泡沫
プロローグⅠー雪城 詩音ー
赤い雨がザーザーと降っている。
玉砂利を敷き詰めた地面に赤い池を作っていく。
生暖かい雨の中で少女が泣いている。
身も世もなく泣いている。眠る少女の頭を膝に乗せて掻き抱くように泣いている。
後悔。元には戻せない。戻れない。無かった事には出来なくて泣いている。
「ごめ、ごめんなさい」
泣いても謝っても許されない。解っている。少女にはその言葉でしか償う方法を知らなかった。
我儘を言ったから。浮かれていたから。
仲の良い友達から異性として好きになって初めての夜店デート。買ってもらった浴衣を着て、下駄を履いて、財布を入れた巾着を手に。
『夜道には気を付けなさい』
早く出掛けたい少女に苦笑する母親は注意事項を告げる。
その横で少年も同じ様に注意事項を告げられているけれど、何やら深刻そうに話し合っていて、少年は真剣な表情で重々しく頷いている。
『いい? 危ないと感じたら逸早く逃げるのよ。良いわね?』
けれど、その可愛らしい浴衣は赤い雨と土に塗れてよごれ、下駄は鼻緒が切れて脱げてしまっていた。手足には擦り傷で血が滲んでいる。
月が陰り赤い雨が止む。少女が泣き腫らした顔を上げる。
温かい手が少女の頭を優しく撫でる。
『もう大丈夫よ。泣かないで。この子が頑張ってくれたから、こうして間に合うことが出来たわ』
その女性は少女が膝に抱いている傷付き目を閉じている少女を少し困った様な、それでも少女を守り抜いた事を労るような優しい目を向ける。
ラフな白いTシャツにスキニージーンズパンツ。しかし、その手には月光を弾く鈍い光を宿した白刃の日本刀。
『追われた子供たちを贄になどと欲を出さなければ良かったものを』
普段の優しい声は冷たく、その凛とした美しい顔は静かな怒りを秘め、涼やかな目は眼光が鋭くなっていた。
その女性が放つプレッシャーに少女は息を呑む。
『ぉおにぃきぃりぃっ!! よくも……よぉくぅもぉ妾の腕をぉ斬り落とし……身体をも裂いてくれたなぁ……。許さぬ……許さぬぞぉ……。鬼斬りぃ!!』
ゴウッ!! と吹き荒れる黒い風。
『腕の一本や二本失ったくらいで大袈裟ね。そんなこと、鬼であるお前が人に対して何度も繰り返して来たことではないのかしら? 数多の命乞いを踏み躙って来たのでしょう? そうして命乞いをする者の身体を引き裂いて来たのではないのかしら?』
『黙りやっ!! 此処は妾の縄張り!! 妾の城に土足で踏み込み、荒らす者どもを妾の好きにして何が悪いっ!! 妾は神の座に至ったのだ!! 貴様のような鬼斬り風情の狗に何かを言われる謂れなどないわ!! 神と成った妾に付けた傷……その報い、何百、何千、何万倍にもしてその身に返して嬲り尽くして喰ろうてやる!! 覚悟しぃや!!』
『化けの皮が剥がれてしまっていわるわよ。絡新婦』
まさに鬼の形相で死の神を連想させる鎌が、“鬼斬り”と言われた女性に向って振り下ろされた。
その鎌を女性は余裕をもって躱す。紙一重で躱す真似はしない。
『……ソワカ……ソワカ』
次々と繰り出される攻撃による風鳴りで、繰り返される文言は小さな声で聴き取り難く、また聞いたこともないものだった。
『恐怖で気が触れたのかえ? 聞こえぬぞ!! ほれ、はっきりと言うてみぃやっ!!』
『期待に答えてあげるわ。先程から私が唱えている文言は―― オン ソヂリシュタ ソワカ・オン マカシリエイ ヂリベイ ソワカ!!』
文言に込められた言霊にビクリ!! と硬直する絡新婦の身体。けれどその鎌による振り下ろし攻撃は止まらない。
『千羽――』
『ま、待ちぃ!!』
『天剣流――』
銀閃は弧を描き、鬼の鎌を弾き返す。
腕が跳ね上がって胴体を―― 首を晒すことに成った絡新婦。
『輔星――』
『ひぃっ!! 死にとうないっ!!』
逃げの姿勢――反射的に身体を退く。
『――羅睺――!!』
『まだぁ!! 死にとうないぃぃっっ!!』
逆手に抜刀された小太刀が、死の恐怖に青褪めて引き攣る絡新婦の首を捉えた。
『ぐっぁあぁぁっ!! こんな……このような薄汚い……暗い……小さな場所で……終わりとうない……生きて……生き延び――』
『いいえ。それは無理よ。だって貴女はもう終わっているのだから』
ズルッとずれる絡新婦の首。
『何を!! イヒッ!! はて? は? 妾の――』
絡新婦はそこに在らねばならぬはずのものが無いことを見てしまった。
首は絡新婦の足元に落ちた。居合い斬りは、断面は潰れ、また離れた場所に切り落としたものが落ちることはあってはならない。そのような剣士は二流、三流。腕の良い剣士の居合い斬りは絶技。
絡新婦の首はまだ生きていた。
『ぎぃやぁあ゛ァアア゛ぁぁーーーーッ!!』
断末魔が呼び水になったのか、遅れて噴き出る鮮血。
ザーザー。ザーザー。と私の耳に、脳にこびり付いて離れない赤い雨の音と鬼の断末魔。
ザーザー、ザーザーと後悔の赤い雨は降り続いている。
赤い雨は振り続け止むことを知らないかのように、世界の全ては烟っていく。
ザーザー、ザーザー。あの少女は誰?
ザーザー、ザーザー。私を――私たちを助けてくれたのは誰?
ザーザー、ザーザー。何故か切なくて悲しい懐かしい記憶。
ザーザーザーザー。記憶が赤い雨に流されていく。赤い赤い池に沈んでいく。
――待って!! 消えないで!!
夢を見ようとすればするほど、風雨は強くなって夢から遠ざかる。引き離される。
この時期に繰り返し見るということは、きっと忘れてはいけない記憶のはず。忘れてしまったことも忘れてしまった記憶。
ノイズが奔る。隔たりが生じていく。また、掴みそこねる。
夢から弾かれる。それに抗えない。
『薄情者』
『大切な想いだったのに』
『まだ逃げ続けるの?』
『何処まで逃げ続けるの?』
――違っ―― 本当に何も覚えていないのよ!!
『本当に?』
――本当よっ!!
だって、私の知らない女の子と女性だ。クラスにもご近所にも居ない、見たこともない。
『貴女がそう言うのなら、そうなんでしょう』
『貴女がそう言うのなら、そうなのよ』
『だったら逃げなきゃ』
『だから逃げないと』
『『夢に囚われて、夢から覚められなくなってしまうわ』』
フフフフフ―― と毒を含むような、惑わすような、馬鹿にするような、憐れむように笑う。
――貴女たちは何! どうして私の夢の中に居るのよ!
『私たちは夢の使者』
『大切な記憶。思い出。想いを落とし、忘れ、喪った者が余りにも滑稽で可笑しいったらないわ』
『だから、思い出させてあげているのよ。頭では忘れてしまっていても、魂が憶えている。それを夢として見させてあげているのよ』
――何かを、私の忘れてしまった記憶を知っているのなら教えて!!
『本当に?』
私はコクンと頷く。
『思い出せるなら何を犠牲にしても?』
『想い出せるなら他の想いを喪っても?』
『『それでも本当に知りたいの?』』
私が答えに窮し、躊躇っていると―― りん! と涼やかな錫の音。
微睡みに聴こえてきた風鈴の音か。それは有り得ない。確かに風鈴は吊るしているけれど、窓を閉めているのだからこんなにはっきりと聞こえるはずがない。
『主様に代わってそのような狼藉は赦しません』
『あら? 残念。もう見つかってしまったわ』
『それは残念。見つかってしまったなら、この逢瀬も終いかしら?』
『本当に残念。ふふふ……』
『けれど貴女が直接、この娘の夢に出て来るなんて』
『夢、で終わらせるのなら、朝の陽が登れば泡沫に消えてしまう事柄。通り過ぎてしまえば朝靄の如く露と消えゆくもの。貴女たちの眼は邪を宿す。それに、鬼の言の葉の――言の端にも真などありはしない』
血のような赫々たる眼、その紅を弾く炯々たる青い眼。それだけでは無い。三者から立ち昇る気の様なものがぶつかり合って鬩ぎ合う。
『――朝日が……』
『あら? このまま圧しきってしまえば良いのではないかしら?』
『ですが、力の消費は避けるべきでは……?』
『……そうね。漸くこの娘の夢に渡殿が繋がったのだから、焦る必要は無いのかしら? ねぇ、詩音?』
名前を呼ばれ、思考が縛られ、声を発しようと喉が震え、口が開く――
その瞬間、バサリ、と音をたて着物の袖を振るう美しい女性。
私を護る女性から威圧感が放たれる。否、それは威圧感など生温いと感じてしまうほどの殺気だった。
『へぇ、己の存在を賭して、私たちと最期まで殺り合うつもり?』
殺気と殺気がぶつかり合う。
『――』
鬼と言われた片割れの少女が、好戦的な相方の少女を嗜める。
『本当に忌々しい。ねぇ、詩音。今度は邪魔者抜きで逢いましょう』
『また、八塩折之酒が盃に満ちる夜に逢いましょう』
フフフフフ……。
心底、次の逢瀬が愉しみだという様に笑い声を遺して消えていった。
『名前は短い呪。さっきのように貴女を縛るわ。どのような問いにも応えないで』
私を護ってくれた女性の口調が違っていた。まるで、私を―― 親友を心配するような感じだ。
それを察したのか彼女は答えてくれた。
『あの二匹の鬼が言っていたけど、護法を通して、貴女とわたしの夢が渡殿で繋がってしまったの』
貴女は誰? とか色々問い質したかったけれど。
『朝日が登ったわ。泡沫の存在は露と消えるのみ。わたしを忘れても、元気でいてね』
振り返らないで、と言って私の背中を押して目覚めへと向かわせる彼女はそう言い残して消えた。
何時も夏になると繰り返し見る夢。けれど、今日は違っていた。夢に出てきて二人の鬼から護ってくれた知らない女性。けれど懐かしくて切なくて、目覚めた私は大きな喪失感で涙を流していた。