第56話 それぞれの思惑Ⅱ
メルヒオールは手元にたぐり寄せた布に手をかける。
ゆっくりと慎重に包みを開けると、その中から現れたのは一冊の古びた魔導書だった。
「著者はわかっていませんが、およそ300年前に書かれたようです。もちろん原本です」
稀に発見される古い魔導書。
ほとんどの魔導書は粗末な内容なれど、中には魔導書として非常に価値の高いものがある。
このような魔導書は王都だと見つからない。過去の内戦において、その大多数が焼失したとされている。
しかし、オスファでは王都と事情が異なる。
400年ほど前の戦争、ベルツ内戦において、城郭都市であるオスファから多くの兵士が戦地となった王都へと派兵された。
戦時の混乱に乗じ、王都から出奔した中立の魔法使いたちが向かった先がオスファ領だ。
その魔法使いたちが逃げ込んだ先。
長らく続く貴族の屋敷、古い民家にある隠し部屋、洞窟や深い山奥に突如存在する家屋。
このような場所からは、秘匿されていた魔法についての研究資料や魔導書が稀に見つかることもある。
現在とは異なる考え方で書かれたものであり、今の魔法技術よりも格段に進んだ研究内容が記された書物。
こういった魔導書は王都でも入手可能ではあるが、それは原本ではなく写本となる。
しかも、ほとんどの場合は内容に手が加えられている。
さらに複製から複製が生まれ、文章を少し変更したものが別物として売買されているのが現状だ。
だからこそ、古い魔導書の原本は貴重であり、金銭的な価値がつけられるものではない。
メルヒオールは魔導書を手に取ることなく、老いている人間とは思えないほど強い眼差しでクラウスを睨みつけた。
「何が望みだ?」
「間もなく開催される交流会。その余興について、ご相談があります」
「……今年はオスファ領の受け持ちだったな」
通称、交流会。正式には魔法技術交流会と呼ばれる。
王都とほか6つの領土が参加し、年に一度行われる行事だ。
初めて魔法使いの資格を取る者。昇級し、2級や1級に名を連ねる者などが参加する。
魔法使いとは、貴族や大富豪といった者たちがほとんどを占める。
その社会的な地位が高い者たちのためのものであり、交流会とは、ありていに言えば顔見せだ。
交流会の運営は各領土が持ち回りで行い、担当する領地が余興として開幕に何かしらの催しを行ってきた。
過去、余興では新たな魔法の使い方、新たに作り出した魔道具などを発表していたのだが、ここ十年ほどは各領地の郷土料理が振る舞われている。
くだらないと一笑に付し、メルヒオールは理由をつけて余興に参加しなくなった。
味を変える魔法の披露などであれば面白いが、立食形式の単なる宴会でしかない。
顔を売りたい者たちには、都合のよい食事会なのだろう。
王都魔法ギルドの長に挨拶をしようと行列ができる。
会場を割るように長く長く続く列。まるで餌に群がる蟻の行列だ。
媚びへつらい、才能のない者たちの相手をするなど、メルヒオールにとっては苦痛でしかない。
余興に来なくなった理由を知っているクラウスは、屈託のない笑顔をメルヒオールに向ける。
「毎年代り映えのしない余興に飽き飽きしていましてね」
クラウスの言葉にメルヒオールの片眉がピクリと上がる。
「ほう。その言いようだと、今年は何か面白いことを考えているのか?」
「メルヒオール様は箱持ちと呼ばれる魔法使いをご存じですか?」
「……噂を耳にはしているよ。しかしながら、聞こえてくる話は眉唾物。とうてい信じられぬ話ばかりではあるが」
メルヒオールの力を持ってすれば、王国の影響下にある国の情報など入手することは容易い。
しかし、そうしなかったのには理由がある。
メルヒオールの考えでは、偉大な魔法使いになるために必要なものは三つ。
努力、才能、師だ。
努力し、才能があり、素晴らしい師がつく。
そうすることで、最高水準の魔法使いになる可能性がようやく生まれる。
どれが欠けても駄目なのだ。
勇者の家系がそれを証明している。才能はあれど、努力しない者、師を取らない者。
才能はあれど、魔法使いとしては三流の人間をメルヒオールは数多く見てきた。
箱持ちの噂を聞き、メルヒオールが抱いた所感。
突然、とんでもない魔法使いが現れることなどありえない。
まず、ノードという片田舎の出身が駄目だ。
ろくな師がいない。一人だけいるにはいるが、教えるのも下手で手を抜きがちな人間と知っている。
中途半端な師につけば、大事な時間を無駄に捨てるようなもの。
独学などもってのほか。
大魔法使いの言い伝えを知る悪どい人間が企てたのだろう。
ノードの貴族や魔法ギルドが結託し、国の存在感を上げようとしているのではないか、とメルヒオールは考えていた。
メルヒオールはしわを深くして不快感をあらわにする。
渋い顔をするメルヒオールを見て、予想通りの反応だとクラウスは心の中で笑った。
「去年のことなのですが、箱持ちに会う機会がありましてね。ヴィムの話を聞く限り、噂は真実である可能性が高いかと」
その言葉を聞いて、メルヒオールの表情が一変した。
若くして有り余る才能。オスファ領で一流の魔法使いの名を挙げるなら、鉄壁のヴィムしかいない。
そのヴィムの言ならば信用できる。
ろくな師もなしに、箱持ちがどうやって力を伸ばしたのか不思議ではあるが。
話が見えてきた、とメルヒオールはたくわえている長い白髭に手を添える。
「しかし、箱持ちは他国の人間であろう?」
「それは重々承知しておりますが、余興とはあくまでも余興ではございませんか。交流会規約には、他国の人間を出してはいけないなどとの記載はございません。重要なのはメルヒオール様の意向にございます」
髭を撫でながら魔導書に目を落とすメルヒオールに、クラウスは言葉を続ける。
「ノードには天才と呼ばれていた氷槍もおります。箱持ちと競い合うように力を付けているようです。この二人であれば、満足できる余興を見せてくれることでしょう」
流言だと思っていた箱持ちに、俄然興味が湧いてくる。
直接この目で見れば、直接言葉を交えれば。そうすれば本物かどうかわかるだろう。
使えるならば召喚命令を出し、王都魔法ギルドで飼えばよい。
メルヒオールは椅子に深く体を預け、「ふぅ」と息を吐きだした。
「例年に比べれば面白くはなりそうか……」
「では、ノードの者を余興に使っても差し支えないと?」
「ああ、問題ない」
メルヒオールは体を起こすとテーブルの上に手を伸ばす。魔導書を手中に収めると、むさぼるように読み始めた。
その姿を見たクラウスが少しばかり口角を上げると同時に、絶妙の間で置時計が音色を奏でる。
クラウスは置時計を一瞥すると、メルヒオールに名残惜しそうな顔を向けた。
「申し訳ありません、次の予定が入っておりまして。ここで一度失礼させていただきます」
クラウスの予定を事前に聞いていたメルヒオールは、左手を少し上げて応える。
今は忙しいのだ、とばかりに本から視線を外すことなく。
クラウスは頭を下げると立ち上がり、音を立てないよう静かに部屋を出た。
閉めた扉に体を預け、安堵のため息を漏らす。
緊張感から解き放たれ、額からは汗がじわりと滲み出る。
胸元から取り出した小布で汗を拭ったクラウスは、警備兵に目配せすると足を踏み出した。
言質は取れた。
賢者の言葉に異を唱えようという愚か者はいない。
もはや粗方の仕事は片付いたようなものだ。
通路には、コツコツと軽快な音を立てる靴の音が鳴り響いた。




