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若い令嬢に婚約者を奪われた「おばさん令嬢」が掴んだ幸せ

作者: 風谷 華
掲載日:2026/06/10

今日もお疲れ様です。お読みいただきありがとうございます。

「レイナ・ダルトン。君との婚約はもう必要ない。君は、もうおばさんだろ?」


婚約者セバスチャンの冷たい言葉が、春の穏やかな光が差し込む社交クラブの休憩室に響いた。

数人の淑女達が、おばさん、という響きに眉を顰め扇で口元を隠しながら、チラチラとこちらを見てくる。


社交界のお姉様方に嫌われたわね、と思いながら私は答えた。


「そうですね。分かりました」

なんせ私、今年で三十歳になったので。

貴族にとって世継ぎを作ることは重大な仕事の一つである。

そのため、三十歳をすぎると一気に結婚しにくくなることは、理解してる。


セバスチャンの隣には、十八歳くらいの可愛らしい女性が寄り添っていた。

男爵令嬢のミレイユ・ブラン。

亜麻色のふわふわな柔らかい髪、うるうるの大きなブラウンの瞳はまるでヒロインのようだった。


ミレイユはセバスチャンの腕に縋りつきながら、私をチラリと見て、すぐに視線を逸らした。

(かわいそうに。お・ば・さ・ん)と私にしか見えないように、ミレイユの口元が動いた。


「三十を過ぎたおばさんを、私の妻にするつもりはなくなったんだ。ああ、そうなると公爵家の後継がいなくなるよね?君は一人娘だから。しょうがないから、僕が次の公爵になってあげてもいいよ。ほら僕、次男だし」


セバスチャンは周りの刺さるような視線がわかっていないのか、軽快に言葉を続けていく。


セバスチャンと結婚した後、私は女公爵になる予定だった。

この国で女性が爵位を継ぐための絶対条件は――伴侶がいること、だった。


「君は頭がいいし、実務家としては百点満点。でもさ、男が妻に求めるのって、可愛げと若さなんだよね。あと素直さも。君がさ、ミレイユに勝てるとこってある?ないよね?だったら、婚約解消されても文句は言えないよね。ああ、もちろん、僕が公爵になった後、君を雇ってあげるから、安心して仕事をしたらいいよ」


は?寝言は寝て言えよ?脳内お花畑か?


胸の真ん中に、スーっと冷たい風が吹き込んできた。

こんな男を一時でも信じて愛していた過去の自分、張り倒してやりたいーー。


三年前、私に婚約を申し込んできた時から、このシナリオを描いていたんだろうか。

二十七歳のとき、セバスチャン・ファーヴェルに婚約を申し込まれた。

セバスチャンはファーヴェル伯爵家の次男で、伯爵家は放漫経営による借金まみれだった。


「家が苦しいから、ダルトン公爵家の取引先をうちにも紹介してほしい」と言われれば、笑顔で取引先を紹介した。

「僕の名義で、有力貴族への根回しの手紙を書いて欲しい」と言われれば、徹夜で代筆をした。

「大きな商談なんだ。ダルトン公爵家の後ろ盾でまとめて欲しい」と言われれば、喜んで後ろ盾になった。


「レイナ、君は頼りになる。愛しているよ。伯爵家が持ち直したら、結婚しよう」

その言葉を信じて、私はセバスチャンのために働き続けた。



私の働きのおかげで、ファーヴェル伯爵家の財政はメキメキと改善していった。

そして、私の結婚のための持参金は気づけば底をつき、私が三年で築いた人脈は全てセバスチャンのものになった。


………ああ、そういうことだったんだ。


私は最初から婚約者ではなく、ただの便利な道具、として見られていたんだ。

頭の奥で、もっと古い記憶が蘇ってきた。


八歳の冬、母が病気で死んだ。

母は女公爵だった。

父オーウェンは、母に見初められて婿に入った人だった。


母は賢くて、美しくて、とても強い人だった。

そして父の不器用なところを、いつも楽しそうに笑いながら助けていた。


その母が急死した時、ベッドに三日間潜りっぱなしで泣き続けた。

使用人達が困り果てる中、幼い私は、泣いている父の代わりに公爵家の使用人達に指示を出さなければならなかった。

私だって、母が死んだことが悲しくて辛かったのに。


「今夜の夕食は、お父様の好きなポトフにしてあげてください」

料理長にそう告げた日から、私の戦いは始まった。



父は、いい人ではある。母のことも私のことも、心から愛してくれている。

ただ、途方もなく不器用で、失敗ばかりするポンコツだった。


商人に騙される。

書類の桁を読み間違える。

詐欺にあう。


母がいなくなり、ポンコツ公爵が爆誕し、ダルトン公爵家はピンチだった。


九歳で使用人の取りまとめ、十歳で帳簿の読み方をマスターした。

十四歳で父が国際条約の落とし穴に嵌められた時は、寝る間を惜しんで法律を学んだ。

二十歳になる頃には、社交界のどんな人間がどう嘘をつくか、一目で見抜く目が育っていた。


ダルトン公爵家は何回も、土地と爵位を失いかけたが、その度に娘の私が奮闘してなんとかしてきた。


当然、華やかな社交界デビューなんて、まともにできるはずがなかった。

ドレスを着て馬車に乗った瞬間、父がトラブルを持ってくる。

「大変だ!レイナ!」と書類を持って、泣きながらやってくるのだ。


「公爵令嬢なのに、働き者で偉いわ」

周囲はそう褒めてきた。でもその裏で、ポンコツ公爵と鬼のような令嬢、とを囁きあっていることを、私は知っていた。


すべてのきっかけは、お父様と二人でお茶会に出席していた時だった。

お父様の失敗を主催者の伯爵から聞かされ、私たちは笑いものにされ、限界だった。


お茶会の最中、庭の隅の茂みに移動し、誰もいないことを確認してから、我慢できずお父様を叱り倒した。

その前日もお父様の尻拭いで徹夜をしていて、どうしても我慢できなかったのだ。


だが、たまたま通りがかった伯爵家の使用人に見られてしまった。

死角だと思っていたのは、勘違いだった。

そこからポンコツ公爵と鬼のような令嬢という不名誉なあだ名が、爆発的に広がった。


それでも、私は夢を見ていた。

二十歳の時も、二十五歳の時も、私を迎えにきてくれる王子様の存在を待っていた。

公爵家の一人娘にも関わらず、爵位目的の婚約申し込みすら一つももらえなかった。


私は、そんなに怖い令嬢に見えていたのだろうか。


結婚を諦めかけていた二十七歳の時、セバスチャンが現れた。

初めての婚約申し込みにドキドキし、セバスチャンのためになんでもしようと思った。




胸の奥が、チリチリと焼けるように痛む。

私はゆっくりと立ち上がった。


セバスチャンが、泣き喚かれたら困るな、と身構えた。

その隣で、ミレイユが勝ち誇った目で見てきた。


私は微笑んで、はっきりと伝えた。

「婚約解消は承りました。しかし、あなたを公爵にすることはありません。分家筋から養子をもらうこともできますし。お家乗っ取りは重罪ですから、きっとご冗談をおっしゃったのですよね」


セバスチャンは赤くなったり青くなったりしながら、小声で呟いた。

「あ、ああ。もちろん冗談だよ。そして婚約解消の了承ありがとう」


「そうそう。一つだけ、伝えておきますね」

去って行こうとするセバスチャンに向けて、親切な私は言ってあげることにした。


「は?なんだ……?早く言え!」


「婚約期間中、私の個人名義、およびダルトン公爵家の保証の元で結んだ、ファーヴェル伯爵家の大口取引契約が複数あるのを覚えておいでですか?」


セバスチャンの眉が、ぴくりと動いた。


「今朝をもちまして、それらすべての契約の取り消し申請を法務府に提出いたしました。明日から、ファーヴェル伯爵家のお取引はすべて白紙になります。王国商法第四十二条ーー婚約不履行に伴う名義保証の撤回に基づいて」


セバスチャンの顔から、一瞬で血の気が引いた。

「な、なにを勝手なことを!?正気か?そうなったら我が家の流通は完全に止まってしまうではないか!許さんぞ!レイナのくせに!」


「まあ。捨てるほど価値のないおばさんの保証など、必要ないでしょう。セバスチャン様は優秀なのですから、きっとどうにでもなりますわ」


「ちょっと待て、レイナ!待てってば!保証を元に戻せ!生意気だぞ!」

「え?やだ!ちょっと!レイナ様〜〜!こんなのひどいですぅ。私が若くて可愛いから、嫌がらせするなんてぇ」

焦るセバスチャンと新しい婚約者のミレイユが叫んでいるが、相手にはしない。


「では、ごきげんよう」


「レイナ!!そんなに偉そうにしてられるのも、今のうちだけだからな!おい!待て!!」



背後からのキャンキャンと喚く怒声を無視して、私は休憩室を後にした。


今日婚約解消されることは、知っていた。ミレイユがわざわざ知らせてくれたから。

いい根性してるわ、あの子。



私たちは偶然にも、昨日同じお茶会に参加していた。


「公爵令嬢のくせに、これっぽっちも綺麗じゃないお・ば・さ・ん。もう身の程をわきまえて退場してくださーい!」

「明日があなたの最後の舞台になるんだから、教えて差し上げたのよ。ミレイユってば、すっごく優しいでしょ?」

「最後くらい、少しは綺麗に着飾ってきたらどうかしら? 恋のライバルがブスでダサいおばさんだなんて、私のプライドが許さないのよね」

確か、あの脳お花畑な男爵令嬢は、昨日私の目の前でそんなことをほざいていたかしら?


――ふふ。でもね、お嬢さん。


私はあんたたちが思っているような、婚約解消を突きつけられて悲劇のヒロインぶって泣き寝入りするような、純粋な、甘っちょろい令嬢ではないのよ。


なんせ、あんたたちが太鼓判を押してくれた、()()()()、ですからね。伊達に修羅場はくぐっていないの。


というか、まだ三十歳なのよ。おばさんって、失礼すぎるわ。


なんにせよ、ここから新しい人生が始まる!

ダメ男もいなくなったし、めいいっぱい人生楽しませていただくわ。



ーー


人生を楽しむわよ!!

と、意気込んで、呑気に屋敷にこもって楽しく過ごそうとしていた私だったが、そうは問屋が卸さなかった。


婚約解消の翌週、ポンコツ代表の父が大きな声でわんわん泣きながら私の部屋に走り込んできたのだ。


もう〜〜っ、なにっ?55歳のおっさんの態度じゃないよね?中身三歳児かよ!


読んでいた本と赤ワインの入ったグラスを置いて、父に向き合った。

「お父様、まず落ち着いてください。今度は何をしでかしたのですか?」


「落ち着けないんだヨォぉぉぉ!レイナぁぁぁ!!今回ばかりは、本当に、取り返しのつかないことをしてしまったんだぁぁぁ!!!」


いつもよりも激しく泣く父が泣き止むのを待って、ゆっくりと父の話を聞いた。


父の話は、考えつく中で最悪のものだった。


父は王都で大流行していた魔鉱石マナ・クリスタルの採掘事業に投資していた。

新興の投資組織から「愛娘のレイナ嬢に、王太子妃並みの結婚式をしてあげられる金を用意できる」と甘い言葉で誘惑され、父はレイナへの愛ゆえに、公爵家のすべての土地と財産を担保に投資を決めてしまったのだという。


当然、それは巧妙に仕組まれた詐欺だった。

そして土地の所有権は、すでに詐欺師達に渡っていた。


「投資の話がある時は、まず私に相談してください、と言っていましたよね?」

「や・く・そ・く、破ったんですね?」


「びっくりさせたかったんだよ。結婚式が豪華にできたら、レイナちゃん喜ぶと思って」


「その婚約なくなりましたけどね。私、振られたんです」

キィーーッ、と睨んでやった。


「ご、ごめんよ。思い出させちゃって。でも、レイナちゃんに幸せになってもらいたくてさ」

ビクビクと縮こまりながら、ポンコツ公爵は呟く。


こんなんだから、ポンコツ公爵と鬼のような令嬢って噂されるんだわ。もう嫌。



「それで……本当に、全部、ですか?」


「全部だ……。屋敷も何もかも。使用人達への給与も払えない。爵位だけは残るんだけど、まあ平民と変わらんなぁ」


頭の中が、真っ白になった。

母が、そして代々の当主たちが何百年もかけて守り抜いてきた、あの豊かなダルトン公爵家が。一瞬で、すべてなくなった。


「レイナ」

父が真っ赤に泣き腫らした目で、じっと見てきた。

「本当に、死んでお詫びしたい。でもレイナのことだけは、守りたいと思ったんだ」


父は震えるてで、懐から一通の羊皮紙を取り出した。

「だから、北方辺境伯、ヴァルク・クレイヴ殿に縁談をお願いしてきたよ」


ヴァルク・クレイヴという名前を、王都の令嬢で知らないものはいない。

彼は顔に凄惨な傷を持ち、無口で冷酷らしい。野獣のような辺境伯と恐れられ、令嬢達の間で絶対に結婚したくない男ナンバーワンとして噂されている。

過去七年で六人の花嫁候補が、その恐ろしさに耐えかねて逃げ帰ったと言われている。


「持参金は一切不要。それだけじゃなく、父さんがどうなっても、レイナだけは辺境伯夫人としての権利を永久に保証してくれると、約束してくれたんだ。私が平民になっても、レイナだけは守ってもらえるようにと……」


ああ、お父様。

こんな状況の中で、なんとか私だけでも助けたいと思ってくれたことは、嬉しい。

でも、なんで、結婚したくない男ナンバーワンと話をつけてくるかな。


「レイナ、嫌なら断ってもいい。私と一緒にのたれ死のう。でも愛する娘には生きていて欲しいんだ……」

と言って、また泣き始めるポンコツ公爵。


ソファで泣き崩れる父を見て、怒りがなくなってきた。

不器用で、いつも空回りして、最後の最後で最大の失敗をやらかす父だけど、

私と母への愛だけは、いつだって本物だった。


「わかりました。北の辺境伯と結婚します」

「レイナ……っ!!」

「もう、泣かないでください、お父様。私、お父様の娘として、北の地へ参ります」



出発の前夜、父は私に小さな木箱を差し出してきた。

嫁入り道具か何かかと思ったが、違った。

「レイナにこれを預けてもいいかな?あの詐欺師達と交わした投資契約書の原本なんだけど、捨てるのもなんだか気が引けてなぁ」

箱を開けて、契約書を広げてみた。

見ると、第三条の「投資原本の返済責任、および不履行の違約条項」という最も重要なところが、不自然なインクの染みで真っ黒に潰れていた。


「お父様。また、署名の時にインクで汚したんですね?」

「う、うん。古代魔法士が契約書を魔力で固定する直前に、手が震えてインクをこぼしてしまって。詐欺師達は『内容はもう決まっているんだから構わん、早く固定しろ』と笑って、そのまま魔法で契約書を固定したから、シミが残ったままなんだよね。最後の最後まで、ミスばかりで恥ずかしい」

顔を赤くするポンコツ公爵は、今日もしょんぼりしている。


「そうですね。騙される時も、ポンコツでなんか笑っちゃいます」

「わかりました。お父様、この契約書、私が預かっておきますね」

ふうっ、と息を吐きながら父の契約書を受け取った。


「体に気をつけてな。どこにいても、愛しているよ」

「はい。お父様も。」

父をギュッと抱きしめて、平民として生きる父のこれからの苦しみを想像すると、涙が止まらなかった。

それに、もしもう二度とお父様に会えなくなってしまったらどうしよう、と思ってさらに涙が止まらなくなった。


ーー



王都から馬車に揺られること十日。

馬車の窓から見える景色から、緑が消え、灰色の岩肌と白い雪が見えるようになった。

凍りつく冷たい風が吹く、クレイヴ辺境伯領の城に到着した。


私を出迎えてくれた男は、噂通り野獣のような見た目をしていた。

背が高く、ゴツゴツと岩のような体。左頬から顎にかけて、深い傷があった。

そして灰色の目は、北方の空のように冷徹だった。


「よく来たな」

野獣の呻き声のような低い声に、心臓がギュッと掴まれた気持ちになった。


「レイナ・ダルトンと申します。今日からよろしくお願い致します」

寒さでぎこちなくなりながらも、カーテシーをした。


「あなたの部屋は用意してある。荷物を置いたら、食堂へ来い」

それだけ言うと、彼は一度も振り返らずに立ち去った。


さすが、王都の令嬢たちが結婚したくない男、ナンバーワンだ。

でも、私はここでやっていくしかない。

大丈夫かな、私……。


使用人達も、近寄ってこない。どうせまたすぐに逃げ出すのだろう、と思っているのだろう。



その日の夕食は、とても静かだった。

ヴァルクも私も、無言で素朴な根菜のスープを口に運ぶ。


不意に、ヴァルクが口を開いた。

「ここに期待をするな。ここでは王都のような贅沢はできないし、煌びやかな社交もない。冬になれば半年は雪に閉ざされる。役に立たないものに存在価値はない。そしてどうせあなたも、すぐに逃げ出すのだろう」


存在価値はない、か。

お父様が無理に結婚をお願いしたから、怒っているのかしら。

にしても、どうやってこの冷酷な辺境伯爵に頼み込んだんだろう。

あの人、ポンコツなんだけど、人に愛される力だけは半端ないのよね。


「存在価値がないかどうか、まだわからないですよ?それに、逃げ出したくないって、思っています」

私はスプーンを置き、まっすぐに灰色の瞳を見つめた。


ヴァルクの手が、ピタリと止まった。

城の使用人達も、一斉に息を呑んで見守っていた。



ーー

最初の三日間、ヴァルクは私を完全に放置した。

でも、それは私にとって、とても心地よいものだった。


誰の顔色も伺わなくていい、ドレスで着飾る必要もない。

おばさんだと嘲笑う、社交界の視線もない。

お父様が何かをやらかして、夜中に火消しに走る必要もない。


誰も私のことを気にしていないから、自然体でいることができた。


お母様が亡くなってから、私、頑張ってたんだな。

はあ、想像していた以上に北の大地は自由で、心が軽くなってく。



四日目、のんびり散歩中のことだった。

私は城の東棟の奥で、埃を被った帳簿室を見つけた。

そこには、乱雑に積まれた帳簿の束が置かれてあった。


ちょうどいい、暇つぶしだわ。


私はウールの地味な深い緑色のドレスの裾を捲り上げ、羽ペンを取り出した。


「ああ。楽しいわ。王都で社交をするよりも、数字と向き合っている方が満たされるわ。

北の辺境伯の会計はどんな感じかしらね」



数週間後、帳簿室のドアがバタンっと勢いよく開かれた。

夫のヴァルクだった。


綺麗に仕分けされた書類の山と、びっしりとメモが書かれた計算書の山。

それらを見て、ヴァルクは硬直していた。


「はっ……こんなところで、あなたは何をしているんだ?」


「ここの会計書類を確認しておりましたの。面白いことを見つけましたのよ」

ふふっ、と艶っぽく笑って、ヴァルクに向かって大人の余裕たっぷりにウィンクしてみせた。


「お、面白いこととは……一体なんだ。焦らさずに、教えてくれ」

ヴァルクは私と視線を合わせることすらできず、額に冷や汗をにじませながら、気まずそうに床を見つめて声を絞り出した。


「仕方ないですねぇ。面白いこととは、ゴルドヴァの関税についてですの。三十年もの間、支払う関税の計算式を間違えていたようですわ。

この申請書を王都の法務府へ提出すれば、我が領に過払金が戻ってきます」

「国家予算レベルの巨額の富ですよ」


ヴァルクは無言で書類を手に取り、数字を追った。


「な、なんと…。これを……あなたが、見つけてくれたのか?」

ヴァルクはコホンっと咳払いをしながら訊ねた。


「ええ、そうですね。私、帳簿を見るとつい、数字が正しいか確認してしまうんです」

「うちのポンコツな父は、ミスのオンパレードだったので」


ヴァルクは何も言わずに青ざめた顔で書類を置くと、足早に部屋を出ていった。


バタン、と締まりかけた扉の向こうから、

「変わったやつだ。しかも、有能すぎる……。まさか、あいつは本当に、逃げる気がないのか……?」

という小さな独り言が聞こえた気がした。



ーー


それから私は、領内を一人で歩き回った。

農民達の声を聞き、一緒に農作業をする日もあった。

一緒にパンを焼き、保存食を作る日もあった。


夏の終わりに流行る子どもの熱病の話を聞いた時、薬草を煎じた。

私の母は薬草に詳しかったので、子どもの熱に()()()()が効くと知っていたから。


裏山で薬草を摘んで、煎じたものを村の母親達に配った。

数日後には子どもたちの熱がスーーっと下がった。


「奥様、本当にありがとうございます!!」

若い農夫が、何度もお礼を言ってくれた。


王都では誰かにお礼を言われることなんてなかった。

お父様のミスに対して、必死で頭を下げる日々だったから。


お礼を言われることに、複雑そうな顔をしていたら、

「奥様は、お若い頃にどんな苦労をなさってきたんじゃ?」

と、村の老婆に聞かれてしまった。


「実は、母が子どもの頃に亡くなってから、父の仕事の後始末だらけの人生だったんですよね。私の父は、ポンコツ公爵ってあだ名がつくほど、どうしようもない人だったんです」

苦笑いしながら言った。


老婆は優しく微笑んだ。

「ああ、だからなんだねぇ。奥様は、長く、深く、苦労してこられた顔をしていらっしゃる。人の痛みがわかる、優しいお方じゃ。今まで、大変じゃっただろう」


周りの令嬢達が、青春を過ごしていた間、私は女の子ではいられなかった。

若さを、お父様そして領地のみんなのために、使い果たしてしまった。

後悔はしていない。

しかし、虚しいと感じることがなかった、と言えば嘘になる。


私が悩んでコツコツ歩んできた三十年間。

その重い年月ごと、この土地の人々は、優しく包み込んでくれた。


ある日の夜、私の部屋の前に、ふわふわで温かそうな、狐の毛皮の防寒コートが置かれていた。

手紙も何も、添えられていなかった。


翌朝、それを羽織って廊下を歩いていた。

角の向こうから歩いてきた夫のヴァルクが、私の姿を見た瞬間、耳まで真っ赤にして早足に反対方向へ立ち去っていった。

侍女のアナが口元を押さえて、クスクス笑っている。

「奥様が寒そうな格好で、村に出ていた、と旦那様に報告したんです。旦那様、ご自分で一番上等な毛皮を選んでいたんですよ。毛皮、とてもお似合いです、レイナ様」


私も、アナにつられて、クスクス笑ってしまった。

「ありがとう、アナ」


私の旦那様は、無口で不器用。

でもそこが愛しい、と感じ始めていた。



夕食の時間は、少しずつ温かいものに変わっていった。


「東の村における救荒作物きゅうこうさくもつの作付け面積ですが、さつまいもの比率を昨年の二割増しまで引き上げるのはいかがかしら。あれは痩せた土地でも育ち、貯蔵性にも優れています。冷害による小麦の減収分を補填するには、最も現実的な選択肢かと思いますわ」

ラムのステーキに添えられているバターが香ばしいさつまいものソテーを食べながら提案した。


「なるほど、冬の備蓄ポートフォリオの強化か。だが、さつまいもは地中の水分過多に弱い側面もある。東の湿地に近い土壌を考慮するなら、耐寒性と泥土への適応力が高いじゃがいもや人参も、同時に分散投資の形で増産をかけるべきかもしれないな」

ヴァルクはいつものように、私の言葉をただの令嬢の思いつきとして聞き流すことはせず、私の言葉に耳を傾けてくれる。


「その通りですわ。さすがヴァルクね!リスクヘッジの視点がお見事だわ。では、東の村の物流経路を考慮して、品種ごとの区画割りをこちらで試算してみますね」


「いいだろう。レイナの言う通りに進めてくれ」


ヴァルクは赤ワインを静かに飲み干し、静かにグラスを置いた。

そして、ふっと表情を緩め、どこか恥ずかしそうに視線を泳がせながらボソッと呟いた。

「……飯が、美味い。レイナがこの城に来てから、ずっと。使用人達も楽しそうだ。ありがとう」



ヴァルクが私の話を対等なパートナーとして聞いてくれること。

私の存在が、この土地で役に立っている気がすること。

――ああ、そうか。

私は、私の本当の居場所を、この遥か遠い北の地でようやく見つけつつあるんだ。


そんな、新しく始まった愛おしい日々を、私は胸の奥でそっと抱きしめるように噛み締めていた。


ーー



夏が終わり短い秋が来たころ、王都から悪い大ニュースと良い知らせの両方が飛び込んできた。


まず、悪いニュース――というか、もはやケッタイ極まりない大珍事というべき事態はこうだった。

次世代の無限のエネルギーと謳われていた魔鉱石が、一夜にしてただのゴミとなった。

各地の貯蔵庫で魔鉱石が大爆発を起こし、危険物質として帝国全土で使用禁止になったらしい。


結果、魔鉱石バブルに踊っていた、王都の経済は完全に崩壊。

投資していた貴族達は、連鎖的に破産した。

元婚約者のセバスチャンも、一瞬で無一文の借金まみれとなったらしい。


同時に、私が提出し交渉を重ねていた関税是正申請が、王都の法務府で正式に認可されたという通知が届いた。

三十年分の過払金の全額返還。

クレイヴ領の財政を数倍に膨れ上がられる富を手に入れられる。


だが、その嬉しい知らせとともに、王都から忌々しい手紙が二通、私宛に届いた。


一通は元婚約者から。

『レイナ、君のありがたみがようやく分かったよ。僕が本当に愛しているのは、君だけだった。今すぐ僕の元へ帰ってきておくれ、愛しのハニー』

あまりの身勝手さに、背筋がブルっと震えた。

この手紙はぐしゃぐしゃに潰して、ゴミ箱に捨てた。


もう一通は、ミレイユ・ブランからだった。

『こっちに早く戻ってきて、セバスチャン様を助けなさい!今までだって、陰でセバスチャン様のために、馬車馬のように働いてきたのでしょう?また、セバスチャン様のために尽くせるなんて、これ以上ない名誉よね。おばさんに生きがいを与えて差し上げるわ。どうせあの寒くて貧しい北の地で、冷遇されているのでしょうから』

――本当に、救いようのないほど頭が悪い。

こちらは恐喝の証拠として、念の為執務室の引き出しに入れて保管した。


私はここがいいのよ。王都になんて帰るもんですか。

ヴァルクや皆のいるここがいいのよ。





ある日私が執務室に戻ったとき、部屋の空気が肌を刺すような冷気で凍りついていることに気づき、息を呑んだ。

ヴァルクは窓の外に降りしきる白い雪を見つめたまま、こちらを振り向こうともしなかった。


「ヴァルク……?どうしたのですか?何かありましたか?」

おずおずと彼の方へ一歩を踏み出し、その広い背中に問いかける。


「ーー何でもない」

ヴァルクの声は、出会った日のように低く、酷く冷淡な声だった。


振り返りもしないヴァルクのその一言は、私たちが築いてきたものを全て拒絶していた。

出会ったあの日よりも分厚い氷の壁を、私は彼との間に感じた。


それから数日間、ヴァルクは再び完全に心を閉ざしていた。

食事の席でも一言も喋らなかった。

私の目を見ようともしなかった。


あの、二人でこの地の未来を語り合う心地よい時間は、なぜか消え去ってしまった。



ヴァルクが態度が氷のように冷たくなって、一週間後の夜だった。

ヴァルクと廊下ですれ違ったとき、彼は足を止めた。

ようやく何か話ができるかもしれない、ーーそう一瞬でも喜んだことを私はすぐに後悔した。


「王都に戻りたければ、戻ればいい」

掠れた、ひどく低い声だった。

「俺はあなたを引き止める真似はしない。元々はあなたの父親の頼みを受けただけの間柄だ。お父上も、あなたの幸せを願っているはず。……王都に帰りなさい」


その言葉は、私の胸を深く、深く突き刺した。

「どう言う意味ですか?私が王都に帰りたがってると?どうしてそんな勝手なことを思ったのですか?」


「王都の男から届いていた手紙を見た」

ヴァルクは頑なに私と視線を合わせようとせず、拳を血がにじむほど強く握りしめていた。

「あなたが誰を想おうと、誰の元へ行こうと、俺には関係のないことだ。そもそも、あなたのように優秀な人を、何もない北の大地に縛り付けるつもりはない」


ーー俺には関係ない。

その一言に、ズタズタに胸が引き裂かれ、こぼれ落ちそうになる涙を必死に堪えた。

「そうですか……。関係、ないですか」


言い訳をする気力が、一瞬で消え失せてしまった。

ああ、私はまた、都合よく使われて、用が済んだら「関係ない」と突き放される存在だったのだ。


「分かりました。明日、王都へ発ちます」



翌朝、私は最低限の荷物をコンパクトにまとめ、迎えの馬車に積み込んだ。

私を心配してくれた侍女のアナが泣きそうな顔で、抱きしめてくる。


「奥様!本当に行ってしまうのですか?旦那様の言葉は気にしなくていいんですよ!お願いです、行かないでください!」


「――アナ、勘違いしないで。私はただ、急ぎの用事ができたから王都へ行くのよ」

私はアナの温かい身体を優しく抱き返し、その耳元で囁いた。


「クレイヴ領に返還されるはずの過払金を、王都の破産した詐欺師達が横取りしようと裁判所に申請したらしいの。私の実家であるダルトン公爵家の負債を口実にね。私の夫の、この領地の領地の大切な財産を、あんな奴等に一フランたりとも渡すわけにはいかないわ!」


ヴァルクと、この最果ての地で私を温かく受け入れてくれたみんなを守りたい。

もし本当に出ていく運命だったとしても、みんなのために一度王都へ行く必要がある。


ただ、ヴァルクには『俺には関係ない』とまで言われてしまったのだ。

今更『あなたのために裁判で戦ってきます』だなんて伝えるのは、私のプライドが許さないし、なにより野暮というものだわ。


ガタゴトと、馬車が音を立てて動き出す。


出発の時、ヴァルクは城のバルコニーから、レイナの乗った馬車を見下ろしていた。

その灰色の瞳が、絶望に濡れていたことを、詐欺師達との戦いに気合を入れていた私は知る由もなかった。



ーー


王都へ向かう馬車の中で、私は父のあのインクの染みがついた契約書をじっと見つめていた。

かつてお父様の数々の失敗を挽回するために、徹夜で叩き込んだ王国契約法の条文を、頭の中でグルグルと高速で繰り返す。


 ーーハッ、もしかして……! そうよ、そういうことだったのね!!


古代魔法で固定された契約書は、後から誰も書き換えられない。

詐欺師達は、ポンコツなお父様をハメて詐欺の魔鉱石の負債を押し付けたつもりだった。だけど、お父様がドジでひっくり返したインクの染みによって、最も重要な返済義務条項の文字が完全に潰れている。


王国契約法第十七条。重要条項が判定不能な書類は、作成者側の欺瞞とみなし、全条項を無効とする。

お父様がドジでつけたこの染みは、古代魔法によって固定されている!

つまり、この契約書は無効ということ!


「ああ、お父様!なんて素晴らしいドジを踏んでくれたのかしら。最高に素敵よ、お父様!」


馬車の中で、私は思わずクスクスと声を上げて笑ってしまった。


待っていなさい、王都の詐欺師たち!私の夫の財産に、指一本触れさせませんわ!




ーー


王都の大法廷は、異様な熱気に包まれていた。

魔鉱石バブルが弾けて破産し、狂ったように目を血走らせたセバスチャンと投資詐欺の首謀者達が、クレイヴ領の富をぶん取ろうと、必死の形相で裁判官に訴えていた。

「レイナ・ダルトン!この契約書に基づいて、公爵家の負債を、現在の婚姻先であるクレイヴ辺境伯領の財産から全額を弁済させろ!」

「そうだ!クレイヴ領に返還予定の過払金を全てこちらの負債回収へ渡してもらおうか!」


私は証言台に立ち、静かに父に渡された、インクの染み付きの契約書を広げた。

「そうはさせませんわ。この契約の全条項は、最初から無効だということを、私は主張いたします!」

「こちらをよくご覧になってください」

契約書の一箇所を、細い指先でスッと指した。


「裁判長、こちらをよくご覧になってください。この通り、返済責任に関する条項はインクの染みによって、全体を判読することが不可能な状態になっております。王国契約法第十七条に基づき、重要条項の記述が判定不能となった書類は全条項、無効です。ーーよって、ダルトン家にも、婚姻先であるクレイヴ家にも、支払いの義務はございません。いかがでしょうか、裁判長!そもそも、そこに並んでいる者達は、卑劣な詐欺師ですわ!」


一瞬の静寂の後、法廷に、どよめきが広がっていく。

元婚約者のセバスチャンが、顔を真っ赤にして叫んだ。

「ふざけるな!そんなインクの染み、後からお前がつけたんだろう?この嘘つきの、ババアがーーッ!」


「あら。見苦しいですわね。古代魔法で固定された契約書に、後から手を加えることなど、不可能ですのよ。……それよりもセバスチャン様、私、とても不思議に思っていますの」

 私は、哀れむような目で彼を見据えた。


「どうして今回の裁判に、ダルトン家を騙した詐欺師たちだけでなく、ファーヴェル伯爵令息――あなたが、彼らと肩を並べてここにいらっしゃるのかしら? ……まさか、この哀れな詐欺師たちを裏で操り、我が家の財産を巻き上げようと企んでいた本当の黒幕は、あなたでしたの?」


「ぐっ……、お前……っ!!」

完全に図星を突かれたのだろう。

苦虫を潰したような顔で、セバスチャンが睨んでくる。



「――レイナ嬢の言う通りだ! この契約書は明白に無効である!」

「それ以前に、この契約は最初からダルトン家を陥れるための詐欺だ! これを認めるようなことがあれば、我が帝国の法治は悪の手に落ちたも同然ぞ!」

引退した元大臣や元法務総裁の老人達が、次々に証言台で叫んだ。


私が味方につけたのは、法律だけではなかった。

お母様がいなくなってから、お父様のミスのオンパレードのせいで幾度も破滅しかけた。

そのたびに私が泣きつくようにして相談に赴き、誠心誠意、泥臭い関係を築き上げてきた超大物の老人たち。

彼らは今や、私のことを優秀な愛娘、あるいは孫娘のように心の底から可愛がってくれる、最強の後ろ盾となっていたのだ。


超大物の老人たちの援護射撃、そして提出された数々の裏帳簿の証拠により、審判は一瞬で下った。

そして、セバスチャンと詐欺師たちの醜い関係も明らかになっていった。


投資詐欺グループの首謀者が、保身のため、隣のセバスチャンを指して、泣きながら叫んだ。

「そもそも、俺たちに声をかけてきたのは、ファーヴェル伯爵令息だッ!ダルトン公爵がバカなのを利用して、ダルトン公爵家の財産を合法的に全て奪おう、と持ちかけてきたんだ。レイナ嬢が傷心でまともな対策を取れないように、あのタイミングで婚約解消を仕掛けたんだ。全てを仕組んだのは、この狡猾で強欲な男なんだよぉッ!」


――ガァン!! と、今日一番の凄まじい怒号とざわめきが、法廷の四方八方から巻き起こった。


セバスチャンは顔を白くし、ガタガタと震えながら、でも懸命に優しそうな声を作って言った。

「ち、違うんだ……。な、なあ、レイナ。信じてくれよ。僕は無実だ! 全部あいつらが勝手にやったことなんだ! なあ、愛してやる。君も、僕を愛してくれていただろう!? この僕が、わざわざ結婚してやるって言ってるんだぞ。どうだ、嬉しいだろう!?」



「セバスチャン、あなたを愛する私は、もうどこにもいないわ。さようなら」

ーーこの男は、最初から私の人生を、ダルトン家を、その全てを食い潰すつもりだったのだろう。

お父様のことをバカだと笑っていたけれど、こんな浅ましい男の本性に気づけず、三年も婚約者として受け入れてしまっていた私の方が、お父様よりもずっと大バカ者だった。

 

――カン、カン、カン!!

裁判官の木槌が激しく、鋭く打ち鳴らされた。

これ以上の言い逃れを許さない、というような音だった。


「判決を言い渡す。ダルトン家が交わした当該投資契約は、王国契約法第十七条に基づき、当初より無効とする。したがって、担保として詐欺師グループに押さえられていたダルトン公爵家の土地、屋敷、およびすべての資産は、即座に本来の所有者であるダルトン家へ無条件で返還されるものとする!」


静まり返った大法廷に、裁判長の厳格な声が響き渡る。


「また、自らの婚約者の実家を陥れ、国家資産を揺るがす大規模詐欺を主導・共謀したセバスチャン・ファーヴェル、および投資詐欺グループの面々には、国家反逆罪および重大詐欺罪を適用する。全員、一族の財産を全没収の上、鉱山での永久強制労働を言い渡す!」


「な……、鉱山……っ? 永久、強制労働……!?」

「う、嘘だろ?おい!レイナ!僕を助けてくれ!頼む、愛しているんだ!」

「いやだ、嫌だ! 僕は伯爵令息だぞ! あんな泥に汚れた場所で、一生奴隷のように働くなんて死んでも御免だ! レイナ! 頼む、助けてくれ、異議を申し立てておくれよおぉぉッ!」


衛兵たちに左右から腕を掴まれ、床を引きずられていく。

セバスチャンは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、私に絶叫し続けた。

その惨めな背中が扉の向こうへ連行されていくのを、私は冷ややかに見送った。


ーー


裁判を終え、王都の宿の一室で、私はひとり温かいお茶を飲みながらぼーっとしていた。

クレイヴ領の、そしてヴァルクの財産は守ることができた。

これで、私の役目は終わってしまった。

関係ないと、あの夜に冷たく突き放されてしまったあの城へ、私は戻る資格がない。

これからはまた、あのポンコツで愛おしいお父様と二人で、取り戻したダルトン公爵家でひっそりと暮らそう。


ぽつり、と。

部屋の床に、小さな水滴が落ちて染みを作った。

ーーああ、やっぱり、寂しい。

本当は、あの寒い北の地が恋しい。

ヴァルクに、また会いたい。

あの不器用で温かいヴァルクに、もう一度だけ会いたいよ……。

戦いのためにずっと我慢し続けていた涙が、次から次へと溢れ出して止まらなかった。


ーーその時だった。

宿の部屋のドアが、遠慮がちにノックされた。


コン、コン。


慌てて涙を拭いて、ドアを開けた。

夕食のルームサービスかしら、にしては少し時間が早いような……そんなことを思いながら。



「――っ!?」

 扉を開けた瞬間、私はうっ、と息を呑んで硬直した。


そこに立っていたのは、旅装束を着て、肩を激しく上下させている、ヴァルクだった。


「えっ……ヴァ、ヴァルク?どうして、あなたがここに……?」

「アナから全部聞いたんだ」


ヴァルクは私の前に来ると、胸を激しく上下させながら、灰色の瞳で真っ直ぐに私を見つめた。


「レイナが、領地に返還されるはずの過払金を詐欺師どもから守るために、たった一人で王都の法廷へ殴り込みに行ったのだと。……俺たちを守るために、戦いに行ってくれたのだと、アナが泣きながら教えてくれたんだ」


久しぶりに間近で見るヴァルクの瞳には、あの夜の冷酷な氷のような冷たさなんて、もうどこにも存在していなかった。

そこにあるのは、私が北の地で見つけつつあった、あの不器用で、ひだまりのように温かいヴァルクそのものだった。



その姿を見た瞬間、私の中でせき止め、押し殺していたすべての感情が、ドッと音を立てて溢れ出してしまった。


もう、この後どうなってもいい。

もう、後悔したくない。


嫌われても、呆れられても、二度と会えなくなったとしても。

――今ここで、この気持ちを伝えなかったら、死んでも死にきれないと思った。



「私は、ヴァルクが好きです……っ! ヴァルクにとって、私はただのお父様の押し付けで、いつか王都に帰る便利な道具に過ぎなかったかもしれない。でも、夏でも寒い北の地で、あなたと過ごした日々は、私の人生の中で間違いなく一番幸せでした! これが本当に最後かもしれないから、だから、お願いだから言わせてください!」


 溢れ出す涙でヴァルクの顔が歪んで見えるけれど、私は構わず、喉を引き裂くような勢いで言葉を紡ぎ続けた。


「最初は、ただの政略結婚のつもりでした。でも、あなたが不器用ながらも私を気遣って優しくしてくれたとき、とても嬉しかったの! 私のために、あの温かい毛皮を贈ってくれたとき。一緒に食べるご飯を、美味しいと言って笑ってくれたとき。対等なパートナーとして、一緒に領地の未来を話し合ったとき……私は、心の底から嬉しかった! ヴァルクの隣こそが、私の本当の居場所なんだって、そう信じていたの!」


 一度溢れ出した想いは、もう誰にも止められなかった。ボロボロと大粒の涙を流し、息を切らしながら、私は生まれて初めての、命がけの愛の告白をしていた。


「私は――私は、不器用で、誰よりも真っ直ぐで優しい、あなたのことが大好きなの!! たとえ、あなたが私を好きになってくれなくても……私を、関係ない存在だと思っていても、私はあなたが、世界で一番大好きなの……っ!!」


 もうダルトン公爵家に帰るしかないのだと、二度とあの温かい食卓には戻れないのだと絶望していたからこそ、私はただ、胸の奥をすべてを泣き叫んでいた。



長い、重い沈黙が、部屋を満たした。

ヴァルクは血がにじむほどぎゅっと拳を握りしめ、視線を床に落としたまま動かない。

その無骨な傷のある顔が、まるで刃物で抉られているかのように苦しげに歪んでいる。

 

やがて、彼は消え入るようなひどく低い声で、ぽつりと言った。

「……ダメだ」


 ダメ、だ。

 その容赦のない一言が、私の頭の上から冷水を浴びせかけるように響いた。


――そう、だよね。

一瞬にして全身の血の気が引いて、興奮していた頭が一気に冷静になっていく。


やっぱり、私の身勝手な片想いだったのだ。

ほんの少しだけ、期待してしまっていた自分が恥ずかしくなった。


「そんなつもりじゃなかった」と、彼はただ困り果てているのだ。

あの夜、私に向かって「関係ない」と言い放ったのは、紛れもない彼の本心だったのだ。


(ああ、もう、本当に……あの温かい場所には、二度と戻れないのね――)


あまりの絶望に視界がぐにゃりと暗くなり、膝の力が抜けて、私がその場に崩れ落ちそうになる。


――まさに、その時だった。

ヴァルクが突然、素早い動きでこちらに一歩踏み込んできた。

私の両肩を大切なものを扱うように、けれど意思のある強さで、ガシッと掴んできた。


「わっ……!?」

不意に引き寄せられた衝撃に、私は驚きで大きく目を見開いた。


彼の顔は、すっかり血の気が引いて、強張っている。


(あ、ああ……やっぱり、拒絶されてしまうんだわ)

次に彼から言われるであろう、残酷な断りの言葉。

それに耐えるために、私はギュッと強く目を瞑り、全身を硬くして身構えた。


 ――けれど。


胸の奥底に溜まった懺悔をすべて吐き出すように、ヴァルクは声を絞り出した。

「ダメだ……! そんな、そんな不公平なことがあってたまるか!!」


「え……? ふ、不公平……?」


あまりに想定外の言葉が飛び出してきて、私は思わずパチリと目を開けた。

呆気にとられる私を真っ直ぐに見つめ返し、ヴァルクはさらに声を荒らげる。


「レイナに……、レイナにそんな悲しい顔をさせて、そんなに泣きながら、大切な言葉を先に言わせるなんて……絶対に、ダメだ……っ!!」


「俺が言わなきゃいけなかったんだ! 手紙を見て、レイナが元婚約者の元へ戻ってしまうのだと思い込んで、頭がおかしくなりそうだった……! レイナに捨てられるのが、怖くてたまらなかったんだ! だから、先に最低な言葉でレイナを突き放した。全部、臆病な俺のせいなんだ!」


ヴァルクは私の肩を掴んだまま、必死な眼差しで顔を近づけてきた。

「頼むから、俺から告白させてくれ。もう一回……もう一回だけ、最初からやり直させてくれ、レイナ。――俺は、レイナの本物の夫になりたいんだ」


その言葉が、私の耳から脳へ、そして硬く凍りついていた胸の奥へと、信じられないほどの熱量を持ってじんわりと染み渡っていく。


ヴァルクは一度、深く、深く息を吸い込んだ。

そして、私の涙で濡れた目をまっすぐに見つめ、一言一言、ゆっくりと丁寧に言葉を紡いだ。

「俺は、レイナという一人の人間を、心から愛している。王都の奴らが嘲笑ったというお前の鋭い知性も、必死に立ち向かいながら歩んできた三十年という尊い時間も、その奥にある誰よりも優しい目も――そのすべてが、俺には愛おしくてたまらないんだ」


ヴァルクの手が、私の頬に触れる。その無骨な手のひらは、驚くほど熱かった。


「お前が去った後、寂しくてたまらなかった。レイナに、ずっと俺の隣で笑っていてほしい。命をかけて守ると誓う。レイナ、愛している。ずっと俺のそばにいてくれ」


「私も……私も、ヴァルクを愛しています」

泣きながら、私は大好きな彼の背中に腕を回し、その大きな身体を強く抱きしめた。


一瞬、驚いたように固まったヴァルクだったけれど、すぐに彼の大きな手が、そっと、私をぎこちなく抱きしめ返してくれる。

その不器用な腕の強さと、彼の胸から伝わってくる確かな鼓動の熱さが、何よりも愛おしかった。


彼の武骨で硬い手の温もりが、私の背中にじんわりと染み渡っていく。


 ――ああ、これが。

愛する人に心から望まれ、愛する、本当の幸せというものなんだと思った。


涙で視界がにじむ中、私は彼の胸に顔を埋めたまま、今日一番の笑顔で微笑んだ。

「……最初から、そう言ってくださればよかったのに」


「言えるか……。お前が眩しすぎて、怖かったんだ……」

大の男が、耳まで真っ赤にして消え入りそうな声で白状する。

そのあまりの可愛らしさに、私は意地悪くクスクスと笑ってしまった。


「ふふ、王都で恐れられている『野獣伯爵』というあだ名は、今日限りで撤回ですね」


「レイナの前では、ただの男だ。……というか、野獣伯爵? なんだそのあだ名は。不名誉すぎるだろう……」

本気で嫌そうな顔で眉をひそめるヴァルクに、私はたまらず声を上げて笑った。


胸の奥の寂しさも切なさも、もう完全に消え去っていた。

ここが、私の居場所。

この不器用な旦那様の隣こそが、私が生涯を過ごす、世界で一番温かい家なのだ。


ーー


雪が降り積もる中、私たちは、みんなの待つ北方の城へと帰還した。

馬車が城門をくぐった瞬間、アナをはじめとする使用人たちが全員、寒さも忘れて外に飛び出し、大喜びで出迎えてくれた。

「おかえりなさいませ、奥様……!!」

「ただいま、みんな。ふふっ、また、よろしくねっ」


馬車を降りた私に泣きつきそうな顔で駆け寄ってくるみんなを見て、胸の奥がじんわりと、心地よい熱で満たされていく。

ここが、私の本物のホーム。この冷たくて温かい土地のみんなこそが、私の生涯をかけて守り抜くべき、最高の宝物なのだ。




一ヶ月後、私は王都で平民へと身分を落とし、完全に生活に行き詰まっていたお父様を、この北方のクレイヴ領へと呼び寄せた。

お父様は正式にダルトン公爵の地位を退き、分家筋のしっかりとした親戚に公爵家の家督を継いでもらうことになった。

あの悪徳詐欺契約から解放され、土地も屋敷も無事に戻ってきたダルトン家なら、有能な分家が引き継げばすぐに立派に立て直せるだろう。


「ああ、レイナ! ヴァルク殿! この地は雪がとても美しいが……おっと、トトト、冷たいッ! すまない、転んで雪の中に顔を突っ込んでしまったよ!」

馬車から降りた瞬間、案の定、お父様は何もないところで派手にすっ転び、真っ白な雪まみれになっていた。

相変わらずの、見事なポンコツぶりである。


そこへ、ヴァルクが一歩前に出た。

彼はいつになく厳しい、引き締まった表情のまま、お父様の正面に立つと――その場で深く、深く、直角に頭を下げたのだ。


「……レイナをこちらへ迎える際、無理にでも最初から、お父様も一緒にクレイヴ領へとお連れするべきでした。王都で平民として不自由な暮らしをされているとは知らず、多大なる苦労をかけてしまい、本当に申し訳ありません」


「い、いや! 違うんだよォ、私はただ、せっかくの新婚夫婦の邪魔をしたくなかっただけなんだよぉ。最初からしゅうとが側にいたら、ヴァルク殿だって色々と言いたいことも言えず、気を使うだろう?」

 お父様は慌てて手を振りながら、彼なりの不器用な親心を口にした。それに対して、ヴァルクはゆっくりと首を振る。


「そんな気遣いは、一切不要です。俺は早くに両親を亡くして久しい。お父様がいてくださった方が、この薄暗い城も明るくなってありがたい。……何より、レイナが喜びます」


「そうよ、お父様。だからもう、変な遠慮なんてしないでくださいな」

 私が横からそう声をかけると、ヴァルクは深く下げていた頭を上げ、まっすぐにお父様の目を見つめた。


「元ダルトン公爵。……あなたに、心からの敬意と、最大の感謝を」


「え……?」


「あなたのこれまでの人生における、最大の偉業と功績。それは、レイナを、この上なく気高く、聡明で素晴らしい女性をこの世界に育て上げ、俺の元へと送り出してくださったことです。夫として、正式にお礼を申し上げます。そして……」

 ヴァルクはそこで、ふっと声音を和らげた。


「お父様のあの、契約書での奇跡的な大ドジがなければ。私はレイナと出会うことはできなかった。……お父様のそのあまりに偉大なドジに、クレイヴ辺境伯として、深く感謝いたします」


偉大なドジ?

ドジに偉大とかあるんだろうか、と皆が固まる。

 

お父様もしばらくの間、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。

――けれど次の瞬間、顔をくしゃくしゃにして、わあわあと大声を上げて泣き出した。


「うっ、私のドジが、人生で初めて他人に感謝されたぁぁぁ!! 嬉しいような、何だかものすごく複雑なような、でもやっぱり……やっぱり最高に嬉しいぃぃぃ!!」


泣き笑いしながら雪の上でジタバタする、そのポンコツで、どうしようもなく愛おしい父親の姿に、私はついに堪えきれず、お腹を抱えて声を上げて笑ってしまった。

 

ふと隣を見ると、ヴァルクもまた、私の笑い声に合わせるように、その傷のある口元を優しく緩めて、穏やかな微笑みを浮かべていた。


ーー


 ――その日の夜。

しんしんと夜の闇に雪が降り積もる窓辺で、私はヴァルクの大きな手に、自分の手を静かに重ねていた。


「最初はね、ここに来たとき、自分の人生の終わりだと思っていたのよ。寒くて、暗くて、こんな何もない最果ての地で、私は生きていけるのかしらって」


「……今はどうだ?」

ヴァルクが私の手を、包み込むように少しだけ強く握り返す。


「今は、世界で一番、温かくて愛おしい場所だわ」

窓から見える雪景色を見つめながら、幸せを感じて目を細めた。


二十代の頃の私は、若い女性という賞味期限付きのラベルに必死にすがりつき、他人の目線に自分の価値を委ねては一喜一憂していた。

誰かに見初められるために着飾り、周りからチヤホヤされない私は不幸だと錯覚していたあの頃の私に、今の私は笑って告げたい。


――本当の幸せはもっと別のところにあるのよ、と。


三十歳で、それまで積み上げてきたものを一度すべて失った。

けれど、そのおかげで、ありのままの私を愛し、敬ってくれる、最高の伴侶を得た。

本物の、心から愛しいと思える居場所を得ることができた。


女の子でいられなかったあの切ない時間も、お父様の後始末に追われたあの辛い日々も、何一つ無駄ではなかった。

あの滑稽で苦しい時間があったからこそ、私は今、この愛する人の隣で、しっかりと立っていられるのだから。



(お母様……)


私は、白く輝く美しい北国の夜空に向かって、心の中で静かに呟いた。


(私、今最高に幸せです。――お母様の愛したポンコツお父様は、最高の愛のキューピッドでした)



【おしまい】

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!

王都からなぜか「私の方がヴァルク様にふさわしいわ!」と乗り込んできては、空回りして勝手に自滅していく、男爵令嬢ミレイユのドタバタな猛アタックがあったとか、なかったとか。

そして、「おっとっと、窓を閉め忘れて、部屋に雪が入ってきてびしょびしょになってしまった!」なんてドジをしては、城中の使用人たちを大爆笑(と、ほんの少しの冷や汗)で包み込む、お父様の相変わらずのポンコツっぷりがあったとか、なかったとか。

そんなクレイヴ領の賑やかで愛おしいこれからの未来は、また別の機会があればお届けしたいな、と思っております!

ブックマークや☆(評価)で応援していただけると、嬉しいです。

それでは、また別の物語でお会いしましょう!

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― 新着の感想 ―
頑張っていたけどポンコツ親父を野放しにしていた娘もしっかりポンコツの血をひいてますねぇ 優秀なら契約書の不備にすぐ気付いたハズだし、とっとと父親引退させとけば被害はなかったのに…
女公爵になれるんなら少なくとも成人したレイナに早々に譲るべきでしょ。自分の失態で娘に迷惑をかけてるんなら尚更。 父親が権力に固執してる描写があれば別だけどそんなこともなくただ座ってるだけだし、周りも…
現代でも中々若さを失った女性が一人で生きていくのはしんどいものです。しかも、周りがリア充ばかりであれば、どうしてもひき比べてしまうもの。そのなかで、レイナが、失った若き日々を価値あるものとして見つめる…
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