
「やっと、この姿になれたな」
若者――リルは感慨深そうにいった。
「ずっと人間の姿になってフレイアと話したかった。いままでなかなか成功しなかったが、成功してみるとコツがわかるな。こう、自分が人であると心から思い込むというか、それがあたりまえのことだと信じ込むというか――まあ、良い。この姿なら自由に話すことができる。それに、フレイア、おまえをこの腕に抱くことも」
リルはそのままフレイアのほうへ歩き出したようだった。かれはその言葉通り、彼女の身体を背後から優しく抱きしめた。
フレイアはいよいよ混乱のきわみに達して、いっそ気絶してしまいたいくらいだった。だが、かれは彼女のその困惑と羞恥をあっさりと無視して耳もとでささやいた。
「これで、何もかも問題はない。フレイアとずっといっしょにいることができる。おれは王宮へなど行くつもりはない。いつまでもおまえの傍にいたいんだ」
「そんなの――」
困る、という言葉は飲み込んだ。じっさい、ひどく困るはずだったが、それでも、リルの、ほとんど求愛ともいうべき言葉は心に沁み込んできた。
ただ、どう応えたら良いのかわからない。フレイアはあくまで野性の幻獣を伴侶にしただけのつもりだった。それが、このような美しい若者からいつまでもいっしょにいたいと甘く囁かれることになるとは!
困惑は極限に達し、くらくらと倒れそうになるくらいだった。
「嫌なのか?」
「い、嫌じゃないけれど。とりあえず、そう、服! 服を着て! いや、男ものの服なんてないからそこのシーツを巻いて。そのままでいられると困る」
「いままでずっとこの格好のままだったが?」
「それは、狼の姿だったからでしょう。人間は服を着るものなの。お願いだから裸で抱き締めるのやめて」
「わかったよ」
リルは渋々といった様子で指示に従った。彫刻めいた裸身にシーツを巻いて隠したようだ。
フレイアはそれでもまだ目を逸らしたかったが、リルが不満そうなので、しかたなく視線を合わせた。
かれの姿は、必ずしも乙女が夢に思い描くような甘い容姿とはいえなかったかもしれない。その肌は浅黒く、顔立ちは彫りが深く、まっすぐ彼女を見つめて来るまなざしは勁烈すぎるほどだ。
しかし、同時にかれはあたりまえの若者にはないまさに、野性、とそういうしかない独特の雰囲気をただよわせていた。人間の社会に属さず、また人間に飼われもせず、みずからの力で生きている荒々しい生きもののみがもつ強い生命力が感じられる。
ひと目見ると、フレイアはもうかれから目を逸らせなくなっていた。あの深い森のなかでリルと初めて逢ったときのことを思い出した。なんと美しい生きものなのだろう、と。
「リ、リル、とりあえず狼の姿に戻ったらどうかな。その姿のままだと、その、わたし、恥ずかしいっていうか」
「なぜだ。おれはこの姿のままでいるぞ。そうしたほうがおまえと話せるし、いつもいっしょにいられるからな」
フレイアはリルを説得しようとしたが、上手くいかなかった。かれは大きなあくびをし、そのうち、平気で寝てしまった。彼女のほうはひと晩中、まったく眠れなかった。
翌朝、彼女は男性の服を買い求めてきて、かれに着せた。そのようなふつうの格好をしてみると、リルはもう人間の若者にしか見えなかった。
非常な長身であるため、かれと目を合わせようとすると、フレイアはその顔を見上げなければならなかった。そして、かれの顔を見ると、なぜだかひどく恥ずかしく、照れた。
自分はこの若者と平気で寝食をともにし、裸まで見せたのだと思うとたまらない気持ちになったが、いまさらどうしようもないことだった。
リルを連れて街を歩くと、かれが狼の姿をしていたときとはべつの意味で人々が注目することがわかった。
それほど、かれはすらりとしていながら筋骨隆々とたくましく、どこか危険な雰囲気を放っていた。
フレイアはリルとともに市場やギルドへ出向いたが、だれもがその姿に視線を吸い寄せられるようだった。特に女性たちのなかには茫然と熱いまなざしでかれを見つめる者も少なくなかった。
そのような人を見ると複雑な気持ちだった。ひょっとして自分は嫉妬しているのだろうか、と思うと奇妙な気分だった。自分のなかに初めて発見する感情だ。
ただ、リルはやはり人の姿で動くことに慣れていないようではあった。その動きには獣のときのしなやかな俊敏さが感じられはしたが、衣服を着ていることは窮屈そうだったのだ。
また、時折、平気で人の匂いを嗅いだりしてまわりの人々を困惑させた。
そして、ギルドでは、さすがにかれの正体は見抜かれてしまった。最初に気づいたのは、やはりダミアンだった。かれは唖然と大きく口をひらいて「リルか!」と呟いたきり、黙り込んでしまった。
リルはなぜか不機嫌そうに「そうだよ。何か文句があるか」と絡んだ。いままで自分の世話をしてくれているダミアンに対しては好意を持っているのかと思っていたが、必ずしもそうではないようだ。さすがに伝説の幻獣は気むずかしいのかもしれない。
すぐにまわりは騒然となり、最高級の幻獣が人間に変身できるという噂はほんとうだったのか、と驚きがひろがった。