ジョージ・ポージのプティングパイ
珍しく酒に酔ったのかもしれない、とジョージ・リンドは考えていた。
くらりと頭の中をかき回されたような感覚に襲われ、片手で額を押さえた。酩酊感とも違う、胃からせり上がってくる不快感とも違う、喉と胸が締めつけられるように苦しい。
どうされたの? と甘ったるい声が遠く聞こえ、けれど不快で、これはいけないとソファから立ち上がり女性たちから離れようとした。
今まで浴びるように酒を飲んでもあまり酔ったことがない、だが慣れない酒にやられて死に至る者がいることは知っている。まさか自分がと思って立ちあがると、上手くできず、そのまま床に倒れてしまった。
「まあ、ジョージ」
驚いた声はするが淑女たちは動かなかった。自分の手で他人を介抱するなど思いつかないご夫人方だ、まばらになったとはいえダンスホールにまだ人はいたが誰もが遠く感じた。
熱くて異常に汗をかいて気持ち悪くて締めつけられる。熱を冷ましたくて息をしようとしても、呼吸の仕方が思い出せない。床でもがく男に手を差し伸べる者はなく、ジョージ自身が感じたように現実でも誰もが遠巻きに見ているだけだった。
そこに、かつり、硬い音が床を打った。紳士のステッキの先だ。
助けを求めてそちらを見ると、黒檀のような黒髪がジョージの上に影を落としていた。
「コル=レオニス伯爵」
誰かの声がした。顔は知らなかったが、噂だけはよく聴いている。
死体やら毒やら血やらを愛好する奇人だ、そうか苦しいのはお前のせいかと掠れる息で罵った。
「解毒剤、を……」
「物語でもあるまいし、そんな都合のいいものはこの世界にありません。まあ反応する薬物同士というのはありますが」
「……はや、…く」
「あなたが何の毒に冒されているのか、何が反応するのか。反応するというのは、つまりそれらも毒なんですが」
床を打ったステッキを持ち上げて伯爵は持ち手をひねった。その仕草も、ステッキからこぼれてきた小瓶も、ジョージにはもう正しく判別できずただ胃液を吐いた。
「いくつか持ち合わせはあります。試されますか?」
女の腹の上で死ぬはずだったのに、こんな死神に看取られるなんて冗談じゃないと叫んだ。つもりで。意味を成す言葉はジョージの口からは出てこなかった。
さて、と取り出した小瓶をステッキに戻した伯爵は、床に這いつくばるものを見下ろした。大きく痙攣をくり返していて、人体としてはまだ生きているだろうが正常な状態に戻すのを「助かる」と表現するなら手遅れだろうと思われた。
泡のようになって吐き出された胃液を見下ろして、人体の拒絶反応とは素晴らしいなと思った。胃がただれて毒を吐き出そうとするのだ、まったく人はよくできている。
「彼の食べたプティングが何だったのか、調べますか?」
ジョージ・リンド。
リンド商会会頭の長男で、道楽者と言われ派手好きで華やかで眉をしかめるような噂が絶えない人物だ。
王都で権勢をふるうレギュラス侯爵家のパーティーに顔を出した彼は、必要最低限の社交もせずに見知った顔の夫人たちに声をかけては酒をあおり談笑をしていた。
それなりの量のワインにチーズやハムなどのつまみ、ジョージ・リンドが会場の物を飲食している姿は近くにいた淑女たちも目撃しているし彼女たちも同じものを口にしていた。
一人二人は目の前で見苦しく倒れたジョージ・リンドに不快感を示していたが、体調が悪いということはなかった。
「わたくしは彼がダンスホールに来て最初に声をかけられましたわ。まだ、となりに婚約者がいましたもの」
「そうね。ソファに腰掛けた時には、もうご一緒ではなかったわ。あの没落、いいえ失礼、清貧な子爵令嬢はお見かけしませんでした」
ジョージ・リンドには婚約者がいる。
没落寸前の家に金銭的支援をしてその令嬢と婚約したのだ。今ではたいそう羽振りのいいリンド商会が上級貴族への足掛かりに、子爵位を買うのだと言われていた。
その事実は多くの人が知るところではあるが、肝心の子爵令嬢の噂は聞こえてこない。
ジョージ・リンドがパーティーに婚約者を伴わないからだ。いや正確には子爵令嬢に送られた招待状で貴族の社交場にやって来るので、伴って入場はしているのだろうが。
仲睦まじいどころか、となりに立っている姿を見た者がほぼいないのだ。
「リンド氏? ああ、礼儀のなってない若造だな。金回りはいいから、クラブに呼ぶ連中も多いね」
「酒が入るとクラブにいる全員の支払いをしてくれたり、まあ便利です。ただ狩猟やゴルフなどの野外の付き合いはあまりしなかったと」
「あんなのに銃を持たせたらこちらの身が危ないですからな」
あれがどうしたって?
先ほどのダンスホールでの騒ぎは彼かい。
今度は何をやらかしたんだ?
ダンスを嗜むには年齢のいった紳士たちは遊戯場でカードを切っていた。話題には事欠かないが興味はなさそうであった。
ジョージ・リンドと今夜接触したのは、ほとんどが女性という結果になった。
そのご夫人方も、特に普段と変わりなかったと口をそろえた。倒れる少し前は、酩酊状態のように呂律が怪しくなり頭を抱える仕草はしていたが、それも酒を飲んでいればよくあることだったと。
「ああ、でも一度席を立たれましたわ」
非常に嫌そうな顔をしてね、社交場でそんなお顔なさいますなと忠告したものです。
誰から、何を言付かったのかは存じません。給仕が声をかけただけで何も聞いていませんから。
「戻られた時には、先ほどの表情が嘘のように晴れやかでした」
「そこからさらに飲んでらしたわね」
「レギュラス産のワインはなかなか手に入りませんが、とても美味しいですから」
淑女たちは自身の香水の匂いに負けずワインの香りがわかるらしい。それはそれですごいなと男性の身からすれば感心するばかりだ。
香水、ワイン、テーブルに並べられた料理、遊戯場や談話室から漂ってくる葉巻の煙、きつめの匂いがあふれる中でさらに酒を飲んでいたら異物を嗅ぎ分けるのは難しいだろう。
ジョージ・リンドが口にした毒が何なのか、調べて得のある者は誰もいなかった。これをリンド商会に知らせたとしても追及を求められるかどうかもわからない。
パーティーを主催しているレギュラス侯爵側は、憲兵隊に速やかな通報をしたが原因の解明というより事態の収束をするためだった。
レギュラス侯爵からパーティーを任されていたヘンリー・ウォルフは、床を胃液で汚した男を運ばせて「さて」と彼を振り返った。
「どうしようか?」
「それはこちらの台詞です。誰が、何のために、と追及されるかどうかは侯爵家が決定される事項です」
「いやあ、それはリンド商会が決めるんじゃないかな」
「ではもうよろしいでしょう」
「うん。よろしいね」
そういえば、とヘンリーはまるで今思い出したかのように友人に尋ねた。
「ルーシー嬢は無事に帰られたかな?」
「帰られたかはわかりませんが、馬車まで見送りましたよ」
「それは良かった」
ルーシー・ぺニング。凡庸で大人しく社交界に噂も立たない子爵令嬢。
憲兵に運ばれていった男の婚約者。
彼女は、崖っぷちに踵の高い靴で立つような心持ちでパーティーに参加していた。
冷たい藍色の夜をきらびやかに照らすダンスホールの明かりに、くらと眩暈がした。こんな華やかな場所が自分に似合わないことくらいルーシーはきちんと理解している。
それでも今夜がきっと最後のチャンスだとおのれを奮い立たせて一歩踏み出すと、踵が硬い音を鳴らした。きっと音楽にまぎれて誰にも聞こえないだろう。
だから声の届く場所まで行かなければ。その思いだけで人をかき分け、壁際にたたずむ紳士に「もし」と声をかけた。
女性から、しかもルーシーの身分から彼に声をかけるのは失礼でそれは理解している。だがかまっていられなかったのだ。
たくさんの人があふれる中で、彼が存在する周辺だけぽっかと浮かんでいるようだった。静謐という見えない壁があるようで、その境界線でもう一度声をかけた。
黒檀のような黒い髪を上げて整えて、造形家が目指す美のように整った顔を見せつけている。近くで見るとなんという精密な美しさだろうか。血のように赤い目玉が動いてルーシーをとらえた。
「こんばんは、レディ」
「私ルーシー・ぺニングと申します。コル=レオニス伯爵でいらっしゃいますね」
「いかにも。ぺニング嬢、パートナーはどうされました? 夜に迷子になると首なし騎士に襲われますよ」
「あの、伯爵。どうか、……どうか私と結婚してください!」
言った。言ってやった。
淑女として少々はしたない音量だったが、言い切った満足感でルーシーは得意げな表情を浮かべた。それに合わせて両手を神に祈る時のように組んでいたので、拝んでいるような必死なようなふざけたような印象になっていることを本人は気づいていなかった。
正面の、節度ある距離とはいえ声がきちんと届く場所にいる彼の表情がくずれなかったのも、気づけなかった要因かもしれない。
紳士は儀礼的な微笑を浮かべたまま、しかし短く発せられた言葉は氷の湖より冷たかった。
「ーーーはい?」
それからルーシーはあれよあれよとダンスホールの端にあるアルコーヴに、劇場の貴賓席のようにカーテンで仕切られた壁のへこみのような空間に連れこまれた。どうしましょうと最初は慌てたがそれこそ望んだ展開だと途中から腹をくくった。
席についた伯爵は「違います」とまったくの無表情で否定したが。
「あなたの外聞的にも、アイザックの精神的にも、落ち着いて話した方がいいでしょう?」
きちんと説明をしてくれたのは別の人物だった。
溶かしたバターのような濃密でなめらかな金髪の紳士が対応してくれた時は、先ほどの一世一代の告白と同等に緊張した。さすがのルーシーだって顔を知っている。
なにせこの邸宅の主、レギュラス侯爵子息ヘンリー・ウォルフだったのだ。
ひ、と喉の奥をひきつらせたルーシーを、優雅に有無を言わさない強引さでアルコーヴに押しこみコル=レオニス伯を押しこみ自身もいったんカーテンに隠れて笑っていた。なにがそんなに可笑しいのかわからないが、声を出していたら先ほどの告白なんて比較にならないほどの大笑いだったに違いない。
気を取り直したヘンリーはたいそうな色男だった。だがルーシーはそれどころではない。
カーテンは開け放しているのでホールからルーシーの姿は見えている。カーテンを押さえているのはこのパーティーの主催者ヘンリー・ウォルフ。やあどうしたと声をかける輩はいるが深く介入しようという者はいない、とても気遣われているとようやく気づいた。
「大変な、……失礼を」
人形か置物かと思うほどにコル=レオニス伯爵が微動だにしないのを見て。
改めて非礼を詫びると、中性的な美貌の伯爵は本当に人形のようにぎこちなく脚を組んだ。本当に、と声が聞こえそうでルーシーは縮こまった。
「確認をしましょう。ぺニング嬢」
「は、はい」
「僕とあなたは初対面でよろしいですね」
「はい。間違いありません」
「それでどうして先ほどの発言に?」
「これも失礼な話ですが、伯爵が噂通りの方なら私の希望に合いましたので……」
「まあアイザックは噂しか確認できない珍獣みたいなものだしね」
「ヘンリーは黙って風除けになっていてください。お気になさらず。あれは防風林とでも思ってください」
ええと、とルーシーは口元に片手をあてて考えたが、答えはでなかった。とりあえずあんな色気立つ防風林は有害でなかろうかと思った。
そんな様子を見ていたのか、意外にも彼は溜息を吐いて頬杖をついた。そうしていると氷のような威圧が少しだけ緩んで年相応に見えるかもしれない。
アイザック・ハート。まだ十代の若き伯爵。
彼なら希望を叶えてくれるかもしれないと、子爵令嬢の身で無謀にも声をかけた。
血塗られた伯爵、死体を愛する奇人、彼の邸には美しいほどの毒のコレクションがあるという、彼と結婚したのなら心臓をひと突きされた血塗られた花嫁衣装のまま部屋に飾られるのだと、夫人たちは若い娘に言い聞かせる。
そう噂されるほどに、彼は一瞬で令嬢の心を奪うほど美しいのだと。
それは、事実だった。
だからルーシーはふるえる指で胸元の首飾りを確かめた、祖母にもらった大事なロケット、あまりに整いすぎていて心奪われるというより恐縮するばかりだが他の噂だって本当かもしれないのだ。
「重ねて申し上げます。私と結婚してくださいませんか?」
ロケットを包んだままだったので、また祈るポーズに似ていた。アイザックはまた溜息を吐いた。
「……偽装結婚の『依頼』ならやぶさかではありませんが」
「え? いいんだ?」
「ヘンリーは口を挟まないでください。ぺニング嬢。あなたは、僕に関わると命がいくつあっても足りないとか死体を運ぶ手伝いをさせられるとか死んでからでないと嫁にいけないとかの噂を知って口にしている。そうですね?」
「やはり、そ、そうなんですね…!」
「確定事項のように話さないでください、レディ。つまりあなたの『希望』は、僕に嫁入りして死体になることですか」
神を信じていなくても、この国に住む多くの貴族が建前とする宗教で自殺は禁じられている。ルーシーも敬虔な信者ではないし没落の一途をたどる子爵家でも、その教えは厳しく言われてきたので体に思考に染みついていた。
だからみずからは選べない。この身に死をもたらしてくれる人に、そう神ではなく人に頼まなければならなかった。
だがアイザックは端的に、きっぱりと言い放った。
「僕は、殺人の依頼は受けておりません」
落胆、というより純粋な驚きの表情をしたルーシーに彼は続けた。
「結果としてそうなるのならば、否定はしません。ただ人を、命ある同族を殺害したいほどの情熱は、憎悪であれ愛であれご自身でされてください」
「アイザックの口から……愛……」
「防風林は喋らないように」
向けられた言葉を理解はできた。アイザックに飾らない、直接的な負の言葉にしてもらってルーシーは自分の希望を再確認することになった。
そうだ、終わりたい。もう終わりにしたい。
「でも、みずからのことは、」
「教えに背けないという程度なら、なおさらやめた方がよろしい」
自分を殺して終わってしまいたい。本当にそうだったろうか。いや彼と話すまではそう信じていたが、改めて考えてしまうと根本的な理由は別にあったのだ。
アイザックは背の高い防風林、ヘンリーに視線をやってカーテンをすべて開けさせた。ダンスホールの様子がよく見える。
アルコーヴでなくとも、ダンスフロア以外の場所には食事や飲み物を提供するテーブルも椅子もソファもある。三人は余裕で腰掛けられるようなソファに身を沈め、両側のみならず周囲を女性で囲まれた紳士の姿もあった。
「それに、ぺニング嬢には婚約者がいらっしゃいます」
はい、と偽る必要もなく返事をした。
あそこにおります。私に貞淑を説くご夫人方に埋もれた男です。
「ジョージ・リンド。貴族ではないが大変裕福な商家の子息ですね」
「はい。我が家はリンド商会の支援なしには立ち行きませんので……」
「ありふれた政略結婚ですね。それがお嫌でしたか? それとも婚前に不貞を働く男が許せない?」
「アイザック。どうして私を見ながら言うのかな?」
「いいえ。没落寸前とはいえ、貴族の務めとして家のための結婚は承知しております」
「ではなぜ?」
なぜ。どうして。もう終わりたいのか。
婚約者に蔑ろにされる日々を平気だとは思えない。今夜だって便宜上エスコートはしてくれたがホールに入ってしまえば連れ立って挨拶することもダンスの一曲を踊ることもなく、彼はああして楽しんでいる。それをどう感じているのか。
わからない。ただ憤るとか悲しいとも違う気がしている。
自分に問いかけても誰も答えてくれなかったので、また胸元の首飾りを確かめた。
祖母からの贈り物、ルーシーがお嫁に行く時には持っていきなさいと亡くなる直前にもらったものだ。金の透かし彫りはおおよそどの服にも違和感がなく、パーティーでもできれば身につけるようにしていた。
フタがついてロケットになっているが中身はよくわからない。小さな肖像画が入っているわけではない。
飾りに祈るような姿勢を見ていたアイザックは、レディ、と淡々と呼びかけた。
「そちらは、」
「祖母の形見です。結婚の時に持っていきなさいと、母でなく私にくれました」
「結婚の時に。なるほど。見事な細工なので、拝見してもよろしいでしょうか?」
「え、ええ」
自分の胸元をさし出すわけにはいかないので、ルーシーは腕を上げてうなじに手を回した。いや回そうとした。
「どうぞ、そのままで」
しかし、言葉と指と吐息が流れるように近づいて、警戒する間も断る隙もなかった。押さえていたカーテンから足を踏み出したので、その時だけルーシーの姿をホールから隠しただろう。
嫌悪感を抱かせづらい手早く誠実な動きで留め具を外し、首飾りを受け止めるために顎の下に差し入れられた手は色香をはらむ。
こうして気づいたら彼の手の中にいるのか!社交界の貴公子恐ろしい!と硬直していると、ヘンリーは両手で包んだ首飾りを見せびらかして「お借りします」と微笑んだ。そこは紳士的な笑顔なのか、恐ろしい。
「呼吸するように女性を魅了するのはやめてください」
本当だやめて欲しいと同意して首を縦に振った。
彼はヘンリーから受け取ったロケットをホールからの灯りに透かして、ひっくり返して、片目を細めてから神経質そうな指先で二度こんこんと軽く叩いた。
「中身が何かご存知ですか?」
「いいえ。見たことはありますけど、何かは知りません。祖母はお守りだと言っていました」
なるほど、とアイザックは呟いた。
礼の言葉と丁寧な手つきで首飾りが返された。ヘンリーから。
この二人はさも当然のように行動しているが、どういう関係なのだろうか。ヘンリーは侯爵子息であるが、アイザックは伯爵である。諸々を差し引いて身分、と考えるならハート家当主であるアイザックの方が上だ。身分の前では年齢はあまり関係がないが、ヘンリーの方が年上。
友人のような兄弟のような。
ただ、またも断る機会を完全に逃したルーシーは、首飾りをヘンリーに留めてもらう羽目になった。自然すぎてのぼせる隙もない。
胸元に返ってきたロケットを片手で押さえ、あからさまにほっと息をついたルーシーに伯爵は言った。
「僕に声をかける勇気があるなら、婚約者殿に直接尋ねてみてはいかがですか」
まったくの正論だった。
自問では答えが出なかった。安心はするが祖母の首飾りが答えをくれるはずもない。そもそもの元凶に話を突きつけるべきである。
死体となって血塗られ伯爵に嫁ぐと言い出す前に。話せれば良かった。終わりにして関わりを断ちたいと思うくせに、その勇気がルーシーにはなかった。
背中をそっと押してくれるような優しい言葉を、彼らに期待していたのだろうか。わからない。思考と感情がぐるぐると袋小路にはまっていると。
「ぺニング嬢。僕は好んで殺人はしません、が」
長い指を、人さし指をぴしりと立てたアイザックを、ルーシーは瞬きもせずに見つめた。本当に人形みたいだと感想を抱いた。
まるで死体みたいだ。
「ひとつ、方法を教えましょう」
ねえ、ジョージ。
美しくも可愛くもない、女性らしい魅惑的な体でもない私にあなたの興味がないことはわかっているわ。
それでも婚約を了承したのだから。
贈り物が欲しいとか、甘い言葉が欲しいとか、優しくして欲しいとか言わないから。
せめて私の目を見て話してくれないかしら。
ねえ、悪戯ジョージ。
私の目の色を知っている?
開け放たれた硝子戸に隠れるようにして待っていると、ほどなくして彼は姿を見せた。「ジョージ」と名を呼ぶと顔を向けてくれたが、いつも通りやはり視線は合わなかった。
ホールからの光でバルコニーの床にも影はできているが、その中に立っているとやはり薄暗くて互いの瞳の色など確認できるはずがなかった。
だがルーシーは知っている。彼は甘ったるいショコラみたいな瞳の色をしている。
ねえ、ジョージ。私の目の色は、何色だと思う?
ルーシーの顔を確認して非常に面倒くさそうな表情になった男に、問いかける前に勝手に失望しただけだった。
「ジョージ、私、体調がすぐれないの。今夜はもう帰れないかしら」
「こんな所に呼び出してまで、何をくだらないことを。さっさと帰ればいいだろう?」
「お願いよ。あなたは、私と結婚するのでしょう?」
まるで理解できない異国の言葉を聞くような顔をされた。もはや泣けもしなかった。
建前でも、「不本意だがそうらしいな」と言って欲しかった。こんな地味なのを妻にするのは嫌だなあ、どうにかならないかなあという顔をしないで欲しかった。
好いてくれなくても、妻という席につかせてもらえる。
それだけでも良かったのに、それもくれないならもう駄目だ。
だめだ。悲しいとか悔しいとか嫉妬とか嫌悪とかではなく、いつでも胸にあるこれはもうだめだ。
ルーシーは、コル=レオニス伯爵に詰めよった時と同じように踵を鳴らして足を踏み出した。
高い音がした。
ワガママな子供と対峙するより面倒だと顔に書いた男の胸に手を置いて、初めて近くで感じる香水の匂いをめいっぱい吸いこんでから唇をぶつけてやった。
色気もなにもなく痛いと思ったら吹っ切れたのか、男からの反応がない内に顎を両手でつかんで唇を噛んで舌をこすりつけた。
ざら、と粉っぽい感触をジョージ・リンドがどう思ったか知らない。もう知らない。
「ねえ、ジョージ」
愛してるわ。
「大っ嫌い」
最後は笑えたわ、笑ってやったわと言ったルーシーの顔色は悪かった。
夜を暴く照明の下でも青白く、アイザックが彼女を支えながら馬車寄せに姿を見せても、御者が不思議に思わないほどに自然だった。
エスコートで手をさしだす以上に、丁重に支えて労るように、馬車に乗せてから黒髪の伯爵は笑った。
「それではぺニング嬢。ーーーご機嫌よう」
アイザック。知っているかい?
そう呼びかけられて新聞から顔を上げると、見慣れた金髪の男がにこやかに立っていた。
「ついに君の渾名が『死神』になったよ!」
「『これ』を入れたのは誰ですか?」
「誰も歓迎してくれないから勝手に入ったよ」
「伯爵邸への不当な侵入ですね」
「面白い記事はあるかい。死神伯爵」
「いいえ」
リンド商会の道楽息子がパーティー会場で死んだことが嬉しそうに愉しそうに書かれているだけで、アイザックが興味ひかれる記事はなかった。
没落寸前の貴族令嬢が馬車の中で死んでいた記事など、小さくて探さなければみつからないほどだった。
だから、いいえと答えたのだ。