第02話 リーヴェという少女
大陸の北端にはノードと呼ばれる国がある。
国の北側、海岸線沿いには天に届きそうなほど高いローバスト山脈が連なる。冬になれば、山脈からは冷たい風が吹き荒れ大地を凍らせる。
しかし、春から秋にかけては穏やかな気候であり、過ごしやすい。
その期間に作物を生産している農業国だ。
麦や豆などの穀物、野菜などを栽培し、周辺国に輸出することで外貨を稼いでいるが、国としての力は弱い。
特産と呼べるものはなく、周辺国には単なる食料生産国として認知されている。
昔は誰しも知る国だった。
大陸に名だたる建造物があったからだ。
それはかつて人間と魔族が争った時代、魔族最後の砦――魔王城と呼ばれていたもの。
現在、魔王城と呼ばれていた建物は打ち壊され、見る影もない。
代わりに繁栄するように、魔王城の南にはゲアストという町が広がっていた。
そのゲアストの町、貧民街にほど近い場所に一人の少女が住んでいた。
◆ ◆ ◆
今は昼間だが、室内は少し暗い。
その室内で少女――リーヴェが一人、本を読んでいた。
テーブルに置かれた本がぱらぱらと捲れる音だけが響く。
リーヴェの人差し指の先には小さな光が宿り、本に書かれた文字をなぞる。それに合わせて垂れる黒髪がゆらゆらと本を撫でるように動いている。
右手がぴたりと止まり、人差し指から出ていた光がふっと消えた。
深いため息を吐いたリーヴェは、眺めていた本をぱたんと閉じる。
それから室内をぐるりと見渡した。
物がほとんどない狭い部屋。がらんとしていて広く見える。
生活が苦しく最低限のもの以外は売り払ってしまったため、家具はほとんどない。
テーブルの上にリーヴェは目を落とす。そこには先ほどまで読んでいた一冊の本があった。
これは魔導書と呼ばれる本であり、平民にとっては高価なもの。
これを売れば当分ひもじい思いをしなくて済むが、リーヴェにとってそんな選択肢はなかった。
「よし」とリーヴェは覚悟を決めたように声を出し、外出する準備を始める。
魔導書を枕の下に隠し、ベッドの上に置いていたフード付きの黒いローブに袖を通す。
フードを目深に被り、扉の前に行くと両手を広げて深呼吸をする。
横に立てかけてある杖を持ち、ゆっくり扉を開けて足を踏み出した。
家を出たリーヴェは町の通りを進む。
目指しているのはゲアストの中心部、大通りに面した場所だ。
中心部に近づくにつれ人通りは多くなり、石畳で舗装された道に変わる。
周囲からの視線が気になるリーヴェはフードの端を引っ張り、立ち込める不安を振りほどくように足を速めた。
◆ ◆ ◆
魔法使いの素質があるかもしれない。そう言われたのはリーヴェが5歳の頃だった。
父と母に手を引かれ、市場に来ていたリーヴェたちは、ローブを着て杖を持った集団に呼び止められた。
一目で魔法使いとわかる格好をした者たちを前に、両親は膝を地に着ける。リーヴェも子供ながら両親の動きを真似て跪く。
魔法使いは貴族や富裕層がなるものだ。リーヴェの両親は無礼がないようにと応対する。
「私たちに何か御用でしょうか?」
突然のことに狼狽えた父親が、震えた声で集団の前に出た者に尋ねた。
一歩前に出た男が口を開く。
「その子供はお前たちの娘か?」
「はい、その通りでございます」
「そうか。その娘には魔法の才能があるかもしれん」
男が父親と二言三言の会話をすれば、すぐにその集団は立ち去った。
両親は揃って胸を撫で下ろす。
ただ単に、その子供には魔法使いの才能があるかもしれないから、その道に進めさせてはどうかという話だった。
二人にとっては愛しい娘を褒められたようなもの。
それに相手は魔法使い。貴族か富豪か。どちらにせよ平民の自分たちにとっては雲の上の存在。
感じる嬉しさもなおさらだった。
魔法使いは富と権力の象徴だ。もし魔法使いになれでもすれば、何不自由なく暮らせるかもしれない。
しかし、現実は非情。
魔法使いになるには非常に金がかかる。その金額は漠然としたものだが、とても平民に払える金額ではない。
なんの話だったの? と見上げるリーヴェの頭を、両親はそっと優しく撫でた。
◆ ◆ ◆
そんな出来事から3年経ち、リーヴェは8歳になっていた。
8歳にもなれば行動範囲も広くなる。母親の手伝いをしない日中、リーヴェは近くに住む同じ年頃の子供たちと遊ぶようになった。
いつものように近くの広場で遊んでいた時、子供特有のなんてことない一言に、リーヴェは酷く動揺する。
「リーヴェちゃんって本当におじさんとおばさんの子供なの? だって髪の色も目の色も違うじゃない。黒髪の人なんて、ほかに見たことないもん」
リーヴェの両親は二人とも茶色の髪に、同じく茶色の瞳。それに対して、リーヴェは黒髪であり瞳も黒い。
その事実を突きつけられ、今まで気にも留めなかったことにリーヴェの心は激しく揺さぶられた。
泣き出したくなる気持ちを堪え、なんとかその場を取り繕うと、逃げるように家へと向かう。
家に帰るとすぐさまベッドに潜り込み、言われたことを思い出しては嗚咽を漏らす。
母親が心配してかける言葉にすら耳を貸さず、ついにリーヴェは大粒の涙を流して泣き叫んだ。
大泣きは父親が仕事から戻ってくるまで続いた。
泣き疲れ、顔を腫らしたリーヴェを両親は揃ってあやす。
宥められたリーヴェは、ぽつりぽつりと反芻するように、友だちから言われたことを伝えた。
その言葉を聞いた父と母はリーヴェを強く抱きしめる。
「リーヴェは私たちの大事な子供だよ」と優しく言われ、温もりを肌で感じたリーヴェはようやく平静を取り戻す。
しかし、刺さった言葉の棘はいつまでも抜けることはなく、ずっと心の中に残り続けた。
友だちと会うことを恐れ、周りの視線を恐れ、家から出ることさえ恐れた。
そしてリーヴェは引きこもりになった。
引きこもりになってからの日々、リーヴェは母親の針仕事を手伝うようになった。
暮らしは楽にならなかったが、それでも一家三人は幸せな日々を過ごす。
ただ、その幸せな日々も数年で終わりを告げる。
北のローバスト山脈身から身を刺すような風が吹く冬の日。風邪を引いた父親はあっけなく、そのまま帰らぬ人となった。
まだあったゆとりはなくなり、リーヴェを養うためにと母親は昼夜働いた。母の助けになるようにとリーヴェも針仕事に勤しんだ。
とある日、仕事から戻った母親がリーヴェに差し出したのは一冊の古びた魔導書。
その本を受け取ったリーヴェは不安気に母の顔を見上げる。
魔法が使えれば仕事がある。それも平民からしてみれば、とても高い給金が貰える。
古道具屋で見つけた安物の本ではあるが、魔導書には変わりない。
母親は「あなたのためよ」と笑顔で答え、リーヴェの頭を撫でた。
それからの日々、少しでも時間が空くとリーヴェは本を片手に勉強する。
文字を教えてもらっていたリーヴェにも魔導書は読むことができたが、独学でその内容を把握するにはあまりに難しすぎた。
魔力を使って魔法陣を生み出す。
魔法陣を使って魔力を集める。
集めた魔力を使って魔法を具現化させる。
理解できない記載はリーヴェを悩ませた。
本に魔法陣らしき絵は載っているのだが、その生み出し方までは載っていない。
しかも実用的な記載は少なく、本の半分以上は著者の生い立ちや経歴で埋まっていた。
それでもリーヴェは努力した。
魔導書を与えてくれた母のために。理解しようと、魔法を使えるようになろうと。
日々の努力を重ね、ついにリーヴェは一つの魔法を具現化させることに成功する。
指先から出る光の魔法。
小さな光りながらも、それは室内を明るくさせた。
仕事から戻った母親に、嬉々としてリーヴェは魔法を披露する。
ほんの小さな光だったが、その魔法は疲れ切った表情の母親の顔をも明るくさせた。
母親の願いは、いつしかリーヴェの夢となっていた。
それは魔法使いになりたいという夢だった。
◆ ◆ ◆
ゲアストの中心部、目的の場所に着いたリーヴェは目の前の建物を見上げた。
「冒険者ギルド……」
看板をもう一度見直す。
間違っていないのを確認すると、リーヴェは扉を開け、おずおずと中に入る。
広めのロビーには幾人かの人がいた。受付で話をしている者、掲示板に目を通している者、テーブルに座って仲間と談笑している者。
そのすべての人が剣や弓といった武器を持ち、革鎧などの防具を身にまとっている。
それに対し、リーヴェは古びたローブを着て、手に持つのはボロボロの木の杖。
場違い感が否めない。
わかっていたこと、とリーヴェは空いている受付の前に歩を進めた。
受付の前に行くとフードを脱ぎ、カウンターの受付嬢に声をかける。
「こんにちは。あの、冒険者登録をしたいのですが……」
緊張で若干声がうわずってしまう。
頬が熱くなるのを感じて俯きそうになるが、気を取り直して受付嬢の顔を真っすぐに見つめる。
受付嬢がリーヴェを見つめ返し、開きかけた口を閉ざした。
何かおかしなことでもしてしまったのだろうか。
疑問に思い、リーヴェが「あの」と言うと、固まっていた受付嬢が動き出した。
「あ、こんにちは。冒険者の登録とのことですが、初期登録ということでよろしいでしょうか? 杖をお持ちになっているということは……魔法使いの方ですか?」
「魔法は少し使えるのですが、魔法使いの資格は持っていません」
「そう……そうですか、それでは登録いたしますので質問にご回答ください」
怪訝な表情を浮かべながら、受付嬢はリーヴェに質問し、手元に用意された紙に記入していく。
「リーヴェ、女、15歳、備考に照明魔法と。最下位のFランク冒険者ね。何か質問はある?」
言葉使いが変わったことには触れず、リーヴェは要望を出す。
「サポーター登録をお願いしたいです。できれば魔法使いのサポーターになりたいのですが」
冒険者ギルドにはサポーターという制度がある。
これは仲間を失った高ランク冒険者への措置と、低ランク冒険者のつながりを広げるために制定されたものだ。
低ランク冒険者がサポーター登録をするのであれば、用途は下働きである。
重い荷物を運ぶのはもちろんのこと、野営地を守る必要もあり、それなりの実力は必要とされる。
最低限の力は必要なため、サポーターはEランク以上を使うのが冒険者の暗黙のルールとなっていた。
それを聞いた受付嬢は「はぁ」と深いため息を漏らし、肩をすくめて話し出した。
「リーヴェさん、Fランクのサポーターなんて需要はないのよ? わかって言ってるの? それに魔法使いのサポーターなんて年間であるかないかよ?」
平民でも魔法の才ある者は時折現れるのだが、個人で学べることには限界がある。
そのために冒険者ギルドを通じて、魔法使いとつながりを持とうとする者が稀に登録に来るのだ。
そもそも魔法使いである冒険者は人数が少ない。
護衛対象としての依頼はあるが、それは高ランク冒険者の仕事であって、低ランク冒険者とはまったくもって無縁なもの。
受付嬢の目には、貧相な体つきのリーヴェの姿が映っていた。
リーヴェは深く腰を折る。
「それでもお願いします」
「まぁ……わかったわ、仕事だもの。サポーター登録はしておくから、三日に一度は依頼がきてないか確認しに来てね」
「わかりました。ありがとうございます。よろしくお願いします」
登録の対価、銀貨3枚を払ったリーヴェは冒険者カードを手に取る。
そしてフードを目深に被り、足早にその場を立ち去った。
それを見つめていた受付嬢は、依頼がくることはないだろうなと思いつつ、サポーター登録の準備を進める。
「それにしても黒髪、黒目の人って初めて見た……」
ぽつりと受付嬢は呟いた。
◆ ◆ ◆
リーヴェは人混みを避け、人通りのない寂れた裏路地を歩く。
ようやく目標に向かって足を踏み出せた。
まずはお金を稼ぎながら、魔法を使える人と知り合いになる。そして、弟子にしてもらえるように頼むのだ。
魔法を教えてくれるのならば、どんな人だってかまわない。どんな苦行だって耐えてみせる。
「魔法使いになることが私の夢なんだから」
自分に言い聞かせるように、リーヴェは言葉に出した。