第76話 勇者と神官と魔法使いとⅢ
女が深紫色の髪を揺らしながら歩く。
目の前に立つと右手をすっと挙げた。
『お前に力をやろう』
ギアの頭の中、不意に声が流れる。
目の前の女が喋ったようだが、その口はまったく動いていなかった。
視線を落とせば、テネスにも声が聞こえていたようで、その目には驚愕の色を浮かべていた。
逃げだしたい気持ちがあるにもかかわらず、体が凍りついたように動かない。
女の行動を受け入れるように、ギアは両膝を地につけて首を垂れた。
『勇ましき者には勇者の力を』
女の右手から光る粒子が零れ落ち、ギアの体に入っていく。
光がすべて吸い込まれると、ギアはその明らかな変化に気がついた。
体の奥底から湧き上がる力。
握る剣を少し持ち上げれば、小枝のように軽く感じる。
それと同時に、知識の塊が頭の中に流れた。
今度はテネスへと右手を向ける。
『優しき者には神官の力を』
同じように、光の粒子がテネスの中に入っていく。
光がなくなると、地面に伏していたテネスは慌てて起き上がった。
「えっと、あなたは……あなたはいったい何者ですか?」
女は微動だにしないが、声は確かに聞こえてきた。
「名前はレーツェルだってよ。何か知ってるか?」
望んでいた返答ではなかったが、テネスなら知っているかもしれないとギアはテネスの顔を見る。
テネスはしばらく考えるそぶりを見せた後、口を開いた。
「もしかして、神様って人じゃないかな。貴族様たちが崇拝しているっていう」
「神様? なんだそれ?」
「えっと、お願いごとを聞いてくれる人……かな? 女性だからこの場合は女神様?」
平民は日々の暮らしに精一杯で、神という存在は浸透していない。
神とは貴族たちだけのものであり、力や加護、知識を授けてくれるのだと商人から話を聞いたことがある。
このような不思議な力を持つのは神で間違いないのだろう。
人とは思えぬ美貌も相まって、妙に納得できてしまう。
テネスは女神に恭しく頭を下げる。
「女神レーツェル様、ありがとうございます」
『残り一人、力を与えられる』
突然現れ、力を与えてくれた女神。
この意味を解釈するならば、この力を使って魔族を倒せ、ということだ。
「少々お待ちください女神レーツェル様!」
テネスは軽くなった体で飛び上がるように立つと、風のように周囲を走り回る。
「誰か! 誰かいませんか!?」
あれだけの人数がいたのだ。
同じように生き残った人間がいてもおかしくない。
積み上げられた死体の山、倒れた天幕の下、壊れた馬車の中に雑木林。
声をかけてみるが、返ってくる言葉はなかった。
ほかに生存者はいないのだと諦めたテネスは女神に願い出る。
「女神レーツェル様、残りの一人は近くの村に着いてからでもいいですか?」
女神からの返答はない。
テネスがどうしたものかと考えていると、ギアに服を引っ張られる。
「二人でもよくないか?」
「この力で魔族と戦うにしても、三人目は必要だよ」
「もちろん、戦力的には多いほうがいい。でもな――」
ギアは王都の孤児院出身だ。
身分が低くとも学がなくとも、この腕一本で成り上がる。
野心を持って遠征に参加したのだが、事情が変わった。
手にしたのは人智を超える力と知識。
これらをもってすれば、貴族に雇ってもらうことも可能だろう。
むしろ支配者側になるだけの可能性を秘めている。
だからこそ、こんな力を持つ人間は少ないほうがいい。
「なぁ女神さんよ。この力って魔族を倒した後も残るのか?」
『残る』
「三人目って魔族を滅ぼした後、力をなくすようにはできないか?」
「ギア、お前は何を言って――」
「考えてみろよ。この力は間違いなく必要とされるものだ。三人目はよく考えて選んだほうがいい」
『ククッ』
くぐもった笑い声が頭に響く。
人形のようだった表情を崩し、女神が滑稽だとばかりにくつくつと笑う。
『浅ましく業突くな考えは理解した。お前の望む者を用意してやろう』
そう言って女神は左腕を突きだした。
細腕の肘から先が、いつの間にか現れた黒い渦の中に飲み込まれる。
女神がその手を引き抜くと、その手には襟首を掴まれた少年がぶら下がっていた。
ギアとテネスは目を見開き、ごくりと息を飲む。
何もない場所から忽然と人を出したのだ。
「すごいな、これが魔法ってやつか」
「うん、すごいよね。いただいた知識にはない魔法だけど」
女神が手を放すと、少年はどさりと地面に落ちる。
何が起きたのか、わかっていないのだろう。
辺りを見回した少年は、口を開けたまま何も言葉を発しない。
「なんだか人間の種類? が違う感じだな。黒髪だし」
「すごく高そうな服。もしかして、どこか遠くの国の貴族様なのかな?」
背丈は低くなさそうだが、10歳と言われても違和感がないほどに顔つきが幼い。
そんな少年の着る服は一目で高価なものだとわかる。
布の質は緻密で髪色と同じく黒染めのもの。上着には金色に鈍く光る留め具。
テネスは商人の運ぶ布で、ここまで黒に染まったものを見たことがない。
それに留め具の細工を見れば、間違いなく一流の職人が手掛けたものだ。
女神が少年に手をかざす。
『お前は魔法使いだ』
零れ落ちた光が消える。
力を受け取った少年は、いまだ状況が理解できていないようだった。
少年の前にギアがしゃがみ込む。
「おい、お前! 名前は? 貴族……さまなのか?」
少年はギアと目を合わして口を開いた。
しかし、ギアとテネスはその言葉を聞き取ることができなかった。
「なんて言ったかテネスは聞こえたか?」
「ううん、まったくわからなかった。……もしかして使ってる言葉が違うのかも?」
テネスは語りかけながら少年に手を差し伸べる。
少年は何か言葉をつぶやきながら、その手を握って立ち上がった。
態度から悪意は感じられない。わざと聞き取れないように言っているわけではなさそうだ。
王国と交流のない辺境の地では、違う言語を使う民族がいると聞いたことがある。
そう考えれば、髪色や服についての合点がいく。
「やっぱり言葉は通じないみたいだね」
「まあ、おいおいどうにかすればいいだろ」
ギアは女神の正面に立つと顔を見上げる。
「女神さんよ。できたらでいいんだか、何か貰えないか? 力を貰ったからと言っても俺たちは人間だ。飯も食わなきゃならんし、身を守るものもいる」
落ちている武器を使えばいいが、魔法を使う二人には魔法使いの武器が欲しい。
それに、食べられる食料が残っているのかわからない。
これから徒歩で王国まで帰らねばならないのだ。
神とは願いごとを聞いてくれる存在だとのこと。
聞いてくれるかどうかはわからないが、言うのはタダだ。
無言のままの女神が左手を掲げると、目の前に現れた黒い渦から剣や杖が零れ落ちた。
ギアは称賛の声を上げながら、地面に転がった長剣を拾う。
抜き身の長剣を持って構えると、朝日が剣身に輝きを与えた。
「高そうな剣だ。売ればいくらになるんだろう」
テネスは二本の杖を黒髪の少年に見せ、指を差してどちらがよいかと選ばせていた。
その二人の近くに落ちていた物にギアは手を伸ばす。
「袋?」
両手で広げてみるが、なんの変哲もない麻生地の袋。
厚手の丈夫そうなもので重くはない。
中は空だろうと覗き込んでみれば、袋の中身は黒い渦になっていた。
ためらいながらもギアが袋の中に手を入れると、手首から先が渦の中に消えた。
そのまま肩まで袋の中に入れてみる。
腕を動かしてみると、袋の中は外見の大きさをゆうに超えている。
それと同時に、中には何も入っていないのが感覚的にわかった。
「なんでも入れられるってわけか」
抜き身の剣を袋の中に放り込むと、そのまま吸い込まれて消えていった。
だが、袋の重さは変わっていない。
「おい、テネス! こいつはすごいぞ!」
ぽかんと口を開ける二人に、ギアは袋を見せつけた。
袋の中に手を入れて、抜き身の剣を取りだしてみせる。
「それ、すごいね! ここに残ってる食材や料理道具を入れたら帰りが楽になるよ!」
「ああ、さっさと使えそうなものを回収しようぜ!」
「そうだ」とギアは少年に声をかける。
「おい、お前の名前はなんて言うんだ? 名前だよ、名前」
言葉が理解できず、首を左右に振る少年にギアは自分を指差す。
「俺はギア、ギア。こっちがテネス。お前の名前は?」
ようやく理解したようで少年は名前らしきものを名乗るが、二人にはうまく聞き取れない。
「テネス、聞こえたか? クロキャーツォーム? みたいに聞こえたが」
「いや、クロ……までしかわからなかった」
「まぁ呼び名なんて適当でいいだろ。誰のことかわかればいいんだ。お前のことはクロって呼ぶからな!」
少年を指差して「クロ」と告げると、それを理解できたようでクロは頷いた。
「あれ? それよりも女神さんはどこ行った? おーい! うわっ」
突然、目の前に現れた女神にギアは悲鳴のような声を上げた。
『私たちはいつも見ている、聞いている。何かあるのなら呼ぶがいい』
そう言い残し、女神の姿は煙のようにかき消える。




