第79話 神聖国の収容所Ⅱ
アハトが目を覚ますと、天井に吊るされた魔道具が目に入る。
周囲に目を向ければ見慣れた部屋の中だった。
気絶したところを神官たちに放り入れられたのだろう。
自分の住む家の中で、アハトは仰向けになって倒れていた。
体中に走る痛み、熱を持ち腫れ上がった顔。
これでも生きているのは、女神の慈悲だとのたまう治癒魔法をかけられたからだろう。
『フユフ……』
返事がないことに、これが事実なのだと悟ったアハトはさめざめと泣いた。
人間を怨み、境遇を呪い、己の弱さを嘆き、そして絶望に染まる。
嗚咽混じりの掠れた声が室内に長らく響く。
とめどなく流れていた涙が枯れようとしていた時、アハトは気がついた。
いつからいたのか。視界に入ったのは一人の女だった。
すらりとした足に高価そうな靴を履き、布をまとっただけのような服。
初めて見る女ではあったが、それが誰であるか即座に理解する。
朝夕と、何度も繰り返し読まされる経典。その中に書かれている人物と特徴が一致する。
魔法で延命しているのか、もともと寿命が長いのか。
深紫の髪色の女など、この国には一人しか存在しない。
「どうして国で一番偉いやつがこんな場所に?」
下手に口を利けば命はないだろう。
だが、アハトにはどうでもよかった。
『お前は力を欲するか?』
何を言っているのか理解が追いつかない。
魔族に力を与える、女神に選ばれるということなのだろうか。
部屋の照明は薄暗く、女神の表情はよく見えない。
「……力が貰えるなら是非とも欲しいもんだ。それで人間共を皆殺しにしてやる。そうなってもいいのか?」
『関係のないことだ。好きにするがいい』
「女神とは思えない言いぐさだな。いったいどんな力をくれるんだ?」
『お前には勇者の力を与えよう』
床に倒れるアハトの頭上に女神が手を掲げた。
手からは光の粒が零れ落ちる。
光の粒がアハトの体に入る度、その場所が温かくなる。
すべての光が体の中に入ると、いつの間にか顔の腫れは引き、傷は完全に癒えていた。
アハトは立ち上がって拳を握り込む。
体にみなぎる力。未知の魔法の知識が頭の中を駆け巡る。
体が造り変えられたような、生まれ変わったような気さえする。
「これが女神に選ばれし者が得る力か……。話に聞く通りならば、残り二人、力が貰えるのか?」
『かまわない』
アハトは部屋にあった上着を手に取った。
袖を通しながら入口の扉に歩み寄り、聞き耳を立てる。
少しだけ扉を開けて、暗くなった外を窺った。
足音や声も聞こえず、動く光も見当たらない。
音を立てぬように飛びだしたアハトは、隣家の入口まで行くと静かに扉を叩く。
「俺だ、アハトだ。開けてくれ」
数秒後、扉がゆっくりと開き、中から男の半面が月明かりに浮かんだ。
「お前、夜間の外出は――」
「そんなことはどうでもいい」
少し開いた扉の隙間、強引に体をねじり込んで部屋に入る。
部屋の中にいるのはアハトと歳の近い男女の魔族。
「いったい何の用なんだよ」
「ノイン、フィア。落ち着いて聞いてくれ。女神だ! 女神レーツェルが俺の家に現れたんだ!」
ノインとフィアは顔を見合わせる。
アハトの眼は瞳孔が開き、視点が定まっていない。
二人には、アハトがフユフを呼ぶ声が聞こえていた。
何が起こったのかは想像に容易い。
「俺は女神から力を貰った! お前たちにも力を貰って欲しいんだ!」
「……アハト、フユフのことは残念だとは思うけど」
アハトが錯乱しているのだと思い、フィアは諭すように話しかける。
フユフとここで姉妹のように育ったフィアも先程まで泣いていた。
ここはそういう場所なのだと、気持ちに区切りをつけたばかりだ。
「もう帰ってくれないか。神官たちに見つかれば、俺たちも……」
詰め寄ってくるアハトの前にノインが立ちふさがる。
肩に手を置き、無理やりにでも部屋から叩きだそうとしたノインは声を失った。
アハトの後ろに女が立っているのに気がついた。
清く、美しく、開いた扉から差す月光が後光のように神々しい。
誰なのか察したノインとフィアは、すぐさま頭を床にこすりつけ、その場に平伏する。
「二人共、女神の力を貰って欲しい」
アハトが声をかけるが、二人は体を震わせるばかりで返答がない。
致し方ないと目配せをすると女神が前に出る。
女神の手から祝福の光が二人に与えられた。
同じように力を得た実感があるのだろう。
顔を上げた二人からはとまどっている様子が見て取れる。
「ノイン、服を脱いで!」
「な、なんだ!?」
「いいから!」
フィアがノインの上着をはぎ取るように脱がせた。
薄暗い室内。ノインの背に浮かぶのは酷い火傷の痕。
フィアが両手を添え、祈るように念じると薄紅色の大きな光が背中を包む。
「おい、女神。俺たちには治癒の魔法が効くのか?」
『魔族の体は人のものとは違う。ゆえに効力がは弱くなる。だが、神官の力であれば癒すことなど容易い』
「神官の、フィアの魔法ならば、死んだ者を生き返らせることはできないのか!?」
アハトが女神に詰め寄るが、無慈悲な言葉が投げかけられる。
『あれはもう無理だ。中身のない器に生き返るすべはない』
「そうか……。お前が言うのなら間違いはないのだろう」
憤怒に肩を怒らせるアハトはノインとフィアに告げる。
「俺はこれからフユフの仇を取ってくる」
◆ ◆ ◆
収容所の中にある大きな建物の一室。
ここは神官たちが使っていた部屋で、魔族が入るのは初めての場所だ。
遊び半分になぶり殺され、食料が足らず、衰弱死や病死で命を落とした魔族たち。
部屋の中には収容所に残る52名の魔族が集まっていた。
テーブルが並べられ、その上には食べ物が並ぶ。
魔族たちは口の中に涎を溜め、その時を待っていた。
今まで支給されていた食料は酷いものだった。
砂利混じりの固くなったパン。味のない干し肉や、芯の残った野菜くず。
飲み水は雨水を溜めたもので、土や落ち葉が入り、時には虫さえも浮かんでいるような水だった。
それでも生きるために食べ、生きるために飲んできた。
だが、そんなものは夢だったのではないかとも思える。
目の前には切り分けられた柔らかそうな白パンが地肌を見せ、分厚い肉は音を立てて油を跳ねさせる。
まだ熱い鉄板からは、肉の香りを含んだ湯気が空中に放たれる。
黄色くなったスープの皿からは忘れていた温もりを思いださせる。
温かい食事など、ここにいる者たちは初めてのことだった。
さらには木杯に入っている血のように赤い酒。
何杯でも飲めるように、重ねられた樽が用意されていた。
「みんな、心して聞いてくれ。俺たちは女神の力を手に入れた。人間共に虐げられる時は終わったんだ。俺たちは自由を得た!」
立ち上がったアハトに、目を爛々と輝かせる魔族たちの視線が向けられる。
もはや、料理に気を取られている者などいない。
「俺たちはこの場にいるべきじゃない。帰るんだ、俺たちのいるべき場所に。俺たちの故郷である魔王城に」
おお、と声が上がった。
「だが、その前に、まずは王都に向かう」
アハトは続ける。
「王都には、俺たちの祖先を苦しめた勇者の血を受け継ぐ者がいる」
室内に騒めきが起こる。
王都には数多くの魔法使いや兵士がいるだろう。
対して、こちらは女神の力を得たとはいえ、戦える者は三人しかいない。
「おい、女神!」
アハトが呼ぶと、いつの間にか隣には女神が立っていた。
「皆が不安がる気持ちはわかる。だが、戦力ならこの国にあるだろう? 女神のためならば、その身さえ投げ出すような戦力が」
目の前に置かれた木杯に腕を伸ばすと、アハトは手を高く掲げる。
「まずは祝おう。今日は俺たち魔族が解放された日だ」
夜の収容所に歓喜の声がこだまする。




