ここにいる
静かな夜だから安堵と喜びに満ちた花の声が月まで聞こえただろうか?さっきまでコチを乱暴に運んだ風が優しく花びらを揺らし通りすぎた。
花は小さな声で「ありがとう」と囁いた。
そして、コチは、くるくると回る視界の中でとうとう意識を失っていた。喜びを分かち合おうとやってきた風のハイタッチに、叩き落とされそのまま地面にポトリと落ちた。
「蝶々さん?」
コチの意識にようやく花の声が届いた。コチはいつの間に眠ってしまっていたらしい。いや、あれは気絶だ。暴風が嘘だったかのようにやけに夜は静か。何も見なかったとばかりに月も薄い雲に隠れぼんやりと淡い光を浮かべる。
静寂な夜。花の声だけがそこに響いていた。
「蝶々さん。大丈夫?どこにいるの?」
何度も聞こえる花の声。花の声はコチのすぐ近くから聞こえた。雲に隠れた朧月を見上げながら、コチは、聞こえてくる声から花の場所を探した。
目の前に花が現れてそこからよく覚えていなかった。ポテッと落ちてコロコロと瓦礫の山を転がっていったのだろう。瓦礫の山を一つ隔てて、コチと花は隣にいるらしい。どうやら、花の場所からは、コチの姿が見えないようだ。
なんとなく今の状況を把握したコチは、ムクッと起き上がり、体の調子を自分の体に伺った。特に痛むところはないし、羽も傷ついてはいなかった。ただ、体を動かすとそれに反応して得体の知れない化け物が腹から頭をぐるぐると這いずり回った。
「うぅ。気持ち悪い。」
コチは頭を押さえ、なんとか化け物を落ち着かせる。月は雲に隠れ、コチの様子を伺っている。不機嫌に体の砂をはたくコチ。月がコチのご機嫌を伺いながらそぉっと雲の間から顔を出した。コチは月を見ようともしなかった。コチは、静かに少しずつ羽を動かし、少し動くたびに、気持ち悪くなる頭を宥めながら山を登る。
コチは頂まで来ると花に気付かれないように隠れながらゆっくりと谷底を覗いた。そして、花の横顔を見つけた。さっきは一瞬で分からなかったが、花にかぶった砂は綺麗に風が運んでいた。花びらは月明かりに照らされ、淡いピンク色がかすかに夜に浮かんでいる。心配そうにキョロキョロと辺りを探している花。声には、徐々に悲しみが現れ始めていた。
月はとにかく心配だった。
いくら何でもあの風はやりすぎだ。でも、あんなにめちゃくちゃに飛ばされた虫を見て、何故だろう、思い出すと笑いそうになるじゃないか。いや、笑ってはいけない。あんな勢いで飛ばされたんだぞ。気を失うくらいで済んでまだ良かった方だ。怪我でもしたらどうするんだ。笑うなんてけしからん。そう思えば思うほど、笑いそうになるのだ。まだ、雲の間から顔を出すには早かったんじゃないかな?月が心配なのは、今のコチを見て吹き出して笑ってしまう事だけじゃない。あんな飛ばされ方をされたコチの気持ち。あんな飛ばされ方をされたのに笑いの対象にされているコチの気持ち。あのちっぽけなコチの気持ちを考えると心配だ。きっと、あいつはヘソを曲げている。月の嫌な予感。今、必死にコチを探すあの花の言葉をきっとコチは無視するだろう。さっき、やったみたいにきっと花を傷つける。ましてや、闇雲に暴言なんて吐かなきゃいいが。月は心配そうにコチを見ていた。
「あれ・・?見間違いだったのかな。いえ、私はちゃんと見たわ。声だって掛けてくれたもの。大丈夫よ。大丈夫。」
しきりに自分に言い聞かせる花の声が静かな夜に悲しく響く。もちろんその声は、そばにいるコチの耳にも届いていた。
ほら、やっぱり。あいつは無視をするんだ。月は、もちろん知っていたさ、と予想の範疇であると自分に言い聞かせ、溢れ出てくる苛立ちを抑えようとしていた。
声がした。
「ここだよ。ここ。」
・・あれ?
月は、あいつ?と宙を舞う風に問う。
「ここにいるよ。僕が見える?」
恥ずかしそうに、でも優しいコチの声が確かに月まで届いた。ぼんやりした月明かりじゃなかったなら、あの日のようにコチの真っ赤に染まった顔が見えた事だろう。
月の安堵したため息を夜風が運ぶ。