木枯らしコチ
その影の正体は、小さな蛾。
蝶じゃなくて蛾。区別はなかなか難しい。蝶は美しくて、蛾は汚い?でも、どんな瞳で見たら、区別ができるのだろう?青い瞳?それとも黒い瞳?残念ながら月はどちらも持ち合わせてはいない。
その蛾は、月の顔なじみだ。
この蛾をなんと呼ぼう。蛾は、そこら中にいるし、蛾なんて呼びづらい。そうそう。この蛾には、あだ名があった。
その名も「木枯らし」だ。
その名の由来は、こいつの小さな羽だ。こいつの小さな羽は、まるで枯葉のような色をしていて、欠けた葉のように不揃いだ。そんな羽を忙しなくパタパタと動かし飛ぶ姿を見ると、まるで木枯しが枯葉を運んでいるようだと、いつだったか、誰かが、春色の輝く太陽の下、こいつを「木枯らし」と呼んだんだ。木枯らしなんて呼ばれて誰かが笑うならまだいい。
「木枯らしが来た!」
そう聞いた奴らはみんな顔を引きつらせた。特に今は春だから、全く縁起の悪い名である。せっかく春がやってきたっていうのに、またあの寒い冬に戻りたいなんて誰も思わない。冬と春は隣同士。きっと夏よりも春は冬が怖いのかもしれない。この蛾にとって「木枯らし」というあだ名は、全く、居心地の悪い名である。
でも、それは太陽のいる色取り取りの光の世界で呼ばれる名。今は、太陽のいない、遠慮がちな月が輝ける夜。月の知っている名前で堂々とこいつを呼ぼう。
そうそう。こいつの本当の名は「コチ」だった。
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コチは、外灯を点々と辿る中、月の光に気がついた。
「なんだ?お前。今日も独りかい?」
月はいつでも不機嫌にコチの言葉を無視するので、皮肉なコチの言葉は、そのまま自分に返ってくる。
「今日はやけに明るく光ってるじゃないか。太陽のいる世界じゃ。まるでおとなしいのに。全く情けない奴だ。あれ?またお前太ったんじゃないか?」
コチは、羽をパタパタと動かしては、電柱や外灯に止まり呼吸を整えた。平然を装った口調で月に悪態をつくコチだが、コチの呼吸は乱れていた。小さな羽のコチは、あまり長い時間飛ぶ事は苦手だ。しかし、今日はいつもより、なんだか呼吸が乱れて息苦しい。鼓動が騒がしいようだった。
コチはまっすぐ工事現場の方に向かっていた。休み休みだから進む速度は遅い。いつものコチなら、今頃、行きつけの自動販売機でくだらないおしゃべりをしているはずだ。なぜ、コチが必死にそこに向かっているのか?月は知っている。月はコチの顔なじみだからね。コチが、夜にしか飛ばない理由だってコチは話さないけど、月はなんとなく分かってしまう。意地っ張りで嘘の下手くそなコチは簡単に見抜かれてしまうんだ。でもコチはその事を知らない。
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「おいおい。なんだよ。これ?」
コチは震える声を誤魔化すように月に聞いた。辿り着いた場所で目にしたのは見たこともないとても高い壁だった。その場所を覆い隠すように四方を高く白い壁が囲む。目の前の壁は威圧するようにコチを見下ろし、コチの立ち入りを無言で拒んでいるかのようだった。いつものコチであったなら、壁に貼られた「立入禁止」の文字が読めなくとも悩む事なく中に入らない選択肢を選んでいただろう。だってコチの身体は正直に震えていたからだ。
「どこの誰が作ったかは知らないけど、この壁は趣味が悪いな。いくら何でも高すぎだよ。無駄に壁が偉そうじゃないか。この中が見たい奴がここに来たらどうするんだ?そんな奴の事を考えてちゃんと作ったのかい?全く中が見えやしない。責任者はどこのどいつだ?」
月は何も答えない。コチの独り言を月は静かに見守っていた。
コチはちょっとだけ壁に近づいて中の物音を探った。
「静かじゃないか。いつもの下手くそな歌声が聞こえないぞ。」
コチは壁にもうちょっとだけ壁に近づいてみた。
「なんだよ。こんなの建てるからビビって黙っちまったのか?」
コチは体に着いた恐怖を払うようにぶるっと羽を動かした。そしてそのまま勢いをつけ、壁の頂上に向かって飛んだ、が半分にも届かず勢いは止まった。羽をいくら動かしても体が上に持ち上がらない。右へ行ったり、左へ行ったり、同じ高さの所を彷徨うかのようにただ浮いていた。不憫に思ったのか風がコチの重いお尻を押す。風が何度押してもコチの体は持ち上がらない。コチはすぐに力尽きた。落ちる体はなんとか壁にしがみついた。ヘッピリ腰で壁にくっつくコチは、ジリジリと短い手足を動かし、ちょっとずつ壁を登ることにした。這って登った方が早いって事に気づいたようだ。
なんとか、壁の頂上まで登ったコチは、ゆっくり塀の中を覗き込んだ。
しばらくの間、コチは黙ったままだった。きっと頭の中でそう何度も繰り返し問いかけたのだろう。
「本当にここ?」
コチが絞り出した声が虚しく空に響く。月はいつものように何も答えてはくれなかった。