3.旋律の謎
その依頼人は、美しい喪服の未亡人と双子の子供だった。
「昨日は依頼をどうも。これは助手のコンスタンツェです」
と適当に紹介されてコンスタンツェは目を剥いた。
「じょ……っ」
「おそらくぜんぜん大した謎の予感がしないのでとっとと片付けて帰らせてもらいますよ。やあ、今日もガキは揃って同じ顔だな。俺は双子はどうも苦手なんだ。一匹でもガキは充分うるさいのに二倍がけなんて勘弁してくれ。これが貴女の仰った〈謎〉ですね?」
〈謎〉とみれば突進型のダニエルは、優雅かつ乱暴な足取りでずかずかと小さな共同住居の居間にあがりこむ。
「ファとシの音が鳴らないんでしたね」
壁につけて置かれた古いアップライトピアノの蓋を開ける。
「はい。何度も修理してもらったのですが、どうしても直らないんです。どの修理師さんも、仕組みに欠陥はないからこれで鳴らないはずはないと不思議がって……。部品を新しくしてみても駄目でした」
新しいのを買えばいいのでしょうが、とてもそんな余裕はなくて、だけれどどうしても子供たちにピアノを触らせたいのです。主人は音楽家でした。病気をしてからはまともに稼げなくなって……でも本当に才能のある人だったんです。
「治療費のために家財は全部……前の家にあったピアノも売って、主人が亡くなったあとにこの小さなヴォーノンクに越してきました。大家さんによれば、この部屋のピアノは古くて飾りにしかならないから焚きつけにでもするしかないと……」
ダニエルは黄ばんだ鍵盤に右手を置くとゆっくりドレミの音階を鳴らして昇り、最高音のドからふたたび降りて最低音のラまで鳴らした。
全てのオクターブでファとシだけが鳴らない。
ダニエルの右手はもういちど鍵盤を往復した。
コンスタンツェはその脇腹をつんつんと突いた。
「ピアノなんて修理できるの?」
「いや?」
「じゃあ……」
「でも謎なら解ける。ものすごく得意だ」
「ちょっとまさか、またその靴で蹴っ飛ばすつもり……!」
青ざめるコンスタンツェを無視してダニエルはふりかえった。
「奥さん)、これはいわゆる〈謎〉ですよ」
ダニエルはコンスタンツェに耳打ちした。「片眼鏡を覗いてみろ」
何を言っているのだろうと戸惑いつつコンスタンツェは言われたとおりに片眼鏡を引っぱり出した。
「——!」
レンズ越しに見てみたら、ピアノのあちこちに小鬼が群がっている。
執事コボルトよりも二回りくらい小さい裸の小コボルトだ——。
コンスタンツェは慄いてピアノの前から飛びすさった。
「あの……レーツェルには触らないほうがいいのでしょうか、やっぱり……」
不安そうに未亡人が双子たちの肩を抱きよせた。
「この程度の小さなレーツェルでは、不幸と言えるような不幸は降りかかりませんよ。仕掛けられたイタズラによる迷惑のほうが上回る。それに、謎を解いて呪いを受けるまでが探偵の業務ですからね、その点ご心配なく」
ダニエルは椅子を持ってきてピアノの前に座った。
「ファとシは不安を感じさせる音、とされてる。中世の、まだ平均律じゃなかった頃には特に、ファとシの不協和音は〈デモンの音程〉と呼ばれて忌み嫌われていたんだ」
鍵盤の上に正しく揃えられたダニエルの両手が、一瞬の静止のあとに、なめらかな旋律を奏ではじめる。
「その頃の音楽はファとシを抜いた音階で作られたものが多い」
その、旋律は——。
殺風景な居間を充たす柔らかく温かな音の粒の色に、コンスタンツェたちは言葉を忘れてしまった。
哀愁があって、優しい音色の、音楽——。
どこか懐かしいような、旋律。
「おそらくコボルトたちは懐かしいこの音楽を聴きたがって、ファとシを鳴らなくしたんだ。ご主人が生きていれば簡単に謎を説いたでしょうね、きっと探偵なんかの出番はありませんでしたよ」
コンスタンツェの手に握りしめられていた片眼鏡が、溶け出しそうな熱を持ちはじめた。呪いの動く気配を感じてコンスタンツェはコボルトたちをレンズ越しに覗いた。
コボルトたちはうっとりと瞼を閉じて発光していた。
発光——金環月食の環のような、闇と光のまだらが、コボルトたちの輪郭をおぼろにしていく。
美しい中世の音楽が終わりに近づくと、コボルトたちはみな消えていった。
闇と光のまだらが霧のように流れて探偵ダニエル・バルテルの静謐な横顔をなでた。
闇が消え、光のみが残る。
否、闇は光に喰われてその血肉となる。
はっとしてコンスタンツェはレンズを下ろす——。
「これからもできれば時々、こういう曲を弾いてやるとデモンも喜ぶ……まあ喜ばせてやる必要もないんだが」
曲を終わらせた指が虹を渡らせるように七音の音階を上から下まで行き来する。
すべての音が完璧に鳴り響いた。
「ぼく練習するよ!」
「あたしもあたしも!!」
興奮した子供たちから逃げるようにダニエルはさっさと玄関に引き上げていく。
それを追いかけるコンスタンツェの視線はダニエルの横髪にじっとそそがれる。貧しく老朽した集合住宅の中で場違いな気品に輝くダニエルの金色の髪に、ひとすじの闇色。彼の容姿を謎めかせるまだらが、心なしか……。
増えた?
(いいえ、気のせい?)
「ダニエル……あなたのお父様も音楽家?」
「違うよ。何でだ?」
怪訝そうにダニエルがふりかえった。
「今のピアノ……」
ヒルダの鬼監督の元、コンスタンツェは猛練習してピアノを身につけさせられた。小さい頃から音楽教師について真面目に練習しないと、あんなふうには弾けない(とコンスタンツェはヒルダに言われて育った)。
それに、知識も——。
「何だ、あいつは」
未亡人一家のお礼から逃げるように通りへ出たダニエルが、立ち止まった。
肩越しに視線の先を覗いたら、通りの向こうにいたのは変質者、……ではなくて。
「司祭さま……?!」
見覚えのある〈ことなかれ教会〉の青年司祭が羊を抱いてうろうろしている。チラチラとこちらを伺っていた彼は、二人の視線に気づくと慌てて街灯の陰に隠れた。
ぜんぜん目立ってるけれど。
メエメエ鳴いているし。
「あれがシュテファン大聖堂の副司祭長? 家出したおのぼりさんの羊飼いにしか見えないが」
見るからに高位な白装束の青年が、うろたえるにもほどがある慌てっぷりで街灯の陰からきょろきょろしている様子は、街の人々の注目を浴びていた。
「ここは見ないふりをしておけ」
そう言ってダニエルは辻馬車を止めて乗りこんだ。
「やっぱり後ろを着いてくるぞ」
そっとふりかえると、少し離れた距離をたもって司祭服の青年と羊を乗せた辻馬車が追走してくる。
ヨーゼフシュタット通り21番地の探偵事務所に着いて、ダニエルはいったん共同玄関の中に入った。
覗き窓から外を見る。
「探偵に転職するつもりなら尾行のイロハを叩き込んでやりたいね」
玄関ドアを開けてつかつかとダニエルが通りを渡っていく。コンスタンツェは嫌な予感がして追いかけた。
「何か用か、くそ坊主?」
粗暴な口調とうらはらに、優雅をきわめた仕草でダニエルは帽子を掲げて会釈した。
「あ……」
「コンスタンツェ・フォン・パステルヴィッツの後を着けてきたのか?」
思いっきり目を泳がせてハルトヴィン司祭は震えている。
「いや……あの、散歩を」
「ずいぶん健脚な羊だな」
「す、すみません嘘です!」
エリート司祭は虚言の禁を破ったことに早々と耐えられなくなって白状した。
魔物なのか天使なのか紙一重の微笑みを見せたダニエルが、有無を言わせず事務所にハルトヴィン司祭を連行した。コンスタンツェの嫌な予感は的中した……。
もしも司祭が抵抗していたら、司祭か無辜の羊のどちらかが〈全自動完全型珈琲淹れ機械〉と同じ運命を辿っていただろう。