統合失調症になった僕「大学卒業後」
無事、大学を卒業し、12月には就職先が見つかり、新しい病院も見つけずに、大分県三重町へ向かった。
しかし、薬を飲んでいなかったので、仕事中、幻覚、幻聴の症状があるまま仕事をしていた。勿論、仕事は、中途半端な状態だった。
そして、夕方、自動車教習所に通い車の免許を取った。
一年後、大分市内に転勤になった。しかし、幻覚、幻聴がある為に、仕事をまともに出来ず、知らぬ間に隅っこの方に追いやられ仕事が出来なくなった。 三重町にいる時、阪神淡路大震災があったのと、仕事がまともに出来ないのが理由で総務課長から
「実家に帰りなさい。」と言われ、退社願いを提出した。しかし、実家には帰りたくなかった。もう一度、仕事を一からやり直したかった。そこで、とりあえず、車に荷物を放り込み賃貸マンションを出た。 まず、九州全県を回った。寝泊まりは、車の中でした。また、夜も寝ずに車を走らせた事もあった。そして、本州に渡り、高速に乗って東京へ向かった。夏の暑い時で、カ―エアコンをガンガンにきかせて走っていた。
退社時の貯金が36万円あったので、それで食費とガソリン代をまかなった。
東京に着き、夜の首都高を突っ走った。そして、源義経を思い出し、東北へ向かい、車の中で自殺しようかとも考えた。しかし、自殺する勇気はなかった。結局、日本を車で縦断した。どの土地へ行っても幻覚、幻聴は消えず、外にいる人の声(幻聴)が聞こえてきたりした。
「精神薄弱者だな。」という交通警察官の幻聴が聞こえたりもした。カ―ラジオで気を紛らわしていた。ある時、大阪で駐車していると、ZARDの
「負けないで」が聞こえてきた。
そして、とうとうしびれを切らし、神奈川のコンビニに入り、賃貸住宅情報誌を買い一番安い所はないかと探すと、千葉県九十九里町に月三万八千円のアパ―トが見つかった。 お金のなかった僕は、九十九里町のパン屋に寄りパンのみみを分けてもらい、それでなんとか食べ物には困らなかった。
アパ―トに住む為に、父親に公衆電話で連絡しお金を銀行に振り込んでもらい、なんとか、そのアパ―トに入居した。 固定電話があったので、アルバイト情報で仕事先を探した。
まず、人材派遣会社にあたった。
雇われた僕は、福山通運で荷物の仕分け作業をしたが、幻覚、幻聴のあった僕には、できるはずもなかった。
主任に叱られ、これは自分には出来ないと判断した僕は、直ぐに辞めた。
そして、しばらく、アパ―トで水だけの生活をした。
水を食料に、中小企業診断士の勉強をした。
しかし、いい加減、水だけの生活に疲れ、また、バイトを探した。S引っ越しセンタ―が見つかった。幻覚、幻聴の中で、仕事をこなしていった。体の大きかった僕は、この仕事は続けられる、と思い、しばらく続けたが、アルバイトの僕には、電話をしてもなかなか仕事が入らなかった。そして、とうとう、実家に電話をし、10月13日に帰るから、と父親に言った。
わずかな小銭と、大きなスポ―ツバッグを背負いアパ―トを出た。千葉駅でラ―メンを食べ、電車に乗り、持ち金、全部はたいて上野駅まで行った。