2.永遠の謎
ビンゲンの街の丘に建つクロップ城——楡の木の下を通ってコンスタンツェたちは中庭に案内される。
立てた日傘の下で、老いた白髪の貴婦人が午後の時間を過ごしている。珈琲カップを手に、庭を横切る野生のアヒルの行列を眺めて微笑んでいる老貴婦人のもとへ、コンスタンツェは歩きだした。
その手に、大切な預かりものを握りしめて。
「お母様、ただいま。お元気そうでいらっしゃいますわ。今回の里帰りはあたくしの家族も連れてまいりましたのよ」
アマーリア皇妃が親愛のキスをしてエリーサベト王太后の小さな身体を抱きしめる。
エリーサベト王太后は珈琲カップを持ったまま、皺に覆われたつぶらな目をぱちぱちとしばたいた。
「あら、熱心なおともだち。あなたわたくしの娘のアマーリアに似ているわね」
「アマーリアですわ、お母様」
「アマーリアは元気にしているかしらね。心配だわ。あの子はちょっと変わった男に嫁いだからね」
「元気で幸せにしております。さいきん本当に嬉しいこともありましたし。ええ、変わった夫が変わらずに帰ってきましたの」
「義母上ーっ!」
空いている椅子の上でぴょんぴょん飛び跳ねながらファオが存在を誇示した。「忘れてるかもしれませんがぼくはあなたの甥っ子でもありますよーっ! 父の葬儀以来です。あれから、お互いだいぶん縮んじゃった!」
ダニエルが後ろから襟首を掴んでファオを引き摺りおろした。
「あたくしの息子をお目にかけるのは初めてでしたわね、お母様?」
アマーリアに促されてダニエルは、一分の隙もない王族の所作で祖母の手に敬愛のキスを捧げた。しかし——。
「熱心なおともだち。これがあなたの息子さん? あらあ、野兎みたいに茶色いのね」
いつもの地味な茶色づくめを通しているダニエルに、言われてみると的確な表現をエリーサベト王太后は与えた。
思わずコンスタンツェはあさってに向かってくすくすと吹き出してしまう。
「それから、パステルヴィッツ公爵のお嬢様が来てくださいましたのよ。お母様、きっとお懐かしいわね」
「あの借金で首を吊った可哀想な女公爵の娘さん? あのひとは気の毒でしたよ。小さい頃から継母に苛められて、ご自身の顔を醜いと思い込んでしまったの。それで、主食を真珠にするやら、宝石風呂やら、……処女の生き血を塗りたくったなんていうのはさすがに悪意のある噂でしたけれどね」
「マクシミリアン・カール・フォン・パステルヴィッツ」
と、ダニエルが祖母の瞳を見据えて言う。
「マクシミリアン? ああ、そういう名前の画家がむかし流行ったけれど、今は元の形をわからなくしたようなでたらめな絵が新しい流行ですからね。〈謎画派〉って言うのだったかしら」
コンスタンツェの隣まで後ろ歩きで下がってきてダニエルがこそこそと耳打ちした。
「もうとっくに呆けて——」
「ダニエル!」
コンスタンツェはダニエルを軽く睨みながら、手に持った銀製の神像に巻きつけてある絹縒りの紐をほどいた。
神像は、暴発したボダルト議長のピストーレの弾丸が当たったとき、二つに割れてしまった。
コンスタンツェの命を救った偶然の奇跡……。
割れた神像の中には、砕かれたダイアモンドの欠片が納められていた。
ヤハロームのダイアモンド。
オデムによってヤハロームのダイアモンドはそこに封印されていたのだ。
神像には〈謎〉の魔力がかかっており、強固な殻の役割を果たしてヤハロームの残骸を閉じ込めていた。
二度とその愛の記憶が、外の世界に漏れ出さぬようにと。
コンスタンツェは綺麗に割れた亀裂に爪を立て、ぱかりと神像をひらく。空洞に詰められたダイアモンドの細かな欠片を手のひらに受けとめる。
「ダニエル」
慎重に、零さないように差し出した手のひらの上に、ダニエルが彼の右手をかざす。
そっと二つの手を重ね合わせる。
「ファオ、準備が出来たわ」
芝生を走りまわっていたファオが、重ねられた手と手のトンネルの下に滑り込んでくぐり、勢いよく跳び上がって親指を立てた。
ぶかぶかの指環がぐるぐる回る。
魔石のルビーがゆらゆらと蠢いて輝く。
変化はダイアモンドより先に、ダニエルに起きた。彼の髪を染める闇色が、薄れてゆく……。ファオが用いるオデムの魔力を媒介にして、〈謎〉を解くたび彼の中に吸収されていたデモンの魔力がダイアモンドの欠片に流れ入る。みるみるうちにダニエルの髪のまだらが薄れ、しなやかで柔らかな金色がよみがえってゆく。
王宮騒動ですでに半分以上も闇色に染まっていた髪は、魔法で洗われたように眩く明るい生来の色に戻った。
「あなたの考えていることわかるわ、ダニエル」
「へえ?」
「これでまた〈謎を食む〉ための胃袋に空きができたな、しめたぞ。って思っているのよ」
「それもそうだが」
「他にも何か?」
「君の手はひんやりしてるな」
コンスタンツェは急に恥ずかしさを覚えて頬をあかくした。
「どうしてそこで紅くなるんだ?」
探偵の観察眼でコンスタンツェを眺めているダニエルが、怪訝そうに眉をよせて訊く。手の温度だって探偵にとってはただの情報にすぎない。
「な、何でもないの。見慣れないのよ、まだらじゃないあなたが」
「じゃあ〈謎〉をくれ。なるべく解くのが難しいやつを」
柔らかでさらさらした純金色の髪の皇太子殿下に微笑われると、からかわれているのか真面目な要求なのかわからない。見つめれば見つめるほど心が混乱してくる理由も不明で、〈謎〉ならここに、いま胸の中にあるんだけど、とコンスタンツェは思っていた。
二人の重ねる手の中で七色の輝きが弾けた。
コンスタンツェはふと新しい気配の生まれた傍らを見上げた。
そこには純灰色の瞳と髪の色をした美しい青年が立っている。
青年はまっすぐ前方を見つめて、重力に推されるように歩きだした。
「じゃあまた後で、お母様」
母の元を離れるアマーリアと入れ替わりに、青年はエリーサベト王太后の足元に跪いた。
「エリーサ」
皺々の痩せた手をとりあげて、青年は老いた貴婦人の瞳を見つめながら、乾ききったその手のひらにくちづけた。
「あら、まあ。あの世からのお迎えでもいらっしゃったのかと思いましたよ。わたくしももういつ逝ってもおかしくはありませんからね。絵に描いたように綺麗な坊っちゃまだこと」
ぱちぱちとつぶらな目をまばたき、相手を安心させるように何度かうなずく。「大丈夫ですよ。おねしょ癖なんてじきに治りますからね。平然としていればいいんです」
片手の珈琲カップをテーブルに戻して、エリーサベト王太后は孫をあやすように青年の頬や首筋を撫でた。その表情には漂白された穏やかな親しみだけがある。何の意味も情熱も隠されてはいず、人生を生ききって辿り着いた無痛の平和さに満ちていた。
されるがまま、青年は熱のこもったまなざしでエリーサベト王太后を仰ぎ見つづける。
「エリーサ。僕だよ」
「お若い方はよく運動なさるから、喉が渇くでしょうね。珈琲でもいかが。わたくしは若い頃からお茶よりも葡萄酒よりも珈琲、という女でした」
「知ってる。葡萄酒を飲むと泣きたくなるから、ずっと珈琲を飲んで醒めていたいと言ってた」
「皇女や王妃の仕事は夜ごとに華燭の下で葡萄酒を片手に笑っていることですよ」
「きみの本当の笑顔を知っていたのは僕とマクシミリアンだけだ」
遠い目をしてエリーサベト王太后が楡の木の向こうの空を眺めた。
「マクシミリアン……あのひとも歳をとったでしょうね……ずいぶん会っていないわ。今頃は、彼に似て賢く優しく成長したご令嬢の絵を描いているのかしら」
「ああ、きっと……」
彼女の両手を額に押し戴いて青年は声を震わせた。
「手紙をあまりくれなくなって。わたくしたちのこと、怒っているのかしら」
「違うよ。彼は僕らのことを、ずっと愛してくれていた」
「恋するって気持ちがわからないんだ、なんて、大間違いで馬鹿げた自己評価よね。あんなに愛情深いひとはいないのに」
「エリーサ」
青年が次に顔を上げたとき、そこにはエリーサベト・マティルデ皇女の愛に輝く瞳があった。
「ヤハローム」
凍結されていた感情が流れはじめる。
彼は彼女の白髪に手を触れ、その頭を抱えるように背を伸ばす。
互いを求めてやまない魂の距離を縮めるように恋人たちは瞳を近づけた。微笑みあい、焦らしあい、そして恋して滾る心のままに見つめあい。
永遠の愛に溶けるくちづけをかわした——。




