3.教会の謎
「そのあとわたくしは、天環教会に行ったの」
◆◆◆
《天環教会》――。
別名ことなかれ教会。
天をつく尖塔のそびえる大聖堂の入口にコンスタンツェは立っていた。
『萎縮することはないわ。わたくしはコンスタンツェ・フォン・パステルヴィッツ。もう何者でもなかった間抜けなこどもじゃない』
内緒で窯元に出かけたときの格好はひどいものだったと思うが——外に出たことがコンスタンツェはなかったから……——今日の支度はヒルダが整えてくれたので、いっぱしの令嬢に見えるはずだ。
『あの、何か、何か御用でしょうか。フロイライン……?』
遠慮がちな男の声にコンスタンツェはふりかえった。
目の覚めるような美貌の青年が立っていた。白地に金糸の刺繍で〈天の環〉の意匠の入れられた司教服をまとい、メエメエと鳴く羊をつれた銀髪の青年が、おずおずと首をかしげてコンスタンツェを窺っている。
ちょうど散歩から帰ってきた、という感じで。
『こちらの司教さまですね。わたくし、聖別の免状をいただきにまいりましたの』
ずいぶん若く見えるが、位階の高い司祭だろうか。散歩用の綱をにぎる青年司祭の指に、葡萄酒色のルビーの指環が嵌められている。コンスタンツェは四角ばった銀枠の中で異様に輝くルビーの光にひととき目を奪われた。何だか、どこかで見たことのあるような指環だ。でも、どこで?
青年司祭はコンスタンツェの言葉を聞いたとたんに心から気の毒そうな表情を浮かべ、すぐにそれを飲みこんだ。
『う、聖別の免状……あのでは、お話だけいちおう聞きますね……』
『いちおう?』
コンスタンツェは眉をもちあげる。
『いやあの、はい真面目に聴かせていただきます……』
『わたくし、パステルヴィッツ公爵家の相続人としてここに来ています。いちばん偉い方にお会いできますか?』
インネレシュタットで一番大きいシュテファン大教会の長にいますぐ会わせてほしい、とコンスタンツェは言っているのだった。
『大司祭長はいま地方へ視察旅行に出ていまして……いちおう二番目は副司祭長の僕なので……っ』
羊に引っぱられるように青年は大聖堂の中に入って、コンスタンツェを案内した。
『いちおう?』
『まだまだ未熟者なので、僕は……。あ……僕はハルトヴィン・ボダルトと言います。ハルでいいですよ……』
大聖堂の隅にぽつんと置かれた箱のような小部屋の中で、羊を抱えたハルトヴィン副司祭長が対面席のコンスタンツェと向きあった。
『この相談室は声が漏れないように造られていますので、狭いですがお許しください……』
月光に輝く夜露のような銀髪に、澄んだ静謐な青い瞳。
本の挿絵に出てくる美神のような青年なのだが、ハルトヴィン・ボダルト副司祭長はどこまでも頼りない雰囲気を全身全霊から醸し出していた。
しかし、この若さで副司祭長とは結構なエリートだと思われる。
コンスタンツェはあらかじめ練っておいた理路整然さでパステルヴィッツ公爵家を襲った悲劇の歴史を説明した。
そして熱弁した。
——パステルヴィッツ公爵一家消失事件は謎でもなんでもない。血塗られた〈事件〉なんです! わたくしは両親とお祖母様の無念を晴らすために、許しがたい犯人たちを追いつめるための免状をいただかなければなりません!
『残念ですが、その謎に聖別の免状は発行できかねます……』
『なんですって』
コンスタンツェは驚愕した。
『す……すみません……』
『どうしてですの?! だって私の両親とお祖母様を殺したのは人間なんです。これはデモンが置いた謎じゃないのよ? 人間が起こした事件なのに!!』
『……すみません……でも、でもですね……デモンは人間にとりついて事件を起こすこともあると伝えられているので……。二十年近く迷宮入りの〈謎〉として固まっていた事件に免状を出した前例は、僕が知るかぎり無いんです』
心の底から気の毒そうな顔をしながら、ハルトヴィン司祭は長身を椅子の上で小さく小さくちぢめた。
『プリースター・ハルトヴィン。わたくしは両親と祖母を殺されたんです。わたくしはその犯人を探し出して、わたくしの家族を襲った悲劇の理由を問わねばならないんです。それがわたくしの義務なの。あなたにだって、家族がいらっしゃるでしょう? わたくしと同じ目にあえば、同じことをなさるはずだわ』
『申し訳ありません……無理です……』
メエメエ鳴く羊の声に、馬鹿にされている気がしてきた。
『そう——わかりましたわ。お若いのに優秀なこと、プリースター・ハルトヴィン。ものの本によく書かれていることは本当ですのね。“この社会で優秀であるということはすなわち、ことなかれ主義であるということだ”』
コンスタンツェは憤激して立ち上がった。
シュテファン大聖堂の外に出るとコンスタンツェは地団駄を踏んで叫んだ。
『あの〈ことなかれ司祭〉……! 綺麗な顔してどれだけ無能なのかしらっ!!』
車道に降りて馬車に乗り込もうとするときも全くぜんぜん怒りがおさまらず、足元にちょうどいい石ころを見つけてしまったコンスタンツェは思わずそれを拾い上げていた。片手に握って大聖堂の壮麗なステンドグラスをふりあおぐ——。
『——っ』
頭上に振りかぶった手をとつぜん強く掴まれ、コンスタンツェははっとした。
『器物破損、現行犯逮捕ってか? フロイライン、ちっとオイタが過ぎるんじゃねえかな』
青くなってコンスタンツェは声の主を見上げた。
煙草を咥えた無精髭の若い男が、がっちりとコンスタンツェの腕を掴んでいる。
『べ、べつに投げようとしたわけじゃ』
『まあ、嬢ちゃんのへっぴり投げじゃあ、あんな高えとこまで届かねえよな』
薄ら笑って男はあっさり腕を離した。
皺だらけのタイロッケンコートに腕章をつけた黒髪の男。男は私服だが、背後に制服の警官を従えているのをみると、本物の官憲であるらしい。
『本当は投げようとしたんですけど』
目をそらしてコンスタンツェは呟いた。
『あんたさっき、羊をつれたマヌケづらの司祭と中に入ってったよな。ヤツに何かエゲつねえことでもされたなら話ィ聞くぜ。むしろ話してくれねえかな』
『え……?』
『ずっと張ってんだよ。どうにかクソッタレ教会の弱みを握れねえかなって。羊のフンでも落っことしてくれりゃあ無差別傷害罪で引っ張ってやるんだがな。その身柄とひきかえに免状の十や二十はぶんどってやる』
『羊の粗相でどうやって傷害罪に……?』
『こいつに滑って転んでアタマかち割ってもらう。名誉の負傷ってやつだぜ』
親指で差された警官が、すかさず敬礼を返した。
……つまりそれくらい、警察と〈ことなかれ教会〉は仲が悪いのだ。
というより、警察はいつも一方的に煮え湯を飲まされている立場だ。
事件解決が警察の存在意義なのに、聖別の免状が出なければ捜査は三日で止められてしまう。自首か、現行犯か、よほど単純明快な事件しか、インネレシュタットでは解決に至らないのである。
『〈パステルヴィッツ公爵一家消失事件〉?』
利害の一致する相手と見込んだコンスタンツェの説明に、男が眉を大きく上げる。
『そいつはまたデカいヤマだな』
『ここで免状をいただいてすぐ司法庁に持ちこむつもりだったんです』
『俺は司法庁捜査部第十二課のトリスタン・ボダルト警部。トリさんと呼んでくれ。そいつをぜひ担当したかったぜ。にしてもあんのクソマヌケ野郎……無能すぎるだろーが!』
吐き捨ててトリスタン警部は大聖堂を鋭い目つきで睨みつけた。
咥えた煙草の火が闘志の朱色にめらめらと燃えさかる。
彼はコンスタンツェに、顔見知りの探偵の名前と住所をいくつか教えてくれた。
『白紙免状を確保したら真っ先にフロイラインの事件、動いてやるぜ。羊の下痢とクソマヌケ野郎のヘマを祈っといてくれ』
敬礼してコンスタンツェの馬車を見送るトリスタン警部の青い瞳は、意外なほど澄んでいて凛々しかった。
タイロッケンコートのベルトにぶらさげられた小さな銀製の神像が、ゆらゆら揺れて太陽の光をきらりと撥ねかえした。
(ボダルト……? どこかで聞いたような名前だわ。どこだったかしら?!)