1.ファオの謎
——ダニエル・バルテルには気をつけろ
引き揚げぎわにトリスタンが言い残した忠告が、その夜コンスタンツェの胸の中でこだました。
——探偵に当たってみろとは言ったが、ダニエル・バルテルだけは相手が悪い。噂の中でオレが気に入らねえのは、あいつが依頼人から代金を取らないってとこだ。〈謎を食む探偵〉ってのはそこから来てる渾名だ。食い扶持のために生きてない人間をオレは信用しねえことにしてる
たしかにダニエルは、未亡人から代金を受け取らなかった。コンスタンツェとも報酬の話をしない。
人助けというふうでもない。ダニエルは依頼の選り好みをすると公言している。彼が謎を解くのは自分の愉楽のためだ。
お金には困っていないようだ。いつも仕立てのいい服を着ているし、カフェの給仕や御者への金払いもいい。
茶色の寝室でコンスタンツェは眠れずに考えた。
ダニエルは毎夜、どこへ帰っていくのだろう。
……探偵にまつわる〈謎〉は他にもある。
ダニエルは、未亡人の家のピアノに群がるコボルトを〈片眼鏡〉なしで視ていた。
そして、彼の不思議なまだらの髪のこと——。
悶々と考えているうちに夜が更けて、いつのまにか寝入っていたコンスタンツェがはっと目を開けたのは、いちばん闇が深くなる時間帯の夜明け前だった。
ダニエル・バルテル探偵事務所の玄関ドアをコツコツコツと叩く音がしている。
「誰か来てるの?」
私物のガウンをまとって廊下に出たコンスタンツェは、ちょうど執事部屋——衣装部屋の一画にコボルト用の寝台とデスクがあるのだ——から出てきた執事コボルトと顔を見合わせた。
「このような時間に何者ですかナ。ここはレディお一人の住まいですシ、鍵を開けずに追い返しますのデ、ご心配めされませんよウニ〜」
玄関前で執事コボルトが咳払いし、
「あー、お引き取りヲ! 主人はただいま留守でございまスヨ!」
と声を張り上げたが、相手にはたぶん聞こえていない。
「コボルトに留守番させてるの? 開けてよ。ここダニエルの家だろ? 開けて。僕だよ。僕、僕だって!」
コンスタンツェは驚きながらドアに近付いた。
「子供の声よ?」
バンバン、バンバンバン、と小さな手がドアを平手で叩きはじめる。
「近所迷惑だわ、とりあえず開けてみましょう。子供だけみたい」
鍵を開けると、向こうからすかさずドアを押し開けて子供が突進してきた。
「ちょっと——」
「わー、わー、わー! ちっさいなー、この家。いち、にい、三部屋しかないの? そっちは台所? わ、せまーっ!」
奇声を上げながらばたばたと家じゅうを駆けまわって、あげく子供は居間の革張りの長椅子にぴょんと飛び乗った。
「ちょっと、待って。あなたどういう……」
「ダニエルは?」
きょろきょろと部屋を見回してきょとんと問う赤毛の子供に、
「まだ出勤していないわ」
と息を切らしながらコンスタンツェは答えた。
「じゃあ待たせてもらうよ」
赤毛の子供はぴょんと腰を落として長椅子の真ん中にふんぞりかえった。
「あんた、ヨメ?」
「は?」
「ダニエルのヨメか?」
コンスタンツェは唖然としたあとで、その意味に赤くなる。
「ち、違うわ」
「違うの? てっきりヨメかと思うよなー、ドゥンケルだし。あいつだってもうそろそろハタチだろ? ヨメとらないとなーっ!」
とっさにコンスタンツェは自分の三つ編みの髪に触り、そして別のところで目を剥く。
「二十歳……?」
「たしか九月でハタチだよ。天秤座。ちなみに僕も天秤座なんだー。ん? あれ、僕は七月生まれだったかな?」
わたくしと三つしか違わないのにあんなに偉そうなの?
いや、ダニエル・バルテルが傲岸不遜でいられるのは探偵としての実績があるからだ。いったい彼は幾つのときから探偵事務所を構えているのだろうか?
「あなたはダニエルの何なの?」
「僕はVだよ」
「ファオ? 名前? 珍しいような名前ね……」
「早くダニエルこないかなあ? ずっと会っていないから楽しみだ!」
「ダニエルの親戚か何かなの? 彼の家……本当の家の場所は知らないの?」
「知らない。ここの場所だって昨日やっとわかったんだ!」
執事コボルトが急いで暖炉を焚き上げたので、夜明け近い部屋の中はあかあかとした炎に明るくなっていた。燃えさかる火焔に劣らぬあざやかな紅色の髪を振り、ファオの瞳が期待に輝く。その瞳は九月の誕生石のサファイアのような青だった。
「変わった格好ね」
ファオはまだ六、七歳くらいだろうか。白地に金のモールの縁取りがされた、王子様のような上着を着て、足元は上等な編み上げブーツを履いている。
「六歳の頃の衣装だよ。まだまだ似合うよね?!」
うんと伸びをして革張りの長椅子に寝転がると、足をバタバタさせてふざけていたがやがてファオはすやすや寝息をたてて眠ってしまった。
その長椅子を定位置にするのは大の子供嫌いの探偵だ。夜が明けたら修羅場になりそう、とコンスタンツェは額を押さえる。
けれどもファオの寝顔はまるで御伽話に書かれる大帝国の大宮殿で玉のように育てられた皇子様のように高貴で美しい。探偵事務所の小さな居間の革張りの長椅子ひとつくらい、皇子様のものにならないはずがなかった。
執事コボルトが毛織りの毛布を恭しくファオに掛けてやった。
◇ ◇ ◇
「何なんだ、こいつは……」
「やあダニエル! 元気だった?!」
「何なんだこのガキは。俺の事務所に何でガキがちゃかちゃかと入ってきてるんだ。説明してくれコンスタンツェ」
案の定、出勤してくるなりダニエルは親の仇に出会ったような顔をした。
「わたくしだって知らないわ。夜明け前にとつぜん訪ねてきて……あなたの親戚じゃないの?」
「おいガキ、何のつもりでそんな格好をしてる?」
「僕はVだよ。ダニエル、まだまだ似合うだろ?」
長椅子の上で飛び跳ねるファオに、ダニエルは端正な顔を極限まで引き攣らせる。
「つまみだすぞ」
言葉どおりダニエルはファオの首根っこを掴んでつまみあげた。
「わー。高い高い。大きくなったなーダニエル!」
ダニエルは正体不明の迷子のファオを司法庁に届けにいき、トリスタンとばったり会ってひとしきり悪態の応酬を交わして帰ってくると、「頭痛がする。今日は休業だ」と言って帰宅してしまった。
本当に憔悴した顔色をしていたので、コンスタンツェは依頼の件について訊ねることもできなかった。




