3.宮殿の謎
「ポルツィア宮? あなたは宮殿に住んでいるの?!」
フライウンク広場に面した大邸宅の前で馬車が停まる。ダニエルからその建物の名前を聞いて、コンスタンツェは驚愕した。
「〈ポルツィア宮〉というのは建物の渾名だ。一六六二年に所有者になったポルツィア候にちなんでそう呼ばれるようになった。この辺の邸宅はぜんぶ〈ナントカ宮〉って呼ばれているよ。ここは宮殿じゃない」
ずっとインネレシュタットの中に住んでいたのにコンスタンツェはまるでインネレシュタットの常識を知らない。ダニエルが少し不機嫌なのはいちいち説明するのが面倒だからだろうか。
「でもダニエル、入口の上にくっついている金色のあれ、双頭の鷲よね。あれって確か、帝国の紋章——」
「一七五〇年に国の所有になったとき貼りつけられたんだ。いいから降りろ。建物に興味があるなら探偵じゃなく建築家に弟子入りしてくれ」
「わたくし、あなたの助手になったわけじゃないのよ。依頼人——」
「さっさと済ますぞ」
どうして家に帰るのにダニエルは苛々しているのかしら。
コンスタンツェは内心で首をひねる。
ヘレンガッセ二三番地。そこがダニエルの家だ。ヘレンガッセ……同じ街区にカフェ・ツェントラールがある。
(住んでいる家のほうがカフェ・ツェントラールに近いのね)
コンスタンツェは簡単な推理を組みたてた。それならダニエルの毎日は、朝に家を出てカフェで新聞を二十紙読んでから事務所に出勤してくる、という順番が自然だ。でもコンスタンツェが事務所に転がり込んでからはその順番を変えている。
「信じられない。あなた意外と優しいのね!」
わざわざコンスタンツェを朝食に連れ出してくれた探偵に向かってそう言ったのだが、脈絡を言葉にしなかったのでダニエルの怪訝そうな眼つきが帰ってくる。
「何がだ?」
コンスタンツェの十七年住んでいた邸が〈邸宅〉なら、この建物は〈居城〉と形容していい貫禄がある。
入口の左右は飾り柱で囲まれていた。柱のてっぺんの渦巻き模様が可愛らしい。
「ガキが着いてこなかっただけ救いだな」
ダニエルはダニエルでぶつぶつと呟いている。
「『行く!』『やっぱ行かない!』って、百回くらいくるくる言うことが変わってちょっと変だったけれど、……なのにファオを置いてきて大丈夫かしら?」
「ガキじゃなく執事コボルトの心配をしてやれば。……帰ったらきっと何処かしらもげてるぞ」
ノッカーを叩くと〈ポルツィア宮〉から本物の執事が出てきた。
「お帰りなさいませ、殿——」
「ア・ル・フ・レー・ト!!」
とつぜん大声でダニエルが怒鳴ったのでコンスタンツェはびっくりして身をすくめた。
「ただいま、アルフレート。でも今日はまだ仕事中だ。母上は本日在宅のはずだが、どの部屋に?」
「〈野ばらの間〉で音楽をお聴きです」
入口を入るとすぐに中庭があり、緑の芝に敷かれた石畳のアプローチを進んで本玄関にたどりつく。たいへんな奥行きをもつ大邸宅だ。
背後で執事が、他の使用人から“アルフレート侍従長”、と声をかけられていた。渾名ではあってもポルツィア宮なのだから、執事じゃなくて侍従長よね、とコンスタンツェはぼんやりと納得する。
「どうして探偵事務所なんて……」
豪華なポルツィア宮と探偵という闇稼業との落差。
これもまた、探偵にまつわる謎だ——。
「この街に、堂々と真実を明かして暮らしている人間なんかいないよ。王宮から皇帝が消えて以来、貴族どもの社交界すら闇稼業と変わらない〈裏の世界〉になった。いまどき堂々と表に面して活気に輝いているのはカフェくらいかな」
幾つかの続き間を抜け、柱廊を通って、ダニエルは野ばらのレリーフが掘られた白亜の両扉を開けた。とたんに音楽が溢れるように流れ出てくる。
この曲は……D810、弦楽四重奏第十四番ニ短調『死の乙女』、だ。
「母上。ゆうべ話したパステルヴィッツ公爵の令嬢コンスタンツェを連れてきました」
コンスタンツェはその女性をひとめみて息を呑んだ。
貴婦人。いや、皇妃——ポルツィア宮というくらいなのだから、皇妃が正しい。
歴史書や物語に出てくるお妃様のように美しく高貴な佇まいのひとが、優しい灰青の瞳で笑みかけながらコンスタンツェを手招いていた。
「まあ、何て懐かしいまなざしをお持ちの方かしら? コンスタンツェさま、どうぞおこちらへいらっしゃい」
乳母に叩き込まれた作法通りの一礼をして、コンスタンツェは四重奏団の前を進んだ。
扇状の背もたれがひろがる優美な薔薇色の椅子から、そのひとが手を差しだした。
「こんにちは、あたくしはアマーリアと申します。もっと長い名前もあるけれど、息子が睨んでいるから、それしか言えないようね」
コンスタンツェはうっとりとしてしまってなかなか挨拶の言葉が出てこなかった。アマーリア皇妃の結いあげた髪の色は何と言うのだろう。灰色……そんな煤けたものじゃない。銀色……そんな空虚な輝きじゃない。青色……闇色……透明な光。清楚な輝きの中にいろんな色彩が見えた。
純灰色。
アマーリア皇妃の髪の色のパステルがあったらコンスタンツェは純灰色と名付けるだろう。
「このところダニエルが物も食べずに夜中まで街を徘徊しているから、どんな面白い依頼が入ったのかしらと思ってちょっと聞いてみたら、コンスタンツェさまの存在が零れて出たのよ?」
「あれは尋問だったと思います」
夜ごと開催される裏オークションや、窃盗団の溜まり場で、ダニエルはパステルヴィッツ公爵家の悲劇の原因となった宝物の情報を探っていたのだ。
「昨日は夕方に帰ってくるなり貧血で倒れるんですもの」
夕方? 朝にあんなに具合が悪そうだったのに夕方まで街を歩いていたの……?
「貴女に会って謎が解けたわ。コンスタンツェさまの瞳と髪の色はダニエルにとって完璧なドゥンケルですもの。それは張りきるわけというものですよ」
「母上、関係ありません。謎は謎です。いくらドゥンケルを積まれたって俺は犬猫小鳥探しはやりません」
さっさと本題に入ってくれませんかね……。ダニエルは居心地が悪そうに、中庭に面した窓際に立って鹿撃帽を脱いだり被ったりしている。
「パステルヴィッツ公爵は私の母、つまりダニエルのお祖母様の親友でしたのよ。もう一人の方と三人仲良しの大親友同士でいらしたの」
コンスタンツェを隣の椅子に座らせて、アマーリア皇妃は椅子と椅子の間にある小テーブルの上のベルを振った。
侍従が革の書類挟みを持って入ってきた。
「コンスタンツェさまのドゥンケルはパステルヴィッツ公爵とそっくり。……とても辛い想いをされましたね」
社交辞令のなぐさめではない、心から亡き人を偲ぶ言葉に、コンスタンツェの強い意志の留め金がゆるんだ。ずっと……ヒルダの告白の日からずっと、コンスタンツェは泣かないできたのに、よりによってこんなときに心が動いてしまった。どうしようもなく悲しみが込み上げて、コンスタンツェは嗚咽を漏らす。
今まで胸の何処にこんなにも熱い涙が溜まっていたのだろう。いろんなことがありすぎて、流れ出す時機を失っていた涙が、後から後から頬を濡らした。
「ああ、ごめんなさいね……」
アマーリア皇妃は立ち上がってコンスタンツェのドゥンケルの頭を抱きしめた。
「す、みませっ……わたくし……こんなところで馬鹿、みたいにっ……っ……」
「その涙は、娘として、孫としての義務よ。思いきり泣いておあげなさいまし」
愛情深い柔らかな声に包まれる。
初めて訪問した場所でとんでもない失態をおかしているのに、コンスタンツェはアマーリア皇妃の胸の中で、十七歳になってから初めて不安と緊張を忘れた。
窓際からダニエルのぼやきが聞こえる。
「だから嫌なんだ。こういうのは……」




