4.双子の謎
「パステルヴィッツ公爵令嬢の後を追ってきました。今日もお休みを貰ったので、朝から……」
居間の中央でハルトヴィン司祭は羊を抱えて悄然と立ちつくした。
「今日〈も〉?!」
「昨日もお休みを……一昨日も、一昨々日も、ええあの、七日前からずっとフロイライン・パステルヴィッツを見てました」
「わたくしが教会に行った次の日から?!」
ハルトヴィン司祭は恥じ入るように羊のもこもこした毛玉に顔を隠したが、エリート犯罪予備軍から隠れたいのはコンスタンツェのほうだ。
長椅子にふんぞりかえったダニエルの背後にまわりこんで、不測の事態に身構える。
「現行犯だな、破戒坊主。婦人の前だから罪名はあえて口にしないでおいてやろう。一緒に司法庁へ出頭してもらうぞ」
「は、破戒……?」
きょとんとハルトヴィン司祭は毛玉から顔をあげた。「いいえ違います違います。私はフロイラインに道を踏み外してほしくなくて……きっとこの女性は探偵を頼ろうとするのだろうな……と思ったら、いてもたってもいられなかった」
ハルトヴィン司祭は羊をよいしょっと絨毯におろしてから、生真面目な顔でおもむろにコンスタンツェに向かってきて、その両肩を掴んだ。
奥の窓際まで押し切られて、コンスタンツェは目を剥く。
「っ」
「いいですか、謎を解くことがどんなに御神の御意志に背くことか、ちゃんとわかってますか。わかってないんじゃないですかっ。御神はデモンの呪いに人間が苦しむことに胸を痛めていらっしゃる。謎を解けば現世は少しずつ魔に侵されます。謎を解けば解くだけこの世界に魔が入り込むのです。人間の力ではそれを防げない。けれどいつか、御神が全ての謎を解くため降臨なさいます。そのときすべての謎は解かれ、迷いなく明るく照らし出された私たちの魂は御神の治める〈完全王国〉に導かれる——」
長身のハルトヴィン司祭に圧倒されてコンスタンツェはまばたくことしかできない。
ハルトヴィン司祭の真剣な顔がどんどんコンスタンツェに迫った。
「人にできることは御神が来臨される日を待つことだけです。謎は謎のままにしなさい。デモンの手先である探偵などに近付いては、貴女の清らかな心までが汚されてしまう!」
「無能なんかじゃないぞ、こいつは。筋金入りの狂信者だ。後生大事に謎を抱いて死ねばいいのに」
ふんぞりかえったまま天井を仰いでダニエルが吐き捨てた。
「狂信者っていうか——」
そもそも教会人のエリートなのだから、狂信者ではなく、これが正しい信仰者なのだろう、とコンスタンツェは思う。
「火事のときに声を掛けられればよかったんです……でも大変な騒ぎで近寄っていけなくて……。女子修道会が空き室を提供できるそうです、どうぞ使ってください。貴女はずっと苦しまれてきたのだから、これからは教会で心安らかに暮らしていかれたらいい」
「どうもおかしな話だ。おい狂坊主、あんたは謎に困って免状の相談に来た人々をいちいち着けてまわってるのか? 暇か?」
「まさか! 違います」
押さえつけたコンスタンツェの瞳をじいっと見つめながらハルトヴィン司祭が否定した。
「じゃ何故、彼女を? 七日も仕事をサボって着けまわしたんだろう。彼女に他の人間と違うところがあったのか?」
「それは——その、ええと……わ……わかりません」
眉をひそめて混乱するハルトヴィン司祭の前で、コンスタンツェは同じように眉をひそめる。
「わかりません……が……貴女がいらしたあと、ずっと貴女の顔が頭に残って、何をしていても思い出してしまって、貴女の魂が禁忌によって汚れるのが心配でたまらなくなった」
「よし!」
ダニエルが快哉を叫ぶ。「イロ坊主、上司の大司祭長に突き出してやる。信者に劣情を抱くとは破門で済まない大罪だ」
はっとしたようにハルトヴィン司祭は両手をコンスタンツェから剥がし、後ろに飛びのいた。
「ちが、違います、違う……!」
ハルトヴィン司祭は嘘のないことを証明するように目を閉じて必死に聖文の祈りを呟き、神の愛を表す印を結んだ。
印のかたちを切る指に、大粒のルビーがきらきらと輝き余韻を曳く。
「ハルさん」
コンスタンツェにはハルトヴィン司祭の行動が、お人好しな彼の真心と信仰心からのものだとわかったので、親しみを込めてそう呼んでみる。
「心配してくださったのは嬉しいです。感謝いたします。(石なんか投げようとしてごめんなさい)——でも、わたくしは、謎を解きたいんです。教会に何を教えられても、諦めません」
すると。
立派な青年司祭の両瞳から涙がぽろぽろと流れおちた。
「あ、す、すみません。私としたことが——」
慌てて司祭服の袖で顔をぬぐって、ハルトヴィンが泣き笑いする。
「どうしても救えない魂というのはあります。私たち教会の至らなさです。もっと神の存在を身近に感じてもらうべきですね——」
うーん、そうじゃなくて。
価値観の断絶にコンスタンツェが途方に暮れていると、外で騒がしい足音がする。
誰かが玄関を乱暴に叩いた。
——司法庁のボダルト警部だ。探偵、ここを開けやがれ!
「今日はまたお客様が多いですねエ」
廊下の先で執事コボルトがドアノブに飛びつき、鍵を開ける音がガチャリと鳴った。
訪問者は誰もいない廊下に驚くはずだ。
「ボダルト警部……?」
コンスタンツェは聞き覚えのある名前に首を傾げる。
「ダニエル、知り合いなの?」
「いや?」
「警察が来たのよ、入れてしまっていいの? 探偵事務所を摘発しに来たんじゃないの……?!」
制服の警官を三人従えて、タイロッケンコートに無精髭づらのトリスタン・ボダルト警部が現れた。
「貴様が悪名高い探偵ダニエル・バルテルか? おいおい、ただのヤワそうな兄ちゃんじゃねえか」
片目を眇めて煙草をふかしながらボダルト警部は、威圧的にダニエルを見下ろした。
「十二課、通称〈冷や飯食らい課〉のボダルト警部。君の獲物ならそこで狂った妄想をぶつぶつ呟いているぞ。さっさと引き取ってってくれ。それくらいは三日警察にも出来るよね?」
「んだとコラ。警察ナメてんじゃねえぞ」
「トリスタン、乱暴な態度はやめなさい。そうやっていつもいつも汚い言葉を使うのもいけない」
穏やかにハルトヴィンが割って入った。
「てめえは黙ってろハルト! つかちゃっかり兄貴ヅラしてんじゃねえ、この色ボケ坊主がああ」
「だから、私はただ迷える魂を……っ」
「悪徳司祭の行状なら幾らでも法廷で証言してやるぞ、窓際警部。コンスタンツェという被害者と、証言者の俺が揃えば、謎の余地などない真実が話せるさ」
ボダルト警部が煙草の灰をわざとらしく絨毯に落とした。
「小賢しく取引しようってか、探偵の分際で。まあ、今日は貴様をしょっぴきに来たわけじゃねえからな。こっちに損はねえな」
つまり——つまりこういうことだ。ボダルト警部はハルトヴィン司祭の弱みを握ろうとして彼をつけまわしていた。結果的に、コンスタンツェをつけまわすハルトヴィンをつけまわすボダルト警部、という構図が出来上がり、探偵に引き摺られていく司祭の姿に事件性の匂いを嗅いでボダルト警部はここに踏み込んだ。
「駄目よ! 嘘をついて罪をでっちあげるなんて、わたくしは協力できない。免状のためだとしても嫌よ。そんなことより、さっき……兄貴っておっしゃった?」
部屋の真ん中の長椅子でダニエルが両腕をひろげる。
「見てわかるだろ。彼らは双子だよ。警部のほうは頭を黒く染めて無精髭まで生やして印象を変えようとしてるがね。涙ぐましい努力を感じるが、髭までは染められないので地毛は銀髪だろうとわかるし、無理に変えているところ以外は瓜二つだよ。まったく、一日で二組も騒がしい双子にまとわりつかれるなんて、厄日だな」
「双子の、兄弟? 兄弟がなぜ、こんなことしているの?」
コンスタンツェは信じられなかった。
ダニエルに解説された上でトリスタンを見ても、ハルトヴィンと同じ顔にはぜんぜん見えなかったし——トリスタンは不快げに頬を歪めきっていたからかもしれないが——、何よりも、家族同士でどうして逮捕するだのって話になるのだろう?
(大事な、家族でしょう……?)
「私にはトリスタンがどうしてこうなってしまったのかわかりません」
「何でもかんでもカミサマ頼りのてめえに理解られてたまるかってんだぜ……」
ダニエルがまだらの金髪に両手をつっこんで耳をふさいだ。
「やめてくれ。俺の家で面倒な兄弟物語の披露は勘弁してくれ。コンスタンツェも余計なことを訊かないでくれ。家族内の確執や揉め事に謎解きの価値なんかないんだからな」
執事コボルトが気を利かせてティーの用意を運んでくる。ティーポットと七人分のティーカップの乗った銀盆が“ひとりでに”ゆらゆらと宙を滑ってくる光景に、警官たちが口をぽかんと開けた。
「ボダルト、と言ったね。君たちはボダルト議長と関係があるのか」
ふと持ちあげられたダニエルの闇色の瞳に、鋭い光が煌めくのをコンスタンツェは見た。
トリスタンが舌打ちしてあさってを向いた。
「ウルリヒ・ボダルト議長は私たちの父です」
ハルトヴィンはそう訊かれることに慣れているように答えた。
「道理で。君の年齢で副司祭長の地位にあるのはなんらかのコネだろうしさ」
平然と無礼なことをダニエルが言う。
そして。
「いちおう訊いておくが、君たち兄弟のどちらかが、コンスタンツェの邸——十七年住んでいたほうの邸が燃やされた件に関与しているということは?」
短くなった煙草を壁紙で揉み消しながらトリスタンが目を細める。
「はあ? ……邸? じゃあ、ハルトがぼけっと見てた火事現場、フロイラインの邸だったのか?! 登記を調べたが、パステルヴィッツじゃなかったぞ」
ハルトヴィンのほうは、何を問われているのかわからないという顔をしている。
「君たち兄弟それぞれに身の上を話して一週間後に放火事件が起きた。コンスタンツェが自分の身の上を知って外界に出たのは君たちに会った日がほぼ初めてだったんだ」
生まれつきの純粋な心で生きているハルトヴィンに、トリスタンが意地悪い表情を向けながら噛み砕いてやった。
「オレかてめえが犯人どもと繋がってるんじゃねえのか、と探偵は言ってるのさ」
「繋がっていてもこの場で白状はしないだろうがね」
それを聞いて低く笑いながら、トリスタンは新しい煙草をくわえてダニエルに向きなおった。
「無理はねえな。……オレも本気で公爵令嬢の事件を解決したくなったぜ。疑われるのは胸糞ワリぃからな」
煙草に火をつけ、振り消したマッチを紅茶の注がれたばかりのティーカップに放り込む。
「おおなんという野蛮なお客人ッ。そちらの紳士はマナーをご存知ないのですかネッ?」
ぷりぷりと執事コボルトが怒りだしたが、客たちには見えていない。
「私は、ヘルツォージン・パステルヴィッツのお話を誰にも話してはいません。ただ、聖別免状の申請はすべて記録する決まりなので、住所氏名も伺いましたし、伺ったことすべて記入した申請書類を作成して保管庫に収めてあります。保管庫を開けるには担当責任者である私の許可が要ります」
「〈ことなかれ教会〉らしいお役所仕事だ」
「記録された〈謎〉はいつか降臨される御神によってすべて受理され、解き明かされることになっています」
コンスタンツェに向かってハルトヴィンは希望を持たせるように真摯に言った。
いつか。
いつかすべての謎を、神様が解いてくださる。
だからそれまで人間は、この環の中の街で、真実から目をそむけて生きていけばいい。嘘に守られていたころのコンスタンツェのように——。
謎を暴きたてる探偵と一緒にいたら、何もかもを疑わないといけない。何も信じられなくなっていく。
「ハルトヴィン司祭、取引をしよう。俺は近いうちにボダルト議長に会いたいと思っていた。コンスタンツェの事件とは無関係な、個人的に調べていることで少し聞きたいことがあるだけなんだけどね。ついでのときでいい、『ダニエル・バルテルという探偵が会いたいと言っている』と伝えておいてくれないか。議長の返事は必要ないよ、こちらから勝手に赴くからね」
——それでコンスタンツェにつきまとった件はチャラだ。
きわめて優雅かつ傲岸不遜にものごとを収束させ、ダニエルは面倒な双子たちを探偵事務所の小さな居間から追い払った。