「以前からお慕いしておりました」――何をご存じなのでしょう?
連載版始めています。詳しくは後書きにて
エドガー・クライゼンは、自分がいつか結婚することについて、幼い頃からそれほど深く考えたことがなかった。王太子という立場にある以上、いずれ伴侶を迎える日は来る。それでも父であるローゼンから相手を決められたことは一度もなく、母であるアリシアから早く誰かを見つけるよう急かされたこともなかった。成人してから国内外の貴族や王族の娘を紹介される機会が増えても、二人の態度は変わらなかった。
ローゼンとアリシアの婚姻は、始まりだけを見れば政略的な意味を持つものだった。それでも二人は、婚姻を決められるより前から互いに想い合っていた。家同士の都合によって結ばれる相手が、自分の愛する人でもあったという幸運を二人は知っている。だからこそ、自分たちが恵まれていたからといって、息子にも同じ形の婚姻を求めようとはしなかった。
それを許せるだけの余裕が、この国にあったことも大きい。現在のクライゼン王国は、王太子の婚姻を利用して他国との同盟を取りつけなければ立ち行かない国ではない。外交上の利益を考えれば王族同士の婚姻にも価値はあるものの、そのためにエドガーの人生を使わなければならない理由はなかった。
「お前の結婚を国のために使う必要はない。だから、そのくらいは自分で決めろ。私たちが決めた相手と一生を過ごすことになって、後から文句を言われても困るからな」
「最後の一言がなければ、もう少し父親らしい言葉になったと思うわ」
「私は十分に父親らしいことを言ったと思うが」
「自分で言うことではないでしょう」
以前、夕食の席でそんな話をしたことがあった。ローゼンとアリシアの軽いやり取りを聞きながら、エドガーは笑っていた。両親が自分の意思を尊重してくれることはありがたかったし、王太子という立場にありながら結婚相手を自由に選べる自分が、かなり恵まれていることも理解している。
それでも、誰かと結婚したいかと問われれば、エドガーは素直に頷けなかった。結婚が嫌いなのではない。女性を遠ざけたいわけでもない。むしろ結婚というものに対しては、人並み以上の憧れを持っている。それを自覚するたび、原因が両親にあることも分かっていた。
エドガーにとって最も身近な夫婦は、ローゼンとアリシアだった。幼い頃には知らなかった二人の過去についても、成長するにつれて少しずつ理解するようになった。一度は夫婦となりながら離れ、アリシアは王宮を去った。ローゼンは息子が生まれたことさえ知らないまま年月を過ごし、その後の再会を経て、二人はもう一度同じ道を歩くことを選んだ。
そんな過去がありながら、今の二人を見ていると、長く離れていた時期があったことを忘れそうになる。ローゼンは今でもアリシアを大切にしており、アリシアも何かと夫へ小言を言いながら、結局は誰より彼を気にかけている。何気ないことで顔を見合わせて笑ったり、相手が疲れていることを本人より先に察したりする姿を、エドガーは幼い頃から何度も見てきた。
もちろん、いつも仲が良いわけではない。意見が合わず夕食の空気が悪くなったこともあれば、ローゼンが余計なことを言ってアリシアを怒らせた翌日に、息子へどうすればいいと思うかと助言を求めてきたことまである。それでも数日もすれば、いつもの二人に戻っている。互いに腹を立てることがあっても、それによって相手を嫌いになるわけではないのだと、二人を見ていれば自然と分かった。
エドガーにとって、夫婦とはそういうものだった。長所だけを好きになるのではなく、欠点まで知った上で同じ人を選び続ける。何年も、何十年も一緒に過ごし、その間に何度意見が食い違っても、最後には同じ場所へ戻ってくる。幼い頃からそんな夫婦を見続けたせいで、エドガーにとって結婚は憧れであると同時に、随分と高い場所にあるものになっていた。
自分にも同じことができるのだろうか。父が母を愛するように一人の女性を愛し、母が父を信頼するように自分を信頼してくれる人と出会えるのか。そう考えると、自信がなかった。誰かと結婚することを嫌がっているというより、中途半端な気持ちで相手を選ぶことの方が嫌だった。
相手を探す機会がなかったわけではない。エドガーが王太子として社交界へ本格的に姿を見せるようになると、彼へ近づこうとする女性は目に見えて増えた。夜会へ出れば必ず数人から声をかけられ、舞踏会では次の曲の相手を求められる。王宮へ手紙が届くことも珍しくなく、まだ二度ほどしか会ったことのない令嬢から、以前から慕っていたと告げられたことさえあった。
最初の頃は、エドガーも一人一人と真面目に向き合おうとしていた。けれど、以前の会話で好きだと言った本を次に会ったときには相手も愛読書だと言い始めたり、好みの料理を聞かれた数日後には、自分も同じ料理が一番好きだと言われたりすることが続いた。もちろん、本当に偶然だったこともあるだろう。それでも同じようなことが何度も重なれば、何を信じればいいのか分からなくなる。
相手が自分に合わせようとしていること自体は、好意の表れとも考えられる。それでもエドガーが知りたいのは、自分にとって都合のいい女性ではなかった。好きなものが違ってもいいし、考え方が合わないことがあってもいい。その人が何を好み、何を嫌い、どんなときに怒って、どんなことで笑うのか。それを知った上で好きになりたかった。
何より彼を戸惑わせたのは、ほとんど何も知らないはずの女性から強い好意を向けられることだった。好きだと言われるたび、嬉しさより先に、自分の何を好きになったのだろうという疑問が浮かぶ。容姿なのか、公の場で見せる振る舞いなのか。それならまだ理解できる。それでも、その好意の向こう側に王太子という肩書きが透けて見えることも少なくなかった。
エドガーと結婚すれば、いずれ王妃となる。王家との縁を求める家にとって、これ以上魅力的な婚姻はほとんどない。全員が地位だけを求めているなどとは考えていなかったし、自分を本当に好いてくれた女性もいるのだろう。それでも、彼女たちが見ているのはエドガーなのか、それとも次期国王なのか。その違いが分からなくなるたび、恋愛から一歩離れたくなった。
エドガーが肩書きというものに敏感なのには、理由があった。彼は四歳になる頃まで、自分が王族であることを知らなかった。アリシアと二人、小さな村で平民として暮らし、国王であるローゼンの存在さえ、自分とは遠い世界のものだと思っていた。
当時のエドガーには、王太子という肩書きなどなかった。村の人々はアリシアの息子として彼を知り、近所の子供たちは同じ村に暮らす友達として遊んでくれた。誰かが頭を下げることもなければ、機嫌を損ねないよう言葉を選ばれることもない。転べば笑われ、悪戯をすれば近所の大人に叱られた。
王宮へ来てから、世界は大きく変わった。同じ自分であるはずなのに、人々は頭を下げるようになった。年上の大人まで「殿下」と呼び、自分が何かを口にすれば、相手は以前より慎重に言葉を選ぶ。幼かった頃には理解できなかった違いも、成長した今なら嫌というほど分かる。
王太子になったからといって、エドガー自身が別の人間になったわけではない。それなのに、周囲から向けられる目はまるで違った。だからこそ、自分自身を見てもらうことがどれほど難しいのかを、エドガーは誰より知っていたのだった。
◇
春の終わり、そんなエドガーへ新しい縁談に近い話が持ち込まれた。午後の公務を終えたところでローゼンの執務室へ呼ばれ、中へ入るとアリシアまでいた。窓辺に置かれた椅子へ腰を下ろした母は茶を飲んでおり、エドガーを見るなり隣の席を軽く示した。
「来月、海洋国家から使節団が来る。その一行に第二王女が加わることになった。お前と年齢も近いらしい」
ローゼンから渡された書類へ目を通す。王女の名前はマリーナ。クライゼン王国とは長く交易関係にある国の王女であり、両国の関係は良好だった。資料には彼女の経歴や学んできた分野、扱える外国語やこれまで参加してきた公務まで細かく記されている。
「先方から、お前と王女を会わせてみてはどうかという話が来た。向こうも婚約を決めているわけではない。若い王族同士、気が合えば今後の話を考えてもいいだろう、という程度だ」
エドガーは書類から顔を上げた。先方の意図は理解できる。両国の王太子と王女で年齢も近いとなれば、婚姻の可能性を考えること自体は不自然ではなかった。
「父上は、どう思っているのですか?」
「どうとは?」
「私とマリーナ王女が婚約することについてです」
ローゼンは少し考えたあと、肩をすくめた。
「お前が望むなら反対する理由はない。望まないなら断ればいい。両国の関係はお前たちが結婚しなくても維持できるし、今さら婚姻一つでどうにかしなければならない状況でもないからな」
「私も同じよ。会ってみるくらいならいいと思うけれど、相手を気に入るかどうかまで私たちが決められるものではないでしょう」
アリシアの言葉を聞き、エドガーはもう一度資料へ視線を戻した。そこに書かれているのは、王女としてのマリーナだった。家柄、教養、得意な分野、王族として参加した行事。それをどれほど読んでも、一人の女性としてどんな人物なのかまでは分からない。
「……会うだけなら構いません」
エドガーはそう答え、書類をローゼンへ返した。期待していたわけではない。外国の王女であれば、普通の貴族令嬢以上に婚姻の政治的な価値を理解しているはずだ。今回も結局、自分より先に王太子という肩書きを見られるのだろう。そんな諦めに似た思いが、心のどこかにあった。
◇
数週間後、海洋国家の使節団が王都へ到着した。初めて会ったマリーナは、エドガーが想像していた以上に王女らしい女性だった。長旅を終えたばかりでも疲れを表情に出さず、ローゼンとアリシアへ丁寧に挨拶をする。エドガーへ向き直ったときにも姿勢は崩れず、柔らかな笑みを浮かべていた。
「お会いできて光栄です、エドガー殿下。父からも、クライゼン王国のお話は何度も伺っております」
「こちらこそ、お会いできる日を楽しみにしていました。長い旅だったでしょう。滞在中はゆっくりお過ごしください」
互いに非の打ち所のない挨拶を交わしながら、エドガーは心の中で小さく落胆していた。目の前にいるのは、どこから見ても完璧な王女だった。言葉も表情も整っており、何を話しても失礼になることはないだろう。自分も同じように、彼女へ王太子としての顔を見せている。
顔合わせを終えたあと、二人だけで庭園を歩く時間が設けられた。護衛は離れたところからついてきているものの、会話までは聞こえない距離にいる。若い二人に少しでも親しくなってもらいたいという周囲の意図が透けて見え、エドガーは内心で苦笑した。
王都までの旅について尋ねれば、マリーナが丁寧に答える。今度は彼女から王都の季節について質問され、エドガーが説明する。そこから両国の気候や交易の話へ移り、何度か互いに笑みまで交わした。どれも間違ってはいない。王太子と王女の会話としては、むしろ模範的と言ってもいいだろう。
それでも、ひどく退屈だった。エドガー自身も同じような話しかしていない以上、マリーナだけを責めるつもりはない。このまま一時間歩いたところで、両国について少し詳しくなるだけで、互いがどんな人間なのかは何一つ分からないだろう。
庭園の奥にある小道へ入ったところで、マリーナが足を止めた。何かを言おうとして迷っているらしく、後方を歩いている護衛へ一度だけ目を向ける。十分に距離があることを確かめると、先ほどまで崩さなかった笑みを消した。
「エドガー殿下。少し、よろしいでしょうか」
「ええ。何でしょう」
「先にお伝えしておいた方がいいと思うのですが、私は今回、婚約を前提として殿下とお会いすることに、あまり乗り気ではありませんでした」
あまりにも予想と違う言葉に、エドガーはすぐには返事ができなかった。自分との婚姻が両国にとってどれほど有益かを語られる可能性なら考えていたし、好意を示されることも想像していた。会って間もないうちに、そもそも乗り気ではなかったと告げられるとは思っていない。
黙ったエドガーを見て、マリーナが少し慌てる。どうやら拒絶するために呼び止めたわけではないらしく、言葉の選び方を間違えたと思ったのか、先ほどより早い口調で続きを話した。
「殿下がお嫌いだという意味ではありません。今日初めてまともにお話ししたのですから、好きか嫌いかなんて分かりません。それなのに、最初から将来の夫になるかもしれない方としてお話しするのが、どうにも落ち着かなくて」
エドガーは数秒、彼女を見つめた。相手が自分を好きなのか分からないと、こんなにも真正面から言われた経験はない。それなのに不快になるどころか、先ほどまで肩に入っていた力が抜けていくような感覚があり、やがて思わず笑ってしまった。
「……安心しました」
「安心ですか?」
「ええ。私も、まったく同じことを考えていました」
マリーナの目が大きくなる。先ほどまでの完璧な王女の顔とは違い、驚いていることがそのまま表情に出ていた。その顔を見た瞬間、エドガーは初めて資料の中の王女ではなく、目の前にいるマリーナという一人の女性を見たような気がした。
「殿下も?」
「まだあなたのことを何も知りませんから。先ほどから私たちは国の気候と交易の話しかしていないでしょう。このままでは、婚約相手として合うかどうか以前に、お互いがどんな人間なのかも分かりません」
マリーナは一瞬黙ったあと、堪えきれないように笑った。
「私も同じことを思っていました。先ほどから、これは外交会談なのではないかと」
「それなら、もっと大きな会議室を使うべきでしたね」
二人の間にあった緊張がようやく解けていった。先ほどまでなら相手の反応を考えて選んでいた言葉も、今なら少しくらい外れても構わないように思える。マリーナから、婚約するかもしれない王太子と王女としてではなく、今日知り合った者同士として話してみたいと提案され、エドガーも迷わず頷いた。
話題が本へ移れば、二人の好みはかなり違っていた。エドガーが面白いと思った本をマリーナは途中で読むのをやめており、理由を尋ねれば、登場人物の考え方がどうにも好きになれなかったと遠慮なく答える。今までならエドガーが好きだと口にした途端、同じものを褒め始める女性も少なくなかった。マリーナにはその気配がなく、エドガーが反論しても自分の意見を簡単には変えなかった。
意見が違うことが、こんなにも心地よいとは思っていなかった。相手の言葉に合わせて頷かれるより、なぜそう考えるのかを聞く方が、その人についてずっと多くのことを知ることができる。マリーナが自分とは違う感想を話すたび、エドガーは次に何を聞こうかと考えるようになっていた。
しばらく歩いたところで、話題が幼い頃へ移った。マリーナ自身が幼い頃には勉強から逃げたこともあると話し、その流れで何気なくエドガーへ顔を向けた。
「殿下は、幼い頃から王太子としてお勉強ばかりされていたのですか?」
その言葉に、エドガーは少しだけ歩みを緩めた。普段なら適当なところで話を濁す質問だった。王太子として教育を受け始めてからの話だけをして終わらせることもできる。それでも今日は、なぜかすぐに別の話題へ逃げる気にはならなかった。
エドガーが四歳頃まで平民として暮らしていたことは、王家が徹底して隠している秘密ではない。調べようと思えば知ることのできる人間もいる。それでも、エドガー自身は大っぴらに話さないようにしていた。平民だったことが恥ずかしいわけではなく、母と暮らした村での記憶は今でも大切にしている。
問題は、その先に必ず生まれる疑問だった。なぜ国王の実子が平民として育っていたのか。その問いに答えようとすれば、自分が生まれる前のローゼンとアリシアについて話さなければならない。二人が離れたことも、アリシアが王宮を去ったことも、その後にエドガーを一人で育てたことも、すべて繋がっている。
今の二人は幸せに暮らしている。だからこそエドガーは、その過去を面白半分に語られたくなかった。国王と王妃の昔話として誰かの酒席の話題になることも、母がどんな思いで自分を育てていたのかを他人に勝手に推測されることも好きではない。自分の過去であると同時に、両親の過去でもあるからだ。
いつもなら話さない。それでも、隣にいるマリーナを見ていると、ほんの少しだけなら話してもいいように思えた。彼女が先ほど、自分に好かれようと取り繕うより先に本音を伝えてくれたからなのかもしれない。
「……いいえ。少し違います。私は、幼い頃から王宮で育ったわけではありません。四歳になる頃まで、母と二人で小さな村に暮らしていました」
マリーナの表情に驚きが浮かぶ。
「王太子ではなかった、ということでしょうか」
「少なくとも、私は自分を王太子だとは思っていませんでした。自分が王族だということさえ知らなかったんです」
ここで止めてもよかった。けれど、エドガーは少し迷った末に、自分からもう一歩だけ踏み込むことにした。
「私は平民として育ちました」
マリーナは目を見開いた。その反応は当然であり、エドガーも彼女が次に何を聞くのか分かっているつもりだった。なぜ国王の息子が平民として暮らしていたのかと尋ねられれば、どこまで答えるべきか。その線引きを考えながら、次の質問を待った。
「……そうだったのですね」
返ってきた言葉に、エドガーの方が戸惑った。続きを待ってみても、マリーナは何も尋ねようとしない。興味がないとは思えず、エドガーは結局、自分から問いかけることになった。
「理由は、聞かないのですか?」
「聞いてもよろしいのですか?」
「……できれば、あまり話したくありません」
「でしたら、聞きません」
あまりにも迷いのない返事だったので、エドガーは思わず彼女を見た。驚いていることは表情から分かるし、理由を知りたい気持ちもあるのだろう。それでも彼女は、自分の好奇心より、エドガーが話したくないという意思を優先した。
「気にはならないのですか?」
「なりますよ。国王陛下のお子様が平民として暮らしていたと聞けば、理由を知りたいと思うのは普通でしょう。でも、知りたいからといって聞いていいとは限りません」
マリーナはそこで少し考え、言葉を選ぶ。
「殿下がお話ししたくなったら、そのときに聞かせてください。今日教えてくださったところまでで、今は十分です」
エドガーはすぐには返事をしなかった。自分から踏み込まなければ、彼女も踏み込んでこない。その距離が、不思議なほど心地よかった。これまで自分へ近づいてきた者の中には、少しでも王太子について知ろうと質問を重ねる者もいたのに、マリーナは目の前に知りたいことがあっても待つことができる。
「……父と母には、色々あったんです。今はとても仲の良い夫婦ですし、昔のことを私が勝手に話せば、二人ともいい顔はしないでしょうから」
「では、私も誰にも話しません」
「助かります」
再び歩き始めたエドガーの胸には、話してしまったことへの後悔がなかった。それどころか、自分とマリーナの間に置いていた見えない境界が、少しだけ薄くなったように感じている。彼女が王女だから信用したのではなく、彼女が踏み込まなかったから、もう少し話してもいいと思えた。その順序が、エドガーには何より大切だった。
◇
翌朝、エドガーは公務の予定表を眺めながら、午後に空いている時間があることへ気づいた。いつもなら読書にでも使う時間だった。使節団の予定を思い出し、マリーナが午後の会談には参加しないと聞いていたことまで自然と思い出す。そこまで考えてから、自分が無意識に彼女と会う方法を探していたことへ気づき、エドガーは予定表へ落としていた視線を止めた。
もう一度会いたいと思っている。婚約候補だからでも、昨日の話し合いで結論を出せなかったからでもない。マリーナについて、自分が知らないことがまだたくさんある。それを知ってみたいと思っている自分を認めると、エドガーは少し迷った末に侍従を呼んだ。
「マリーナ王女の午後の予定を確認してくれないか。時間があるようなら、王宮を案内したいと伝えてほしい」
侍従が承知したと下がったあと、エドガーは妙な気分になった。女性と会うために、自分から時間を作ったことなどほとんどない。これまでは紹介されれば会い、誘われれば応じることはあっても、自分から次に会う機会を求めた覚えはなかった。
午後、マリーナと再会すると、今度はエドガーから質問をした。彼女が暮らす国の政治や産業ではなく、マリーナ自身について知りたい。そう考えて幼い頃の話を尋ねると、彼女は最初こそ王女らしく答えていたものの、やがて海の話へ移った途端、表情を明るくした。
海洋国家の王宮は海に近く、マリーナは幼い頃から港を眺めるのが好きだった。王女でありながら船への興味が強く、商船と軍船の違いを語り始めると驚くほど詳しい。幼い頃には侍女の目を盗んで港へ行こうとして王宮中を騒がせたこともあり、結局は門を出る前に見つかって何日も外出を禁じられたという。
話しているうちに、マリーナの口調から王女らしい堅さが消えていく。船の話をするときには身振りまで増え、最初の顔合わせで見せていた整った姿とは随分違う。その変化を見ていると、エドガーは初日に渡された資料には決して書かれていなかった彼女を、一つずつ見つけているような気分になった。
「殿下は、海をご覧になったことがありますか?」
「ありません。この国も海へ出る地域はありますが、私は行ったことがないので」
「一度は見た方がいいですよ。朝と夕方でも全然違いますし、風の強い日と穏やかな日でも違うんです。晴れた日の夕方なんて、本当に綺麗ですよ」
「随分と好きなのですね」
「はい。大好きです」
迷わず答えたマリーナの表情を見て、エドガーは少し笑った。誰かの好みに合わせるためではなく、彼女自身が好きだから好きだと言っている。その当たり前の姿が、エドガーには心地よかった。
「でしたら、いつか見てみたいですね」
「では、私の国へいらしてください。私が一番綺麗な場所をご案内します」
エドガーは、まだ見たことのない海を想像した。どこまでも広がる水面について、知識としてなら知っている。実物を目にしたとき、自分がどんな感想を持つのかは分からない。それなのに頭に浮かんだ景色には、なぜか一人ではなく、隣で海について楽しそうに話しているマリーナがいた。
「……楽しみにしています」
社交辞令として口にしたのではなく、本当に行ってみたいと思っていた。海を見ることそのものより、彼女がそこまで好きだと言う景色を、彼女と一緒に見てみたい。その気持ちが何なのか、エドガー自身はまだ分からなかった。
◇
それから使節団が帰国するまでの間、エドガーとマリーナは何度か会った。王宮の図書室で互いの国の本を紹介し合い、庭園を歩きながら幼い頃の失敗について話す日もあった。最初は互いの立場を考えて選んでいた話題も、数日もすれば随分と気楽なものへ変わり、エドガーが王太子らしくない失敗を話せば、マリーナも王女らしくない昔話を返すようになった。
大きな出来事が起きたわけではなく、二人の関係を一変させるような事件もなかった。それでもエドガーは、マリーナと会う時間を楽しみにするようになっていた。公務が予定より早く終われば、今日はもう少し話せるかもしれないと思う。彼女の知らなかった一面を見るたび、次は何を知るのだろうと考え、同時に自分のことも少しずつ話したいと思うようになっていた。
使節団の帰国日が近づいてきた頃、そんな日々にも終わりがあることを意識するようになった。マリーナが国へ帰れば、今のように午後の予定が空いたからと気軽に会うことはできない。海を隔てた国に暮らす以上、次に顔を合わせられるのがいつになるのかも分からず、そのことを考えるたびにエドガーの胸には小さな焦りが生まれた。
自分は彼女を好きなのだろうかと、何度も考えた。会えば楽しい。もっと話したいし、自分の知らない彼女を知りたいと思う。帰国すると聞けば残念に感じ、次にいつ会えるのかが気になる。それでも、父が母へ向けているほどの愛情を自分も抱いているのかと問われれば、そこまでの感情にはまだ届いていないように思えた。
その夜、家族で夕食を取っていたエドガーは、向かいに座る両親を何気なく眺めていた。ローゼンが食後も仕事へ戻るつもりだと言えば、アリシアが今日は休むように言う。まだ仕事が残っていると言い返す夫へ、朝から働き続けていたでしょうとアリシアが返し、しばらく言い合った末にローゼンが折れた。
「分かった。今日は戻らない。それでいいだろう」
「最初からそう言えばいいのよ。明日倒れて、余計に仕事を増やす方が困るでしょう」
ローゼンが何か言い返そうとして諦めると、アリシアは満足そうに茶へ手を伸ばした。その様子を見ていたエドガーは、昔から何度も似たようなやり取りを見てきたことを思い出す。長く一緒に過ごしてきたからこそ、相手の性格も悪い癖もよく分かっているのだろう。
そこでようやく、エドガーは自分が何を怖がっていたのかを理解した。自分は誰かと出会った時点で、すでに父と母のように愛し合っていなければならないと思っていたのだ。相手を疑わず、一生を共にしたいと迷わず決められるほどの感情がなければ、婚約する資格などないように考えていた。
けれど、目の前にいる二人は長い年月を一緒に生きてきた。離れていた時期もあれば、互いの気持ちが分からなくなったこともあったはずで、再び一緒になってからも今日まで数え切れないほどの日々を積み重ねている。エドガーが見ているのは、二人が長い時間をかけて築いた現在の姿だった。
今の二人だけを見て、自分も最初から同じ場所へ立とうとしていたのだと思えば、これまで抱えていた不安が少し馬鹿らしくなった。マリーナを愛しているかと聞かれれば、まだ分からない。それでも彼女のことをもっと知りたいし、明日も会いたい。来年も、その先も話してみたい。彼女が好きだという海を、いつか隣で見てみたい。
そこまで考えたとき、エドガーの中で初めて、婚約という言葉が重荷ではなく未来として浮かんだ。婚約した瞬間に完成された夫婦にならなければならないわけではない。二人で過ごす時間の中で、今より少しずつ相手を大切に思えるようになればいい。父と母のようになるのではなく、マリーナと自分にしか作れない関係を探せばいいのだと思えた。
◇
翌日、エドガーはマリーナを庭園へ誘った。使節団が帰国する前日であり、彼女が王宮を離れてしまえば、次に二人きりで話せる日がいつになるのか分からない。最初に本音を明かした場所まで歩きながら、エドガーは何度か伝える言葉を頭の中で組み立てていた。
あの日は互いに婚約へ乗り気ではないと言い合った場所だった。わずかな日数しか経っていないのに、今ではあのときより彼女について多くのことを知っている。海が好きなことも、本については自分とかなり趣味が違うことも知った。それでも、まだ知らないことの方が圧倒的に多い。
「マリーナさん。一つ、正直に答えてほしいことがあります」
「何でしょう?」
「今、私のことが好きですか?」
マリーナは目を見開き、すぐには答えなかった。冗談で尋ねているわけではないと分かったのか、しばらく真剣に考えた末、困ったように眉を下げる。
「……まだ、分かりません」
「そうですか。よかった、私も分かりません」
マリーナが一瞬呆気に取られ、次いで呆れたように笑う。
「では、どうしてそんなことを聞いたのですか?」
「あなたが好きだと言ったら、少し困ると思ったからです。私はまだ、同じ言葉を返せませんから」
エドガーは彼女へ向き直った。格好のいい告白ではないだろうし、恋愛物語に出てくるような言葉でもない。それでも、自分の中にまだない感情をあるように装って始めることだけはしたくなかった。
「私はずっと、結婚するなら自身の父上と母上のような関係を築かなければならないと思っていました。あの二人を見て育ったので、それが私にとって夫婦というものだったんです」
マリーナは口を挟まず、エドガーの言葉を待っている。その姿を見ていると、最初に平民だった過去を打ち明けた日のことを思い出した。あのときも彼女は、自分が続きを話すまで待ってくれていた。
「だから、私は自信がありませんでした。誰かをあれほど愛せるのか。誰かからあれほど愛してもらえるのか。そもそも、王太子ではなく私自身を見てくれる人と出会えるのか。それが分からなくて、婚約すること自体から遠ざかっていたのだと思います」
エドガーは手を差し出した。目の前にいる女性を愛していると断言するには、二人が一緒に過ごした時間はまだ短い。それでも、この先も彼女と過ごしたいという気持ちなら、もう迷う必要はなかった。
「まだ、あなたを好きなのかは分かりません。ですが――あなたを愛してみたいと思っています。これから先、あなたを知っていきたい。あなたにも私を知ってほしい。その時間を、婚約者として一緒に過ごしてもらえませんか」
マリーナは差し出された手を見つめた。エドガーは返事を急かさず、そのまま待つ。やがてマリーナはゆっくりと顔を上げ、少しだけ困ったように笑った。
「それは、婚約のお申し込みですか?」
「そのつもりです。あまり上手ではありませんでしたか?」
「いいえ。私も、殿下を好きなのかはまだ分かりません。でも、帰国するのが少し寂しいと思っています。もっとお話ししたかったとも思っています」
彼女は一歩近づき、エドガーが差し出していた手へ自分の手を重ねた。
「だから、私もあなたを愛してみたいです」
「では――」
「はい。喜んで、お受けします」
二人は顔を見合わせて笑った。エドガーはその瞬間にも、胸が激しく高鳴って何も考えられなくなるような感覚を覚えなかった。代わりに、この人となら急がなくてもいいのだという穏やかな安心が胸の中に広がっていった。
次の日も、その次の日も、何年もかけて知っていけばいい。今はまだ知らない彼女の姿を一つずつ知り、自分についても一つずつ話していく。その先でいつか、迷わず好きだと言える日が来ればいい。エドガーには、その未来を想像することの方が、今ここで永遠の愛を誓うよりも自分たちらしく思えた。
◇
翌朝、海洋国家の使節団が王都を発つ頃には、二人の婚約について双方の王家へ話が伝わっていた。正式な手続きはこれから進められることになり、両国にとって歓迎すべき婚姻であることに違いはない。それでもエドガーにとって、国同士の利益はマリーナを選んだ理由ではなかった。外交上の利点などなくても、昨日と同じ答えを出していたと思える。
王宮前には出発を待つ馬車が並び、使節団の者たちが最後の確認をしていた。エドガーが見送りに出ると、すでに旅装へ着替えていたマリーナがこちらへ歩いてくる。昨日まではいつでも会えるように感じていたのに、もう少しすれば彼女はこの場所からいなくなると思うと、胸の奥に小さな寂しさが生まれた。
「殿下、約束は覚えていらっしゃいますか?」
「海を見せてくださるのでしょう?」
「はい。私が一番好きな場所へご案内します」
「随分と期待させますね。これで普通の海だったらどうするのですか?」
「殿下は海をご覧になったことがないのでしょう? でしたら、何を見せても一番綺麗な海だと言い張れます」
得意そうな顔で言われ、エドガーは思わず笑った。
「それでは、海について勉強してから伺うことにします」
「それは困りますね。できるだけ早くいらしてください」
マリーナも笑い、やがて出発を知らせる声がかかると馬車へ乗り込んだ。エドガーはその場を離れず、使節団が王宮の門を抜け、その姿が見えなくなるまで見送った。昨日までなら午後になれば彼女と話せたのに、今日はもういない。その違いを思っただけで、胸の中にぽっかりと小さな空白が生まれたような気がした。
まだ好きなのか分からないと言った翌日に、帰ってしまったことを寂しがっている。次に会ったとき、その話をすればマリーナに笑われるかもしれない。それでも悪くないと思いながら、エドガーは遠くなった馬車の進んだ方角から視線を戻し、王宮へ向かって歩き出した。
愛しているから婚約したわけではない。この先必ず愛せると確信していたわけでもない。それでも、まだ知らないことばかりのマリーナをこれから知っていきたいと思った。いつか心から愛していると言えるようになればいいと、そのときのエドガーは考えていた。
もっとも、その心配は必要なかったらしい。それから年月を重ねるほどエドガーはマリーナを好きになり、かつての迷いが馬鹿らしくなるほど、彼女を深く愛するようになったのだから。
評価&ブクマありがとうございます!励みになります。
前書きの通り、長編化あります。アリシアとローゼンの二人の話になります。
『私を捨てた貴方と、もう一度恋をすることになるなんて聞いてません』
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