2.女神の謎
「ファオ! ファオ、どこなの?!」
——あなたが呼びかけただけで壊れてしまうものは、なあに?
「……誰?」
コンスタンツェは青銅像のモニュメントが建つ中庭の中央で首をめぐらせた。いま誰かの声がした。誰かの囁くような声が……。
——あなたが呼びかけただけで壊れてしまうものは、なあに?
すぐ後ろから声がした。
「っ……」
誰もいない。
濃い霧が、視界を遮る。警護の警官たちの追いかけてくる足音がさっきまでしていたのに、霧の中で途切れるように消えた。
「皆、どこに……?!」
——あなたが呼びかけただけで壊れてしまうものは、なあに?
また背後で声がして、コンスタンツェはふりかえった。
青銅の立像と目が合う。
四人の女神に守られた若き王様が、手を差し出して見下ろしてくる。モニュメントの台座には『私の愛は民衆に向けられている』という言葉が記されていた。乳母のヒルダの監督のもと、家庭教師について歴史を勉強していたときに習った記憶がある。それは、この国の初代皇帝の言葉だ。
「呼びかけたら壊れてしまうもの……? ええと、ええと……し、信頼関係、とか」
コンスタンツェが十七歳の誕生日に過去に向かって呼びかけたら、それまで当たり前だったヒルダとの混じり気のない信頼関係ががらがらと崩れ落ちて壊れてしまった。
——答えは『静寂』!
(……なぞなぞだったの?!)
ピン……ッ、と耳元で空気が張り詰めて、霧の流れる音さえ聴こえなくなった。
鼓膜が痛むほどの静寂にコンスタンツェは取り残される。
密度を増して迫りくる闇色の霧にのまれて、何も見えなくなる。自分の呼吸の音さえ聞こえなくて。恐怖が喉をしめつけた。声が出せない。
「——」
闇雲にコンスタンツェは駆けだした。
そうじゃない。そうじゃなくて。なぞなぞじゃなくても、コンスタンツェは答えを間違えた気がする。
(わたくしは、ヒルダを愛しているわ……今でも、ヒルダが大好きなのに……)
——本当に?
囁き声が追ってくる。
——本当はヒルダを恨んでいるのじゃない? 本当は許せないのよね? お祖母様もお母様もお父様も、ヒルダが手引きしたから不意をつかれて碌な抵抗もできずに殺されてしまったのよ? 毒を飲まされてとてもとてもとても苦しんだのよ……?
「(いや! やめて聞きたくない!!)」
叫びは黒い霧に吸い込まれて音にならない。
何も聞こえない。何も見えない。
コンスタンツェは自分が今どこをさまよっているのかわからなくなっている。
(誰か……皆、どこに……どこに……ファオは……)
がむしゃらに走って、ぶつかりながら開いた扉の向こうに、煌々と輝く舞踏室があらわれた。高い天井からぶらさがる幾つものシャンデリア。磨きぬかれた飴色の床にオレンジの炎がゆらゆらと映る。
——食べれば食べるほど貪欲になるが、すべてを食べ尽くすと死んでしまうものは、なあに?
がらんどうの舞踏室に、わんわんと〈謎〉の声が響きわたる。
「それは……謎を食んで謎の闇に呑まれてしまうダニエルのこと……?」
ダニエルとははぐれてしまった。アマーリア皇妃との約束があるのに、このままでは助手として彼を見張っていることができない。
——正解は、『火』!
床に映る炎が吹き上がって火柱となる。
「……っ」
灼熱をともなう火の海の只中で、コンスタンツェは立ちすくんだ。
「熱……あつい……っ」
両腕で顔をかばっても、目の眩む火焔に涙が出てくる。熱風に、いやおうなく追い立てられる——。ひるがえったドゥンケルの髪に炎の舌が絡みつき、焦げた匂いと黒い煙が昇った。咳き込みながらコンスタンツェは活路を探した。火柱の合間をくぐりぬけて舞踏室から転がり出た。
(ダニエルに合流しなきゃ。こんなにも悪意に満ちた〈謎〉の力に、ダニエルを関わらせてはいけないわ……!)
もしもこの力が、彼の中に流れ入ったら……。
——前にいると中にいて、中にいると前にいる。それはなあに?
「わからないわ! もうなぞなぞは沢山よ! 謎を解いたら不幸にするくせに、間違えても散々な目に遭わせるなんて!!」
——前にいると中にいて、中にいると前にいる。それはなあに?
「もうやめてってば! ここはどこ……?!」
その部屋に飛び込んだとき、コンスタンツェは既視感を覚えた。
何故だろう。
つい最近、こういう匂いのする秘密の場所に入り込んだことがある気がした。
人間がくつろいだりおしゃべりしたり踊ったりするための部屋ではなくて、ひっそりと宝物が出番を待っているような、禁断の密室——。
「前にいると中にいて、中にいると前にいる。それはなあに?」
すぐそばから子供の声がしてコンスタンツェは飛び上がるほど驚いた。
「ファオ!」
コンスタンツェの腕を取り、紅色の頭を傾けて見上げているのはファオだった。
「よかった。無事でいたのね……酷いことされていない?!」
コンスタンツェは膝をついてファオを抱きしめ、怪我や涙のあとがないかどうか確かめる。
「ごめんなさい、ファオ……わたくしの事件に巻き込んでしまったの……」
抱きしめるコンスタンツェの腕の中から、身じろぎしてファオが背後の壁を仰いだ。
「——あれだよ、コンスタンツェ。答えは鏡だよ」
ファオが指差すほうをつられて見上げて、コンスタンツェの視線は壁にかかった一枚の絵に吸い寄せられた。
「鏡……?」
ああ、鏡だわ、とコンスタンツェは一瞬後に納得した。
絵の中の裸体の女神は右手に手鏡を掲げている。
黄金の装飾枠にかこまれ、幻想的な青色を背景に、ドゥンケルの髪を裸身に波打たせた女神が手鏡を片手にしてこちらを睥睨していた。
誇り高い表情の女神——その足元には一匹の黒い蛇が絡みつく。
「《ヌーダ・ヴェリタス》という名の、帝国の至宝だ。あまりにも美しい絵に心をとらわれたデモンが——ラピスラズリのショハムが、この絵に〈謎〉の力を与えた。乙女の持つ鏡は、真実を判定する力を持っている」
絵の下に立って、ファオが言った。
「この絵の前で事件の核心を言い当てれば、すべての謎が解けるだろう。君は真実を手にすることができ、犯人はレーツェルの摂理によって断罪される。相応の報いを受けるんだ」
「ファオ……?」
大人びた顔つきで、口調で、ファオがコンスタンツェにレーツェルへの挑戦を促している。
後ろ手に腕を組んで、編み上げブーツのつま先で床をこつこつと鳴らした。
ファオはこまっしゃくれた闊達な子供だけれど、こんなふうに大人びた言葉遣いや態度をする子ではなかったはずだ……。
ファオの瞳の色は青だったはずなのに、今は髪の色と同じ鮮やかな紅に染まっていた。
「どうする、コンスタンツェ?」
コンスタンツェはファオの瞳から女神の手鏡に視線を移して、はっと悟った。
このレーツェルをダニエルに解かせてはならないのだ。
デモンのレーツェルを解いたら、ダニエルはデモンの強大な力の欠片を吸収してしまう。
それが、神の血を引く彼の特異体質。
もしも、力が彼を変えてしまったら……。
彼の魂が闇色に染まって、染まりきってしまったら……?
そうしたらダニエルはどうなるの?
この世界の謎を食べ尽くしたら、ダニエルは人間よりも神に——デモンに近いものになってしまうのではないの?
「でもわたくしなら——」
「そう、君なら闇の力を吸収しない。真実の力は、きっとレーツェルの呪いの不幸を上回って、おつりがくるくらい君を幸福にするだろう」
「犯人には報いを与えなきゃ」
呟いて、コンスタンツェはきゅっと唇をひきむすんだ。
ダニエル・バルテル探偵事務所を訪れたときに、いちばん強く望んだことは、パステルヴィッツ公爵家の幸福を踏みにじった凶行の真犯人を探し出して、相応の罰を受けさせることだった。
「今からわたくしが言うことに間違いないはずよ。〈真実の鏡〉——、その力で正否をはっきりと判定して。そして真犯人を断罪して」
ダニエルが、早々に一人の人物を疑惑のリストのいちばん上に載せていたのをコンスタンツェは見聞きしている。コンスタンツェが記憶の中から家族の肖像画を甦らせたときに——。ハルトヴィンのルビーの指環とパステルヴィッツ家の家宝が結びついたときに——。そして、これは偶然だが、前の日にダニエルが私的な用件でハルトヴィンを通じてその人物に伝言していたことが、結果的に相手への挑発になってしまった。
その真犯人は探偵が真実を暴きにくることを見越して、先手を打って探偵事務所を襲ったのだ。
「十七年前にわたくしの生家を襲った卑劣な強盗の黒幕は、ウルリヒ・ボダルト議長よ」
ダニエルの推理は一度も間違っていたことがない。
かりそめの助手として、コンスタンツェは堂々と謎解きを披露した。
「ボダルト議長は、政治権を皇帝陛下から民主議会に移すという政治目的を実現させるために、強大な力を持つ魔石の所有者になりたがったのよ。パステルヴィッツ家がオデムのルビーを所有していると知って、わたくしのお父様からそれを奪った!」
《ヌーダ・ヴェリタス》が——〈真実の鏡〉が白光を放ちはじめる。
審判の光がコンスタンツェを照らす。
体を刺し貫きそうなほど鋭く輝く虹色の光条が、コンスタンツェの視界を眩ませた。
「——っ!」
灼かれる……反射的にそう思い、コンスタンツェは身を竦めた。
(いいえ……! 真実の光に灼かれるべきは凶悪な真犯人よ!!)
確信が、コンスタンツェの瞳をふたたび大きくひらかせる。
強い心でコンスタンツェは前を向いた。
『……』
ファオがコンスタンツェを下方から見上げている。
『ファオ、何だか小さくなった……?』
いや、違った。ファオが小さくなったのではなく、コンスタンツェのほうが、ファオよりだいぶ高いところにいるのだ。
いつのまに、移動したのだろうか?
この部屋に、人が上れる高い段なんてあっただろうか。不思議だ。
『ファオ、真実はどうなったの? 犯人は、いまごろどうなって——』
「君は真実に辿り着けていなかったよ。〈真実の鏡〉は、君の推理を却下した。君の負けだ、コンスタンツェ」
コンスタンツェは『嘘でしょう……』と蒼ざめた。
『そんなはずはないわ。だって、ボダルト議長にとって、彼の野望に反対する派の有力者であるお父様は、魔石のことがなくても邪魔な存在だったのだから……』
動機は二つもあるのだ。
加えて、ルビーの魔石の指環をボダルト議長の息子であるハルトヴィン司祭が持っている事実。
(あのハルトヴィン司祭が父親のしたことを知っているとは思いたくないのだけれど……)
けれどハルトヴィンは、コンスタンツェが教会に駆け込んだとき、頑なに聖別免状の発行を拒んだという事実もある——。
コンスタンツェは頭を振った。
(いいえハルさんはまっすぐな信仰心と優しさから、わたくしに、謎を解いて不幸になることをやめさせたかっただけなのよ。ハルさんの顔を見ればわかる。わかっているのに……)
ああ、こうやって、誰も彼もを疑って、心を闇に染めていかなければならない。だから謎解きは人間を不幸にする。だから探偵は闇の稼業だ。でも。
真実はそこにあるはずだ。動かぬ真実がそこにあるはず。
「ラピスラズリのショハムが生んだレーツェルである《ヌーダ・ヴェリタス》の魔力に他の魔石の魔力は干渉できない。〈真実の鏡〉の判定は絶対の真実だ。コンスタンツェ、君は負けた。君は負けて、そして、レーツェルの呪いに囚われた。〈真実の鏡〉の前で偽りを口にした者が受ける罰だ」
『罰?!』
コンスタンツェは一歩前に出ようとして、透明な壁にぶつかる。
『これはっ?』
眼前の壁に両手をついた。壁……不可視の障壁。四方をふさぐ透明な檻。ここは——。
「髪の色も似ているし、あまり違和感がない。君はそこで、これからやってくる探偵の破滅を見ているといい」
愕然とした。
眩しげな目つきでファオが見上げているこの場所は、まさか。
おそるおそるコンスタンツェは自分の右手を見た。さっきまで壁を叩いていたはずの手なのに、気付くと自分のものではないように固まっていて動かない右の手。その手は、銀の柄の手鏡を握って掲げていた。いつのまにか——。
次の瞬間、全身がびくとも動かなくなっていた。
首の向きさえ変えられなかった。
コンスタンツェは真正面を向いて、右手に〈真実の鏡〉を掲げて立っている。
《ヌーダ・ヴェリタス》の女神のように——。




