回顧
貴方様は、老害という言葉をご存知で?
左様ですか。
あれは酷い言葉でございますね。
老害の文字を目にするたび、私はこう、身を切られるような心持ちがいたします。
なぜかと申しまして、自分のことを言われているような、そんな気がいたしますので。はい。
昔はろうがいと言えば、肺病のことを指す言葉でございましたが。
ああ、そうです。今は結核と言うのでしたね。
どちらにしましても、悪い印象しかございません。
ははあ、貴方様も、でございますか。
そうでしょう。そうでございましょうとも。
老いること、これ即ち害であると、そう聞こえてしまいます。
あるいは、老人の存在はすべからく害悪である、とでも言っているのでしょうか。
すべからく、人間いずれは年寄りになるというのに。そこを、どう思っているのやら。
誠にもって、嘆かわしい限り。
好きでそうなるわけでは、ないのでございます。
誰でも、年を重ねるのでございます。
年経ると、誰でも衰えるのでございます。
容姿も。
力も。
確かであったはずの記憶までも。
忖度という言葉が一時流行っておりましたが、老害を口にする者にこそ、身に着けていただきたい配慮でございます。
これは失礼をいたしました。
つい、感情が先走りまして。
はい、これでは老害と言われても、致し方ございません。
ハハハ・・・。
ところで、こんな話がございます。
高齢者というのは、概ね六十五歳以上の年代を指すそうですが、なんでも四十代から脳の萎縮は始まるのだそうで。
はい、四十代を高齢とは申しませんが、高齢化は進んでいるのですね。
それからは、少しずつ、確実に、記憶力や忍耐力が衰えるのだそうでございます。
三十代で認知症になる方もいらっしゃるとか。
ご存知でしたかな?
知らぬ間に、自分が自分でなくなってしまう。
恐ろしゅうございますねえ。
人生はその先もございます。
五十代・・・。
六十代・・・。
健康でなければ、決して短くはないでしょう。楽しくもないでしょう。
飲酒。
喫煙。
偏食。
運動不足。
不規則な生活。
強いストレス。
それらは脳の萎縮を助長するとか。
もう、考えただけで、気分が悪くなってまいりました。
貴方様は、大丈夫でございますか?
ハハハ・・・。
具合が悪いから、人生終わりにしよう、とは言えません。
言いたくても、言えないことになっております。それが生きている者の定めでして。はい。
なぜに、人はそうまでして、生きなければならないのでしょう。
ここらへんが潮時だと思ったら幕引きをする権利、というものがあっても、罰は当たらないと思いますが、貴方様はどう思われます?
はい、長生きしたい、と。
ボロボロになっても、生きていたいと、そうおっしゃるので?
ははあ・・・・、若い頃に、ずいぶんと頑張ったのだから、せめて老後くらいは長く楽しみたいと、そうおっしゃる。
これは、ごもっとも。
貴方様のように、立派な経歴をお持ちの方が申されることは、実に説得力がございます。
世の高齢者は、総じて賛同なさることでしょう。
はい。
言うまでもなく、そうでしょうなあ。そうでございましょうとも。
ところで、貴方様はリヤカーをご存知で?
子供の頃に、よく見たとおっしゃる。
後ろにあるのがそうだ、と。
ええ、そのとおりでございます。
珍しい、と。
はい。
最近は見なくなった、と。
はい。
私、回収業を営んでおりまして、日々、全国津々浦々を行脚している身でございます。
今では同業者も減りまして、この国では私一人なのでございます。
いえ、冗談ではなく、本当のことでして。
一人きりは寂しいだろうと?
はあ、寂しいと言えば寂しい、気楽と言えば気楽。何もかも自分次第。
気の遠くなるほど長い間、この稼業を営んでおります故、もう慣れました。
ハハハ・・・。
後ろの荷台に積んでいる箱、でございますか?
但し書きのとおり、一つは再生用の品を入れます。
もう一つは、再利用の品を入れる箱にございます。
回収したものが、そのまま再利用できると思えば、再利用の箱へ入れます。
回収したものの、再利用が難しいと思えば、再生用の箱へ入れます。そちらは粉々にするか、ドロドロに溶かして、別の用途向けに再生いたします。
再生用の中は全部同じに見える、ゴミばかりだと?
いいえ、ゴミではございません。
これでも、なかなかに使い出はあるのでございます。はい。
ははあ、驚きました。なかなかの御慧眼でいらっしゃる。
おみそれいたしました。
ご指摘のとおり、再利用の品は、千差万別でございます。
一見して真新しいものから、ボロボロのものまでありまして、品質はピンキリ。
ただし、見た目と品質は別なのでございます。はい。
これでも私は、目利きで知られておりまして。
はい。
拾うべきか否か、拾ったものの価値はいかほどかが、一目で分かります。
ええ、何でも拾うわけではございません。それに、拾うにも優先順位があるのです。
はい、そういうものでございます。
こういう稼業の者にしか分からないのです。
いずれにせよ、卑しい稼業だ、と?
ハハハ・・・。
これは一本取られました。
全く以て、そのとおりなのでございます。
ですから、お子様や若い方には気づかれないように、絶対に近づかないようにと、常日頃より心掛けておりますでございます。はい。
良い心掛けだと、お褒め下さるので?
ありがとうございます。
貴方様のような御方から、そのように誉めていただけるとは、恐悦至極、望外の喜びにございまする。
御礼と言っては何でございますが、一つ面白い話をいたしましょう。
まあ、そう言わずにお聞きくださいまし。
お手間は取らせません。
はい、ごく手短にいたします。
きっと貴方様には、興味がおありだと思いますゆえ、聞いておいて損はないでしょうよ。
いえ、こちらの話でございます。お気になさらず。
話は少々昔のことに相成ります。
今から十年前、一人の年寄りがいたとお思いなさいまし。
彼は恵まれた幼少期を経て、良い大学を出て、良い就職をして、出世街道を走りました。つつがなく結婚をし、子宝に恵まれ、何不自由のない老後を送っておりました。
実に幸せな人生だ、うらやましい、と?
はい。
そう思われるのは、もっともでございます。
ここまでは、ある意味で人生の見本にしてもようございますが、一筋縄ではいかぬのが人というものでございます。
この御仁、性格に少々難がありました。
己を恃むところが強すぎて、周りの人間をバカにするのです。それがトラブルになることも、間々あったようでございます。
それでも、概ね順風満帆な人生、と言ってよろしいでしょう。
しかしながら、周りを軽視する傾向は年々強くなり、何でも俺が俺がという、自己中心的な中高年の典型になってしまいました。
ほほう。
貴方様にも、身に覚えがあると。
左様でございますか。
それは意外ですなあ。
いいえ、意外というのは、そういう意味ではなくて、今の貴方様が御自分を認識している、という点でございます。
浮世を離れて、反省の余地が出たとでも言うのか。
あ、いえ。こちらの話でございます。
ともかく、話を続けてもよろしいですかな?
では・・・。
男は自分に自信を持っておりました。
判断も、行動も、髪型や服装に至るまで、最善の選択をして、進むべき道を進んでいる、という確固たる自信が。
全てが規範的であるように、人に迷惑をかけないように、誰よりも深く考え、無駄を省き、理路整然と、慎重に行動をするのだという信念。また、それが出来ているのだという、確固たる自負。
実際、そうあろうという努力も、怠らずにしていたようでございます。
なかなかに意志の強い、理想家だったようですな。
ははあ、貴方様にもご同意いただけますか。
立派な人ではないか、と?
貴方様なら、そう思われることでございましょう。そうでございましょうとも。
そこまでは良いのです。
多少、頭が固くとも、融通が利かない性格であろうとも、それは個人の資質でございます。
理想を追うのも、個人の自由でございます。
決して、他人様にとやかく言われる筋合いのことでは、ございません。
しかしながら、彼は自分が正しいと思い込むあまり、誰の言葉にも耳を貸さなかった。
これが、この男の致命的な問題なのでございます。
年を重ねるにつれて、彼の自信は過信へと変容いたしました。自分はこれまで、間違った判断も、誤った行動もしたことがないと思うようになりました。
輝かしい経歴が、それを証明しているのだと、自分から吹聴するようになりました。
家族も友人も、そんな彼を見かねて諫めたのです。
しかし、無駄な努力でした。
退職してからは、その傾向に拍車がかかり、ますます偏屈、意固地になりました。
貴方様はその男が正しい、とおっしゃるので?
バカの意見を聞くのは時間の無駄、でございますか。
なるほど。
それもまた、一つの考え方でしょうなあ。
しかし、人は一人では生きられません。
意見を聞く、聞かないという些末な問題ではなく、もっと根源的なところに、思い至る必要がございます。
まあ、お聞きなさいまし。
人というものは、他者によって生かされているのでございますよ。
意図しなくとも、無数の命を犠牲にして、その上に生きているのでございます。
例外は一切ないのです。
何を言っているのか分からない、とおっしゃる。
はい、そうでございましょう。そうでございましょうとも。
分からなくて良いのです。
貴方様におかれましては、まだ分かる必要がございません。
今のは、お聞き流しくださいませ。
ともあれ、男のような考え方では、周囲との軋轢が生じます。
始めは気がつかないほど、小さなものでした。
そのうちに少しずつ目に見えて、やがては雪だるま式に大きな摩擦と相成りました。
気がついた頃には、もう手遅れでございます。
男は大きな過ちを犯しました。
退職してから、二十年余りが経っておりましたようで。
時に、貴方様はご家族がいらっしゃいますね?
はい、はい。
奥様、お子様が三人、お孫様が五人、と。
一番下は、まだ二歳でございますか。
それは可愛いでしょうなあ。
眼に入れても痛くない、と。
そうでございましょう。そうでございましょうとも。
誰だって、自分の家族は大切でございます。
もしもの話、お子様か、お孫様が亡くなったりしたら、どうなさいます?
縁起でもない、と。
これは失礼をいたしました。
おっしゃるとおりでございますが、物事に絶対はございませぬ故。一応、伺わせていただきます。
はい。
例えば、うっかりと誰かに殺されるとか。
あ、これは痛い。
いきなり殴りましたね。
乱暴ですな。
そこまでお怒りになるとは、思いませなんだ。
まあ、落ち着きなさいませ。
例えばの話、でございますよ。
言って良いことと、悪いことがある、と?
左様でございますね。
一言半句も言い訳のしようがございません。
どうか、お許しくださいませ。
はい、はい。
如何様にも、お詫びいたします。
これ、このとおり。
落ち着かれましたか?
それはよろしゅうございました。
いててて・・・。
貴方様におかれましても、それほどまでに家族は大切だと思っていらっしゃる、そのことが、よくよく分かりましてございます。
私、安心をいたしました。
何がと申しまして、貴方様の考え方が合理的に過ぎます故に、心の痛みを解せぬのではないかと、そのように感じておりました。
とんでもない、とおっしゃる。
むしろ人よりも情に厚い、と。
これは、大変に失礼をいたしました。
私の眼も節穴のようで。
ハハハ・・・。
では、この話も、そろそろ最後の降りに入るといたしましょう。
ええ、もう少し続きがございます。
すぐに、終わりますので、もうしばらくお付き合いくださいまし。
はい。
貴方様にお尋ねします。
この後は、何かご予定が?
どうでもいいなどと言わず、お考えくださいまし。
思い出せない?
そうでございましょう。ええ、そうでございましょうとも。
なぜ、そんなことを訊くのだ、とおっしゃいましたか。
さしたる意味はございません。
一応の確認をいたしたまでで。
何の確認かと?
それはお気になさらずともよろしい。
思い出せないなら、もう思い出さなくてよいのでございます。
ちょいと必要がありまして、私が貴方様をお連れ申しあげました。
はい。
おや、どうなさいました?
お顔の色がすぐれませんね。
何か問題でも?
ここが何処か分からない、と。
ここへ来る前のことが思い出せない、と。
左様でございますか。
しかし、どうかご安心ください。
私、回収業の傍ら、道案内も承っております。はい。
貴方様と同じように、「ここは何処だ」とおっしゃる方を、大勢存じ上げております。
お尋ねいただく都度、そういう方々を、しかるべきところへご案内して差し上げるのでございます。
ですから、貴方様の不安は、すぐに解消されることでございましょう。
その前に、少々お時間を頂ければと思います。
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