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終末の時

作者: 永島大二朗

 祐次は車椅子に乗って、多くの人でごった返す受付の前を通り過ぎた。車椅子に乗っているからと言って、同情する人は誰も居ない。ゆっくりと進む車椅子を見て、無言のまま少し道を譲るだけだ。

 立ち退いた人が再び元の場所に戻ると、祐次の後ろには再び人垣が出来上がる。まるで手品の様に人垣を突き抜けた光景だが、珍しくとも思わないのか、祐次は振り返らない。

 それよりも祐次は、さっきまで左腕に刺さっていた点滴の跡を右手で擦る方が重要に思えた。注射が嫌いな祐次にとって点滴が外れたことは、今日で一番良いことに違いなかった。

 祐次がさっきから左手を擦っているので、車椅子をゆっくりと押す娘の春香が話し掛けた。

「手傷む?」

「大丈夫だよ」

 春香の柔らかい声に対して、割と太い声で祐次が答えた。車椅子の右後ろには小さな手が添えられている。車椅子に座った祐次と目線は同じ位だが、年は大分違う。

「おじいちゃん何処行くの?」

 甲高い声が響いた。そう聞かれた祐次は首を少しだけ曲げて孫の秀樹を見た。しかし、祐次はにこっと笑っただけで、何も答えなかった。

「おじいちゃんはね、病室を替わるのよ」

 春香が祐次の代わりに答えた。幼い息子は口を尖がらせた。

「ふーん」

 見晴らしの良かった八階の病室から替わるのが不満なのか、それともエレベーターのボタンを押す係りを解任されたのが不満なのかは判らない。いや、本当は、祐次が退院すると思っていたのだろう。秀樹はむっとした顔をして黙った。

 もう一人むっとした顔になった人がいた。それは車椅子に乗った祐次だ。黙って前を向き、目の前に現れた案内看板を見つめていた。

 祐次がむっとしたのは、娘の春香に『おじいちゃん』と言われたからだ。

 いや、判っている。人は会話の中で一番の弱者に合わせた言い方をする。今一番の弱者は秀樹だ。腕相撲をしたら誰にも勝てないだろうし、九九も言えないだろう。

 そんなことは判っている祐次だが、やはり娘に言われたくない言葉だ。

「秀樹、そこのドアを開けて」

「はーい」

 子供と言うのは役割を与えられると喜ぶものだ。パタパタと走って行くと、廊下の角にあるドアを押した。

 そのドアは検査に向う時に前を通るが、開けたことはない両開きのドアだ。子供には重たかったのか、顔を真っ赤にして押している。春香と祐次は秀樹が頑張って扉を開けるのを待った。

 車椅子が通れる程扉が開くと、その先に長い渡り廊下が現れた。

「足気をつけてね」

 そう言われた祐次は右手で左腕を押さえるのを止め、車椅子の上で腕を窄めた。春香は手じゃなくて足だと思いながらも、ドアの間をすり抜けた。

「はい。ありがとう。手気をつけてね」

 母親の春香に言われた秀樹は、大きく開けたドアからパッと手を離し、車椅子を追うかに見えた。しかし、自分の手を離れたドアが、意外な程ゆっくりと閉じるのを観察していた。

 やがてパフッと空気とゴムの擦れる音がしてドアが閉まると、秀樹は鼻歌を歌いながら車椅子の後を追い駆けた。

 再び閉じられたドアの横には、検査室を示す矢印の下に、小さく『緩和ケア病棟入り口』と書かれた看板があった。三人は受付の呼び出し音や、談話室の賑やかな声が聞こえない扉の向こうへ消えた。


 祐次は長い渡り廊下を車椅子で押されていた。両側には小さな絵が窓と窓の間に飾られている。他に誰も居ないので、春香はそれを見ながら車椅子を押していたが、祐次は西日が眩しいのか目を閉じていた。秀樹がトコトコと車椅子を追い越すと、急に立ち止まって振り返った。

「この絵、誰の絵?」

「ほら、危ないでしょう」

 春香は手を止めた。さほど怒った声ではないと感知してか、それとも車の前に飛び出したのを反省してか、秀樹は逃げる様に先へと走った。

「走らないの!」

 今度は少し大きな声が響いて、秀樹は足を止めた。しかしそのまま同じ速度で戻ってくると、今度は動き始めた車椅子の横に止まった。

「ねぇおじいちゃん、この絵、誰の絵?」

「ん?」

 祐次は左目を開けた。秀樹は判らないことがあると、すぐ祐次に聞く。祐次なら何でも答えてくれるからだ。春香だとそうは行かない。祐次は可愛い孫に呼ばれて上機嫌になった。

「これはー、入院している人が書いたんじゃないかな?」

 真っ直ぐ孫の方を見て祐次は答えた。

「へー」

 それはいかにも低い声だった。どうやら有名人とかプロの画家による作品ではないと理解したのか、興味がなくなった様だ。

「おじいちゃんも描いたの?」

 しかし入院患者の作品と聞いて、秀樹は質問を変えた。

「おじいちゃんは描かないよ」

 祐次は即答した。

「なんで?」

 秀樹も直ぐに聞き返した。春香はこんな所で始まった秀樹の『なんで?』に少しだけ車椅子を押す速度を上げた。

「おじいちゃんは絵が下手だからだよ」

「そうなの?」

「うん」

 春香も心の中で「そうなの?」と思った。

「なんで?」

「頭で描いた通りに手が動かないからだよ」

 秀樹の変な質問に対する答えを春香が考えている間に、祐次が先に答えた。まるで祐次には想定された質問の様だ。

「へー」

 右手で頭をクルクルと回す祐次を見て、秀樹は納得した様だ。春香は苦笑いした。そう言えば春香が子供の頃、絵についてあれこれ批評をする割に、祐次自身は描かないのを思い出した。

「昔おじいちゃんの絵がね」

 春香が昔のことを思い出した時、祐次も昔のことを思い出していた様だ。

「うんうん」

 秀樹は車椅子の横に手を添えて頷いた。

「コンクールに入選したことがあるんだ」

「凄いじゃん!」

 そう言うと秀樹は車椅子から手を離し、両手をブンと振って祐次を見た。流石おじいちゃん。という目だ。

 しかし嘘かホントか、そんな話を春香は聞いたことがない。祐次に確認したい所ではあるが、車椅子を押しながら黙って聞いていた。祐次は話を続けた。

「それでね、県の美術館へおじいちゃんのお父さんと、お母さんと、兄弟皆で観に行ったんだよ」

「お母さんは?」

 秀樹が聞いた。お出かけする時に、お母さんを置いていくのはあり得ない。

「秀のお母さんはまだ生まれてない」

「なんで?」

「おじいちゃんが小学生の時だから」

「そっか」

 軽い声で秀樹は頷いた。納得した様だ。それを見て祐次は話の続きを語った。

「いっぱい展示されている中から自分の絵を探したんだけど、中々見つからなくて、どんな絵か説明して皆で手分けして探したんだけど、やっぱり無かったんだよ」

「名前を見たの?」

 不思議な話に思わず春香が口出しをした。秀樹も不思議そうな顔をした。春香の問いに祐次は頷いていたが、秀樹の顔を見たままだった。

「そしたら直ぐそこにあったんだけど、おじいちゃんの絵が逆さまに飾ってあったんだ」

「なんでー?」

 笑いながら秀樹が質問した。

「なんでだろうねー」

 祐次も笑った。祐次にとってそれは未だ謎のままであり、遂に答えられない質問となった。春香は車椅子を押しながら笑いを堪えていた。そう。ここは病院なのだから。

「だから写真を撮るんじゃないかー」

「そっかー」

 秀樹は納得したのか再び走り始めた。長い渡り廊下はもう直ぐ終わる。ドアの向こうには祐次が入る病室があるのだ。

「ねぇ、数字の横になんで同じ字が付いてるの?」

 少し離れた所にあるネームプレートを指差して、秀樹が祐次に聞いた。まだ幼い秀樹が読めるのは、画題に点々とある平仮名と、その下にある数字だけなのだ。

 それでも沢山ある中から共通項を見つけるとは、中々筋が良い。秀樹の利発さに感心しつつ、祐次は上機嫌で答えた。

「それは『ぼつ』って……」

「秀樹、ドアを開けて」

 祐次の声は春香の厳つい声に掻き消された。

「はーい」

 秀樹は絵の前から離れ、すぐ先のドアに向った。そこにはさっきと同じ様に『引く』と書かれた重い扉がある。秀樹はそれを押した。祐次と春香の心配をよそに扉は無事に開いて、祐次は再び手を窄めた。しかし、ドアを押さえる秀樹の横を通る時、縮めた右手を伸ばして秀樹の頭をそっと頭を撫でた。秀樹は得意そうな顔をした。


 長い廊下を通り抜けると、工事中で使えない玄関があった。

「あぁ、ここまた工事してるんだ」

「病室を増築するんですって」

「ここが使えればお見舞いの時近いのにな」

 祐次は苦笑いして玄関を指差した。

「でも、ここの駐車場を病室にしちゃうから、駐車場は向こうよ」

 春香は今通ってきた廊下の方を指差したが、祐次は関心無さそうに頷いた。それよりも目が行ったのは別の方だったからだ。

 緩和ケア病棟の半円状にあしらわれた受付カウンターには、綺麗な花が飾られてあった。そしてその横には、置き忘れた様に雪ダルマの人形が置いてある。

「雪ダルマだ」

「え? どこ? あっ、ほんとだ」

 そういう細かいことに気が付くのは祐次だ。年を取ったとは言え、まだボケた訳ではない。

「もう春なのにな」

「そうね」

 春香は笑った。前の病室を出る時、桜の開花宣言を伝えるニュースが流れていた。それを見終わってテレビカードを抜いても、祐次は病室を出ようとはしない。祐次は八階から、近所の公園にある桜を名残惜しそうに眺めていた。

「中島さんですね」

 看護士の声がして祐次と春香は振り向いた。廊下の奥から小走りに来た女性が声を掛け、小さい秀樹には手を振った。

「一〇一号室です。ここの一番奥です」

「判りました」

 春香は車椅子の向きを変え、廊下の一番奥に向って歩き始めた。廊下には空のタンカが一つ置かれていた。祐次は目を逸らした。

 先程と同じくドアが閉まるのを眺めていた秀樹は、一歩遅れて車椅子を追った。しかし今度の廊下は狭いので、春香の後ろから前には出られない。

 一方の祐次と春香は病室の扉の横に張られた番号を追っていた。人間とは面白いもので、一番奥だと聞いているのに何故か数字があるとそれを見てしまう。

「一〇九」

「一〇八」

「一〇七」

 祐次は扉が開いていた一〇七号室の様子をカーテンの隙間から覗き見たが、誰も居なくて頷いた。その様子を見ていた秀樹も真似をしてカーテンの下を覗き込んだ。しかし、お菓子をくれそうな人は居ない様だ。

 何か言いたそうにしていた祐次だが、春香は病室へと急いだ。一〇一号室まで来ると、祐次がポツリと呟いた。

「やっぱり一〇四は無いんだな」

「そうね」

 春香も頷いた。祐次が感じたことと、春香の考えたことは同じだった様だ。

「なんで?」

 後ろにいた秀樹が質問をした。秀樹には良く判っていない様だ。

「秀樹、ほら、カーテン」

 春香は一〇一号室の入り口に掛けられたカーテンを指差して、秀樹に言った。

「はーい」

 秀樹は車椅子の横をすり抜けると、小さな手でカーテンの下を持ち、祐次が通れるように引っ張った。二人は秀樹の質問に答えることもなく病室に入った。


 一〇一号室は角部屋で他の部屋より広い。それにテレビも無料で見れる。そう書かれた説明書きを見て、祐次はテレビカードを放り投げた。

「ブルーレイも見れるのか」

「さっきあそこにあったわよね」

「そうだね」

 受付の傍にあった娯楽室にブルーレイの棚があり、世界遺産とかそういうシリーズが置いてあった。

「持ってくる?」

「いや、いいよ」

「そう」

 写真が趣味の祐次は、そういうシリーズは既に観ていたからだ。

「この部屋すごーい」

 秀樹ははしゃいでソファーに飛び乗って腰掛けた。簡易ベッドにもなる応接セットが一つ、病室に設置してある。

「そうよ。ここは一泊一万円もするのよ」

「ひゃーくまんえん位するの?」

 通貨の概念がない秀樹は、祐次と言い合う時に使う最高額を提示したのだ。

 祐次をベッドに寝かせた春香は、秀樹の方に振り返った。

「そうよ。百万円でお釣り位するのよ」

「すごい!」

 秀樹が驚いて答えるのを眺めつつ、実は春香も判っていないのかと祐次は心配した。春香は祐次の視線を感じたのか、笑いながら祐次の方を見た。

「とりあえずこの部屋に入って、他の病室が空き次第移りますって」

「あぁ、判っている」

 そう言うと祐次は目を瞑った。大分傾いた日の光が、病室の奥まで差し込む。祐次が目を瞑ったのを見て、春香は窓辺に向った。

「別にそのままでも良いけどな」

「そのままじゃ高いでしょ」

 祐次の声に答えながら、春香は開け放たれていた窓のカーテンを閉めた。その音に気が付いた祐次が左目を開けた。

「そのままでいい」

 この場合のそのままでいいとは、既に閉められたカーテンを元の状態に戻すということだ。春香はそう理解してカーテンを開けた。

 大きな窓の隣にはドアがあって、病室から庭に出ることが出来る。今日はもう寒いだろうが、明日から緑の芝生で散歩をするのも良いだろう。庭を巡る遊歩道で疲れたら、東屋で一休み。そこにはコンセントがあり、電気毛布で暖を取りながら長居も可能だ。窓の外に広がる世界は、何とものどかである。

「じゃぁ、手続きあるから今日は帰るよ」

 明日の散歩コースを検討しながら春香が言った。

「うむ。ご苦労」

 ちょっと偉そうに祐次は答えた。春香はそのふてぶてしい態度にちょっとむっとしたものの、秀樹を手招きして呼び寄せ、いつもの通り笑顔で病室を出た。

 春香は一〇七号室の前で、入れ替わる様にやって来た担当の看護士に頭を下げた。そして黙って渡り廊下の方へ歩いた。

 春香は秀樹の手を握る反対の手にハンカチを握り締めていた。そして渡り廊下を歩く間、秀樹と話す振りをして下を向いていた。ここに父の絵が飾られると思うと、とても怖かった。

 一〇一号室の様子を見に来た看護士が、西日が射す所で眠る祐次に声を掛けた。

「じゃぁ中島さん、後で夕飯お持ちしますね」

 そう言いながら看護士は窓際へ行く。祐次は左目を明けて看護士の顔を見ようとしたが、見えたのは後姿だった。

「はい」

 祐次の声は看護士が閉めるカーテンの音によって遮られた。祐次は仕方ないなと思って、そのまま目を閉じた。そして誰も居なくなった病室で、昔のことを思い出した。



 祐次の母である靖子がこの一〇一号室にやって来たのは、師走の十日過ぎのことだ。

 夜勤明けの祐次が自宅に帰って来た時、靖子が三度目の嘔吐をしている最中だった。隣のベッドには夫の祐吾が居たが、脳梗塞でリハビリ中の身では、声を掛けることしか出来なかった。

 靖子は最近食事がまったく食べられなくなり、水で飲んだ薬も吐いてしまっていた。だから痛み止めも効かなくて、靖子は膨れ上がったおなかを押さえて苦しがった。

「どうしようか。今日先生居るかな」

 一息付いて布団の上に座り、靖子が祐次に聞いた。どうしようもない苦しそうな声だった。

 洗面器を洗ってティッシュを敷き詰めていた祐次は、カレンダーの赤い丸を見た。

「今日は先生居る日じゃなかったっけ?」

 十二月に入って靖子の治療は緩和治療に切り替わり、それまで診てくれていた金山先生から徳田先生に代わっていた。

 金山先生は若手のホープと言った感じのハキハキとした先生だが、今度の徳田先生は少し年上の、どちらかと言うと、のんびりとした感じの先生だ。

 どうしようかと言われても、どうしようも出来ない祐次は、カレンダーに書かれた徳田の電話番号を途中まで押した所で手を止めると、慌てて靖子の診察券を取り出した。そして電話が繋がるのを待った。

 交換台を経て徳田が電話に出た。

『どーんな感じ?』

 今更何が起きても動じない。そんな感じさえする。

「食事は三日位とってなくて、何か食べても吐いてしまいます」

 電話が繋がって、祐次は徳田に事情を伝えた。

『薬も吐いちゃうかなー』

 その問いに祐次は受話器から口を離して母に向かって聞いた。

「薬も吐く?」

 靖子は黙って頷いた。

「はい。吐いてしまって薬も飲めないみたいです」

『そうかー。薬も吐いちゃうかー』

 のんびりとした口調で言う。祐次は眉を顰めた。今更ながら、母靖子の具合は悪い様だ。しかし、伝えることは伝えた。あとは指示を待つだけだ。

『じゃぁ、病院来れる?』

「はい」

 祐次はほっとした。理由は色々あるが、これと言うことはできない。

『どれ位で来れる?』

 祐次は時計を見た。

「三十分位で」

『え? そんなに早く? 判りました』

 病院は自宅から車で五分の田んぼの真ん中にある。病院が出来た時に高速バスも開通し、空港行きの始発バスに両親を送って行ったこともあった。元気な頃、そこはバスターミナル位にしか思っていなかった。

 平日の昼間に運良く息子が帰って来たのは、靖子にとって運が良い。洋服に着替えてカツラを装着し、祐次の車に手ぶらで転がり込んだ。

 新しい治療を始めてまだ十日余り。祐次は母をこれまでの様に病院へ送迎するだけだと思っていた。


 病院の玄関で靖子を車椅子に乗せた祐次は、急いで指定された窓口へ向った。

「怖いわ」

「あら、そう」

 靖子の言葉に祐次は直ぐに速度を落した。

 キャベツの箱を山盛りにして台車に積んだって、たまにしか崩したことのない祐次は、落ちる心配のない車椅子で何が怖いのか判らなかったが、そこは靖子の意見を汲んだ。

 沢山の椅子が並び、立っている人もいる待合コーナーを車椅子はすり抜けて行く。そしてその一番奥、誰も居ない一角が緩和ケアの受付窓口だ。祐次は時計を見て丁度三十分経ったのを確認したが、人気がなかった。

 暫く待ったが、一向に呼ばれる気配がない。

「すいませーん」

 靖子が抱えた洗面器を気にしながら、祐次は受付の奥に向かって声を掛けた。

「あ、はい中島さんですね」

 奥から出てきた看護士は判っているといった感じで答えた。そして靖子が抱えた洗面器を覗き込むと、祐次に声を掛けた。

「少々お待ち下さい」

「はい」

 まぁ、病院はそんなもんだ。祐次と靖子は顔を見合わせて苦笑いをした。吐いてしまって楽になったのだろうか。状況も理解せず、大画面の中でつまらないギャグを言う芸人に文句を言いながら待った。

 それから十分位して、意外な所から徳田が現れた。関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉が開いて、そこから出て来たからだ。

「早いねー。もう来たの」

 まるで自分は関係者と言わんばかりに悪びれる様子もない。そう言って徳田は時計を見た。

「はい」

 祐次が発した答えを避ける様に徳田はその場にしゃがんだ。そして靖子が抱えている洗面器の中を覗き込んだ。そこには黄土色の液体があった。

「あー、結構きつそうだねー」

「そうなんです」

 靖子が答えた。

「ずっとこんな感じで吐いてる?」

 徳田は顔を上げて、祐次にも聞いた。

「はい。そうです」

 夜寝る前に靖子が背中を揉んでくれとせがむ。そして祐次が背中を揉んでやると、靖子は楽になったと言うが、いつも吐いた。祐次はどうしたら良いのか判らず、途方に暮れた。

「あっそー。それは困ったねぇー」

 再び靖子の方を見て、徳田は苦笑いをした。

「あのね、お母さん。さっきご自宅に電話したんだけどー、もう息子さんと出たって言うからね。お父さんにはー、一応了承は取ったんだけど」

 首を振りながら話す徳田の顔を見ながら、靖子と祐次は頷いていた。その時祐次は『お前の母親じゃぁないだろう』と思っていた。

「ちょっとー、一泊一万円のー、高い部屋しか空いてないんだけどー、入院してみようと思うんだけどー、どうかな?」

 祐次はそれを聞いて気が遠くなった。しかし靖子はむしろ喜んでいた。

「是非。是非お願いします。あー、良かった」

 洗面器を抱えて前のめりになっていた靖子だが、車椅子の背もたれに寄り掛かり、大きく息を吐いた。

 祐次の気が遠くなったのは金額ではない。この病院の緩和ケア病棟に入院すると言うことは、死ぬまでもう少しであると聞いていたからだ。実際祐次の叔父も、ここに入院して十日程で亡くなった。

「そう。じゃぁ、そこの扉を入ってー、左曲がって突き当りを右ね。今ね、看護士が準備してるからー、詳しくはそっちの受付で聞いて見てくださーい」

「判りました」

 祐次はどきどきしながら関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉の向こうに車椅子を進ませた。

「よかったねー。ここに入院出来れば安心だわ」

 靖子は前を見てそう言った。

「そう?」

 入院を喜べない祐次は疑問形で返した。

 病気を宣告され、治療を始めてから一年と四ヶ月余り。既に覚悟を決めた靖子にとって、今の苦痛から解放されることの方が重要だったのだ。

 祐次は言われた通りの道順を辿って車椅子を押すと、長い渡り廊下の途中に出た。そこは両方に小さな絵が飾ってあるギャラリーの様な場所だが、その時間は誰も居なかった。

「あぁ、良かった。ここは人気があって中々入院させて貰えないのよ」

「そうなんだ」

 上機嫌で話す靖子の声が、誰もいない渡り廊下に響く。さっきと違って、まるで遠足にでも行く女の子の様にはしゃぐ靖子の車椅子を、祐次は渋い顔でゆっくりと押して行った。


 緩和ケア病棟のドアを祐次は足で押さえながら車椅子を押し込んだ。すると車椅子同士がすれ違うには少し狭い廊下の奥から、看護士がパタパタと小走りに来た。

「中島さんですか?」

「はい」

「はい」

 靖子と祐次が答えた。二人とも中島だったからだ。

「では、一番奥が一〇一号室です」

「はい」

 看護士が指差す先を見て祐次が頭を下げた。靖子は小首を傾げてにこやかに挨拶をした。

「よろしくお願いします」

「お願いします」

 靖子の挨拶に看護士は足を止め、そこでお辞儀をした。そして祐次の方を向き、すれ違いざまに声を掛けた。

「後で書類をお渡ししますので、ナースステーションへ来て下さい」

「はい」

 もう祐次の答えはかすれる様な声でしかなかった。ゆっくりと車椅子を一〇一号室へ進めると、手でカーテンを押し分けて中に入った。そしてベッドに母を寝かしつけた。

「やっぱり一〇四は無いんだね」

「そりゃそうよ」

 旅慣れた靖子はそう言って笑った。祐次は説明書きを見つけてそれを読み、注意事項を母に言ったが、余り聞く様子はない。

「あれ、テレビ付くよ」

 話を聞いていない靖子が、テレビのリモコンを操作していた。

「無料みたいだよ」

 祐次が補足した。

「へー。良いわね」

「一泊一万円だって」

「へー。でも良かったわー」

 全く気にする様子もない母の様子を見て、祐次は頭の中で計算を始めた。叔父の様に十日だったら十万円。一年居たら三百六十五万円。高いと言えば高いが、そんなには生きては居られない。この部屋が良いと言えば、まぁ、払えない額ではないだろう。祐次は兄と弟の顔を思い浮かべて、弾き出した金額を三で割った。

 洋服を来たままベッドに寝っころがっている靖子は、旅行先で一休みしているだけの様にも見える。

「折角だから座ったら?」

 靖子はソファーを指差した。祐次はどうしたら良いか判らず立ったままでいた。

「折角だから座りますか」

「そうそう」

 靖子に言われて祐次はソファーに腰掛けた。

「簡易ベッドにもなるみたいね」

 説明書を読んでいた祐次が言った。

「へー。でも、そうでしょうね」

 靖子は一人で納得して頷いた。

「DVDも見れるみたいよ」

「DVDって何?」

 英語には弱い靖子が聞き返した。祐次は仕方ないなという顔をして答える。

「ビデオの丸い奴だよ」

「へー。判らないから良いわ」

 笑いながら首を横に振って靖子が答えた。

 まるで旅館の案内を読んでいるかの様だが、ここは紛れも無く病院だ。その証拠にやって来たのは仲居さんではなく、白衣の看護士だった。

「中島さん、どうですか?」

「楽になりました」

 まだ薬も何も打っていないのに、病は気からとは良く言ったものだ。これで温泉に入ったら直らないだろうか。

「えっとですね、このお部屋は一泊一万円を頂いているんですけど、他のお部屋はタダなんです」

「へー」

「へー」

 看護士が説明を始めた。随分違うものだ。でもきっとソファーが無かったり多少狭かったりするのだろう。

「部屋の大きさは同じです。あ、ソファーは無いんですけど」

「へー」

「ほー」

 予想は半分当った。

「この部屋はその電話番号に掛けるとダイヤルインで繋がります。それにカードを入れると病室から発信が出来ます」

「ほー」

「まー。じゃぁ、後でカード買って来て」

「判った」

 電話でも自宅と繋がっていれば安心するのだろう。看護士が頷いて説明は続く。

「それでですね、とりあえずこのお部屋に入院して頂いて、他の部屋が空き次第そこに移るということで予定しておりますので」

「あぁ、是非お願いします」

 靖子は笑顔で頷いた。しかし祐次は眉をひそめただけで、何も言わなかった。一般の病院なら大抵の場合、病室が空くというのは退院を意味する。しかしここでは病室が空くイコール死なのだ。祐次は病室を移る為に、他人の死を望むことなど出来なかった。

「じゃぁ、とりあえず着替えましょうかね」

「はい。お願いします」

 看護士は手を靖子の肩から背中に回すと、上半身を起こした。

「じゃぁ、息子さんはちょっと外でお待ち下さい」

「お着替えですから」

 そう言いながら靖子は頷いた。祐次は小さい声で返事をすると、役目を終えた車椅子を押して廊下に出た。

 祐次が長い渡り廊下を往復して再び病室に戻ってくると、母はもう病院服に着替えて点滴を受けていた。

「これはどうしましょうか?」

 看護士が洋服を指差した。

「持って帰って」

 靖子が祐次に言った。祐次は頷いて寂しい顔をした。半年前、脳梗塞で倒れた祐吾の洋服を持って帰ったのも祐次だった。あの日から祐吾は、お洒落なジャケットを着ていない。

「それと、寝巻きの着替えを持って来て。あと洗面用具」

 思いつくままに靖子が言う。祐次は頷いた。靖子にとって検査入院以来、人生二度目の入院だ。そんなに嬉しいのだろうか。いや違う。祐吾と結婚して直ぐに、三回入院したことがある筈だ。

「あ、お帰りになる前にナースステーションに寄って、書類を受け取って下さい。個人情報に関する取り扱いの説明書と、入院の申込書になります。六枚ありますので署名捺印して頂いて、それを総合受付に出して下さい。先に病室にご案内しましたけど、入院の手続きが必要となりますので」

「はい」

 今度は返事をした。

「それとですね、限度額適用認定証の申請をするのでしたら、申し込み用紙をお渡しするので、市役所に行って来て下さい」

 看護士がスラスラと何か言ったが、祐次には理解できなかった。

「何ですか? それ」

 入院するのに市役所に届出が要るのだろうか。

「うーん。その申請書に書いてあります」

 祐次は呆然とする夜勤明けの頭に、必死に指示を詰め込んだ。そして還暦のお祝いに買ってあげた赤いカーディガンを抱えて病室を出ると、渡り廊下の途中まで行ってナースステーションに引き返した。



 祐次は誰もいなくなった病室で目を覚ました。カーテン越しに漏れる明かりもなく、非常灯とテレビの主電源ランプだけがポツンと見える。祐次はこの主電源ランプが嫌いだ。

「中島さーん。お食事をお持ちしました」

 そんな声が聞こえてから部屋の明かりが点いた。祐次は右目を瞑って看護士の方を見た。

「寝てましたか?」

「ええ。少し」

 祐次は頷いた。看護士は笑顔で申し訳無さそうな顔をした。快適な睡眠はそれ自体が至福の時と判っているからだ。

「ごめんなさいね」

 祐次は首を横に振った。

「夢を見てましてね」

「あら。どんな夢ですか?」

 看護士は患者がどんな夢を見ていたかを知るのも大切なことだ。それは診察にも繋がる貴重な情報なのだ。

「忘れちゃったー」

「おっとっとー。それは残念ですねー」

 祐次が笑って答えたので、看護士は笑いながら祐次を慰めた。看護士はワゴンに乗せた食事を指差して、祐次に聞いた。

「お食事食べられますか?」

「食べないと点滴ですか?」

 これは駆け引きだ。祐次はあまりおなかが空いていなかった。それに食べて吐くのも嫌だ。酔っ払ったって吐いたことがないのに、酔ってもいないのに吐くのはもっと嫌だ。

「そうですねー。食べられないのならチューブという手もありますよ」

「頂きます」

 祐次は即答すると、自力で起き上がろうとした。にっこり笑った看護士が祐次の肩を押し、傍にあったスイッチを操作してベッドの角度を変えた。

 祐次が頷くとそこでスイッチから手を離し、ベッドに渡した机に食事を置いた。

「あぁ、この野菜ジュースは冷蔵庫に入れておいて下さい」

「はい」

 看護士はにっこり笑って野菜ジュースを取上げると、傍にある冷蔵庫を開けて祐次に振り返った。

「じゃぁ、ここに入れて置きますね」

 祐次は口に食事を入れていたので、首だけ少し前に出す感じで頷いた。何処にあっても良かった。祐次は野菜ジュースが大嫌いだったからだ。トマトをすり潰した上に塩味のジュースなんて、祐次の舌は受け付けなかった。

「後で下げに来ますね」

 そう言いながら看護士は病室を出て行った。祐次は一人で食事をするのが寂しくて、テレビのスイッチを入れた。

 殺伐としたニュースが流れていたので、祐次は食事を口の中でもごもごしながらチャンネルを変えて行った。そして幼児向け番組で手を止めた。よく孫が部屋に押し掛けてきて、勝手にチャンネルを変えて観ていた奴だ。テレビと一緒に歌ったり踊ったり、まぁ賑やかなこと。

 祐次は同じ様な番組を、子供の頃観ていたのを思い出した。



 中島青果店の看板を照らす電気が消され、直ぐに店の電気も消えて真っ暗になった。靖子は夕方に下準備をしておいたハンバーグを焼かなければならない。

「よいしょっと」

 背中に背負った祐三郎が重い。靴を脱いで店から奥の座敷に上がった。それに続いて夫の祐吾も座敷に上がろうとしたが、目の前で靖子が止まったので、片足を座敷に掛けただけで止まった。

「祐一郎取りに行くの忘れた!」

「あっ! 今何時だ?」

 靖子は柱時計を見上げた。

「七時過ぎよ」

「大変だ。俺行ってくるよ」

「お願い」

 今日は秋の長雨も一休みという久し振りの良い天気だった。だから夕方から閉店まで、ずっとお客が来ていた。しかし、冬の到来を告げる様な冷たい風が一日中吹いていた。靖子は座敷に上がった時ひんやりとした空気を感じ、子供たちの為にストーブを点け様と思った。

 店番部屋を出て廊下に出る。そして台所に続く座敷の戸を開けると、そこの電気は消えていた。そう。靖子が夕飯の支度をしている最中に店に呼ばれ、そのままだったのだ。

 しかし、部屋の片隅に置かれたテレビが点いていて、部屋を薄明るく照らしていた。何が映っているのかは判らないが、楽しそうな音だけが聞こえる。

 靖子はテレビを点けっ放しだったのかと一瞬思ったが、足元に何か当って下を見た。枕だった。どうやら押し入れも開けっ放しだった様だ。

 いや、そんな筈はない。靖子は顔を上げた。部屋の隅に祐次が居た。二つ並べた箪笥の段差に寄り掛かり、毛布に包まってテレビを見ている無表情な顔が、薄暗い部屋に浮かんでいる。

 靖子は慌てて天井からぶら下がる紐を引いて電気を付けた。一瞬で部屋は白熱灯が照らす世界に変わった。雨戸の閉められていないガラス戸に、靖子の後姿が映った。

「祐次、具合悪いの?」

「ううん」

 とりあえず安心した。靖子はテレビも布団もそのままにして、とりあえずストーブを点けた。石油ストーブは危ないから、子供だけの時は使ってはいけませんと言っていた。だから祐次は使わなかったのだろう。電気の紐に手が届かないのは明らかだ。押入れを空けて引っ張って出て来たのが毛布で、それに包まっていたのだ。中々サバイバルではないか。

 靖子は涙を堪えて祐次の頭を撫でると、優しく声を掛けた。

「直ぐご飯だからね」

「うん」

 祐次はそのまま蓑虫の様に毛布に包まったまま答えた。靖子はしまったと思いながらも夕飯の支度に掛かった。目の前にある大量のハンバーグを焼かないといけないからだ。祐三郎を背中から降ろすのも忘れて、フライパンを暖め始めた。

 ハンバーグの焼ける音がし始めた頃、祐吾と祐一郎が帰ってきた。

「何だ、今日はお前一人だったのか」

「そうだよー。先生と二人で遊んでた」

「ごめんなー。今日は凄い忙しかったんだよー」

 そんな声が聞こえて来て座敷の扉が開いた。靖子は背中越しに「おかえりー」と言ったが、祐吾の目に飛び込んだのは、部屋を散らかしてテレビを見る祐次の姿だった。

「こらっ! 祐次! 今日は遅くなったんだから、お母さんの手伝いをしろっ!」

 そう言いながらテレビの所に来ると、祐次との間に割って入った。

「何下らないもの観てるんだ。野球はどうした?」

 そう言って祐吾はガチャガチャとチャンネルを変えた。

「何だ、負けてんジャン」

 不機嫌そうに言って上着を脱ぎ始めた。祐一郎は保育園の上着を脱ぎ、箪笥の横にある自分のコーナーに放り投げた。

「蓑虫だー。蓑虫毛虫。挟んでポイッ!」

 どこで覚えたのか、そんな歌を歌いながら祐一郎が祐次の顔を摘んだ。

「いてー」

 祐次の無表情が苦痛の表情に変わった。そして毛布を跳ね除けると、祐一郎に飛び掛った。

「靖子、風呂は?」

 足元に転がる二人の子供を足で払いながら、祐吾は箪笥からハンガーを出して上着を掛けた。

「まだよー」

「点けてないのか」

「無理よ」

 不満そうに言う祐吾に、靖子も不満そうにフライパンを持ったまま振り返った。

「じゃぁ、点けて来る」

「お願い」

 靖子はフライパンを持って再びコンロに戻った。ハンバーグを盛る皿を出し忘れていたからだ。

「ほらほらお前たち、ご飯なんだから布団の上で暴れるな。皿出したり、冷蔵庫の物出したり、ご飯よそったり、お母さんの手伝いをしろ!」

 父の雷第一弾が落ちた。

「はーい」

「はーい」

 祐一郎と祐次は取っ組み合いを止め、台所に走った。今日の夕食はハンバーグ。大皿に山盛りにして好きなだけ食べる。しかし、最後の一枚は長男が取る。それが中島家のルールだ。

 隙間風がヒューヒューと入る平屋の小さな家。風呂なんて近所では中島家しか使っていない石炭釜。時代遅れのボロ家だったが、子供達がひもじいと感じたことは一度もなかった。



 番組の最後に『また明日』と言っていた。祐次に果たして明日が訪れるのか。それは判らない。もうやりたいことはやったし、途中のものも色々あるけれど、天国にいる家族の所に行くのも悪くない。祐次は深く息をして目を瞑った。

 年を取ると思い出すのは昔のことばかりだ。あのボロ家は祐一郎が結婚して直ぐに建て替えた。一気に時代の最先端を行く設備に切り替わり、家族一同驚いたものだ。一番嬉しかったのは、隙間風がなくなったこと。『アルミサッシすげー』と、家族みんなで喜んだ。

 しかし祐次が家に帰ってくる時に、最後の角を曲がる前に思い浮かべる家の姿は違う。青い雨戸が六枚並び、黄色いテントが出た中島青果店のままだ。

 家を出て病院に入院することになった時も、何故か残念とか家に居たいとか、そうは思わなかった。今でも家に帰りたいとは思わない。確かにここで楽になっている方が良い。

「中島さーん。食事終わりましたか?」

 さっきの看護士が部屋に入ってきた。祐次はテレビのスイッチを切り、お盆をテーブルの端に寄せた。

「ハンバーグだけ食べたんですねー」

「ちょこっとね」

 祐次が首を前後に振りながら答えた。祐次に言わせれば小指の先程の小さなハンバーグだ。いや、ハンバーグと言うより肉団子だ。

「もうちょっと食べませんか? 吐いちゃいそうですか?」

「んー。大丈夫だけど」

 そう祐次が言うので、看護士はおかゆを指差した。

「おかゆ食べてみます?」

「いや、おかゆはちょっと」

 祐次は表情を曇らせて看護士を見た。看護士は口をへの字に曲げた。

「おかゆは嫌ですか?」

「そうね。おかゆは嫌いなんだ」

「あら、中島さんご飯好きじゃないですか?」

 看護士は不思議そうに聞いた。確かにパンにするかご飯にするか、食事のメニューを聞いた時に祐次は『ご飯』と答えていたからだ。

「おかゆは病人みたいだから嫌い」

 それを聞いて看護士は笑った。

「中島さん。病人なんですよ? ここは病院ですよ?」

 祐次はそんなことは判っているという顔を見せた。看護士も祐次の顔を見て笑った。

「じゃぁ、デザートは置いて行きますね」

 看護士はそう言ってメロン色のゼリーをテーブルに置き、お盆を下げて出て行った。祐次はメロンの容器を持ち上げると、ひっくり返して匂いを嗅ぎ、ボソッと呟いた。

「静岡か? ンナ訳ないか」

 祐次は父祐吾から良いメロンの見分け方を教わっていた。だからデザートに手をつける気はまったく無かった。


 祐次が観る最後の桜が満開になった。穏やかな日差しに誘われて、祐次は春香の押す車椅子に乗っていた。

「寒い?」

「いや」

 祐次は桜が散るまでコートを手放さない寒がりだ。それなのに冬山登山に行ったりスキーに行ったり、行動はかなり矛盾している。マイナス二十度の雪祭りから帰って来て、東京の方が寒いとか言うこともある。つまり寒さとは気の持ち様なのだ。

 少し春霞の掛かった水色の空に桜の枝が伸びる。祐次は偏光フィルターを使えば真っ青な空とピンク色の桜になると思いながら、持ち上がらない手でアングルを考えていた。

「ゆっくり」

 祐次の搾り出す様な声を聞いて、春香は車椅子を止めた。

「怖いの?」

 祐次は少しだけ首を横に振り、薄笑いを浮かべた。怖い訳がない。祐次は麦草峠を自転車で登ったこともある。あれは楽しかった。

「どこか痛いの?」

 アスファルトの小さな段差が響いたのかと思って、春香は再び祐次に聞いた。祐次は何とか持ち上げた右手の一指し指と親指でフレームを作ろうとしていたが、それを横に振った。そして降ろした。

「大丈夫」

「そう」

 春香は車椅子の向きを変えた。すると太陽の光が逆光になる。祐次は桜を見上げていたが、これでは真っ黒になってしまうと思っていた。出来ればバックで戻って欲しい。しかしそうは行かないだろう。

「今日は秀雄が来るって」

 それを聞いて祐次は頷いた。秀雄は祐次の長男。春香の弟だ。祐次に言わせると怪しい会社に就職して、世界中を飛び回っている。まぁ、春香と違って昔から祐次には反抗的だった。それが今日はたまたま日本に来ているとでも言うのだろうか。恩着せがましい奴だ。

「別に親の死に目に来ることもなかろう」

「まぁ、そう言わないの」

 春香も祐次の気持ちを察してか、苦笑いを浮かべて言った。帰ってくる様に行ったのは春香だ。普段は春香の言うことも聞かない秀雄であるが、その時は素直に了承した。春香が伝えたのは自分の気持ちではなく、医者の伝言だったからだ。

「今日空港からバスで来るって」

 祐次は黙って頷いた。八階の窓から見下ろしていると、一時間に一本空港からバスがやって来ていた。そして病院とは無関係そうな大きな荷物を抱えた客が大勢降りる。たまに病院の玄関へ向う人もいるが、それはタクシーに乗るためだ。

 そんな光景を見る度に、祐次は昔のことを思い出した。

「あー。疲れたー。でも楽しかったー。ありがとねー」

「帰ったら布団敷いてやってくれ」

 バスから土産を沢山抱えて降りて来た両親を、祐次は車で何度も迎えに来たものだ。

 春の日差しに輝く芝生を眺めながら、ベッドの上で祐次は時計を気にしていた。もうすぐバスが到着する時間だからだ。十五分以上遅れると、乗り継ぎのバスが行ってしまう。同じ会社のバスなら待っていることもあるが、この時間は他社のバス。無情にも定刻でバスは出発してしまう。

 祐次が待つ秀雄は乗り継ぎの必要はない。しかし同乗者に同情しなければならないだろう。祐次は昔からそう言う奴なのだ。

「秀雄遅いな」

「もう直ぐでしょ」

 春香もベッドの隣で芝生を眺めながら答えた。春香は知っている。祐次が待っているのは秀雄ではない。秀雄が連れてくる孫の京香を待っているに違いなかった。

 京香は秀雄の長女で、中島家に代々伝わるカメラの伝承者だ。いや、祐次が勝手に決めた。子供心に祐次が扱うカメラは『高い・壊したらヤバイ・触ると爆発する』と感じるのか、誰も近付こうとはしなかった。しかし京香は違った。京香は祐次が向けたレンズに怯えることなくポーズを採り、そして祐次に近付いて来て言ったのだ。

「おじいちゃん、これ頂戴」

「いいぞー。おじいちゃんが死んだらな」

 祐次はファインダーを覗く目を細めて言った。左目でファインダーを覗く祐次には、京香の指差す先にあるのはカメラだと思ったのだろう。しかし京香が指差していたのは、レンズの方を見る為にカメラに取り付けた可愛いお人形さんだった。

 その頃の京香はまだ小さな子供だった。人形欲しさの余り、祐次に早く死んで欲しいと思ったかどうかは定かではない。しかし、中学生になった今の京香なら、死とはどういうものか理解し、祐次が置かれている状況を理解し、そしてこれからの数日間に、どんな行事が待っているのかを受け止めることが出来るだろう。

「爺さん、今帰ったよ」

 秀雄の声がしたので、祐次が顔を入り口に向けた。そして思った。『俺はお前の爺さんではないし、ここは誰の家でもない』

 もう口に出す程の元気はなかった。乾いた口をパクパクと動かしたが、声にならないと判ると祐次は口元を横に引いて笑った。目は秀雄の後ろから付いてきた孫に向けられていた。

 春香も立って挨拶をしようとしたが、膝の上で秀樹が寝ていたのでそのままでいた。

「おかえり。遅かったのね」

「渋滞していてね」

 腕に掛けたコートを持ってキョロキョロしながら秀雄が答えた。その後ろには京香と妹の桂子と、そして長男の飛翔が珠子の腕に抱えられて並んで病室に入った。

「どうだい? 爺さん」

「今日は機嫌が良いみたいよ」

 春香が祐次の顔を見て答えた。確かに口を横に引いて笑っている様に見える。

『だから俺はお前の爺さんじゃない。それに、今更どうだもへったくりもあるものか』

 頭の上に吹き出しが出るのなら、そんな言葉が並んでいたに違いない。

「ほら、お前たちもお爺ちゃんにご挨拶なさい」

 恥かしそうに孫達が祐次の枕元に来た。

「ただいまでしょ」

 母親にも急かされた。

「ただいま」

「ただいま」

 京香が先ず挨拶をして、それとまったく同じ挨拶を桂子がした。祐次は目を細めていた。

「元気だったか?」

 搾り出す様な祐次の問いに、二人の孫は恥かしそうに顔を見合わせただけだった。二年前なら二人は先を争って祐次にタックルしていた。この二年の間に二人は少し大人に近付いたが、変わり果てた祐次に掛ける言葉を捜すことは出来ないでいた。

「ほら、お爺ちゃんが聞いているでしょ?」

 再び母親にせっつかれて、二人は笑って顔を見合わせた。しかし何も答える様子はない。祐次は黙って頷いた。

 質問が悪かったのだ。お見舞いに来てくれた孫に聞くなら、もっと洒落た質問が必要なのだ。

「彼氏いるのか?」

 笑顔で聞く祐次に、二人は困りながらも笑いながら顔を見合わせた。

「いない」

「いない」

 二人はまた同じ答えをした。

「今夜俺が泊まるから」

 恥かしがる孫を見て楽しんでいた祐次に、秀雄が声を掛けた。中学生と小学生の娘とは言え、彼氏がいたら父親として気分が悪かろう。祐次は心の中で『ケケケ』と秀雄を笑いながら、右手で自分の股間を探った。

 祐次の顔から笑顔が消えた。



 靖子の枕元に家族全員が揃っていた。今日が土曜日だからだ。少なくとも靖子はそう思っていた。午前中に斜向かいの床屋さんが夫婦で見舞いに来てくれて、綺麗な花を飾ってくれた。

「あんた、元気そうじゃない」

「今日は顔色も良いね」

「うん」

 同じ頃に嫁に来て、同じ時期に子育てをした床屋の奥さんと靖子は仲良しだった。そして、孫の面倒を見るのも一緒だった。務めて明るく振舞っていた二人だが、休日の午前中に店を閉めてやって来たのには理由があった。

 先週短くカットしたばかりの祐次が再び床屋を訪れ、そして今週の火曜日にお見舞いに来てくれたことの礼を述べた。そして医者に言われたことを伝言したのだ。

「今夜は俺が泊まるから」

 祐一郎が靖子の耳元で言った。

「ふーん。そう」

 余り関心が無さそうに靖子は答えた。靖子はまだ生きるつもりだと医者に言っていたからだ。だから枕元に家族が全員揃っていても、休日に皆が見舞いに来てくれた位ににしか思っていなかった。

 退屈な入院生活でお見舞いは格好の暇つぶしだ。それが全員一度に来てしまったら、楽しみが減ってしまうではないか。靖子はそう思いながら一同の顔を見渡した。枕元にはすっかり元気のない祐吾が座っていた。靖子は一計を案じた。

「今まで隠していたことがあるんだけど」

 搾り出された声に、家族一同が驚いた。そして思い出した。子供の頃によく言われたこと。

『お前は橋の下で拾って来た』

『お前は線路の脇で拾った』

『お前はアパパ星人から預かった』

 本当の親ではないという類の冗談だ。祐一郎、祐次、祐三郎の三人の顔がそっくりなので、明らかに兄弟なのであるが、子供達は朝四時に起こさない『金持ちの親』が現れるのを期待したものだ。

「実はね、あなた達のね、お父さんはね……」

 真剣な顔で靖子は話していたが、息が切れ切れになっていた。三人の息子は生唾を飲んで母親の顔に注目していた。そして今明かされる告白の内容を聞き漏らさんと、耳を立てていた。

「ピーマンが嫌いなの」

 靖子の発言に病室には明るい笑い声が響いた。八百屋の親父がピーマン嫌いとか、何を言っているんだ。しかも子供には好き嫌いはダメだと言っていた癖に。

「おじいちゃん、ピーマン嫌いなの?」

「いいじゃねーか。あんなもん旨くも何ともないわ」

 再び笑い声と祐吾を叱責する声が病室に響いた。苦々しい表情の中に笑顔を浮かべた祐吾は、名残惜しそうに病室を後にした。

 その夜は祐一郎からの電話を一晩待ったが、電話のベルは鳴ることがなかった。日曜日の朝になって祐一郎が帰宅すると、今度は祐次が病室に向った。

 祐次が病室に行くと、靖子は布団から出した右手を軽く挙げて挨拶をした。医者の説明とは違って、いつもと変わらない様子に祐次は安心した。今夜一晩母親の隣に添い寝して、明日は会社の会議に出席することを考えていた。

 窓の外には冬枯れした茶色い芝生が広がっていた。そこに冬の日差しが当り、芝生の一本一本に長い陰が出来ていた。祐次はその数を数えながら、隣の病室から飛び出した小さな子供が、芝生ではしゃぎ回るのを眺めていた。

 祐次は思い出していた。母親と二人っきりで話したことなど、数える程しかない。記憶にあるのは小学校の入学式だろうか。家から手を繋いで行った様な。

 年子の祐一郎が幼稚園に通う時、祐次も母親と手を繋いで保育園に通っていた。保育園に着くと祐次は母親の手から離れる。保育士と共に祐次が母親に手を振ると、母親は数歩歩く間こちらを見てくれるが、直ぐに前を向く。祐一郎が歩道の縁石の上を歩くからだ。

 母親と二人で手を繋ぎ、縁石の上を歩く祐一郎が羨ましかった。自分だってそれ位出来るし、来年になれば出来ると思っていた。

 しかし幼稚園に通う祐次の面倒を見たのは、小学生に上がった祐一郎だった。祐一郎は一人でピョンと歩道の縁石に乗ると、そのまま走った。ちょっと違うと思いながら、祐次も負けずにその後を追った。

 祐次は芝生の端にあるタイヤの上を歩く親子を見ながら、冬の庭を眺めていた。あと二ヶ月もすれば桜が咲く。花が大好きな母にとって、待ち遠しい春だ。しかし、病室には桜の木の下で撮った母の写真が飾られていた。靖子にとって、それは単に懐かしい数年前の写真だったが、靖子の見ることの出来る最後の桜だったのだ。

 何時もよりやけにゆっくりと落ちていく夕日を眺めながら、祐次は絶望感に苛まれていた。

「中島さん、ちょっと宜しいですか?」

 看護士が祐次を手招きで呼んだ。靖子は寝ていて聞こえなかった様だ。祐次は頷いて病室を出ると、薄暗くなった廊下で看護士から話を聞いた。

「今夜が山だと思います」

 それは昨日も聞いた。だから祐一郎が泊まったのだ。何時もの様に寝息を立てる母の様子を見て、祐次は看護士に質問した。

「本当に今夜なのですか?」

 看護士は困った顔をした。人の寿命が今夜なのか、それとも明日なのか。大体は判っても、明確に答えられるものではないからだ。それでも看護士は、今までの経験からと前置きして、祐次に状況を説明してくれた。

「昨日足首で脈が取れなくなりまして、今朝股間で脈が取れなくなりました。大分脈が弱くなっています。先程脇の下で脈が取れなくなりました」

「そうですか……判りました」

 お辞儀をして看護士は立ち去った。祐次は再び病室に戻ると、靖子の枕元に座った。靖子は物音に気が付いたのか、左目を開けた。

「今夜は俺が泊まるからね」

「うん」

 靖子は小さく頷いた。それは日曜日だから息子が居る。それだけのことだと思っていたに違いないからだ。靖子は目を閉じたまま祐次に呟いた。

「まだ死ねないのかしらねぇ」

 あと半年位は生きて、夏の夜空に輝く花火でも観るつもりで居たのだろうか。祐次は返事に困った。まさか今夜死ぬよなんて言える筈もない。

「そうだねぇ」

 いつもの様にのんびりとした口調で言うと、靖子は笑って眠りに付いた。

 祐次は簡易ベッドを組み立てると、テレビの音を小さくして靖子の枕元で眺めていた。一〇七号室の扉は閉められることもなく、カーテンがどこから迷い込んだ風に、時折揺れていた。

 もしかしたら死神が立っているのかもしれない。祐次は目を瞑って自分を代わりに連れて行く様に願った。

 体の弱かった靖子が、親の反対を押し切って祐吾と結婚したのはずっと昔。そして最初の子供は流産してしまった。翌年祐一郎が生まれたとき、靖子は祐吾の父に最敬礼されて中島家に迎えられた。

 翌年妊娠したときには医者に堕胎を勧められたが、靖子は怒って生むことを決意した。生まれてきた男の子は少し小さかったが、元気が良かった。そんな話を祐次は、靖子が作ってくれた白玉団子を食べながら聞いたことがある。

 祐次は覚悟を決めて両目を見開いたが、そこに鎌を持った男は立っていなかった。目の端に写った時計を見てテレビを消すと、部屋の明かりを消して毛布を被った。

 明かりを消した病室で輝くのは、小さなランプだ。それは星の様にロマンティックではない。ある物は換気扇だったり、そしてある物は何か知らない機械のランプだ。完全な闇とならない病室で、祐次は何事もない夜を過ごした。

 突然靖子の喉が鳴り出した。祖父がタンを喉に詰まらせて窒息死したのは聞いていた。もう靖子にも、タンを飲み込む力がないのも判る。祐次は電気を付けると、洗面器を靖子の口元に置き、そしてコールボタンを押した。

「吐きそうなの?」

 祐次がそう聞いても、靖子は微かに首を振り洗面器を押し退けただけだった。いつもなら何か言ってくれる筈だった。

「中島さん!」

 大きな声でそう声を掛けながら、看護士が入ってきた。祐次は驚いた。この病棟で看護士が、そんな大きな声を出したことがなかったからだ。

「手を握ってあげて下さい」

「はい」

 祐次は靖子の手を両手で握ると声を掛けた。

「苦しいの?」

「中島さん! 頑張って! 今ご家族呼びますからね!」

 看護士は病室の電話を取上げると祐次に渡した。祐次は自宅の番号を押して誰か出るのを待った。二回目で祐一郎が出た。

「すぐ来て」

「判った」

 それだけ言って祐次は電話を置き、再び靖子の手を握った。靖子の息は一層荒くなり、マラソンでもして来た様だ。

「お母さん!」

 祐次は思わず声を挙げた。大人になってから靖子のことを『お母さん』と呼んだことはなかった。大抵『お袋』だったり、そして『おばあちゃん』だった。

「どれ位で来ますかね?」

「三十分位かと」

 看護士の質問に祐次は答えた。

「結構遠いんですね」

 看護士は時計を見ながら答えた。祐次は答えに詰まった。

「声を掛けてあげていて下さい」

 看護士に言われて、祐次は言い訳をするのを辞めて靖子の顔を見た。目を見開き口を開け、ゼイゼイと息をしているが、不思議と動いているのは顔だけだ。手は祐次の方が暖かかった。

「お母さん!」

 祐次の呼び掛けに、靖子が虚ろな目で頷いた。もう何も喋れない様だ。こんなに具合が悪そうなのは初めてだ。まるで死んでしまう様だ。祐次は慌てて叫んだ。

「お母さん! お母さん!」

「ご家族まだですかね?」

 物音のしない暗い廊下の方を見つめて看護士が言ったが、祐次は靖子の手を振りながら声を掛け続けていた。

「お母さん! お母さん! お母さん!」

 やがて靖子の口からポンと空気が出て、静かになった。目は見開いたまま黒目がやや上に向き、小さな手は祐次が離せばだらりと下がるだろう。

「先生を呼んで来ます」

 何かを悟ったかのように看護士が病室を出た。祐次は頷いてそのまま靖子の顔を見ていた。すると靖子の顔が安らかな顔になって来たかの様に感じられた。さっきまで苦しそうにしていた様子はなく、寝息がしないだけで、まるで眠っているかの様だ。

 それから長い時間が経って家族がやって来た。祐次が電話をしてから三十分後だったが、祐次にはそれが三時間程に感じていたのだ。祐吾は泣いていたが、他の面々は覚悟していたのか誰も泣いてはいなかった。

 やがて当直の見知らぬ医師がやってきて、とって付けた様に聴診器を胸に充て、懐中電灯を横に振って目を照らした。

「ご臨終です」

 そう言って丁寧に頭を下げる医師に、家族も頭を下げた。祐次も頭を下げたが、内心は怒っていた。病院はいつもそうだ。待ち時間が長くて診察時間は短い。今日初めて診る患者の病名が、そう簡単に判ってたまるものか。

 祐次は父と兄の後ろから靖子の様子を眺め、そして医者が書いた死亡診断書を覗き見た。

『死因……胃癌』

 祐次はそれを見てまた怒った。胃癌だけなら死ななかった。スキルス性の胃癌が胃の裏側に発見された時、既に腹膜に転移していた。だから腹膜癌が一番の原因だ。そしてやがて全身の臓器に転移して死んだのだ。

 不意に祐次は自分から魂が抜けて、自分を見つめている自分を見た。今自分は『死んだ』と言った。死んだんだ。一人自分だけが認めなくても、母親は死んだのだ。祐次は看護士と家族が話しているのを上の空で聞き流しながら、もう一人の冷静な自分と頭の中で言い合いをしていた。

「着替えるから外に出よう」

 祐一郎がそう言って家族を病室の外に促した。義姉が靖子のカツラをそっと渡すと、看護士がそれを丁寧に受け取った。

 星空が見えるサンルームに、中島家の面々は黙って座っていた。誰も何も言わなかった。こうなることは判っていたが、それが今日になるとは思っていなかった。入院してから二十日余り。年も明けて松飾も取れたばかりのまだ寒い日だった。

 祐次は鞄から携帯テレビを取り出した。三時間半掛かる点滴の間の暇つぶしとして、祐次が靖子に買ってあげたものだった。靖子は喜んで観ていたが、テレビを見ながら眠ってしまうのだった。

「無いと眠れないけど、見てると安心して眠れるのよ」

 靖子の言葉に苦笑いをするしかなかった祐次だが、それでもまぁ良かった。息子が買ってくれたと看護士に自慢する靖子の後姿を何度か見た。

 スイッチを入れるともう夜の一時を回っていた。それでも起きているテレビの中から、祐次は明るそうな番組にチャンネルを合わせた。大笑いする必要はなかった。でも、悲しい話を聞きたくはなかった。

『では、カバーで歌って頂きましょう。歌は未来予想図です』

 目をキラキラとさせた若い歌手が、昔の歌を歌い始めた。小さなテレビの画面に字幕が出た。それは若い恋人同士が、これから幸せになる予想が何年経っても当り続けるという、喜びに溢れた歌だった。

 祐次はその歌を聞きながら、子供の頃聞いた祐吾と靖子が出合った頃の話を思い出した。そして二人が結婚し、自分を生んでくれて、そして気が付いたら弟が居て賑やかだった。毎日店番をしたり、洗濯をしたり、ごはんを作ってくれた。そう言えば家族で出掛ける時は必ずお弁当だった。

 そんなことを思い出しながら歌を聴いていた。未来は思った通りになる。そんな歌詞を聴きながら、祐次は二年前の夏のことを思い出していた。

「この治療で、最長五年です」

 そうきっぱりと期限を切られた靖子の命だったが、当の本人はさばさばとしていた。息子も育ったし、孫もある程度大きくなったし、毎週の様に旅行には行ったし、もう思い残すことはない。そうきっぱりと言い切った。

「大丈夫ですか? 顔真っ青ですよ?」

 そう言われたのは祐次だった。何事にも動じない祐一郎と、少し医学の知識があって覚悟をしていた祐三郎は、厳しい顔をしていたが落ち着いていた。

 最長五年と言われて始まった靖子の治療だが、祐次は二年持たないと感じていた。だから二年は持って欲しいと願った。靖子もそれ位は生きれると自信を持っていた。

 だから最初の薬が効かなくなって薬を変えると言われたときに、祐次はショックを隠せなかった。担当の金山医師から次が最後の薬だと言われたからだ。

「今度の薬は毛が抜けるんですって?」

「そうなんですよ」

 靖子に点滴をセットする看護士の横で、薬の説明担当の若い医師が答えた。祐次は靖子の腕に刺さる点滴の針を見て、首筋を震わせていた。

「嫌ねぇ」

 靖子は名残惜しそうに白髪交じりの髪を触った。若い医師も同情の目で眺めていた。しかしそれは、仕方のないことなのだ。

「あ、でもこの薬を止めればまた生えてきますよ」

「そうなんですか?」

 頭から手を離して靖子が聞いた。祐次は心の中で頷いた。そう。この薬が最後の薬。この薬が効かなくなったらあとは死ぬだけ。死ぬまでに掛かる時間は、本人に残された体力次第。

「そうですね。大体三ヶ月です」

「そうなのね」

 医師の言葉を聞いて、嬉しそうに靖子は答えた。祐次は頭を殴られるような感じがしつつ、一、二、三、一、二、三と数えていた。それはもう直ぐ夏休みの終わる暑い日の午後だった。

 祐次は徹夜明けの昼間に病室に行く度に医者に呼び止められ、家族の代表として説明を受けた。春まで持たせて欲しいとの願いに、医者は首を横に振った。祐次は急いで桜の写真を病室に飾った。その真意を靖子は最後まで判らなかった。

 中島家にはジンクスがある。一つは次男が禿げること。祐次の爺さんも次男だったし、叔父も次男だったが見事なつるッパゲだった。そのジンクスはまぁ、祐次は別に良かった。良くないけど、まぁ、良かった。

 もう一つのジンクスは、初孫が中学二年の時に死ぬというものだ。これも祐吾の曽祖父もそうだし、祖父もそうだった。そして今回もそうだ。祐一郎の娘は中学二年生。中島家の人間にとって、孫が生まれると同時に死へのカウントダウンが始まるのだ。これは逃れられないジンクス。関東大震災や太平洋戦争で死んだ者は居ないが、癌にならなかった者は居ない。そんな家系だった。

 二十分程で看護士に呼ばれ、サンルームに陣取っていた中島家の面々は席を立った。祐次もテレビを消して鞄にしまった。

 病室に戻ると靖子が再び洋服を着て、カツラを装着して寝そべっていた。薄いピンク色の口紅を塗り、そのまま何処かに出掛けるかの様だ。一同は看護士に感謝して頭を下げ、そして安らかな寝顔の靖子をタンカに乗せて病室を出た。

 薄暗い廊下をタンカを押して歩いた。ドアは手動だったが、次々と自動的に開いて行った。そして長い渡り廊下の途中で曲がった。そこはいつか通った関係者以外立ち入り禁止の通路だった。

 通路の奥にはエレベータがあって、看護士が先に乗り込んで地下一階のボタンを押した。そして靖子を乗せたタンカをそっとエレベータに運び入れた。家族が全員エレベータに乗ったのを確認すると、看護士は同乗せずにエレベータを降りた。

「私ども看護士のお見送りはこのエレベータまでです。ここでお別れ致します。中島靖子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます」

 十人程の看護士がエレベータの前に丸く一列に並び、一斉に頭を下げた。

「ありがとうございました」

「お世話になりました」

 感謝の言葉を残してエレベータの扉が閉まった。



 秀雄が簡易ベッドを畳みながら時計を気にしているのが見えた。そう。あの日、自分もそうやって会社に行くつもりでいた。何の会議だったのかもう忘れてしまったが、長い仕事の最後の仕上げになる重要な会議だったことは覚えている。

「じゃぁ、会社行くからね」

『おう、行って来い』

 そう言ったつもりだが、祐次はもう声が出なかった。

 秀雄と入れ替わるように春香が病室に来た。祐次はうとうとしていた。十日余りの入院生活は大層居心地が良かった。看護士の面々は大きな声を出すこともなく静かに対応してくれたし、桜も眺められた。もう思い残すことは何もない。

 振り返れば何度も死に掛けた。死を覚悟したこともあった。死にたくなくて、必死に走ったこともあった。それも遠い遠い思い出だ。

 太陽が西に傾き、夕日が病室に差し込む。祐次は左目を開け、それを眺めた。もう明日は来ないだろう。何度も見た夕日。今日が最後だ。

 祐次は枕元の春香に顎を振って合図した。春香は直ぐに気が付いて椅子から立ち上がり、祐次に夕日を見せた。赤く輝く空を見せた。今日も終わり行く一日の終わりを見せた。

「京香は何年生だっけ?」

 しゃがれ声で祐次が聞いた。春香は少し不思議な顔をして答えた。

「中学一年生よ。来月で二年生」

 それを聞いた祐次は、何だという感じの明るい顔になった。

「どうしたの? お爺ちゃん、受験はまだよ?」

 春香の明るい声を聞いて祐次は安心した。祐次は春香に、中島家のジンクスを話したことがなかった。何故なら祐次は、はげなかったからだ。

 日が落ちて辺りは暗くなった。病室のカーテンが閉じられて蛍光灯の明かりが祐次を照らす。朝より何となく声が出る様になった祐次は春香と少し会話をしていたが、笑った拍子に息苦しくなった。

「死ぬ程笑うとはこういうことか」

 そんなことを思いながら、祐次は落ち着いて息を整えた。心臓の鼓動に合わせて息をしていれば直ぐに収まる。いつもそうしていたからだ。

「お父さん!」

 春香の声だった。祐次は我に返った。いけない。もっと冷静に。いつだって俺は冷静だったじゃないか。

「お父さん! お父さん! お父さん!」

 鳴り止まない春香の声を聞きながら、祐次は大きく息を吸った。


「了」

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