第94話:今の平和の尊さ
雲の上の、とある穏やかな朝。
ノエルは、ガブリエル嬢と共に天界の講堂へ向かっていました。
「今日は、特別な研修なのです」
ガブリエル嬢が、ゆっくりと言います。
「天魔平和協定について、みんなで話す日です」
講堂には、すでに何人かの天使が集まっていました。
若い天使たちと、7大天使。普段は見られない組み合わせです。
ノエルは、ガブリエル嬢の隣に座りました。
「では、始めましょう」
ガブリエル嬢が、静かに口を開きました。
いつもは眠そうな彼女ですが、今日は少し違います。
背筋を伸ばして、でもどこか柔らかい表情でした。
「天魔平和協定」
ガブリエル嬢は、ゆっくりと言葉を紡ぎます。
「それは、長い戦争の末に生まれた約束です」
ノエルは、メモを用意しながら聞きました。
「協定が結ばれるまで、何年もかかりました」
ミカエルが、重々しい声で続けます。
「双方とも、疲弊していた」
「でも、それだけでは平和は来なかった」
「信頼を築く必要がありました」
ラファエルが、穏やかに言いました。
「相手を信じること。それが一番難しかった」
ウリエルが、テーブルの上の書類を開きました。
「協定には、多くの条項があります」
彼女は、冷静な口調で説明を始めます。
「武力行使の禁止、中立地帯の設定、定期的な会談……」
ノエルは、メモを取りながら聞いていました。
「でも、一番大切なのは」
ウリエルは、書類を閉じました。
「お互いを尊重する、という精神です」
「条文だけでは、平和は守れません」
サリエルが、真面目な表情で付け加えます。
「心からの理解が必要なのです」
ノエルは、頷きました。
昨日、戦争の傷跡について聞いたばかりです。その重みが、今の話をより深く理解させてくれます。
「協定を結ぶまでの交渉は、困難でした」
ガブリエル嬢が、また話し始めました。
彼女の瞳が、少しだけ遠くを見ているように見えました。
「何度も決裂しかけました」
ガブリエル嬢は、静かに続けます。
「お互いの不信感が、簡単には消えなかったのです」
「私も、最初は反対でした」
ミカエルが、正直に言いました。
「相手を信じられなかった」
ラグエルが、優しい声で語り始めます。
「でも、ある日」
彼は、微笑みました。
「魔界の使者が、謝罪の言葉を述べたのです」
「その時、私は思いました。許すべきだと」
「貴方はすぐ許すでしょう」
ミカエルが、苦笑いを浮かべました。
「いえ、あの時は違いました」
ラグエルは、首を振ります。
「あの謝罪は、本物でした」
「心からのものだと、分かったのです」
ノエルは、その言葉の重みを感じました。
「魔界も、同じように悩んでいたのです」
ラファエルが、柔らかく言います。
「平和を望みながら、踏み出せずにいた」
パヌエルが、明るい声で話し始めました。
「私は、神の器として両者の言葉を伝えました」
彼は、人懐っこく笑います。
「神様も、平和を望んでいましたから」
ノエルは、驚きました。
神が、直接関与していたのです。
「でも、決めたのは私たちでした」
ガブリエル嬢が、静かに言いました。
「神は導いてくださった」
「けれど、選択したのは私たち自身です」
その言葉に、重い責任を感じました。
「協定を維持するのも、難しいのです」
ウリエルが、再び口を開きます。
「双方に、まだ不信感を持つ者もいます」
「ちょっとしたことで、関係が悪化することもあります」
サリエルが、心配そうに言いました。
「規則を守ることも、大切ですが」
「相手の気持ちを理解することも、同じくらい大切なのです」
ノエルは、深く頷きました。
「だから、日々の交流が重要なのです」
ガブリエル嬢が、優しく微笑みます。
「個人的な友情が、政治的な緊張を和らげてくれる」
その瞬間、ノエルは理解しました。
自分たちが魔界と交流していること。それは、単なる楽しい時間ではない。平和を維持するための、大切な活動だったのです。
講義が終わり、昼休み。
ノエルは、中庭でガブリエル嬢と二人きりになりました。
彼女は、いつものように雲クッションで休んでいます。
ノエルは、その隣に座りました。
「難しい話でしたね」
ガブリエル嬢が、目を閉じたまま言いました。
「はい」
ノエルは、正直に答えます。
「でも、よく分かりました」
「平和は、簡単には守れません」
ガブリエル嬢は、ゆっくりと目を開けました。
「でも、だからこそ価値があるのです」
ノエルは、空を見上げました。
青く澄んだ空が、広がっています。
「今、こうして平和に過ごせていること」
ノエルは、静かに言いました。
「当たり前じゃないんですね」
「ええ」
ガブリエル嬢は、微笑みました。
「とても貴重なことです」
風が、軽く吹き抜けていきます。
雲が、ゆっくりと形を変えました。
「ノエル」
ガブリエル嬢が、こちらを見ます。
「あなたも、平和を守る一人なのですよ」
「僕が、ですか」
ノエルは、驚きました。
「ええ」
ガブリエル嬢は、頷きます。
「魔界の方々と友達になること」
「それが、平和を守ることに繋がります」
ノエルは、胸が温かくなりました。
自分にも、できることがある。
「頑張ります」
ノエルは、力強く言いました。
「無理はしないでくださいね」
ガブリエル嬢は、優しく笑います。
「自然に、楽しく。それが一番です」
午後。
ノエルは、偶然ベルゼブブと出会いました。
魔界の使者として、書類を届けに来ていたのです。
「こんにちは、ノエル」
ベルゼブブは、上品に微笑みました。
「お元気ですか」
「はい、元気です」
ノエルは、笑顔で答えました。
二人は、少し立ち話をしました。
天界の様子、魔界の近況。何気ない会話です。
でも、ノエルは思いました。
こういう会話が、平和を作っているのだと。
「では、また」
ベルゼブブは、軽く手を振って去っていきました。
ノエルは、その後ろ姿を見送ります。
元敵同士が、こうして自然に挨拶を交わせる。それが、平和というものなのでしょう。
夕方。
天界の展望台で、ノエルは一人で景色を眺めていました。
雲海が、夕日に染まっています。
美しい光景でした。
「綺麗ですね」
後ろから、声がしました。
振り返ると、サタンが立っていました。
魔界の、憤怒の悪魔です。
「サタン様」
ノエルは、驚きました。
「散歩していたら、ここに辿り着きました」
サタンは、穏やかに微笑みます。
「隣、よろしいですか」
「もちろんです」
ノエルは、場所を空けました。
二人は、並んで夕日を眺めます。
「平和って、いいですね」
サタンが、しみじみと言いました。
「はい」
ノエルは、心から同意します。
「戦争の時は、こんな景色を見る余裕もありませんでした」
サタンの声が、少しだけ寂しく響きました。
「いつも、次の戦いのことばかり考えていて」
ノエルは、黙って聞いていました。
「でも今は、こうして」
サタンは、笑顔を見せます。
「元敵同士が、一緒に夕日を見られる」
「素晴らしいことです」
「本当に、そうですね」
ノエルは、深く頷きました。
雲の向こうから、鐘の音が聞こえてきます。
夕食の時間を告げる、優しい音色でした。
「では、私はそろそろ」
サタンは、立ち上がりました。
「また会いましょう、ノエル」
「はい。また」
ノエルは、笑顔で答えました。
一人になって、ノエルは改めて空を見上げます。
今日、たくさんのことを学びました。
平和の尊さ。それを守ることの難しさ。そして、自分にもできることがあるということ。
雲が、ゆっくりと流れていきます。
その動きは、とても穏やかでした。
戦争の時代には、こんな穏やかさもなかったのでしょう。
今、この瞬間の平和が、どれほど貴重か。
ノエルは、胸に手を当てました。
この平和を守りたい。そう、強く思います。
夜。
執務室に戻ると、ガブリエル嬢が待っていました。
「お疲れさまです」
彼女は、いつもの笑顔で迎えてくれます。
「ガブリエル嬢」
ノエルは、席に座りました。
「今日、色々考えました」
「そうですか」
ガブリエル嬢は、興味深そうに聞きます。
「平和って」
ノエルは、言葉を選びました。
「守り続けなければいけないものなんですね」
「ええ」
ガブリエル嬢は、優しく頷きました。
「一度手に入れたら終わり、ではありません」
「毎日、大切にしなければ」
「僕も、頑張ります」
ノエルは、決意を込めて言いました。
「あなたなら、大丈夫です」
ガブリエル嬢は、微笑みます。
「もう、十分頑張っていますから」
その言葉に、ノエルは少し照れました。
窓の外には、星が輝いています。
平和な夜空。それは、多くの人の努力で守られているものでした。
ノエルは、心に誓います。
この平和を、絶対に守ると。
そして、ガブリエル嬢の隣で、これからも働き続けると。
明日も、天界は穏やかな朝を迎えるでしょう。
その穏やかさが、どれほど尊いものか。
ノエルは、今、深く理解していました。
## あとがき
当たり前に思える日常が、実は多くの努力で守られている。平和の尊さを知った日。明日からの毎日が、少し違って見えるかもしれません。




