第六話「試練」
「そう」
カリナはそれ以上に余計なことはいわなかった。ただ、リルの名前を記録帳に記載し、登録を終えると、ふたたびしげしげとかれの麗姿を観察した。いくら眺めても長め飽きないようすだった。
それは、そうだっただろう。じっさい、〈伝説級〉の幻獣が馴らされることなど、そうめったにあることではないのだ。
いつのまにか、このへやの各所にたむろしていた人々も、また、リルの周りに集まってきていた。皆、かれのことをめずらしそうに見つめる。そして、フレイアに声をかけてきた。
「うーん、嬢ちゃんには謝らないといけないな。おれは、あんたがS級をめざしていると聞いたとき、できるわけがないと思っていた。よくいる、口ばかリ大きい無謀な新人だとな。だが、この様子ならあんたならほんとうにS級に手がとどくかもしれん」
「いえ、ただ運が良かっただけなんですよ」
フレイアは恐縮するばかりだった。
とはいえ、嬉しくないわけでもない。いままで自分がアカデミーでやって来たことが、実践でも、紙一重の危ういところではあったにせよ、通用した。その驚きと喜びは大きかった。
「それじゃ、行きます」
かるくカリナに頭を下げた。
「ちょ、ちょっと待って。そのフェンリルはどうするの?」
「うちの宿は、トレーナー専用で、部屋に幻獣も連れ込めるんです。水浴びもいっしょにできます。だから、わたしたち、ずっといっしょにいられるんです」
「そっか。そうよね。馴致した直後は、しばらくいっしょにいたほうが良いのは基本だものね。すぐに〈聖地〉に送るかなんて、わたしもばかなことを聞いてしまったわ。最近は手柄のためにそうする人が多いこともたしかだけれど」
「いっしょにお風呂に入ろうね、リル」
フレイアはリルを見下ろした。かれは、その言葉に応えるように大きく吠えた。
そして、しばらくの時が過ぎた。フレイアは、宿の脱衣所で衣服を脱ぎ去り、生まれたときのまま、白い姿となっている。
リルは黙ってじっとその裸身を見上げていた。フレイアはちょっとため息を吐いた。痩せた、貧相な身体だ、と自分では思う。
乳房も、決して女性らしく大きくはないし、尻もちいさく、そもそも全体的な肉づきが良くない。おそらく、男性にとっては魅力的な身体とはいえないだろう。
彼女が幻獣にばかり夢中で、一切の恋愛ごとに興味を持たないのは、ひとつには、そういった劣等感があるからだった。
いま、彼女はリルといっしょに身体を洗っている。そういえば、かれの身体をケアするためには、いったいどのような製品を使えば良いのだろう。
いまさら、その点に思い当たった。都市にやって来た幻獣は、そこに慣れることができず、体調を崩すことも多い。しかし、並の〈コモンクラス〉や〈エリアクラス〉の幻獣ならともかく、〈レジェンドクラス〉に関しては情報も少なく、じっさいのところ、どうやって世話をするべきなのかよくわからなかった。
フレイアの脳裏を冷やりとしたものがよぎる。
リルは、彼女の顔をぺろぺろと舐めた。さすがに照れくさく、洗い直す必要も生じるので遠ざける。
「もう、おまえ、オスでしょう。ダメだよ、女の子にそんなことをしちゃ」
リルは平然としていた。何が悪いのだ、といいたげだ。
この風呂には、湯舟はない。だから、フレイアは湯でふたりの身体を洗うだけ洗って、戻った。
もちろん、そうはいいながら、裸身を隠したりすることはなかった。のちに、彼女はこのときの無防備さを思い出し激しく悶えることになる。だが、それはもう少し先のことである。
その日の、夜。
フレイアは硬い寝台に寝ながら、傍らのリルの頭を撫ぜていた。
愛しい、と思う。いまのいままで、アカデミーでも頭の固い優等生として見られ、人のみならず何かを真剣に愛する気持ちなど忘れていたのに、リルのことは、しみじみ可愛く感じられる。
胸の奥から、何か、仄かにあたたかいものが尽きずこみ上げて来るようだ。
これが、いわゆる愛というものなのだろうか。そう思うと、何ともありがたいような、申し訳ないような気持ちだった。
「おやすみなさい、リル」
彼女はそう挨拶して、目をとじた。いつまでもいっしょにいられるといい。このときは、真剣にそう思っていた。
◆◇◆
それから彼女は毎日をリルと過ごした。本来、〈レジェンドクラス〉の幻獣には国から大金が支払われる。しかし、それは〈聖地〉や王宮へ下げた場合のみ。あくまで手もとに置きつづけるなら、その偉業は功績として数えられることすらない。
ギルドの記録には残るため、細々と金銭の支払いは行われるものの、公的な援助は何もないこととなる。
つまり、トレーナーがその仕事でひと財産を作ろうと思うなら、馴致した幻獣は一様に〈聖地〉へ送ってしまうことだといえるわけだ。しかし、フレイアはその道を選ばなかったのだった。
フェンリルほど破格の幻獣を連れていれば目立つ。自然、彼女がリルの馴致に成功したことは街じゅうに知れわたった。ただ一匹であっても〈伝説級〉の幻獣の馴致はそれほどの快挙なのだ。
だが、その幻獣を自分の傍に置くなら、世話は自ら行わなければならない。
もちろん、本来、トレーナーはその道の専門家ではある。だが、フェンリルのような半神的な生きものとなると、馴致された回数も、知られている情報も少ない。必然、世話も育成も容易ではない。
まして、まだアカデミーを出たばかりの未熟者に過ぎないフレイアにとって、そのような未知のところが多い幻獣を育てることは大きな試練だった。
彼女はたしかに、精一杯にやった。毎日、リルの毛並みを梳いてやったし、わざわざ高級品でその肌を磨いた。
しかし、知らないものはどうしようもない。何しろリルにとって適切な食べものひとつわからないのだ。
そうして、彼女は一日、また一日と疲弊していった。リル自身は、べつだん、何ら変わっていないようでもある。かれの態度にはまだ余裕が伺える。
とはいえ、街に来た幻獣はしばしばその暮らしに慣れず、体調を崩す。リルにもそのようなところがあった。あるいは、フレイアの思い込みに過ぎなかったかもしれないが、毛並みがいっときほどのつやを失くしているように思えた。
そうなってみると、たとえば病気の予防法ひとつわからないことが不安でならない。
フレイアは図書館へ向かい、トレーナーの権限で古い書物を読みあさった。だが、フェンリルについて詳細な知識を記した本は見あたらず、あいまいな記述ばかりだった。フェンリルは月下で変身を遂げるなどといいかげんなことが書かれていたりした。