1/未だ白き砂の城
無駄は命に関わる、と仲間が語った。真実だと僕は思う。ゲーム内の命は無駄が奪っていく。
一瞬の迷いや、対応できない事態が敗北を招く。大局はともかく、部分的な勝ち負けは無駄の少なかった方が手に入れる。そして、部分的な勝敗がゆっくりと大局の秤を傾けるのだ。
画面の中では、僕たちのクランのキャラクターが勝利を喜んでいた。僕はため息を吐いて、椅子に体重を預けた。
一人が今日はこのあたりにしようと言っていた。時計を見れば針は零時を差している。今日は五時間ほどプレイしたことになる。長くもないが、短くもない。僕もそれに同調して、コントローラを置いた。ぬるい疲労感があった。
二言三言労いの言葉を交わしあってから、僕はPCから離れ、ベッドに身を投げた。今日の成績は悪くなかったが、僕はあまり内容に満足はしていなかった。チームメイトの動きに不満があったのだ。他のメンバーの動きでカバーされていたが、当人の成績はひどいものだった。巧拙もそうだが、回避できる無駄が多いのだ。おまけにオーバーリアクションなものだから、より僕の神経を逆撫でした。罵りたいのはこっちだと叫びかけた言葉を何度飲み込んだろうか。
仰向けが落ち着かなくて、壁を眺めるように横臥の姿勢をとった。無駄は明確に悪だ。それは何も、ゲームに限った話ではない。本当にやるべきことをやるために、無駄は見つけ次第殺さなければならない。
くだらない雑事に時間を盗まれるのは、あまりにも効率が悪いではないか。
学生の朝は早い。二時に眠って、七時にはもう起きなくてはいけない。自然と睡眠不足にもなるというものだ。
僕は欠伸をしながら学校に続く道を歩いた。どうして我が校は大通りに面していないのだろうと毎朝のように思う。こうも暗い道を毎朝歩かされれば気も滅入るというものだ。まだ丸々一年以上も同じ道を通って登校しなければならないことを思うと未来への希望も何もない。
さっさと門をくぐって、舛戸戸丹と名前の振られた自分の下駄箱に靴を置き去りにし、重い足を引きずって階段を上がる。教室に入ると、特に誰宛にでもなく形式的におはようと言って自分の机についた。
「おはよう舛戸君」
ため息を吐きながら椅子に体重を預けると、隣の席から声がかけられた。
「おはよう」
彼女は王媛友奈という。僕らのクラスの委員長で、律儀な性格の持ち主である。こうして態々毎朝声をかけてくるのが特徴だ。僕だけに特別ではない。誰にでも分け隔てないのが王媛という女である。
「眠そうだね」
「中学生はちょっと眠いくらいが健康なんじゃないか」
僕は時計に目をやって、まだ八時だ、早朝だよ、と付け加える。王媛は明らかに愛想笑いと分かる微笑を浮かべた。
「程々にね。じゃあ私、名簿取ってくるから」
聞いてもいない次の予定を述べて、彼女は上履きの音を高く立てながら教室の外へと消えた。
「よう、今日も絡まれてたな」
「灰。おはよう」
入れ替わるように僕の傍まで歩いてきたのは連洲灰という男だ。メガネの奥で、嫌味な笑いを浮かべている。
王媛は委員長という立場に相応しい秀才だが、この灰という男は彼女の上を行く天才だ。それでいて割と好人物なので、クラス内でもうまい立ち位置にいる。
「ところで戸丹、今日は空いてるか。倍良にはもう声をかけたんだが、今日あたり一度集まっておきたいんだが」
「もうそんな時期か。わかった、集まろう」
「良し、決まりだな」
要件はそれで終わりだったらしく灰は、じゃあ放課後に、とだけ言い残して自分の机に戻った。愛想がないようだが、彼が言う『集まり』にはこんなところでべらべらと喋るわけにはいかない実態があるのだ。普段はもう少し、友だち甲斐のある奴である。
やがて委員長が戻ってきて、計ったようなタイミングで予鈴が鳴った。それぞれに朝の時間を過ごしていたクラスメイトたちが次々椅子について、今日一日の活動が始まってしまうことを温く嘆いた。
授業の時間ほど無駄な時間を僕は知らない。
勉強などというくだらないものに、日に何時間も拘束されるなど無為の極みである。時代遅れも甚だしい。他の道を選ぶ自由が今の時代必要だと感じる。
しかし、義務教育から逃れるということはあまり現実的ではない。そうしたいと家族に訴えたところで、余計な軋轢を呼び、必要ない無駄まで産んだ挙げ句に結局学校からは逃れられないというのがオチだ。
最低限の無駄に留めるためにこうやって大人しく座っているのが僕の最善だ。服従の姿勢だけは一応見せなくてはいけない。下手な反発をしてもまた別の無駄を生むだけである。
板書を終えた隙に、僕はクラスを見渡した。意識と無意識の差はあれ、この中にも同じような処世術を選んだものはいるはずだ。ふと、隣の席の王媛が目に留まった。板書は終わっているようだが、それに加えて教師の語った解法までを細かく書き記しているらしい。それでいて整ったノートは、王媛という女生徒を端的に表していた。
なんて無駄な頑張りだろう。彼女は服従が楽しくて仕方ないと見える。僕は哀れみさえした。彼女は勉強する以外の娯楽を知らないのだろうか。
「反抗の方法がある、僕らの仲間にならないか」
そう耳打ちしたくなる気持ちを抑えた。僕たちの目的は人助けではない。手を差し伸べることには何の得もない。王媛の性格から、教師に告げ口をされる危険性すらある。
王媛の無駄な努力を見ていられなくなった僕は時計に目をやった。まだまだ授業は続く。憐憫から無駄な疲労を作ることはない。どうせ、何もしていなくたって疲労は溜まっていくのだ。
灰の家は一軒家で、マンションで暮らしている僕には少し慣れない環境だった。彼自身、他人を家に上げるのはそれほど嬉しくは無いようで、『集まり』でない時に家に招かれたことはない。
数ヶ月に一度しか訪れない他人の家というのはどうにも居心地が良いものではないが、倍良は気にもしないように靴を脱いで上り框を踏んだ。僕もそれに倣う。いつまでも玄関で立っているというわけにも行かない。
灰について彼の部屋に入る。夏を前にして、半日閉め切られたままだった部屋は暑い。灰はクーラーをつけて、部屋中央のローテーブルに買ってきたペットボトルを置いて座った。僕と倍良も同じように腰を下ろす。フローリングも温く熱を持っていて、心地よくはなかった。
「じゃあ、始めよう」
灰は少し勿体ぶってそう言った。
僕たちはカンニング仲間だ。この『集まり』はカンニングの手段の決定や、段取りの確認のためのものである。公の場でするには適さないから、こうして三人、灰の家に集まったわけである。
始まりは僕だった。勉強という無駄に割いていい時間は人生にはあまり無い。試験さえうまく切り抜ければいいのだから、カンニングという近道にたどり着くのはそうおかしな話ではない。ところが標的が悪かった。灰という男は観察力で群を抜く。僕が彼の答案を盗み見たことに気づいて、僕に詰め寄ったのだ。
「なあお前。楽しそうなことをしているじゃないか。俺も仲間に入れてくれ」
本来、彼はカンニングなどせずとも満点を取ることが出来る。ただ楽しそうだから、という理由で僕と手を結ぼうと言い出したのだ。彼にとっては必要のないリスクである。しかし、僕にとっては逃す手の無い得な話だった。
いくつかの手法を試し、灰の提案から倍良という協力者も増やして、僕らは定期試験の度にカンニングを繰り返している。今回は七月上旬の一学期期末試験の前の会議というわけだ。
「早速だが、次のカンニングの方法に案は無いか?」
「次の案? 前回の方法じゃダメなのか」
灰の発言に、僕は疑問を投げかけた。前回は3Dプリンターで、多層状に作ったメモを消しゴムに偽装してカンニングをした。これはなかなか良い戦術で、不安定になりがちな連絡法、盗視法よりも実際の点数に結びついた。僕としては、敢えて変更する理由は無いように思った。
「ええ。アレ面倒だったし、私は別の方法がいいと思うけど」
口を挟んだのは倍良えりざだ。彼女は顔の出来は学年でも指折りだが、頭の出来は下から数えて指折りである。メモを使う方法はそもそも要点を抑えていないとあまり役に立たない。端的に解答を連絡するほうが彼女にとっては良い方法だということだろう。
「メモの方法を改善したりも出来るし、検討の余地はあるんじゃないか」
僕はそう彼女を諭そうとしたが、灰はそれを遮った。
「まあまあ戸丹。何も倍良のために変えようって言うんじゃない。あれが良い方法なのは俺もそう思ったしな。単に、前回借りた3Dプリンターが使えないからなんだ」
灰はそう言って、ペットボトルの炭酸飲料に口をつけた。
「正直に言って、使ったのが父さんにバレたんだ。教科ごとに三人分作らないといけないから、材料もそれなりに使うだろ。実際何を作ったかまでは訊かれなかったけど、仕事で使うものだからと釘を刺された。次はない」
僕は唸った。そういう事情なら、3Dプリンターを使う方法はもう取れない。
「ということは、もし他に良い方法が思いつかなかったら今回はカンニングは不可能ってこと?」
倍良はそう訊ねた。灰は重く頷いて認める。一瞬、重い沈黙が流れる。
「でもこれまでに使ったカンニングの方法まで使えなくなったわけじゃないよね」
「いや」
僕はそれを否定した。
「倍良、今年からクラスが別になっただろ。音とか動きとか同じ教室にいないと伝えられない情報でのやり取りは無理だ。他人の解答を盗み見る方法も、一人では左右の隣を見られれば良い方で、席の配置にもよるけどそう有効には働かないだろう」
「戸丹の言う通りだ。そのあたりの欠点を解決するか、別の方法でメモを持ち込むか、もっと別の方法を見つけるか。いずれにせよ、新しい発想が必要な状態なんだよ」
灰の言葉に、倍良は落ち込んだように座り直した。僕も気持ちは同じだ。
実は、倍良を除いた計画にすれば問題はないのだ。実際、僕と灰は二人だけでカンニングを始めた。それでもその提案をしないのは、僕なりには彼女を仲間と認めてのことである。実際、去年までの活動では彼女がいることで人手の要る作戦も取れたこともあったし、誰の点が高くて盗み見がいがあるとかいった情報収集の面でも活躍してくれた。
切れ者ではないが、大きな失敗はしないし、人格的にも信用出来る。倍良えりざという女性の評価は、僕の中ではそれなりに高かった。彼女を切り捨てようという考えは考慮に入らなかった。おそらく、それは灰も同じだろう。
しかし、ならばどうするのか?
「そっか。でも、他に方法なんてある? 答えを教える、盗み見る、メモを持ち込む。どれもすぐ思いつく方法が無いってことでしょ」
視線を空に漂わせながら、倍良は難しい顔をしていた。僕は灰に視線を投げた。彼も同様に難しい顔こそしているが、倍良のそれとはまた違うように見える。何かを迷っているような曖昧な表情だった。僕は直感のまま問うた。
「灰。本当は案があるんじゃないのか?」
そう言われて、灰は薄く笑った。
「まあ、無くはないよ。けどこれを『やっていいか』は正直紙一重だ。だから、他の案が二人にあるなら伏せておこうと思っていた」
僕は合点が行った。なるほど、それで迷っていたわけだ。
「そういう事か。それじゃ、もう少し考えて答えが出なければ聞くことにしようか」
「ああ、出来れば他の方法のほうが良い。これは最後の手段だ」
灰と僕は頷いて、別の案を探り始めた。しかし倍良は得心が行かない様子で、僕に訊ねた。
「ねえ、『やっていいか』ってどういうこと?」
「うん? だから、悪いことだってことだよ。他の方法があればそれに越したことは」
「え? そういうことなの?」
僕の言葉を遮って、倍良は気の抜けた声を上げた。
「今までのカンニングも、全部悪いことだったでしょ。今更じゃない?」
灰と僕は顔を見合わせた。倍良の言う通りだった。踏み止まるポイントを僕らはずっと前に通り越しているではないか。
「そうだな。倍良の言う通りだ。いや、チキンだったよ。俺たちはもう、戻れない」
灰は笑っていた。その通りだ。実行が難しいならここでカンニングから足を洗えば良かったのである。その簡単な選択肢が見えなかった時点で、僕らはもう紙一重を踏み越えていた。
「灰、説明してくれ」
僕は同意の意味を込めて説明を促した。灰はいかにも楽しそうな調子で作戦を語った。
灰の『やっていいか』の意味は概要を聞いてすぐに分かった。
テストは我が校の教師が作成し、我が校のプリンターで印刷されている。そして、それが印刷されるタイミングもおおよそ目星がついていると灰は語った。
ならば何が出来るか。プリンターサーバーを通るファイルを傍受して、問題用紙と解答用紙を事前に入手することが可能だと灰は言った。いわゆるハッキングだ。明確に加害者に回ってしまうことになる。
しかし、倍良の言葉を借りればそれは今更のことだ。僕らは彼女の言葉の後押しで、迷いなくその作戦を採用した。
灰の説明によれば、作戦そのものは簡単だ。図書室内の誰も手を付けることのないようなカバー付きの辞典や歴史年表の類の中身を抜いて、ノートPCを潜ませておく。灰の組むプログラムにより、プリンターサーバーを通ったファイルは全て自動的にPC内に蓄積される。後は手に入れた問題用紙を解いてしまい、解答を覚えておけば良い。
しかし、倍良は言った。
「そんなの覚えられないよ」
まあ、こういう部分が彼女の頭の弱さだ。だから僕らは、もう一歩踏み込んだ作戦にすることにした。事前に解答を記入し終えた解答用紙を用意し、試験終了時に自分の解答用紙とすり替えるのである。こうすれば、実際に問題を解く必要はない。何も書いていないと怪しまれるので問題を解く振りはしなければいけないが、どちらにせよテストの時間中は暇なのだからそう難しいことではないだろう。
覚悟さえ決まれば、そう難しい作戦ではない。もっと時間がかかるはずだった会議は早々に切り上げられた。そうなると時間がポッカリと空いてしまう。僕らは灰の部屋でゲームをしたり、菓子類をつまんだりして適当に過ごした。変な話だが、僕らはカンニングを通して随分仲良くなった。カンニングの露見を嫌って、校内ではあまりつるまないことも、間延びした友人関係になることを防いでいるように僕は思う。
時計の上ではもう夕方という時刻になっても、初夏の陽はまだ明るく、夜の気配を感じさせない。しかし腹時計というやつは正直で、ゆるい空腹が訪れると、誰からともなく解散の空気になった。
「じゃあ、灰。また明日」
「連州くん、またね」
灰は玄関まで出てきておきながら怠そうに手を振ってそれに答えた。彼に見送られた僕と倍良は駅までの道をのんびりと歩きだした。
「今日は助かったよ、倍良。お陰でスムーズに結論が出た」
そう声をかけると、彼女はしたり顔で笑ってみせた。そうすると、際立った美人であることがよくわかる。学年屈指の美貌は伊達ではない。うっかりすると魅せられてしまいそうになる。
「同じクラスになれれば良かったのにね」
こういう人懐こい言い方もまた、誤解を産みそうになる。僕は努めて冷静にあろうとした。
「まあこればかりは仕方ないよ。カンニングしたいから一緒のクラスにしてください、なんて言えないしね」
下手な冗談にも愛想のいい笑顔が咲く。こうした彼女の朗らかな面は僕ら三人の関係の潤滑油だった。実際、彼女がいなければどこかの段階で灰と反りが合わなくなって、彼にカンニングをバラされてしまったのではないかと思う。
「でも、そっちのクラスの担任って宗谷でしょ。いいなぁ。あと半年以上も襟裳の顔見なきゃいけないと思うとうんざりだよ」
それから駅までの道中は、襟裳という教師と悪口に終始した。彼女とは乗る電車が違うので改札で別れ、一人になった僕は自販機でコーラを買って電車を待った。
口をつけると、甘ったるい炭酸が脳を衝く。僕は眉を寄せてそれを飲み込んだ。
一人で冷静になると、やはりおかしいと思う。今回の計画は灰が僕らを誘う理由がまるでないのだ。プログラムは僕も倍良も手出しが出来ないし、PCの設置にしても人手が必要とは思えない。それは仲間意識に拠る奉仕だと割り切ってしまって、本当に良いのだろうか。
最初から彼は楽しそうだという理由でカンニングに乗っているのだ。いずれ灰の中で、カンニングへの興味が薄れ、僕らを裏切る愉悦がそれを上回ったなら。
正直に言って、僕には灰の理由が分からない。無駄を嫌う僕とは違って、彼は無駄こそが楽しみなのだ。不確定のものに体重を預け続けてもいいものだろうか。
かぶりを振って、僕はその疑念を否定した。仲間を信じないでどうするというのか。それに、いくら信用がおけなくとも僕はカンニングを辞めることなんて出来ないだろう。勉強という無駄に充てる時間は僕には無いのだ。
疑念を轢き潰すように、夕闇に覆われ始めたホームを電車の前照灯が照らし上げた。
その日の昼休み、僕は大きめの鞄を片手に図書室へ向かった。テスト準備期間中の始業前や放課後は形ばかりの勉強をしにくる生徒たちで、図書室はそれなりの賑わいを見せる。決行するとすれば昼一番しかなかった。まだ多くの生徒が昼食を摂っている時間、図書室は最も人目が少なくなる。
それでもまったくの無人というわけにはいかない。司書は常駐しているし、恐ろしい速度で昼食を終えたり、そもそも昼食を摂らなかったりした変わり者が校内に一人や二人はいるはずだ。
当然、時間が経てば経つほど昼食を終えた生徒は増える。その足で図書室に向かおうという生徒がどれだけいるか。教室の喧騒を避けたい者は少なくないだろう。その逃げ場が図書室ということも無くはない。
時間が過ぎるほどリスクは高まる。なるべく早く鞄に隠したノートPCをセッティングするべきではあったが、一目散に入ってきた生徒がいきなり鈍器のような本を取り出してはあまりにも目につく。司書という、間違いなく存在する視線を逸らす囮は絶対に必要だった。
僕の到着に先んじて倍良が図書室に入っている段取りだが、どうやら彼女はきちんと作戦通り動いているようだ。少しだけ開いたドアから彼女の声が聞こえていた。
「やっぱり、犯人は医者だと思うんですよ。何かあやしい映り方も多いし、正直他の俳優よりいい俳優使ってるでしょ」
引き戸に手をかけて、何食わぬ顔で入室すると、倍良は司書の女性と他愛のない話をしていた。
「えりざちゃん、甘いよ。監督が上沙だから、絶対そんな簡単じゃないって。私は元彼が怪しいと思うな。ほら、ホテル街の入り口で黒井が警官に見つかるとこってさ」
司書は随分と熱の入った様子で倍良にそう語っていた。話の内容からするに、ドラマか何かの展開の予想合戦をしているようだ。彼女がどうやって昼食も摂らずに図書室に来たのかという疑問を躱したのかは気になったが、司書の意識は完全にドラマの展開に囚われている。僕が室内の椅子に着いた瞬間だけこちらに視線が飛んできたが、僕が鞄からノートと教科書を出して勉強する素振りを見せると、またドラマの話に意識を戻したようだった。
ここまでの運びは上々だ。都合のいいことに、生徒は他にいないようだった。僕は辞書か資料のようなものを探して鞄を引っ掻き回すような素振りをした。そんなことをしなくても司書の女性は倍良との話に夢中なようであったが、アドリブで作戦を崩すのは愚の骨頂だ。倍良との連携に支障があっても困る。
僕はそのまま鞄を持って、資料類のある棚へと向かた。図書室入り口の貸出カウンターからは辞書エリアは死角になっている。入ってきた時にも確認したが、そちらにも生徒はいなかった。
時に国語の授業で貸し出される国語辞典や、漢和辞典のようなものはPCを隠すにはもちろん危険だ。それに、大抵はやや小さくてPCを隠せるサイズではない。そういう辞書が並ぶ棚を過ぎ、僕は埃を被って色あせた百科事典の棚までやってきた。誰が使う想定か知らないが、今どき時代遅れな百科事典が十冊も並んでいる。どれに仕掛けるかも僕らは予め決めていた。社会・経済の巻である。色あせた背表紙のそれは、貸出記録も真っ更で使われた形跡が無い。
僕は焦って本を落として音を立てたりしないように、その百科事典を慎重に本棚から引き抜いた。ずっしりとした重さが片手にかかって、腕が痺れるように感じる。何とか無事に取り出したそれを、僕は一旦床に寝かせた。外箱から辞書本体を取り出し、持ってきたPCとバッテリーを入れ、それを固定するように重石を差し込んだ。わざわざ採寸して用意しただけあり、PCが揺れるような隙間はない。僕は軽く外箱を振ってみたが、音がしたり揺れを感じるということもなかった。
丁寧な仕事もいいが、手間を掛ければ時間も掛かってリスクばかり増える。司書が気づきそうだったり、生徒が入ったりしてきた時は倍良からの合図があるので今の所は大丈夫だ。僕はPCを潜ませた辞書を間違いなく元の場所に戻して、社会・経済の辞典を鞄に潜ませる。そして英和辞典を一冊手に取って席に戻った。
席に着いた僕はわざと英和辞典を落とす。大きな音がして、倍良と司書がこちらを見た。それが倍良への成功の合図だった。僕は何食わぬ顔で辞書を拾い、勉強する振りを再開する。
しかし、僕の心中は成功の快感で一杯だった。震えるような愉悦にペンを持つ手にも力が入らない。勉強の振りを始めた以上、そうすぐに席は立てないが、今すぐにでも二人と落ち合って成功を祝いたかった。
倍良の退室後、僕は二十分ほど勉強を続けた。徐々に図書室には人が増え始め、抜けても目立たないような気配がしはじめていた。
僕は勉強用具一式を畳んで、図書室を後にした。その頃には僕も随分落ち着きを取り戻していた。高揚感こそまだいくらか残っているものの、今すぐ叫び出したいような成功の潮はゆっくりと引いて、次のPC回収作戦に思いを馳せ始めていた。
「あれ。図書室から出てくるのは珍しいね」
図書室から出た僕を呼び止めたのは王媛だった。ノートと教科書、筆箱を胸に抱えて、向こうはこれから図書室で勉強をしようというところだろう。
「うん。まあ僕も少しは勉強しないと、だからさ」
僕がそう取り繕うと、彼女は笑った。
「あの舛戸くんが殊勝なこと言ってる。まあ、勉強はズル出来ないからね。お互い頑張ろう」
「ああ。王媛も頑張って」
ほくそ笑みながら、僕は図書室に消える彼女を見送った。
彼女はズルが出来ないという。勉強は出来ても、知恵は働くとは限らないらしかった。頭さえ使えばズルはいくらでも可能なのだ。もっとも、服従を選んだ勉学の奴隷には分からないのも仕方のないことなのかもしれないが。
回収はまた囮になった倍良と灰が行った。首尾は上々である。誰に見つかることもなく無事PCは回収。灰が組んだというプログラムもちゃんと働き、問題と解答の入手には成功した。
問題は、それが全科目の入手とはいかなかった点だ。PCを仕掛けていないタイミングで印刷されたか、校外のプリンターが使用されたか。それでも主要な科目の問題が入手できたのは大きかった。国語や数学、社会科や英語といった主要科目で赤点を取ると二時間の補習が必要になるが、家庭科や保健体育といった科目は一時間の補習で済むからである。
僕らは灰の家に集まって解答済みの答案用紙を作り、それをシャツの中に忍ばせて試験に挑んだ。
「作戦上、最も重要になるのが未記入の答案と記入済みの答案のすり替えだ」
灰はそう語り、いくつかの方法を全員で練習した。特に上手く行ったのは、未記入の解答を一旦落として、拾うタイミングで隠した答案と入れ替える方法だった。科目ごと、毎回答案を落としていては怪しまれるだろうが、手に入った科目が少なかったことも功を奏した。他の方法も交ぜて使えば、不審というほどではないだろうと灰は言った。
「これからも使うならほかのすり替え方を覚えたほうがいいだろうが、まあ今回はこれで十分だろう」
彼がそう言ったのを僕も倍良も楽観とは思わなかった。練習ではタネを知っているお互いもすり替えたかどうかを見分けきれなかったのである。注視してそれなのだから、自分のテストで精一杯なはずの他の生徒が目ざとく発見出来るとは思えなかった。
その感想は、結論から言って間違いではなかった。僕らは五科目ですり替えカンニングに成功したのである。今僕が目の前にしている数学の試験が、僕らが問題を入手できた最後の科目である。
もうじき来る解答時間の終了を前に、僕はぼんやりと解答用紙を眺めていた。最初こそ偽装のためとそれなり真剣に試験に臨んでいたものの、バレる気配が無いと知るとそれはただの無駄だと知らされた。どうせその答案はシャツの中に隠され、提出するのは解答済みの問題のほうだけなのである。いくらか書く素振りだけはしたものの、正直書かれた数字や文字はデタラメの産物だった。教師の見回りは、問題用紙で解答用紙を隠すようにして躱した。ご丁寧にも、問題用紙の方に途中式用のスペースを取っているお陰で、悩んでいる振りはそう難しいことではなかった。
黒板の上に掛けられた時計の針は、少し遅れている。分針が終了ちょうどの時間を指す前にチャイムが鳴って、試験の終わりを告げた。
「はい、やめ。後ろの人、答えを集めてください」
教師の言葉に呼応して、後ろの方で席を立つ音が聞こえた。僕は回収者が辿り着く前に答案を落とし、そしてシャツに潜ませた答案と交換しようとして。
ふと、目の前に転がってきた消しゴムに目が止まった。
「あ、ごめん! 当たらなかった?」
隣の席の王媛の消しゴムらしかった。僕はそれを拾って、王媛に差し出す。
「大丈夫、当たらなかったよ」
愛想笑いをする。回収をする最後尾の生徒が迫っている。
「良かった。ねえ、今回の数学難しくなかった? 問7のさ」
もういい。世間話に付き合っている暇はない。今すぐすり替えないと、間に合わなくなる。
「ところで舛戸くん。いつまで床に座ってるの?」
王媛は、そんなことをさも難しい問題でも見たように、本当に理解できないというように訊ねた。ああ、完全に意識を向けられている。詰みだ。
「ああ、ちょっと目眩がして。大丈夫だよ」
椅子に戻りながら、他のすり替えの手段に頭を走らせる。ダメだ。王媛の注意が向きすぎている。注視を躱せるすり替えは、屈む姿勢になる落とし物という方法以外には僕らは思いついていなかった。
回収に来た生徒に、何を書いたか自分でも定かでない解答用紙を手渡す。いくらかは気まぐれや解答の作業で覚えていた答えを書いたはずだが、しかし赤点は免れないだろう。
「でも顔が真っ青だよ。試験はこれで終わりだし、保健室に行ったら」
王媛の心配そうな声がコダマのように響く。正直、うるさい。
「いや。このあとはホームルームですぐ放課だしさ。帰ってから休むよ」
「そう? そういえばこの間から勉強頑張ってたみたいだし、疲れが出たのかもね。気をつけるんだよ」
「クソ、あの女!」
灰は声を荒らげて、自販機の横のゴミ箱を蹴った。中はそれなりに空き缶が詰まっているのかびくともせず、空洞同士が響くような間抜けな音が残った。
彼のそういう姿を見るのは初めてのことだった。普段飄々して冷静な彼がそうして怒りに任せる姿は神経質な過敏さを感じさせる。激昂する彼への恐怖よりも、哀れに感じる気持ちが勝った。
「真面目ヅラしやがって!」
「灰、落ち着け。誰かに聞かれるよ」
僕がそう諭すと、灰はいかにも不機嫌そうにベンチに腰を下ろした。
学校の中庭の一角、自販機コーナーで僕ら三人は集まっていた。理由は勿論、カンニングの事故である。一応、カンニングは露見しなかった。王媛は問題のすり替えを阻みはしたが、それは意識しての事ではない。僕がシャツの中に潜ませていた答案のことも知らない。
だがあの瞬間、露見する危険はすぐ目の前にまで迫っていた。僕らのカンニング作戦は、今回初めて明確に失敗した。
「ねえ、戸丹。もうカンニングはやめない? 今回はバレずに済んだけど、もしも次バレたりしたら」
倍良は僕に小声で訊ねた。怯えたような声音だ。こちらも僕の知らない彼女の表情だった。明らかに気分を害していて応答どころではない灰を避けてのことだが、灰はその耳打ちを聞きとがめて言った。
「やむを得ないな。危ない橋を渡り続けるのは」
灰は認めたくなさそうな様子で、校舎を睨むようにしながら言葉を切った。
「渡り続けるのは『怖い』か? それとも『辞めよう』と言おうとしたのか? 灰」
「……何だって?」
彼はこちらを睨んだ。その表情は険しいが、怖くもなんともない。彼は失敗を前に怒るという方法しか知らないだけなのだ。怯えることしか知らない倍良と何も変わることはない。
「倍良も冗談がキツいよ。いま辞めようだなんて。だってそうだろう? 僕らはようやく共通の敵を得た」
僕自身、やっと気付いた。僕がどこかで感じていた三人の関係に足りないもの、それは共通の敵だ。分かりやすい一つの敵を前にするからこそ、団結は確固たるものになる。
テストの点、愉悦の趣味、無駄の省略。それぞれに違っていた目的が、いまやっと統一化出来る。
「敵は王媛友奈だ。面白いのはここからだよ」
どうしてだ、と喚く声が痛快だった。
僕はクランメンバーに裏から声をかけた。無駄が多くマナーの悪い例のプレイヤーをクランから排除しようという動きは、概ね全員の支持を得た。
その日、僕らは彼に除名を告げた。彼は怒って何故かを問うた。僕らは懇切丁寧に彼の欠点を挙げ連ね、正当性がどちらにあるかを知らしめた。最初は強い口調だった彼も、自分の過ちを知るにつれ、どんどんとその勢いを失っていった。
彼は最後に謝って、仲間だと思っていた、などと甘い言葉を投げた。僕はそれに、こう返した。
「僕は癌だと思っていました」
彼はもう何も言わなかった。彼が消えた後、僕はいつも通りゲームをやろうと言ったが、メンバーは首を縦には振らなかった。
「今日はそんな気分じゃないわ、流石に」
そう言われれば仕方がない。クランを追われた彼の二の舞になっても面白くない。僕は軽く挨拶をして、PCから離れた。
無駄は明確に悪だ。見つけ次第、殺さなくてはならない。
しかし、中には他人に無駄を強いる者がいる。他人の邪魔をする者がいる。そういった者には、それがどれほどの悪行なのか思い知らせてやらねばならない。
王媛友奈、僕はお前を赦さない。